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『死のコンテンポラリー・アート』解決編

 何かに曝されているかのような、名状し難い居心地の悪さを感じて、イリーナは夜風にあたろうとアトリエから大通りに出た。

 人々や馬車が忙しなく通る中、遠くから鈴の音が奇妙なほど明瞭に聞こえてくる。イリーナがその音の方を向くと、激しく見覚えのある顔が自転車に乗っていることがわかった。


 トワレは中くらいの鞄を背負って、サドルから腰を少し浮かせながら自転車を漕いでいる。彼女は片手をハンドルから離し、大きく手を振った。

 彼女は自転車をイリーナのすぐそばにつけて、舞うように地面に降りた。


「イリーナせんせ〜〜い! 奇遇ですわね!」


「あなた……これって本当に偶然? つけてきたわけじゃないわよね?」


「わたくしは買い物帰りですわよ。あ、そうだ──先生は晩御飯をお召しに?」


「いいえ、まだだけど」


 トワレはやや大袈裟に嬉しそうなそぶりを見せて「では、ご一緒しませんこと?」と言った。断る方が楽か、受けてしまう方が楽か。イリーナは頭の中の天秤を確認した。


「でも……トワレさんに悪いわ」


「例の事件で、すごく重要な情報がわかりましたのよ」


「じゃあ、せっかくだから頂こうかしら」


 この儀礼的なやり取りを、如何に臆面なくこなせるかが上流階級の者としての格を定めると言っても過言ではない。魑魅魍魎の巣食う貴族社会で、言葉とは鎧なのだ。


 揃って二人でアトリエに入るなり、イリーナは不安げに部屋の中を見渡した。首のない彫刻、極限まで抽象化した都市の絵、それにトワレから貰った少年の絵。


 どこにも変わったところはない。


「あ、水を忘れましたわ」


「それなら魔術で──」


「わたくし、帝国の天然水が何にも増して好きなのでしてよ」


 トワレは断りもなくキッチンへと入り、鞄から食材を出した。卵、ネギ、それに丸めた白飯を台の上に並べると、彼女は庭の方へと走っていった。


「待って、その井戸は──」


「なあんだ、ちゃんと動くじゃないですか。何か使っちゃいけない理由でもありますの?」


 レバーの小気味よい上下に合わせて、濁った水がその口から吐き出される。トワレが根気よくレバーを動かし続けるにつれ、その濁りが薄くなっていく。

 しまいにはほぼ透明な水が流れ出るようになった。手を差し出して水をすくい、口に含んでみる。ほとんど雑味のない、良い水の味だ。


「いえ、そんな理由はないけど」


「では、ありがたく使わせてもらいますわ!」


 汲んだ水を厨房で沸かせる傍ら、トワレは手早くネギとベーコンを微塵にし、卵を溶く。沸いた水に茶色の塊を投入する。

 それは近年開発されたキューブコンソメだ。透明な水がみるみるうちに色づき、玉ねぎと牛骨の豊かな香りが厨房に広がる。


「ねえ、トワレさん──」


「ごめんなさい! 後にしてくださるかしら! 集中しますので!」


 よく熱した鉄鍋に油をたっぷり馴染ませ、刻んだベーコンとネギを入れる。ネギの端が茶色くなり、香ばしさが出てきたら卵液を流し入れ、すぐさま握り飯を投入。

 お玉で米の塊を潰しつつ、全体をよくかき混ぜたら、あとは鍋を全力で振るだけだ。


 白と黄色の粒が宙を舞う。トワレの細腕からは想像できないほど、彼女は力強く、正確に鍋を振っている。

 米も卵も一切鍋の外にまろび出ていないのが証拠だ。空いている方の手でコンソメの入っている鍋をつかむと、トワレはスープを少しずつ、舞う米の中に注ぎ入れる。


「トワレさん、それは何をしているのかしら」


「味を整えていますわ!」


 鍋に集中しながら、トワレは半ば叫ぶように答えた。焦ってはいけない。スープを一気に入れすぎると雑炊になってしまう。

 少しずつ注ぐことで、スープは鍋の熱でたちまち蒸発し、その中で最も好い部分が卵と米に吸われるのだ。


 そうして完成した炒飯は、全体が黄金に輝き、耳触りのよい音とともに極上の香気をアトリエに広げていた。トワレは鍋を小さく振ってお玉に炒飯を取り、皿にそれをよそった。


「お待ちどおさま。初めてやってみたのですが、案外上手く行くものですわね」


 料理を終えたトワレは、左親指に無骨な指輪をはめた。

 アトリエの中央に出現した机に皿と匙を並べる。食前の祈りを簡単に済ませたあと、トワレは匙で炒飯をすくい、そして食べた。


 その炒飯の構成要素自体は珍しくない。卵を基礎とした、最も基本的なものだ。しかし、その一皿全体に染み渡った旨みは特別そのものだ。

 牛骨と玉ねぎの、ある種の臭みが衝撃とともにやってくるさなか、葱の清涼な風が吹き渡る。


「すごく美味しいですわ。イリーナ先生もぜひお食べになって」


 イリーナは匙を机に置いたまま、顔に硬直した笑みを浮かべている。よく見ずとも彼女の額に脂汗が浮いていることがわかるだろう。


「……食欲がないわ。ごめんなさいね」


「そうでしょうねえ。あの井戸のお水を使ったご飯ですから」


「どういうことかしら」


 匙を置き、顔に薄い笑みを貼り付ける。イリーナは努めて平静を装い、トワレの出方を待った。電灯の無機質な光がトワレの油に濡れた唇から、えも言われぬ色気を照らし出す。


「何かを喪う苦しみは、わたくしにも分かりますわ」


「話の内容が見えてこないのだけれど? 直接言ってくださるかしら」


「イェラン子爵ダニエル・マクガイヤを殺したのは貴女でしょう」


「意味がわからないわ。いい加減にしてくれるかしら。急に上がり込んで勝手に料理をして──」


 トワレは立ち上がった。彼女は部屋の中をぐるりと歩き回り、ブツ・ダンの安置されている部屋の扉を打ち開けた。その衝撃で、写真立てがいくつか倒れる。


「どうして、ご結婚されていた時のお写真がないのかしら」


「機械が壊れていたからよ」


「では、どうして絵の一つもないのでしょうか」


「ないわよ。でもそれとこれは関係ないでしょう?」


「あります。順を追って説明いたしますわ」


「いいえもうたくさんよ。出ていってくださるかしら」


 立ち上がったイリーナの魔術回路とアトリエのものが接続され、わずかな光を放つ。

 しかし、何も起こらなかった。何かあり得ないことが起こっている。状況を飲み込めていないイリーナはもう一度術式を行使した。


 トワレは薄い笑顔を浮かべて立っているだけだ。


「どうして……」


「これについては最後に説明します。続けてもよろしいかしら?」


 返事はなかった。トワレは満足そうに頷いて、アトリエから庭へと出る。


「ひとつ妙だと思ったのは、この井戸のポンプの製作年ですわ。十四年前──ヌキタ・リョタロ・サンがお亡くなりになる一年前ですわね? ですが、長らく使われた形跡がない」


「……枯れ井戸だったのよ。トワレさんが何を言いたいのかはわからないけど」


「そんなことはございませんわ。さっきご覧になったでしょう? 井戸に深入りする前に、もう一つの事実にも触れておかねばなりません。すなわちイェラン子爵家は困窮の最中にあり、貴女はそれを知っていたということです」


「そんなこと、知っているわけがないでしょう。この国の貴族は見栄っ張りよ。わざわざ貧乏を言いふらす人なんかいないわ」


「見栄っ張りなのはおっしゃる通りです。ですが、イェラン子爵邸はもはやもぬけの殻でした。あれは一日二日で整理できる量ではありませんわ。そんな状況で彼が貴女を訪ねたならば、少なくとも切羽詰まったものがあるとはお察しできるでしょう」


 このアトリエは帝都の一等地に建っている。周りには中流階級向けのアパートメントが立ち並び、少し歩けば大通りに出ることすらできる。


「ここはまさに子爵にとっての宝石。売って仕舞えば、立て直しも容易です。ですが、貴女は売却を拒んだ……それはなぜでしょう?」


「ここは私の工房よ。体の一部なの。売れるはずがないわ」


「そう、ここで子爵は貴女に迫ったのです。彼の従者は非常に優秀ですわ。わたくしのことを一見しただけで正体を見出したもの。その彼に貴女の醜聞を探らせようとした」


「まるで見てきたみたいな言い振りね。証拠はあるのかしら?」


「従者どのがお見せしてくださったわ」


 トワレの間髪入れない返答に、イリーナは確かに圧された。何かに曝されているかのような違和感は寒気となって彼女の体を襲いつつある。


「ここか、お庭が売られたら間違いなく調査のために掘り返されますわ。それで、出てきてほしくない物が出てきたら大変ですわね。男の遺体とか、そういう物が」


「それこそ証拠はないわ。貴女がここで地面を掘り返すってなら話は違ってくるけど」


「あくまでもそうおっしゃるなら、召し上がってくださいな。わたくしの炒飯を」


「わかったわよ! やってやるわ……」


 イリーナは席に座り、震える手で匙を持った。呼吸が荒くなってしまうのをなんとか抑え、彼女は極上の炒飯をすくい、それを口元まで運ぶ。

 

しかし、それまでだった。込み上げてきた吐き気に耐えることはできず、イリーナはうずくまって空っぽの胃の中から饐えた液体を吐き出した。


「それが答えですわ。不幸せな結婚生活がどれほどのものだったかは分かりません。しかし、さぞかしお辛かったのでしょうね。旦那さまを行方不明に見せかけて殺したほどですから……」


「でも、貴女には何もできないわ。ここは私の工房よ。いろんな貴族に知り合いだっているのよ!」


 イリーナは杖を抜いた。その瞬間、彼女の視界全てが藍色に覆われる。それを追いかけるようにして、風が吹いた。

 それはトワレだった。彼女はやや姿勢を低くして、イリーナの顔に左手に持った杖を突きつけている。


 その親指に嵌められた〈鉄盾を貫く束ねた矢〉の紋章を、イリーナが知らぬはずはない。


「貴女まさか、オンテンバール公の……」


「改めて自己紹介をさせていただきますわ。わたくしは貴族院議長、オンテンバール公が娘、ヴィクトワレにございます」


 堂々と名乗らねばならない。さもなければ、家の名を汚すことになる。


「でも、貴女は迂闊よ。魔術師の工房に一人のこのこ現れたのだから」


「うふふ。確かにそうですわね?」


 すべての芸術品がトワレのことを見た。工房の中、トワレに勝機はない──そのはずなのに、トワレは楽しそうに笑っている。


 イリーナは腹の底から湧き上がってくるような寒気を抑えることができなかった。何かがイリーナのことを見つめている。曝されているかのような違和感の正体は、これだ。


「ニンポ・カクレ・ミ・ノ・ジツ……潜むにはこれが一番でござる」


 どこからか異国の言葉が聞こえた。イリーナはその意味を正しく理解してしまった。ニンポとは東方の間諜が使う独特の術だ。それは魔術である場合もあるし、そうでない場合もある。


「に、忍者……どうして」


「最初からここにいたでござるよ。お嬢は昼間、一人でお帰りになった……警報と一部の攻性魔術防壁を無効化するには、多少骨が折れましたぞ」


 声の出所は天井近く、昨日の授業でトワレが描いた黒装束の少年の絵だ。いや、それは絵ではない。一人の忍者であった。

 霞浪助は音もなくトワレの真横に着地し、左袖の中から短剣を引き出した。だが、それ以外の芸術品は二人のことを見つめたままだ。脅威はイリーナ以外のところからやってくる。


 古代の剣闘士を模した彫刻が片手剣を振りかぶった。浪助は短剣でその軌道を逸らしつつ腹に右拳を叩き込む。彫刻の表面が波打ち、その衝撃は地面へと流された。


「多勢に無勢よ。諦めなさい」


 浪助はその声に対して手裏剣を投げつけた。それは絵より現出した鳥に空中で撃ち落とされる。


「ナミスケくん、相性が悪いわ。わたくしも混ざります」


 トワレはリボルバーを抜いた。弾倉をスイング・アウトして杖をあてがうと、魔法の弾が装填される。

 迫り来る極度に抽象化された全裸の彫刻に向かって発砲。弾丸はその彫刻の胸を貫く。だが、彼女の後ろには別の彫刻が迫っていた。


 発砲の反動を全身で吸収しながら、彼女は後ろに回し蹴りを放った。つま先に鉄の仕込まれているブーツが一人でに舞う剣を撃墜する。


 左手の杖もただそこにあるだけではない。射撃の反動で回転しながら、彼女は杖先から質量を持った光線を放つ。

 部屋全体を薙ぎ払ったそれは、彫刻と絵を三つずつ巻き込みながらイリーナの方へと向けられた。

 イリーナは防御魔法を斜めに展開した。まともに受けたら保たないことくらい、彼女にもわかっていた。


 トワレの戦技は荒々しい。繊細な少女の体が長い間耐えられるものではない。では、彼女はどこでこれを身につけたのだろうか。残念ながら、それを申し上げることはまだできない。


「意外と繊細な術式で動いてますのね」


「繊細……なるほど! ニンポ・カゲ・ツルギ・ノ・ジツ!」


 浪助は腰に吊り下げた短棒を手に取った。彼の影が棒の先に凝縮し、全ての光を拒むかのような黒い剣が形成される。

 向き合う剣闘士の攻撃を短剣で逸らし、生まれた隙にその影剣で薙ぎ払う。彫刻を動かしていた魔術が霧散し、それは物言わぬ土塊になる。


 二人は縦横無尽にアトリエの中を駆け回り、破壊の限りを尽くした。銃声が上がるたびに絵の中から飛び出したものは絵の具のシミになり、影が彫刻を無惨に喰らい尽くす。


 イリーナを守っていた作品が破壊されると、彼女はたまらず両手をあげて降参した。トワレは軋む関節を庇いつつも、凛として立っている。浪助はイリーナの両手両足に縄をかけた。


「イリーナ・N・モレンジ。貴女を殺人と公務執行妨害の容疑で逮捕します」


 トワレは声高々に宣言した。がらくたの山となってしまったアトリエの中、イリーナを抑えている浪助は彼女に所在なさげな視線を向ける。


「どうしたの? 何か不満でも?」


「あの、お嬢。腹が減ったでござる」


「……ああそう。あとで炒飯作ってあげるわ。水はちゃんとしたやつを使うから、安心してちょうだい」


 遠くから警官隊の鳴らす笛のような音が聞こえた。二人の仕事はこれで終わり。

 あとは制服の巡査がどうにかしてくれるだろう。戦いの衝撃が骨まで響いたのか、トワレは少しよろめいた。浪助はトワレのそばに駆け寄り、彼女の肩を支えた。


「ありがと、ナミスケくん」


「当然のことですから……お嬢、お顔が近いですって」


「あら、嫌なの?」


 トワレは両目を瞬かせた。彼女はこれでウインクをしているつもりなのだ。


「そ、そんなことは──」


 二人の脇を、青い制服を着た警官が走り抜けていく。彼らはイリーナを護送用の馬車に載せると、二人に敬礼をしてその場を去っていく。



 静まりかえったアトリエの中、支えて立つ少年と少女を、雲間から何かを呟くような月明かりが照らした。

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