表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サトイモ令嬢のスローライフ  作者: 海老川ピコ
2/23

第2話:王都のパーティーとサトイモの記憶

 オルティア王国の王都ルミエールは、社交シーズンの到来とともに一層の輝きを増していた。

 白亜の城壁が夕陽を浴びて黄金色に染まり、石畳の通りには馬車の車輪が軽やかな音を響かせる。

 貴族たちの館では、夜ごと絢爛なパーティーが開かれ、シャンデリアの光がドレスや宝石をきらめかせていた。

 ホンヘル男爵家もまた、この華やかな季節に巻き込まれていた。

 だが、15歳のニーナ・ホンヘルにとって、社交界の喧騒は遠い世界の出来事だった。


「ニーナお嬢様、早く! もう馬車が待ってるんですから!」


 侍女のリリィの声が、ホンヘル家の屋敷に響く。

 リリィは赤毛をきつく結い上げ、いつもの生真面目な表情でニーナの部屋のドアを叩いた。

 部屋の中では、ニーナが鏡の前で不満げに唇を尖らせていた。

 ふわふわの水色のドレスに身を包み、栗色の髪は複雑に編み上げられている。

 普段はポニーテールで庭を駆け回る彼女にとって、この装いはまるで拘束具のようだった。


「リリィ、こんなドレス、動きにくいよ……。庭のサトイモの芽、ちゃんと水やりできたかな……」


 ニーナは鏡に映る自分を見ながら、ぼそっとつぶやいた。

 彼女の心は、昨日植えたばかりのサトイモ畑に飛んでいた。

 初級鑑定スキルで土の状態を確認し、丁寧に植え付けたあの小さな苗たち。

 芽が出るのが待ち遠しくてたまらない。


「お嬢様、庭のことは後でいいじゃないですか! 今夜は王都でも有名なクロワール伯爵家のパーティーなんですよ。ホンヘル家の名にかけて、ちゃんとした振る舞いを!」


 リリィが手を腰に当て、半ば呆れたように言う。

 ニーナはため息をつき、しぶしぶ頷いた。


「わかったよ、リリィ。行けばいいんでしょ……」


 彼女はドレスの裾を整え、鏡に映る自分を一瞥した。

 貴族の令嬢らしい姿だが、心はすでに庭の土とサトイモにあった。

 クロワール伯爵家の館は、王都の中心にそびえる壮麗な建物だった。

 大理石の柱が支える玄関ホールには、色とりどりの花が飾られ、シャンデリアの光が水晶のように輝く。

 広間には貴族たちが集い、宝石をちりばめたドレスや燕尾服が揺れていた。

 弦楽四重奏の調べが流れ、笑い声とグラスの触れ合う音が響き合う。

 ニーナはそんな光景を、壁際に立ってぼんやりと眺めた。


「うーん、豪華だけど……なんか、ピンとこないな」


 彼女の視線は、テーブルの上に並ぶ料理に落ちた。

 金色の皿には、香草で焼き上げたカモ、ジューシーなローストビーフ、色鮮やかな果物のタルトが並んでいる。

 貴族らしい贅沢な品々だが、ニーナの心には響かない。

 彼女が求めるのは、土の香りが漂う素朴な味わいだった。

 ふと、テーブルの片隅に置かれた白いクリーム状の料理に目が留まった。

 滑らかな見た目は、遠くから見れば前世で愛したサトイモのすり流しに似ていた。

 ニーナは期待を胸に、銀のスプーンで一口すくって口に運んだ。


「……ん?」


 だが、味は淡白で、ジャガイモの風味が広がるだけだった。

 サトイモのあのホクホクとした甘みも、ねっとりした食感もない。

 彼女の肩が小さく落ちた。


「やっぱり、サトイモじゃない……」


 ニーナの脳裏に、庭のサトイモ畑が浮かんだ。

 土から掘り出したゴツゴツした芋を丁寧に洗い、鍋でコトコト煮込む。

 ハニソスの甘辛い香りが厨房に広がり、ひと口食べればほっくりとした温もりが心を満たす。

 あの味を思い出すだけで、彼女の胸は温かくなった。


「家に帰ったら、サトイモのグラタン作ろうかな。ハーブとチーズを合わせたら、絶対に美味しいよね……」


 彼女は目を閉じ、想像の中のサトイモ料理に浸った。

 パーティーの喧騒が遠ざかり、代わりに前世の記憶が蘇る。

 家族で囲んだ食卓、母が作った里芋の味噌汁、祖父が笑いながら語った畑の知恵。

 そんなささやかな幸せが、ニーナの心を支えていた。


「ニーナ! 何、ぼーっとしてるの!」


 鋭い声が、ニーナの空想を破った。

 振り返ると、姉のエリザが優雅な足取りで近づいてくる。

 金髪を華やかに巻き上げ、深紅のドレスに身を包んだエリザは、まるで社交界の花そのものだった。

 20歳の彼女は、ホンヘル家の長女として、王都の貴族たちの注目を集めていた。


「ちゃんと貴族らしく振る舞いなさいよ。壁際に立って、まるでメイドみたいなんだから!」


 エリザの声には、軽い苛立ちが混じっていた。

 ニーナは気のない笑顔を浮かべた。


「う、うん、わかったよ、姉さん……」


 彼女はエリザの鋭い視線に気圧されながら、小さく頷いた。

 だが、心の中ではすでにサトイモ畑に戻っていた。

 エリザはそんな妹の様子に気づかず、取り巻きの貴族たちに笑顔を振りまきながら去っていった。

 ニーナは再び壁際に立ち、パーティーの光景を眺めた。

 貴族たちの笑い声、ドレスの裾が揺れる音、グラスが触れ合う音――すべてが華やかだが、どこか空虚に感じられた。

 彼女の視線は、再び料理のテーブルに落ちた。

 そこには、色とりどりのデザートや肉料理が並んでいるが、ニーナの心を掴むものはなかった。


「サトイモの煮っころがしが、ここにあったらな……」


 彼女は小さくつぶやき、目を閉じた。

 脳裏には、庭のサトイモ畑が広がる。

 朝露に濡れた葉、土の匂い、シャベルを握る自分の手。

 ハニソスの香りが漂う厨房で、鍋から立ち上る湯気。

 あの温かな記憶が、彼女をパーティーの喧騒から遠ざけた。


 ふと、誰かの視線を感じて目を開けた。

 テーブルの向こうで、若い貴族の男性がニーナをじっと見つめていた。

 彫りの深い顔立ちに、黒い燕尾服を着た彼は、どこか好奇心に満ちた目で彼女を観察していた。

 ニーナは気まずく目を逸らし、ドレスの裾を握りしめた。


「変な子だと思われたかな……。まあ、いいか。どうせ私、目立たないし」


 彼女は自分を慰めるように呟き、テーブルの果物を手に取った。

 真っ赤なリンゴを手に持つが、食べる気にはなれなかった。

 彼女の心は、すでに次のサトイモ料理のアイデアでいっぱいだった。


「サトイモのフライに、ハーブの塩を振ったらどうかな。カリッとした食感で、子供たちも喜びそう……」


 ニーナの独り言は、音楽と笑い声にかき消された。

 パーティーは夜遅くまで続き、彼女はただ壁際に立ち、時折エリザの視線に気をつけながら、ひたすらサトイモのことを考えていた。

 馬車で家に戻る頃には、月が空高く昇っていた。

 ホンヘル家の屋敷は静まり返り、庭のサトイモ畑だけが月光に照らされて静かに揺れていた。

 ニーナはドレスを脱ぎ捨て、いつもの麻のエプロンに着替えた。

 リリィが慌てて駆け寄る。


「お嬢様! こんな時間に庭に出るなんて! 風邪引きますよ!」

「大丈夫、リリィ。ちょっとだけ、畑見てくる」


 ニーナはランタンを手に、庭の奥へと向かった。

 サトイモの葉の上の雫が月光に光り、まるで小さな宝石のようだった。

 彼女は土に膝をつき、葉をそっと撫でた。

 冷たい土の感触が、彼女の心を落ち着けた。


「やっぱり、こっちが私の居場所だよね」


 彼女は小さく微笑み、手帳を取り出した。

 月明かりの下、彼女は新しいメモを書き加えた――「サトイモのグラタン、ハーブとチーズで試作。パーティーの料理より、絶対美味しい!」。


 遠くでフクロウの声が響き、夜風がサトイモの葉を揺らした。

 ニーナは深呼吸し、土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 社交界の華やかさも、姉の輝きも、彼女には関係なかった。

 彼女の心は、この小さな畑とサトイモにあった。

 だが、この穏やかな夜が、彼女の人生を大きく変える試練の前触れであることを、ニーナはまだ知らなかった。社交界の裏側で、嫉妬と陰謀が静かに動き始めていたのだ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ