第3話:冤罪と追放
オルティア王国の王都ルミエールは、社交シーズンの熱気で沸いていた。
貴族たちの館では毎夜のようにパーティーが開かれ、笑い声と音楽が石畳の通りを彩る。
だが、ホンヘル男爵家の屋敷は、そんな華やかさとは裏腹に、重い空気に包まれていた。
ニーナ・ホンヘルは、いつものように庭のサトイモ畑で土をいじっていた。
ふわっとした栗色の髪をポニーテールにまとめ、麻のエプロンには泥が付いている。
彼女の手には小さなシャベルがあり、初級鑑定スキルで土の状態を確認しながら、丁寧にサトイモの苗を植え直していた。
「ふむ、この土、ちょっと湿りすぎかな。もう少し水はけ良くしないと……」
ニーナは独り言をつぶやきながら、土をほぐした。
朝陽が木々の隙間から差し込み、サトイモの葉に小さな露を光らせる。
彼女の心は、この小さな畑とサトイモに満たされていた。
前世の日本の田舎で、家族と囲んだ食卓や家庭菜園の記憶が、彼女を支えていた。
だが、その穏やかな日常は、突然の嵐によって打ち砕かれることになる。
「お嬢様! 大変です! お父様がお呼びです! 急いで!」
侍女のリリィの声が、庭に鋭く響いた。
赤毛をきつく結い上げたリリィは、普段の生真面目な表情に焦りが混じっている。
ニーナはシャベルを置いて顔を上げた。
「え、お父様? 珍しいね。書斎にこもってるんじゃなかった?」
「それが……エリザお嬢様が、何か大変なことになってるみたいで……」
リリィの言葉に、ニーナの胸に嫌な予感が走った。
彼女はエプロンの泥を軽く払い、リリィの後を追って屋敷へと急いだ。
ホンヘル家の応接室は、質素ながらも貴族らしい重厚な雰囲気を漂わせていた。
だが、今、その部屋は異様な緊張感に包まれていた。
中央に立つエリザは、深紅のドレスに身を包み、金髪を優雅に巻き上げている。
だが、彼女の顔は怒りで紅潮し、目は燃えるようにニーナを睨みつけていた。
父親のホンヘル男爵は、窓際に立ち、眉間に深いしわを刻んでいる。
母親は病床のため不在で、部屋には他に数人の使用人と、エリザの取り巻きの貴族たちがいた。
「ニーナ! あなた、なんてことをしたの!」
エリザの声が、部屋に鋭く響いた。
ニーナは目を丸くした。
「え? 何? 姉さん、急にどうしたの?」
「とぼけないで! 私のサファイアのネックレス、盗んだのはあなたでしょう!」
エリザの言葉に、ニーナは息をのんだ。
サファイアのネックレス――それはエリザが先日のクロワール伯爵家のパーティーで誇らしげに身につけていた一品だ。
ホンヘル家のささやかな財産の中でも、特別な宝石だった。
「盗む? 私、そんなことしてないよ! 姉さん、誤解だよ!」
ニーナは必死に弁解したが、エリザの怒りは収まらない。
「誤解? あなた、いつも庭で怪しいことしてるじゃない! あのゴツゴツした芋だかなんだかをいじって、変な企みでもしてるんでしょ!」
エリザの取り巻きの一人、若い貴族女性が冷ややかに口を挟んだ。
「そういえば、ニーナ様、いつも泥だらけで庭にいるわよね。貴族の令嬢らしくないわ」
他の貴族たちも、ニーナを非難するような視線を向ける。
彼女の地味な振る舞い、庭仕事に没頭する姿は、社交界では異端だった。
ニーナは胸が締め付けられる思いだった。
「違うよ! 私はただ、サトイモを育ててるだけで……」
だが、彼女の言葉は誰にも届かなかった。
ホンヘル男爵が重い口を開いた。
「ニーナ、証拠はない。だが、ホンヘル家の名誉が傷つけられたのは事実だ。このままでは、エリザの結婚話にも影響が出る」
「父さん、待って! 私、本当に何も――」
「黙りなさい!」
男爵の声が、ニーナの言葉を遮った。
彼の目は冷たく、家族の絆よりも家の体面を優先していた。
「ニーナ・ホンヘル、貴族の名誉を汚した罪で、王都から追放する」
その言葉は、ニーナの心に突き刺さった。
追放――それは、貴族社会から切り離され、家族との縁を失うことを意味する。
彼女は唇を噛み、涙を堪えた。
リリィがそばで小さな声を上げたが、男爵の決定は覆らない。
「荷物をまとめなさい。明日、馬車で王都を離れる」
男爵はそれだけ言うと、部屋を出ていった。
エリザは満足げに微笑み、取り巻きたちと去っていった。
ニーナは応接室に一人残され、呆然と立ち尽くした。
その夜、ニーナは自分の部屋で小さな荷物をまとめた。
服は数着、愛用の手帳、初級鑑定スキルで書かれたサトイモのメモ。
そして、庭から掘り出したサトイモを詰めた麻袋。
彼女は麻袋をぎゅっと抱きしめた。
ゴツゴツした感触が、彼女の心を少しだけ落ち着けた。
「サトイモ……あなただけは、私を裏切らないよね」
彼女は小さくつぶやき、窓の外を見やった。
王都の夜景は美しかったが、今のニーナには冷たく映った。
家族の顔が脳裏に浮かぶ。
エリザの冷たい視線、父の無関心、病床の母の遠い微笑み。
彼女は一人だった。
「まあ、いいか。新しい場所で、自由にサトイモ育てられるし!」
ニーナは自分を奮い立たせるように笑った。
涙を拭い、麻袋を肩に担いだ。
目指すは南部の田舎であるホンヘル男爵領の中でも辺境の村、ハーレイン。
貴族の影響が及ばない貧しい田舎町だ。
彼女はそこで新しい生活を始める決意を固めた。
翌朝、ニーナは小さな馬車に揺られ、王都を後にした。
馬車の窓から見えるルミエールの白亜の城壁が、徐々に遠ざかっていく。
リリィは見送りに来なかった。
彼女もまた、ホンヘル家の使用人として、エリザの側に残ることを選んだのだろう。
ニーナはそれに文句を言う気はなかった。
ただ、胸の奥に小さな寂しさが広がった。
馬車が王都の門をくぐると、広大な平原が広がった。
青々とした草と遠くの山脈が、朝陽に照らされて輝いている。
ニーナは麻袋を膝に抱え、目を閉じた。
サトイモのゴツゴツした感触が、彼女の心を支えた。
「ハーレイン、か。どんなところかな。とりあえず、サトイモ畑、作っちゃおう!」
彼女は小さく笑い、未来への希望を胸に抱いた。
馬車はガタゴトと進み、ニーナの新しい旅が始まった。
だが、王都の裏側で、彼女を追放に導いた陰謀がまだ静かに動いていることを、彼女は知る由もなかった。