第2話:王都のパーティーとサトイモの記憶
オルティア王国の王都ルミエールは、社交シーズンの到来とともに一層の輝きを増していた。
白亜の城壁が夕陽を浴びて黄金色に染まり、石畳の通りには馬車の車輪が軽やかな音を響かせる。
貴族たちの館では、夜ごと絢爛なパーティーが開かれ、シャンデリアの光がドレスや宝石をきらめかせていた。
ホンヘル男爵家もまた、この華やかな季節に巻き込まれていた。
だが、15歳のニーナ・ホンヘルにとって、社交界の喧騒は遠い世界の出来事だった。
「ニーナお嬢様、早く! もう馬車が待ってるんですから!」
侍女のリリィの声が、ホンヘル家の屋敷に響く。
リリィは赤毛をきつく結い上げ、いつもの生真面目な表情でニーナの部屋のドアを叩いた。
部屋の中では、ニーナが鏡の前で不満げに唇を尖らせていた。
ふわふわの水色のドレスに身を包み、栗色の髪は複雑に編み上げられている。
普段はポニーテールで庭を駆け回る彼女にとって、この装いはまるで拘束具のようだった。
「リリィ、こんなドレス、動きにくいよ……。庭のサトイモの芽、ちゃんと水やりできたかな……」
ニーナは鏡に映る自分を見ながら、ぼそっとつぶやいた。
彼女の心は、昨日植えたばかりのサトイモ畑に飛んでいた。
初級鑑定スキルで土の状態を確認し、丁寧に植え付けたあの小さな苗たち。
芽が出るのが待ち遠しくてたまらない。
「お嬢様、庭のことは後でいいじゃないですか! 今夜は王都でも有名なクロワール伯爵家のパーティーなんですよ。ホンヘル家の名にかけて、ちゃんとした振る舞いを!」
リリィが手を腰に当て、半ば呆れたように言う。
ニーナはため息をつき、しぶしぶ頷いた。
「わかったよ、リリィ。行けばいいんでしょ……」
彼女はドレスの裾を整え、鏡に映る自分を一瞥した。
貴族の令嬢らしい姿だが、心はすでに庭の土とサトイモにあった。
クロワール伯爵家の館は、王都の中心にそびえる壮麗な建物だった。
大理石の柱が支える玄関ホールには、色とりどりの花が飾られ、シャンデリアの光が水晶のように輝く。
広間には貴族たちが集い、宝石をちりばめたドレスや燕尾服が揺れていた。
弦楽四重奏の調べが流れ、笑い声とグラスの触れ合う音が響き合う。
ニーナはそんな光景を、壁際に立ってぼんやりと眺めた。
「うーん、豪華だけど……なんか、ピンとこないな」
彼女の視線は、テーブルの上に並ぶ料理に落ちた。
金色の皿には、香草で焼き上げたカモ、ジューシーなローストビーフ、色鮮やかな果物のタルトが並んでいる。
貴族らしい贅沢な品々だが、ニーナの心には響かない。
彼女が求めるのは、土の香りが漂う素朴な味わいだった。
ふと、テーブルの片隅に置かれた白いクリーム状の料理に目が留まった。
滑らかな見た目は、遠くから見れば前世で愛したサトイモのすり流しに似ていた。
ニーナは期待を胸に、銀のスプーンで一口すくって口に運んだ。
「……ん?」
だが、味は淡白で、ジャガイモの風味が広がるだけだった。
サトイモのあのホクホクとした甘みも、ねっとりした食感もない。
彼女の肩が小さく落ちた。
「やっぱり、サトイモじゃない……」
ニーナの脳裏に、庭のサトイモ畑が浮かんだ。
土から掘り出したゴツゴツした芋を丁寧に洗い、鍋でコトコト煮込む。
ハニソスの甘辛い香りが厨房に広がり、ひと口食べればほっくりとした温もりが心を満たす。
あの味を思い出すだけで、彼女の胸は温かくなった。
「家に帰ったら、サトイモのグラタン作ろうかな。ハーブとチーズを合わせたら、絶対に美味しいよね……」
彼女は目を閉じ、想像の中のサトイモ料理に浸った。
パーティーの喧騒が遠ざかり、代わりに前世の記憶が蘇る。
家族で囲んだ食卓、母が作った里芋の味噌汁、祖父が笑いながら語った畑の知恵。
そんなささやかな幸せが、ニーナの心を支えていた。
「ニーナ! 何、ぼーっとしてるの!」
鋭い声が、ニーナの空想を破った。
振り返ると、姉のエリザが優雅な足取りで近づいてくる。
金髪を華やかに巻き上げ、深紅のドレスに身を包んだエリザは、まるで社交界の花そのものだった。
20歳の彼女は、ホンヘル家の長女として、王都の貴族たちの注目を集めていた。
「ちゃんと貴族らしく振る舞いなさいよ。壁際に立って、まるでメイドみたいなんだから!」
エリザの声には、軽い苛立ちが混じっていた。
ニーナは気のない笑顔を浮かべた。
「う、うん、わかったよ、姉さん……」
彼女はエリザの鋭い視線に気圧されながら、小さく頷いた。
だが、心の中ではすでにサトイモ畑に戻っていた。
エリザはそんな妹の様子に気づかず、取り巻きの貴族たちに笑顔を振りまきながら去っていった。
ニーナは再び壁際に立ち、パーティーの光景を眺めた。
貴族たちの笑い声、ドレスの裾が揺れる音、グラスが触れ合う音――すべてが華やかだが、どこか空虚に感じられた。
彼女の視線は、再び料理のテーブルに落ちた。
そこには、色とりどりのデザートや肉料理が並んでいるが、ニーナの心を掴むものはなかった。
「サトイモの煮っころがしが、ここにあったらな……」
彼女は小さくつぶやき、目を閉じた。
脳裏には、庭のサトイモ畑が広がる。
朝露に濡れた葉、土の匂い、シャベルを握る自分の手。
ハニソスの香りが漂う厨房で、鍋から立ち上る湯気。
あの温かな記憶が、彼女をパーティーの喧騒から遠ざけた。
ふと、誰かの視線を感じて目を開けた。
テーブルの向こうで、若い貴族の男性がニーナをじっと見つめていた。
彫りの深い顔立ちに、黒い燕尾服を着た彼は、どこか好奇心に満ちた目で彼女を観察していた。
ニーナは気まずく目を逸らし、ドレスの裾を握りしめた。
「変な子だと思われたかな……。まあ、いいか。どうせ私、目立たないし」
彼女は自分を慰めるように呟き、テーブルの果物を手に取った。
真っ赤なリンゴを手に持つが、食べる気にはなれなかった。
彼女の心は、すでに次のサトイモ料理のアイデアでいっぱいだった。
「サトイモのフライに、ハーブの塩を振ったらどうかな。カリッとした食感で、子供たちも喜びそう……」
ニーナの独り言は、音楽と笑い声にかき消された。
パーティーは夜遅くまで続き、彼女はただ壁際に立ち、時折エリザの視線に気をつけながら、ひたすらサトイモのことを考えていた。
馬車で家に戻る頃には、月が空高く昇っていた。
ホンヘル家の屋敷は静まり返り、庭のサトイモ畑だけが月光に照らされて静かに揺れていた。
ニーナはドレスを脱ぎ捨て、いつもの麻のエプロンに着替えた。
リリィが慌てて駆け寄る。
「お嬢様! こんな時間に庭に出るなんて! 風邪引きますよ!」
「大丈夫、リリィ。ちょっとだけ、畑見てくる」
ニーナはランタンを手に、庭の奥へと向かった。
サトイモの葉の上の雫が月光に光り、まるで小さな宝石のようだった。
彼女は土に膝をつき、葉をそっと撫でた。
冷たい土の感触が、彼女の心を落ち着けた。
「やっぱり、こっちが私の居場所だよね」
彼女は小さく微笑み、手帳を取り出した。
月明かりの下、彼女は新しいメモを書き加えた――「サトイモのグラタン、ハーブとチーズで試作。パーティーの料理より、絶対美味しい!」。
遠くでフクロウの声が響き、夜風がサトイモの葉を揺らした。
ニーナは深呼吸し、土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
社交界の華やかさも、姉の輝きも、彼女には関係なかった。
彼女の心は、この小さな畑とサトイモにあった。
だが、この穏やかな夜が、彼女の人生を大きく変える試練の前触れであることを、ニーナはまだ知らなかった。社交界の裏側で、嫉妬と陰謀が静かに動き始めていたのだ。