『殺人伝票』解決編
特に日光が強い海岸沿いなものだから、そのあたりの建物はどれも兄弟のように同じ白さで、ところどころに青い装飾が入っている。
ここは下級貴族や豪商──とにかく帝国の中でもそれなりに裕福な者たちの別荘地だ。
その建物は、雄大な海と明るい太陽に似つかわしくない、重苦しい雰囲気に包まれていた。
居間で一人の少年が死んでいるからだ。水色のナイトガウンを着てカウチに寝ている彼の口の周りには、何か白い粉が付着している。
開いている窓から夏風が吹き込むも、その場を支配する鬱屈とした熱気を吹き飛ばすには足りなかった。
中年の男と若い少女が、静かに目を閉じている少年の傍に立っていた。疲れた顔で夏用のジャケットを着崩している男とは対照的に、少女は田舎風の膝丈ワンピースをはためかせている。
髪を短く切り揃えて、内側を刈り上げているその彼女は、まさに美少女と言って差し支えない。
「眠り薬と風邪薬を大量に飲んでの自殺──しかし残念なものですわね、ハートレーさま。あなたの周りで出た死体は、これで二つ目です」
「……空いた口が塞がらんよ。よもやジョシュアが自殺するとは」
ジョシュアは、ハートレーの養子だ。
ともすれば少女と言っても通るくらいに可愛らしい姿のまま、彼はカウチに力なく横たわっている。
ハートレーは屈んで彼の手首に触れた。数秒ののちに彼は立ち上がり、首を振った。
「どうやら、私は見当違いをしていたようですわ」
「見立て違いとはなんだ。トワレ嬢」
「彼には圧力をかけすぎたようですわ。てっきりお二人でアリバイ工作をなさったものかと思って。ご夫人はジョシュアくんにキツく当たってらっしゃったようですから、動機もバッチリでしたのに」
ハートレーは隣に立つ少女を睨みつけた。今にもつかみかかっていきそうな勢いだった。
「私が家内を殺したと、そう言いたいのかね」
「だってそれ以外は考えられませんもの」
「君は確か、帝都の仕立て屋の娘だったな。そのワンピースも実にいい仕立てだ。あまり私のことを舐めるようなら、君のお父上との取引は打ち切るが?」
その挑発に、彼女は無言を返した。潮風が彼女の髪を煽る。
ワンピースが翻ってしまわないように、彼女は両手でスカートを抑えた。左親指に嵌っている、くすんだ銀色の指輪が陽光に煌めく。
トワレはよく知っている。このように圧力をかけてくる手合いには、へりくだった様子を見せつつもそれに決して屈さぬことが一番効くのだと。
「あら恐ろしいこと。確かにハートレーさまのアリバイ工作は完璧でしたわ。客船でご夫人と喧嘩して、そのまま彼女は下船なさった。ご夫人が何者かに撲殺されたとき、貴方は衆人環視の中におられたんです」
「そう、その通りだ。家内は賊にやられたということで、君の──珍妙な格好をした助手とも見解が一致したはずだが?」
「ええまあ、彼は少し早とちりするのが悪い癖でして。彼に言わしてみれば、わたくしは考えすぎるのがいけないらしいですが」
「その、名前はなんと言ったかな……カラシドンブリくんは、今どこに居られるのかね」
トワレは少し考えるそぶりを見せた。おそらくハートレーはわざと名前を間違えたのだろう。
「彼の名前が発音しにくいことには同意いたしますわ。彼は耐え忍ぶことが得意ゆえ、我らのことを見える位置にて待ってもらってます」
「そうかそうか……抜き身の刃のような青年ゆえ、少し恐ろしかったのだよ」
「しかしアテが外れたとなると、最初からやり直しですわね」
「参考までに、トワレ嬢の推理を聞かせてもらえんかね」
「いいですわよ。今となってはもう無用のものですもの」
彼女には確信があった。夫人を殺したのはハートレーだ。
それを引き出すためには、もう一芝居打たなければならない。
真実は解釈に依る。しかし、現在に至るまでの〈過去〉が辿った道筋はただ一つだ。それを見出すためなら喜んで道化になる。
逸ってはならない──帝都を走る四輪馬車のようにゆっくりと、しかし確実に行かなければならない。
「ハートレーさまが客船でご夫人と喧嘩した時には、ご夫人はもう亡くなられていて、客船にいた『ご夫人』はご子息のジョシュアの変装だった──とどのつまりはこういうことでしてよ」
「しかしね、トワレ嬢。それには証拠がないではないか」
「だからジョシュアくんを詰めたのですわ。彼は貴方ほどタフじゃないから、そのうち吐いてくれると思ったのですが、まさかこんなことになろうとは……」
「今となってはいいんだよ、トワレ嬢。私としては、誰かが咎を負ってくれればそれで構わない」
「やけに軽く流すのですね。ジョシュアくんとはご親密でいらっしゃったのでは? 養父と養子という関係を超えて」
「それこそ証拠はどこにある」
「彼の体を見たら一目瞭然ではないのかしら。具体的なことまで申すことは控えますが──とにかくそれが動機だと思いましたのよ。貴方はジョシュアくんを愛しておられた。それゆえに彼にキツく当たるご夫人を殺害したのだと、てっきり」
ハートレーは嘲るような笑顔を浮かべた。それを見逃すトワレではない。指摘のために口を開こうとしたその瞬間、ハートレーは手を出して彼女を制止した。
「エゴだよ。仕事のためだ。トワレ嬢はお若いから、人の心を察せるほど人生の経験がないと見える」
「わかりませんわ。ご教示くださる?」
「あれには利用価値があった。優秀ゆえ、私の後釜とすべく色々と仕込んでおったのに……無駄にしたよ。愛とは違う。あくまでも実利のためさ。早く代わりを見つけねばと思っておった」
「さすがですわハートレーさま。そんなことまで勘定してらしたとは」
「当然だ。私を誰だと思っている」
「優秀な商人さまでいらっしゃいますが、やはり人の心はお分かりでないと」
「……どういうつもりかね」
トワレは勢いよく髪をかき上げた。怒気のこもった声を受け流しながら、彼女は居間につながる廊下へと歩みを進める。
一際強い、まとわりつくような海風が吹いた。トワレは洗面所のドアをノックする。
「ジョシュアくん、芝居は終わりですわ」
「なにっ──」
ガチャリ、とドアが開かれる。朝の太陽のような細やかな金髪を持つ、きっちり準正装に身を包んだ少年が、彫刻のようなかんばせに失望を浮かばせて現れた。
トワレは小刻みに震える彼の細い肩に手を乗せる。
「トワレさん……」
「心配なさらないで、ジョシュアくん。何があったかは、後でお姉さんに言ってちょうだいな」
「わかりました……あの、これからどうなるんですか」
「キミ次第だよ、それは」
二人はハートレーをまっすぐ見据えた。ハートレーは動じない。この瞬間に自分が嵌められたことを悟った彼は、凪いだ海のような薄ら笑いを浮かべていた。
「裏切りおったな、ジョシュア……あれほど手をかけてやったというのに」
「閨で僕に囁いてくださった愛は、全て嘘だったというのですね」
「いや、それは──」
ジョシュアの目尻から一筋の涙がこぼれ落ちる。トワレは彼に「もう下がって結構よ」と囁いた。
彼はハートレーを睨みつけたまま、数歩あとずさってから、振り向いて何かに弾かれたように走り出した。
「観念した方がよろしいのでなくて?」
「しかしだね、トワレ嬢は仕立て屋の娘だ。君に何ができる? 私は帝都の貴族にも顔がきく。君をもみ消すことだってできるんだぞ」
「同僚のおじさまが仰ってたのですけど、指輪を嵌める場所には意味があるそうですわよ。左手の親指というのは──」
彼女は左手を掲げた。指輪に刻まれた紋章がハートレーの目に入るように。
「きさま! その〈鉄盾を貫く束ねた矢〉の紋章は……オンテンバール公爵家の……!」
「改めて自己紹介をいたしましょう。わたくしの真の名はヴィクトワレ。お察しの通り、オンテンバール公の娘にござりまして」
「……この国で人を殺すとどうなるか、レディはご存知か。よくて死罪、悪くて資産没収のうえで流罪だ。然らば一人殺すも二人殺すも違いはあるまいて」
公爵令嬢と一介の商人。その身分の差は歴然としている。ハートレーは懐から短杖を取り出した。その先端には赤色の玉石が嵌められている。
「あら、ハートレーさまは魔術にもご堪能でいらっしゃるのね」
「専門家というほどではないがね……」
その杖の先に熱雷が集う。海風とは比べものにならない熱さを顔に浴びてなお、トワレは平然としていた。
「最後に一つ、よろしいかしら」
「何だ。命乞いでもするつもりか」
「ジョシュアが生きていたのなら、我々が初めに見た死体は何だったのでしょうね?」
ハートレーは弾かれたようにカウチを見た。そこには青年が寝ている。彼が地面に落とす影は、全ての光を吸い込む黒さであった。
居間に光源はない。強いていえば窓の外がひどく明るいくらいだ。青年にまとわりつく影は、奇妙なほど黒い。
まとわりついているのだ。影が。
それは自我があるかのように蠢き、青年の着ているナイトガウンを覆う。
青年が目を見開いた。刃のような鋭さを持つ視線がハートレーを掠めたその瞬間、彼は身を翻した。
彼の影は彼の装束となった。黒い布を体に巻いたようなそれはまさしく異国のものであり、等しく黒い鉢金と面頬はあからさまに忍者のそれであった。
化粧がパラパラと顔から剥がれ落ち、彼の真の姿を露わにする。帝国人にしては顔が平らで、髪も目も黒い。
「それがしの名は霞浪助。決してカラシドンブリなどという珍妙な名ではござらぬ。ハートレー殿──貴様の短絡した思考を、それがしがよく揉んでさしあげよう……」
「貴様、何を──!」
「ニンポ・カゲマトイ・ノ・ジツ。早着替えには便利でござる」
彼は異国の言葉で何かを呟いた。その真言じみた言葉の真の意味を理解する者は、この場に浪助しかいない。
「ええい、『いかづちよほとばしれ』!」
短い詠唱。トワレは不敵な笑みを浮かべたまま微動だにしない。
彼女の眼前の熱雷が弾ける。食らえば死なずとも大火傷は間違いない。太陽より明るい光とともに、雷鳴が轟いた。彼女は笑顔を崩していない。
「なんだとぉ……!」
雷が逸れた。トワレも浪助も魔術を使っていないにも関わらず。トワレとハートレーの間に、季節外れの雪めいて白い粉が降った。
彼女は上を指差す。建物と同じ白さの天井が少しひび割れている。そこから粉が落ちているのだ。
ひび割れの中心で、星型の鉄が赤熱していた。手裏剣である。
さきほど浪助が身を翻したその瞬間、彼は手裏剣を投擲していたのだ。
「雷は鉄に吸われるものですわ。よくやりましたねナミスケくん」
「お嬢を傷つけさせるわけにはいかぬゆえ。それがしの役目にござりますれば」
「ハートレーさま、表に出ますわよ。こんな狭いところじゃ喧嘩もまともにできませんこと」
太陽が無表情に睨みつける中、邸宅の庭でハートレーと浪助は向かい合っていた。トワレは浪助の後ろにて澄ました顔で控えている。どこからか吹かれてきた枯れ草が一塊になって両者の間を転がった。
遠くから海風に乗ってきた波の音が、耳を優しく撫でているかのようだった。浪助は腰に差した刀の鯉口に手を添える。
トワレはあくびをした。連日ハートレーの事件にかかりきりでよく眠れていないのだ。陽光の下に出て初めてはっきりとわかる程度に薄いが、彼女の目許には青ざめた隈が刻まれている。
そのあくびを挑発と受け取ったのか、ハートレーは無詠唱で火球を飛ばす。一切の慢心がない、鋭い火球だ。浪助は一歩踏み込みながら抜刀。刀の腹で火球を打ち返す。
「この程度、お嬢の手を煩わせることはございませぬ」
浪助は棒手裏剣を三本同時に投げた。火球と一緒に飛来したそれを、ハートレーは不可視の力場で防御する。
「──この私にも矜持というものがある。なかなか舐めたことを言ってくれるじゃないか」
「これは手加減と心得よ」
「減らず口を……」
浪助は刀を正眼に構えた。もう三歩踏み込めば刃が届く距離なれど、敵方には魔法がある。遠距離攻撃の手段に乏しい浪助がやや不利か。
ハートレーの杖が怪しげに光る。両者は向かい合ったまま、少したりとも動かない。
互いに実力を測っている──その間、少しでも隙があったら攻撃を叩き込む。考えていることは二人とも同じだ。
刀の切先がわずかに揺れた。それを隙と見たハートレーは赤い雷の失神魔術を放つ。
浪助は大きく踏み込みながらの小ぶりな振り下ろしでそれを叩き落とす。刀を跳ね上げ左足を引きつけながらもう一発。ハートレーの鼻先を掠める。
彼は仰天しながらも杖を持ちかえ、それに風の刃を纏わせる。
だが、それだけだった。大きく姿勢を屈めた浪助は全身を発条のように使い、刀の峰でハートレーの手首を強く打ち付けた。
その流れで彼は三度刀を振るい、その度にハートレーを打擲する。
顎を掠めた一撃で、彼は地面に崩れ落ちた。浪助はゆっくりと残心を決め、ハートレーが本当に気絶していることを確かめてから、刀を鞘に収める。
「ミネ・ウチにござる」
彼は再び、異国の言葉で何かを呟いた。浪助は手早くハートレーの手足を縄で拘束する。
パチ、パチとまばらな拍手が聞こえる。浪助が後ろを見てみれば、トワレが少し疲れた表情で手を叩き合わせていた。
彼女はゆっくりと浪助に近づき、彼の顔を覗き込んだ。浪助の顔に血がのぼる。彼はたまらず顔を逸らしてしまった。トワレは残念そうに口を尖らせる。
「今回も見事だわ。ナミスケくん。さ、そいつを運びつつ、近くのパブで一杯ひっかけるわよ」
「この人、それがしが運ぶのでございますか」
「わたくしも手伝うわ。一人だと重くて敵わないでしょ?」
重い荷物は二人で持った方がいいわ、と彼女は鈴を転がしたような声で言って、両目を瞬かせた。
浪助は知っている。トワレはそれでウインクをしているつもりなのだと。彼はハートレーを担ぎ上げた。存外に軽い。トワレが軽い念力術を使っているのだ。
奇妙なほど静かになった庭を、海風が文句ありげに吹き抜けていった。