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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

コキアの花束

作者: 犬又又

 あたしが大学二年生の時の話だ。アパートの近くの公園で蹲っている人を見かけた。

 年は三十過ぎだろうか、服はヨロヨロで朧な視線、まるでゾンビか死人のようだった。

「おっさん大丈夫? 生きてる?」

 あたしの家庭環境が良くなかったからか、別におっさんを怖いとかそう言う風には感じなかった。

「あっ……あぁ」

 おっさんはあたしに視線を向けずにそう答えた。

「こんなとこにいたら死んじゃうよ。とりあえずあたしのとこに来なよ」

 おっさんは断らず、手で持ちあげて引くとヨタヨタと後に続く。

 アパートへと到着。

「カギカギ」

 ドアを開いて玄関を過ぎたら全裸にしてお風呂場へと放り込み、頭から熱いお湯をかけてやった。鼻につく泥としもの臭い。何日もお風呂には入っていないだろう事を察した。

 お腹に少し脂肪はあったけれど、触れてみると内側に硬い筋肉が窺える。

 ざんばらな猫ッ気の髪、細くて白髪が混じりのグレー。この先禿げそうな頭だなと妙で失礼な感想を浮かべて笑んでしまった。

 お風呂から上げたら、おっさんにレトルトの温かいスープを飲ませた。おっさんは相変わらず朧な視線をさ迷わせていた。

「とりあえず今日はここに泊まっていいから」

 そう告げてもおっさんは何の反応示さなかったが。

「……すみません」

 それだけの言葉は返してくれた。

「でもうちベッド一つしかないから、悪いけど床で寝てよね」

 変なおっさんを拾ってしまったと笑っていまった。


 あたしの家は父子家庭だった。小さい頃に母親が浮気して離婚した。謝り復縁を懇願する母を父は受け入れなかった。当時は母が何をしたのかを理解できなかったけれど、懇願する母よりも、今すぐにでも死にそうな表情の父が心配でしょうがなかった。

 母の事は好きだったけれど、あたしは父を選んだ。

 二人をどう見比べても、どう考えても父の方が死にそうな表情をしていたのを良く覚えている。だから父を選んだ。


 それからは父と二人で暮らした。たまに母があたしに会いにやって来たけれど、父が辛そうな顔で目を反らすのが印象的だった。これから先、父が母に会うたびにこのような表情をするのかと考えて、母に会う事を躊躇うようになった。自然と面会の申し出を断る回数が増えた。

 父には仕事がある。父は家事なんてしなくて良いと柔らかく笑う。学業や友達といっぱい思い出を作りさないと家事をしてくれた。お小遣いだって周りより多かったと感じる。

 でも父は家事なんて全然できなくて、結局はあたしがするようになった。

 なんとか立て直してきた父のしょぼくれた背中を眺め、あたしがしっかりしないとダメだと感じたのもある。

「いっぱい稼いで来てよね‼」

 そう声を張り――父のお尻を思いっきり叩くと父は驚いて、それから優しい視線を向けて、頑張るよ。とそう口から零した。

 それからしばらくして、母が再婚することを知った。結婚する旨の手紙がポストに入っていて、父に渡さずライターで燃やした。


 幸せになることを許して下さいとか、そのような事が書いてあり、その頃になると母の犯した出来事が理解でき、自分の体に母と同じ血が流れているのが嫌にもなって少し荒れた。髪を金髪にしたり、耳にピアスを開けたり。

 父の事は好きだった。

 父が家に帰って来ると抱き着いて甘えていた。

「そろそろ洗濯とか、別々にした方がいいんじゃないか?」

 そう告げる父に、水がもったいないでしょと、そう返事を返した。

 学校では結構告白されたり、ドキドキしたりはしたけれど、父と母のことがネックになり、この人は何処まで未来を見据えているのだろうと考えて、告白を受けることができなかった。

 あたしにだって性はある。性欲が強い方で、一人でする回数は多かった。他人を求めるほどではなかったけれど。

「将来一緒にならないなら付き合う意味なくない?」

 そう幼馴染の男子に告げると。

「いや、将来って。重すぎるだろ。お前」

 そう言葉を返されてショックを受けた。

 あたしは重い女のようだった。

 付き合うなら結婚前提がいいし、なにより父と母のようにはなりたくない。

 又、父の悲しげな表情を眺めて育ったあたしは、そんな表情を伴侶に浮かべてほしくはないし、生涯一緒にいて欲しいとも願っていた。そうじゃなければ一人でいい。

 ある日、父が女性を連れて帰り紹介された。

 職場の後輩だって、ふくよかな人だけれど、父の視線がその人を捉えると幸せそうで、良かったと心の底から安堵した。

「父をよろしくお願いします」

 そう告げると女性は泣き出して。

「もちろん。でも私は、貴女も娘として愛したい」

 そう言葉を返された。

 それから再婚するまでに良く二人で話をした。

 母は父が初めての恋人なのだと語っていた。傍へと近づくとドキドキして夜も眠れないほど好きなのだと語った。初心な人で、くっついたり、頬にキスしたりすると顔を真っ赤にするような人だった。

「もー……」

「海外ではほっぺにちゅーなんて普通でしょ。お母さんもしてよ」

 そう告げて頬を向けると。

「ここは海外ではありません」

 そう言葉を返しながらも頬へと口付けしてくれた。

 

 父と母は再婚するし、あたしは高校を卒業して大学生になる。これを気に家を出て一人暮らしすることにした。二人はすごく嫌がったけれど、そろそろ子離れしてよねと父に告げると、がくりと肩を落として泣き出した。

 あたしが出て行く時は二人して号泣して、何時でも帰っておいでと頭を撫でてくれた。これなら大丈夫だとあたしはほっとしたものだ。

「それより、早く弟か妹作ってよね」

 そう言葉を投げると二人は顔を真っ赤にして怒った。

 父が心の底からあたしの事を愛してくれているのがわかって、ピアスで耳に穴を開けるのはやめた。だけど代わりにタバコを吸うようになった。


 そうして大学二年生になったあたしは、かつての父と同じ眼差しを持ったおっさんを拾ったのだった。父が重なって放っておけなかった。

 男を家に上げるのに抵抗が無いのかと告げられればあるし、危機回避を考えるのなら関わるべきじゃないのも理解している。ただ父と同じ悲しい眼差しをしていた男を、苦しい眼差しをした男を、助けてほしいと懇願するような顔をした男を放っておけなかったのだ。

 だからこの人は大丈夫だと考えた。最悪催涙スプレーがあるし、なんなら小型スタンガンも持っている。

 おっさんはご飯を食べた後、その場で気絶するように横になり眠ってしまった。

 頭を撫でると鼻をすする音が聞こえ、閉じた瞼からは光の粒が零れていた。頬に手を当てると冷たくて、悲しいことがあったのが、あたしにも容易に理解できる。

 次の日起きると、おっさんが朝食を作ってくれていた。

 ご飯と味噌汁だった。朝起きてから、コンビニで材料を買って来たようだ。

 そしてあたしに気が付くと土下座した。

「ありがとうございました。一晩泊めて頂き」

「まぁいいよ。これ、食べていいの?」

「はい」

 あたしが席に着いて味噌汁を啜っても、おっさんは土下座をやめなかった。

「土下座はもういいから、一緒にご飯食べようよ」

「ありがとうございます」

 おっさんはそうお礼を述べ、向かいに座ったので、あたしは少し席を横へずらした。

「これから行く当てはあんの?」

 そう告げるとおっさんは財布を差し出して。

「お金はありますので、泊る所は大丈夫です」

 とお札を何枚か覗かせた。

「それなら昨日は何で公園で寝てたんよ?」

「……よくわからないんです」

 体じゃなくて心がダメになっているのが良くわかった。父もそうだった。謝る母に二度と塞がる事のない痛みを感じていた。この人も、その手の痛みに悩んでいる事を理解した。

「じゃ、しばらくこの家にいなよ」

「いやっあのっそれは……ご迷惑になりますし、その、女性がその、一人暮らしの所に、ボクがお邪魔するのはとても、よろしくないと申しましょうか」

 そうは言葉を紡ぎつつも、そのおっさんが断りたくないと考えているのを肌で感じた。一人になりたくないと考えているのを察した。このまま放っておいたらキャバクラとか行きそうだなと少し笑ってしまった。

「はぁ? いいって言ってんじゃん。その代わり、自分の事は自分でしてよね」

 そう告げるとおっさんはまた席から立って床に土下座した。

 おっさんの名前は鉄仁と言うらしい。童顔の割に年齢は高く、三十九歳だと告げた。だけれど父と二人で暮らして来たあたしには年齢なんて大して興味もなかった。


 それは奇妙な同居生活だった。

 おっさんはそれから自分の事をこなしつつ、仕事を探し、近所のスーパーでパートを始めた。月が立てば家に住まわせてもらっているからと家賃を差し出してきた。

 毎日おっさんと顔を合わせた。朝食を作ってくれて、夜は夕食を作ったり、作られたり、奢ったり奢られたり。

 朝が弱いので朝食はかなりの幸いだった。


 一年ぐらい経った頃、あたしはおっさんとの生活が普通になっていた。

 ある日寄ったスーパーで女性の店員と仲良く話をしている姿を眺め、嫌な気分になった。自分の生活の中に、他の人が土足で足跡を付けるのが嫌だ。おっさんが他の女と一緒にいるのが嫌だったのかもしれない。

 その頃、幼馴染に告白されて返事を保留していた。

 別に幼馴染の事は嫌いじゃない。だけれど……一生をかけて愛してくれるのかと考えた時、やっぱ無理だよねとため息が漏れてしまった。

 あたしは最初から最後まで一人の人が良い。


 実家では弟が生まれると小耳に挟んだ。会いに行こうか迷っている。二人の邪魔をしてしまうのではないかと躊躇っている。父が母を思い出してしまうのではないかと。あたしは母に……。

「おっさんさ、そろそろ一年経つけど」

 そう告げると、おっさんは黙って席へと着いた。

「あたしと付き合う気、ある?」

「えっ!? そろそろ出て行って欲しいとかではなく」

「違うけど」

 おっさんは追い出されるのではと戦々恐々としていたらしい。

「その付き合うと言うのは……その」

「男女の付き合いの付き合うだけど、どうなの?」

「ボクは四十になりました。ボクに、貴女はもったいなさすぎます」

「そう言うのいいからさ。どうなの? 好きなの?」

「すっその……」

「好きじゃないの?」

 そう告げるとおっさんの視線はあたしを捉えた。

「……す……好き……いや、でも……ごめんなさい‼ 好きです‼」

 そう言葉を零した。なぜ申し訳なさそうなのか。

「一生大切にしてくれる?」

「でも……ボクは、スーパーの店員ですし」

「そう言うのいいから。どうなの? 一生愛してくれんの? くれないの?」

 そう詰めるとおっさんは深く息を吐き、吸い、焦るような苦しいような表情を繰り返した。

「ボクにはお金がありません。ボクに差し出せるのは家事とこの身ぐらいです。貴女がそれを許してくれるのなら」

「そう言うのいいから。じゃあ一生愛してくれるのね?」

「愛していいですか?」

 逆に聞かれてびっくりした。

「愛してもいいですか?」

 二回も言葉を投げられてびっくりとした。

「一生愛してくれる?」

「貴女が良いと言ってくれるのなら」


 あたしはおっさんと付き合うことにした。

 デートの時、いちいち可愛かった。水族館とか、山登りとか。夕日の見える灯台に行った時はなんだか幸せだった。

 おっさんはキスするのが好きだった。手を握ると手に口付けをする。抱きしめると頭に口付けをする。とにかくキスが多くて、あたしはそれが好きだった。


 大学を出て、あたしは大手商社に勤める事となった。ホワイトかと問われればグレーだ。

 仕事を覚えるのに大変で夜、帰宅する頃にはクタクタだった。

 ただ家にはおっさんがいて、料理や家事などを一切こなしてくれていた。お風呂に入ると告げると一緒に入り、全身を洗ってリラックスさせてくれた。

 浴槽に浸かり身を預け。

「エッチはしなくていいの?」

 そうもたれ掛かると下半身がピクリと反応して面白かった。

「けっ……結婚するまでは。その責任を取りたいので」

「結婚する気あるんだ」

「今度、今度正式にプロポーズさせて下さい」

 プロポーズは決定しているのねと嬉しかった。

「今は仕事が忙して、ごめんなさい」

 湯船は温かく、おっさんの温もりに蕩けて、伸びて来た手が頭を撫でて、唇の感触が嬉しかった。それから握って処理してあげると、指でかえして気持ち良くしてくれた。


 一緒に眠ると、小さい頃失った母の温もりを得たような気持ちになった。

 一年、二年と仕事を重ねると次第に仕事にも慣れてゆく。日々のルーティーンが出来上がり、タスクとリスケとスケジュールをこなす日々。苦痛じゃなかった。

 あたしは結構期待されていて、任される仕事も増えた。

 遅くまで家に帰れない日が増えたけれど、苦じゃなかった。

 今日は遅くなると告げると、おっさんは車であたしを迎えに来てくれた。車に乗り込むとキスしてきて。

「もうっ」

 そう返すと手を握りキスをくれた。

「お疲れ様。今日も頑張ったんだね」

 そう労われ嬉しくて目を細めて自分からおっさんに口付けしていた。

「愛している」

「あたしも」

 落ち着いたら有給を取り両親へと挨拶に行く――そんな約束をしている。ただおっさんには身内がいなかった。


 飲み会は面倒だ。それでもどうしても参加して欲しいと請われれば参加を断るわけにもいかなかった。タスクの一環、取引先を交えるといっそう断りにくかった。

 酒を飲んで少し緩んだ頭。先輩や同僚、後輩と口説いて来る人はいた。

 こうして緩んだところを隙として男が入って来るのだと理解した。

 でも飲み会の時は必ずおっさんが迎えに来てくれるので、遠慮なくご馳走にはなった。

 へべれけになったあたしをおっさんが連れて帰る。

 甘えたがりになったあたしを解放してくれて、いっぱい甘えさせてくれて、気持ち良くしてくれて、最後の一線だけは越えずに愛してくれた。


 次の日、二日酔いになることもなく爽快に目覚めて、休みだったのでおっさんとデートした。

 夜になって二人で晩酌すると、おっさんが我慢できずに気持ちを吐露してきた。

「本当は嫌なんだ。君が飲み会に行くの。怖い。ボクより好きな人ができるんじゃないかって。襲われたり、そういう目に遭うんじゃないかって。不安で」

 それを聞いてあたしは笑ってしまった。おっさんの頭をモモに乗せて、いい子いい子してあげた。おっさんだって甘えたいよね。あたし達はぴったりだと感じて嬉しかった。

 あたしだっておっさんが女と飲みに行くのは嫌だよ。

 複数でも嫌だ。それが普通なのだと感じた。

「愛してる」

 傷んだおっさんの髪を撫でると、おっさんは起き上がってあたしを抱き締めた。そのままくっついて眠りについて、ぐっすりと眠ってしまい翌朝仕事の準備をするのに手間取った。


 次の月に有給を三日取り実家へと帰った。

 両親は相変わらず仲良さそうで弟が生まれていた。幸せそうだった。

 父は連れて来たおっさんを眺め顔をひきつらせたが、母がお互いが愛し合っているのならいいじゃないと擁護してくれた。

「この男の何処が好きなんだ? 何処がいい?」

 父がそう訝しむので。

「父に似ている所」

 と返すと父は黙った。

「君はスーパーでパートしているそうだね? 将来もパートを続けるのか? 就職しようとは思わないのか? どう考えているんだ? それで娘に寄り添えるのか?」

 父の質問攻めに、おっさんはタジタジだった。

「正直言って、自分の年で就職は望めないと考えています。負担をかけてしまうのは重々承知しております。自分は家事等も全てこなしますし、生活費も別々で構いません。愛しています。心の底から愛しています。生涯をかけて愛したいと思っております。お願いします。どうかどうかお願い申し上げます」

「そう言うんじゃないだろ。望めなくてじゃなくて、がむしゃらにする。活動するべきだろ」

「もういいから。父さんはそう言う事言わなくて。お金はあたしが稼いでいるんだし。今は男が金稼ぐって時代じゃないから」

「あっいや、そういうわけにはいかなくてだな」

「あなた。いいじゃない。二人が良いって言うのだから」

「しかし……しかしなぁ」

 父はあたしが嫁に行くが嫌なのだと母がこっそり教えてくれた。どんな相手でも難癖をつけただろうとも、母は良い人を見つけたのねと褒めて撫でてくれた。


 結婚式はどうするのか問われて、面倒だからしないと答えた。お金もかかるしね。そう告げると父にそれはダメだと返された。

 それからポンと五百万を渡されて、結婚式は盛大にやりなさいと告げられた。

 必要最低限の人を集めて、結婚式はひっそりと行った。

 あんまり盛大なのは好きじゃないと、関係者はほぼ全てあたしの知り合いで、旦那の知り合いは一人もいなかった。

 結婚式はこぢんまりとしていたけれど、ウェディングドレスは二日かけて何着も来て、旦那と写真をいっぱい取った。その中から一番気に入ったものを一着だけ買った。

 役所に婚姻届けを差し出して――受理されて視線を絡めると何だか気恥ずかしい気持ちだった。


 初夜、旦那と交わったけれど、これがひどかった。

 旦那はウェディングドレスを着た私を貪るように求めた。もう一生離さない。死んでも離さないと情熱的で熱烈で、求められるほどに嬉しかった。がっちり掴んで離してこなかったので、あたしもガッチリ挟んで離さなかった。

 新婚旅行は草津に行ったけれど、食事と散策以外はほぼ交わっていた。

 子供が生まれるのも早いかもしれない。

 仕事に復帰すると溜まった仕事には眩暈がしたけれど、慣れるのも早かった。旦那が家事やサポートをしてくれたので仕事の事だけ考えられた。

 昇進する話しも出たけれど子供が出来たので降りた。

 初めての出産はとにかく怖くて、旦那の手を離せなかった。生まれた子供は女の子で、感情は普通だった。旦那はすごく嬉しそうだったけれど、あたしはそこまで嬉しいとは感じていなかった。子供は可愛いけれど、旦那ほど愛してはいなかった。


 それからしばらく仕事を優先したいから、子供は作らないとお願いした。

 旦那は了承してくれたけれど、行為自体はしたいと告げた。それは構わないと旦那を受け入れた。

 たまに喧嘩する日が増えた。旦那が娘を優先するのに腹が立った。一人でお風呂に入ってと告げられて腹がたった。三人でお風呂に入る事に腹がたった。

「もっと優先して」

 そう告げると娘が寝たあと、マッサージや耳掃除をしてくれた。

 相変わらずキスをしてくれた。手にキスされるのが好きだった。

「愛してる」

「もっと愛して」

 時間はかかったけれど遅れた分を取り戻すようにあたしは出世した。係長になり、チームを作ってプロジェクトのリーダーにもなった。

 チームを盛り上げるため、労うために飲み会も行ったし、お世話になった他企業の方と飲む機会も増えた。

 口説かれることも多く頭を痛めた。関係が拗れるとプロジェクトが回らなくなるからだ。断然として断りたかったけれど、のらりくらりとかわす事を覚えてしまった。直属の上司に飲み会に誘われ渋々向かったら、上司とサシの飲みかえで眩暈がした。他の人もいると考えていたからだ。お洒落なバーで、こういう雰囲気に流されて関係を持つのだろうなと察してしまった。心が弱った時、寂しい時、優しい言葉をかけられてコロっと騙される。でも良く考えてみたら、口説いてくる人達はみな、責任を放棄してただの一夜を求めている。大人の関係とか都合の良い言葉を紡いではいるけれど、つまるところ責任を取りたくないのだ。

 関係を持って得るものは何もない。リスクヘッジもできないで何が大人だ馬鹿野郎。

 子供を孕む可能性があるぶん、リスクは女性の方が断然多い。


 仕事をフォローされると邪険にしづらいし、いざ自分がその立場になった時の心情は理解もできる。頼りになる先輩はかっこよくて断れない。それもわかるよ。後輩に相談されて可哀そうで……。

 でも仕事とプライベートは別だ。仕事の恩は仕事で返せ。

 旦那に話したら、ボイスレコーダーを渡されて、会話は常に録音するように告げられた。

「スマホでできるわよ」

 そう返すと旦那は驚いており。

「ジェネレーションギャップよね」

 そう告げると旦那は床に倒れ込んだ。リアクションもいちいち可愛いんだから。


 関係を持つ事を強要されると録音した会話を聞かせて穏便に済ませた。結婚している人もいて、実母を思い出して嫌な気持ちにもなった。伴侶を裏切って心が痛まないなんてどうかしている。離婚してから関係を持てばいいのに。

 同窓会に参加した時には幼馴染にも再会した。

「俺はずっとお前が好きだったんだ。子供の頃からずっと、だけど素直になれなくて」

 そう語られて笑ってしまった。だからなんなんだ。それを今さら語る意味があるのかと考えてしまった。それであたしも好きだったとか返して欲しいのか。

「あたしは別に好きじゃなかったわ。あの時フった通りに」

 そうやり投げに返すと幼馴染はコップを机に叩きつけて離れてた。

 自分の期待する答えが返ってこなかった事に憤りを覚えたようだ。


 それからしばらく、誰かに聞いたのかショートメールや電話等が続いたが着信拒否した。

 サシでの飲みは嫌だが、男はあたしとサシで飲みたがった。人妻だっつーの。そのようなアンモラルがそそるのだと、アホらしくて言葉もでなかった。

 お手洗いに立ち物陰で眺めていると、あたしのグラスに何かを入れるような輩もいた。

 目薬の形状をした物から液体を入れる人。

 粉薬やら、何やら一体何処で仕入れているのやら。


 旦那に連絡して迎えに来てもらい、旦那が来たから帰るわと告げて帰った。

 車の中で旦那に告げ口。

「市販の風薬とか、そういうのから自分で調合する人がいるみたいだよ。もちろん危険だよ。そんなものを人に飲ませるなんて正気の沙汰じゃない」

 と返されて驚いた。

「なぜ知っているの?」

 と聞くと旦那は苦笑いして。

「もし、君がひどい目に遭った時、全力で支えてあげたいから。頑張っても防げない事はあるからね。脅されても屈しないでね。ボクは許されるなら君を最後まで愛したい。例え君が汚れても」

 あたしは旦那をホテルに連れ込んで犯した。

 お前の女が誰のものなのか教えてやった。

 事後にあたしに対して不満はあるのか旦那に聞いた。

「女性が寂しくて浮気するって言うけれど、その気持ちがわかる時があるよ」

 と旦那は語った。


 ふざけるなよ……とキレそうにはなったが、まずは旦那の話を聞くことにした。

「ショートメールの返事が返ってこなかったり、家に帰っても仕事でボクに構わなかったりする時があるでしょう? そう言う時、すごくモヤモヤする。もっと構って欲しいけれど、君が忙しいのは知っているからさ。言ったら君の気分を害してしまうかもしれない。険悪になってしまうかもしれない。そう考えると不満を言い出せない時もある。そう言う不満が何年も溜まった時、女性は寂しいと感じるんじゃないかと思って。そんな時に親身になって何カ月も優しくしてくれる人がいたら、伴侶よりも優先してしまうかもしれない。それが女性の寂しいって気持ちなんじゃないのかな。言えば簡単なんだけど、負担になりたくないって思ってしまうと、言い出せなくてね。重いって言われたら悲しいでしょ。言わなきゃ言わないでモヤモヤして嫌なんだけど」

「ふーん。もっと構えってこと?」

「些細な事でいい。夕飯を作っても何のリアクションもなかったら、せっかく貴女のために作ったのにって思ってしまうでしょ? だから料理作ってくれてありがとうとかキスしてくれたらそれでいいんだよ。帰ってきたら真っ先にハグしてくれるとか。私は貴方を優先していて貴方を大切にしているのに、貴方は私に興味がない。それが寂しいって感じるのだと思うんじゃないかな……ボクはそう感じる。だからそうじゃないって伝えて欲しい。別に言葉じゃなくてもいいよ。抱きしめて沢山キスしてくれるだけでもいいんだ。まぁ……ボクは女性ではないから、その気持ちを完璧に理解するのは不可能だし間違っているかもしれないけれど」

 あたしも言葉を交わさない時がある。ショートメールを既読スルーする時もある。

「夫婦って長い付き合いだから、些細な事の積み重ねが大事なんだと思って」

「ごめん」

「私が悪いって言う人は多分、みんなそんな些細なモヤモヤを抱えていたんだと思うんだ。ボクは貴女を優先している。だから貴女もボクを優先するべきだと思うのに、君は今日もサシで男性と飲み会でしょ。すごく悲しいし辛かった。こうやって君はボクを優先してくれるから不満は解消されるし安心するけれど、もし迎えに呼ばれなかったり朝帰りしたりしていたら、本当に悲しくて泣いてしまっていたかもしれない」

「取引先の人達で集まって親睦会の意味もあって飲み会って話しだったんだけど、行ったらサシだったのよ。こんな事ばかりで申し訳ないと思うわ」

「わかっている。わかっているんだけど、こう言うの言うと、君に嫌われるかもしれないけれど、仕事の次はボクを優先して欲しい。誰よりもボクを優先して欲しい。プライベートでボクが一番じゃないのは悲しいからさ」

 ため息が漏れた。ため息を耳に入れ旦那の目元が潤んでいたけれど、そうじゃない。そうじゃないのよ。

「ごめんなさい。何時も寂しい思いをさせて。貴方を愛している。私が知っているのは貴方だけ。貴方だけよ。仕事で忙しい時はごめんなさい。でも一緒にいる時は、何時でも抱きしめていいのよ? 触ってもいいのよ? 胸でも股間でも、何処でも好きに触っていいのは貴方だけ」

 そう言うと旦那は手を握り指の間に指が滑り込んでくる。

「……ありがとう。心も欲しい。心も体もぼくの物じゃないと嫌だよ」

 いい年して可愛い奴。

「愛してる。あたしは、あたしはあんたを愛してる。あんたは? 言ってよ。あたしにも言って」

「……愛してる。誰よりも愛している。好き。好きだ。愛している。すごく愛している。こんなに愛しているなんて、自分でも良くわからないぐらい愛している。言葉じゃ足りないぐらい愛している。愛している。君ともっと一緒にいたい。愛しているんだ。とても。君の事を愛している。誰よりも愛している」

「あたしにはあんただけよ。あんただけ。だから一生思っていいし、あんたのためなら何でもしてあげる」

 旦那の上にのしかかり旦那を眺めていた。旦那の潤んだ瞳が可愛かった。何回も求められ――興奮よりも安らぎを得るようなそんな気持ち良さだった。

 旦那はきっとあたしに愛しているのだと聞いて欲しく、そして受け止めて欲しかったのだと考える。ここで拒否していたのなら旦那は絶望していただろう。その表情もちょっと眺めて見たくて、虐めてみたいとも考えてしまってクスクスと笑ってしまった。

 両手を差し出して、頬に触れて、顔を近づけて、目を閉じて、唇を重ね合わせる。

 ただそれだけのことですら受け入れて貰えなかったら悲しい。夫婦であればなお悲しい。


 シャワーを浴び夜中の三時に家へと帰り、向かい合ってキスをしながら眠りについた。だけれど、朝七時に娘に叩き起こされて辛かった。

 娘は五歳になっていた。近所でも可愛いと評判で可愛がられている。

 旦那は相変わらずスーパーでパートをしており、パートだから休みは合わせられると、あたしの休みと合わせてくれたので休みの日はいつも一緒だった。

 娘を連れて水族館や山登り、夕日の見える灯台を堪能した。

 旦那とあたしの間には娘がいて、不思議な気持ちにもなった。

 真ん中にいる娘が、愛の形なのだと感じると無性に愛おしくて、逆に旦那との間にいるものだから邪魔だとも感じてしまった。最低の母親かもしれない。

 少しずつでも確実に成長を見せる娘の姿に年月の通り過ぎる速さを知った。

 それから何年も過ぎあたしは課長に昇進した。

 もうあたしも三十を過ぎ旦那は五十を過ぎていた。童顔だった顔は渋くなり始め、白髪もだいぶ増えた。夜の営みを頑張るために精力剤を飲んでいるのも知っている。

 亜鉛にマカにHMBなどなど。

「そこまで無理しなくていいのよ?」

 そう告げると旦那は頬を膨らませて。

「死ぬまで君と交わりたいから嫌だ」

 旦那はそう返して、あたしは笑ってしまった。

 加齢臭……とは少し違う旦那の匂いは独特で、その臭さが妙に癖なっており好ましかった。あたしの体臭と混ざり合ってさぞ臭い。旦那はあたしの脇まで舐めるけど、あたしも旦那の脇を舐めるのは好きだった。腋に顔を埋めて喜ぶなんて笑えるけれど妙に興奮するの。

 多分、旦那はあたしより先に死ぬだろうなと漠然とそう脳裏を過り、悲しくもなった。

「二人目。作りましょうか」

「いいの?」

「いいの」

 二人目が出来るのにそう時間はかからず、お腹も張ったが多少の余裕はあった。出産する一ヶ月前から産休を取り、産んだ二週間後に仕事に復帰した。子供は旦那が面倒を見てくれる。旦那にパートをやめるようにお願いした。旦那はパートをやめて子供の面倒を見てくれた。

 長女に初潮が来ず、病院で検査した時に、生涯子供が産めない体質であることを知らされた。妊娠時の喫煙や飲酒が原因ではと医者に告げられてカチンときた。意地でもタバコはやめないと意地を張ったけれど、ベランダでタバコを吸っている時に旦那が傍に来て、吐き出そうとする息を口で塞がれた時にあっさりとやめてしまった。

 旦那は副流煙を吸い込んで咳き込んでいた。

「何してるの?」

 そう首を傾げるあたしに旦那は。

「一緒にいたいから」

 そう返されてタバコをあっさりとやめた。口が寂しい時は旦那にキスすすればいい。唇以外にするキスも増えた。

 長女には申し訳なさが残ったけれど同時に安堵もした。長女は旦那の事が好きだった。子供が親を好きなんじゃなくて、女として旦那が好きなのだと眺めていてわかった。

 物心ついた時からそうだ。

 五歳になっても。

「お父さん大好き」

 十歳を超えても。

「お父さん大好き」

 てめぇ十を越えたら一人で風呂に入れ。

 十二、十三のクソガキがあたしの旦那を好きだなんて許せない。


 長女はあたし達に似ていなかった。ストレートロングの黒髪に、清楚を極めた清楚でモデル体型も相まって本当にあたしの娘かと逆に感心してしまった。

「君も昔はあぁだったよ」

 と旦那に告げられ。

「今はちげーのかよ」

 そう返し頬を抓ると。

「今はもっと素敵になった。ぼくのニオイがするのも好き」

 何も返せず顔に血が昇るのを感じた。

「責任とれ」

 そう告げると旦那は笑って。

「君との子供がいっぱい欲しいよ」

 と答えられてムカついた。気持ち悪い夫婦だ。

 他人には絶対に見せられない。

 それからほぼ毎年子供を作った。避妊しないから子供が出来たと語った方が正しいのかもしれない。四十になるまでに五人生まれた。

 子供が生まれるたびに、もっと欲しいと感じた。


 しかし残念だけれど閉経――自然妊娠は難しいと告げられてしまった。

 それでも四十二歳で八人目の子供を授かり、年甲斐もなく毎日交わっていたからなのかもしれない。

 高齢出産と言葉が張り付き、四十二で高齢出産なのかとため息をついた。

 八人目の子供が生まれると、長女があたしに土下座してきた。

 七人目の子供と八人目の子供を私の養子にして欲しいと懇願された。

「そりゃ無理だろ」

 そうは告げても長女は引き下がらず、散々悩んだ末に、長女が二十歳になったら養子とするのを許した。子供が産めない体に産んでしまった負い目もあった。

 長女はアイドルなんてやっていて、ネットでも活躍していた。全然知らなかった。稼いでいる額もあたしより上でショックだった。

 苦労に見合っていない。世の不条理さを呪ったが、娘に。

「ママにはパパがいるからいいでしょ。それこそ不条理だよ」

 そう不貞腐れてまんざらでもなかった。


 娘が旦那に色目を使うのが気にいらなかったけれど、旦那が私一筋で嬉しかった。

 だけれど一つだけムカツクた。

 旦那の初恋があたしじゃないってこと。

 それが死ぬほど嫌だった。

 それが死ぬほど悔しかった。

 最初から最後まであたしが良かった。あたしじゃないと嫌だった。それだけがあたしを生涯ムカつかせた。次があるのなら生まれた時から側にいて欲しいと噛みついた。そりゃ無理な話しか。


 旦那は先に亡くなった。目の前が真っ暗になった。足に力が入らなくなり、立っていられなくなった。本当にこうなるのだと、心の何処かで覚悟はしていたはずなのに、その現象はそれを遥かに上回る速度であたしを壊していった。

 足がガクガクと震えていた。何もできなかった。何も手につかなかった。今までのすべてが無駄に感じた。なぜ生きていると疑問が浮かんできて、人のいないところで馬鹿みたいに泣いた。異様な苦しさでわけもわからずにただ涙が止めどなく溢れて嫌だった。

 仕事を二週間も休んだ。その間、ずっとベッドにいて外を眺めていた。でも子供達が騒がしくて、ゆっくりと喪に服すこともできなかった。

 葬式はこぢんまりとして実感がなかった。長女はあたしよりもひどく泣きわめいていた。旦那の棺桶の前で何年かぶりのタバコを吹かし、副流煙たっぷりの息で、旦那の唇にキスをして、長女にキレられた。

 旦那は死ぬ前に。

「再婚はしないで欲しい。残してごめん。だけど再婚は嫌。好きな人ができるのも嫌。絶対に嫌だ。ボクだけを愛してほしい。愛している。来世でも一番に君に会いたい。だからボクをずっと好きでいて。来世でも君と結ばれたい。他の人を好きにならないで欲しい」

 いい年して子供みたいな最後だった。

 ボクって旦那が自分をそう呼ぶのは、俺と呼ぶと傲慢になるからだと語っていた。最後までボクだった。

「貴方の愛のしもべだ」

 真顔の旦那が可愛くて仕方が無かった。君と一緒で幸せだったとか、君と結ばれて良かったなんてそんな言葉はなかった。来世も結ばれたいと語った。足りないと語った。


 なぜだか日光東照宮を思い出してしまって。

 あたしは旦那の最後の言葉を守った。

 もし神様がいるのなら、生まれ変わってももう一度この人と結ばせてほしい。

 そう願った。

 愛か金かと問われれば、あたしは愛と答える。

 旦那と二人で暮らせるなら、貧乏でもホームレスでも構わない。

 終始寂しかったが、他人で埋まる寂しさではなかった。

 気が付けば部長となって、気が付けば常務にまで上り詰めていた。

 家に帰ることは少なくて、子供達の面倒は長女に任せっきりになっていた。旦那を思い出すと苦しいとかそんな事で帰らなかったわけじゃない。単純に仕事が忙しかったのと、出世のための海外出張等も行われていたからだ。

 海外は最悪だった。まず意思をはっきり告げないとダメだ。抱き着くな触れるなキスするなだ。

 次にワタシでかい、チンコでかいと告げて迫ってくる奴がマジでいた。それで一夜を共にするって気が狂っているだろ。会社が護衛を雇っていてマジでやべぇなと感じた。

 相手が誰かもわからずに関係を持つ人間がいるのだ。下手したら親まで地獄行だぞ。拾った旦那を愛したあたしの語れた事ではないか。

 英語と中国語は話せるが、海外での生活は苦痛だった。他の人なら考えは違ったと感じるが、あたしの肌には合わなかった。

 口説いてくる男はしつこかった。とにかくしつこかった。社交辞令でちょっと仲良くなると君が好きだと告げられた。旦那がいようが関係ないと抱きしめようとする。マジで気が狂いそうだった。性的暴行を目的として襲われた事件が何件かあり、護衛がいたので事なきを得た。あたしも発砲したし、玉を潰してやった。タバコを押し付けてやった。

 断るなら第三者を交えるのが必須だ。

 もう二度と海外には行きたくない。あたしの環境が特殊だったのかもしれないし、日本人はカモだと考えられていたのかもしれない。とにもかくにも旦那以外に触れられたくはなかった。

 取引先のパーティに参加したら多人数の性的なパーティで辟易とした。

 これを眺めて興奮する奴がいるらしいがあたしは違った。夫婦が伴侶を交換してとか吐き気がした。旦那があたし以外の女を抱いたらキレるし、旦那以外に触れられたくもなかった。

 あたしも頭は性器で出来ているかもしれないが、残念ながら旦那専用だった。

 とっとと部屋に帰って寝た。


 護衛がいなかったら海外なんて二度とごめんだ。護衛がいてもごめんだ。護衛が女性で良かった。でもその女性にも口説かれて困った。ただその女性の献身的な警護のおかげで、あたしの体は未だに全部旦那の物だ。キスだって旦那としかしていない。

 とは語っても貞操を汚されるくらいならあたしは死を選ぶ。

 子供は関係ない。

「貴女が欲しい」

 と告げる女性に。

「警護には感謝している。でも二度と会わない」

 と告げて空港へ入った。

「私は諦めない‼ 貴女を手に入れてみせる‼」

 と背後で響く叫び声にうるせぇとタバコを咥えた。

 飛行機に乗る前の荷物検査でデリンジャーとスタンガンと催涙スプレーがそのまま入っていて罰金を食らった。


 日本の空港に降り立つと、湿気の強い空気が肌に良く馴染んだ。

 タバコを吹かしながら家に帰ったら長女にキレられて、タバコを取り上げられた。

 旦那だったらタバコを摘まんで取り上げられて自分で吸った後、タバコ臭いキスを何度もして、またタバコを咥えさせられるのだろうなと妄想に囚われた。そうなったらあたしは咥えているタバコを吸って口から離し、また旦那とキスをするのだろうなと妄想が浮かんだ。毒も皿も一緒に味わうのよね。

 それから職場に復帰した。とにかく忙しかった。

 そんな生活の中でも旦那を思い出すと苦しくても苦しさすら愛おしかった。ふとペンを落とした時、コーヒーのカップを持ち上げた時、あの人のふとした仕草を思い出して幸せな気持ちになった。

 服のサイズはいくつだったとか、耳をなぞった時の感触、座る時の仕草、あたしを見る時の顔、服を選んであげた時の動作、Eを越えた胸を触る時の仕草、甘えるように体を寄せて来る事、匂いを嗅ぐ時の音、涙の味、傷口を舐められた時の痛み、傍で眠るあの人の顔、足の匂い、靴のサイズ、気持ち良さそうにイク時の顔、愛していると言葉を作る口の形、海辺で波を蹴る仕草、山登りの時の顔、車で迎えに来た時のあたしを見て安堵する顔、あたしの髪を撫でる感触、浮気してないか不安になっている顔、下になったあたしを見る愛おしさに溢れた顔。下になってあたしを愛するうっとりした貴方の顔。握った時の切なそうな顔。股間に顔を埋めながらあたしが気持ちよくなっているのか伺ってくる表情。毎日無我夢中で求めてきたこと。玄関で眺める貴方の靴。履き口の穴。臭そうと思い出されるニオイ。体を洗う時、脇にキスしてくること。お互いを舐め合ったこと。湯船の跳ねる音。


 鮮明に思い出せるのが嬉しくて、思い出すたびに一時寂しさを忘れた。

 あたしが強くいられたのは旦那がいたからだと思い返した。

 家事のストレスはほとんどなく料理も不満がなかった。生理の時は一晩中お腹を撫でてくれた。リンゴをすり下ろして食べさせてくれた。

 つわりがひどい時は一晩中付き添ってくれた。子供の夜泣きも対処してくれて、あたしは悠々と眠ることができた。

 お腹が大きくなって動きにくかった時も、お風呂で体を丁寧に洗ってくれた。

 誕生日には旅行に連れて行ってくれた。色々なお店を予約してくれた。指輪とかブランド品はあたしがいらないと。いらなかった。旦那は毎年自分の誕生日プレゼントにあたしを要求した。だからあたしも毎年のプレゼントに旦那を要求して旅行へ行った。旅行先では景色も宿もそっちのけで交わり、そこで孕んだ子供もいた。

 クリスマスはケーキを作って食べさせてくれた。創作ケーキに塗られていたコンニャクゼリー入りの生クリームはトラウマ級のまずさで、クリスマスが来るたびにそれを思い出して子供達と笑った。

 正月にはお雑煮を作ってくれた。これが絶品でこれが出ると正月なのだと感じた。あたしは作れないけれど長女はレシピを知っていた。


 出張へ行くと告げると旦那は出張先の同じ宿を探して別の部屋を予約していた。浮気が不安なんだって旦那がボソボソそう語り笑ってしまった。

「離れるの、嫌なんだ?」

 普通ならドン引きするかもしれないが、あたしは嬉しかった。

 でも上司や同僚が一部屋しか予約していなかった時はマジでキレかけて、わざとなのに見え見えの嘘で辟易とした。そういう時は旦那が取ってくれた部屋で旦那と一緒に過ごした。

 寝ている私の体を愛するように労わるように意地悪するように撫でる手が好きだった。ここはボクのものだと語らぬばかりに何時も押さえて撫でてくる。頭を撫でるようにいい子いい子って。そこは頭じゃないでしょうと大人の私が撫でられる。

 旦那とくっついて寝るのが好きだった。その手の甲に手を重ねて間に指を差しいれるのが好きだった。温かい貴方の手が脈打つのを心臓の位置に持っていき感じていた。

 私に受け入れられる事が、拒否されないことが、何より嬉しくて幸せだと旦那は語った。

 酒よりも私に酔っていた。もっと酔えばいいのに。

 目を閉じれば過るのはそればかりだ。

 亡くなったのは事実なのに、今でも傍にいる気がしてタバコを咥えてしまう。

 あたし達は夫婦になる時、お互いがお互いを一生愛するのだと覚悟を決めた。でなければそれこそあたしは腹を切る覚悟だった。実母の事もある。

 覚悟を持ちより夫婦となった。


 結婚五年目に差し掛かった時、旦那が。

「ボクが浮気したらどうする?」

 と言葉を投げて来た事がある。実際浮気しているわけじゃないのはわかる。わかるがキレかけた。睨みつけて逃げられないように手を握ると、旦那はゆっくりと手に力を込めて握り返してくれた。

 旦那はこれでも思いやりのある方だ。浮気されたら悲しいと、その気持ちをあたしに知って欲しかったのだと考える。結婚も五年目となって日々のマンネリを考えていたのだろう。あたしは毎回同じ案件、仕事をしているわけではないのでマンネリではなかったし、旦那とやるのに不満もマンネリもなかった。興奮はもとより圧倒的な安心と安堵と安らぎがあった。

 あたしは。

「お前の体から別の女のニオイがしなくなるまで犯す」

 と答えた。実際かなりムカついて、二人を監禁して浮気女の目の前でコイツはあたしのものだと旦那を犯すかもしれない。

 逆に問いただすと旦那は。

「ボクは……多分耐えられなくて死ぬと思う。相手と結ばれることが君の幸せなのだとしても祝えない。無理、耐えられない。死ぬ。娘がいるのにこんな事言う父親が失格なのわかるのに……耐えられない」

 そう語り縋りついて来た。そんなに嫌なら言わなきゃいいのにと考えつつも、旦那が不安なのも理解していた。年も年だし稼ぎも良くない。他の女性は旦那のような男はありえないと見下す。あの人は旦那がアレだからとトイレで笑っているのを聞いた。

 口説いて来る男も大抵旦那の事を聞いていて、つり合いが取れていない、俺なら君をもっと満足させられるとか俺ならもっと君を大事にできるとか安い言葉を並べていた。

 お前子供の世話できんのかよ。できねーだろ。ボケがよ。

 旦那じゃできないことも俺ならできるよ。

 旦那ができねぇーのにおめぇーにできるわけねーだろ。脳みそ腐ってんのか。


 あたしを大事にしたいのに関係を迫るとかどうかしているし、人を裏切る行為を正当化するその性根がすでにどうかしていて矛盾している。娘がいるんですけど、娘の事考えてねーだろこのクソがよ。

 考えていないのだ。目先の事だけしか考えていない。好きだと言う気持ちには責任が伴う。コイツ等はそれを考えていない。軽い気持ちでいいのなら、軽い気持ちの女を相手にすればいい。人の嫁に手を出すような男達だ。他の女にも手を出すことが目に見えている。それで失うのは積み上げて来た思い出と愛だ。どう考えても天秤にかけるまでもなく頭がおかしい。


 二人で飲みにだって行きたくない。旦那が不安になることは避けたい。愛する人の辛い顔をさせたくはない。少なくともあたしは収めたくはない。猜疑心に悩む旦那を視界に収めたくはない。

 旦那の稼ぎも問題はない。金はあたしが稼げばいい。

 スーパーのパートだって悪くはない。勤めているスーパーで帰りに食材を買い、家で作る旦那の鍋は絶品だったし、何より料理の味付けをあたし好みに合わせてくれた。他の誰でもない、あたしのための料理で、あたしのための貴方だった。

 秋になったら梨を剥いてくれて、冬になったら美柑を剥いて食べさせてくれた。旦那の手から頬張る美柑は蕩けるもので冬になるたびに炬燵と美柑が待ち遠しかった。

 どうすればこの気持ちをわかって貰えるのか思い悩んで、一つの毛布に包まって向かい合いキスをしながら行為もなしに一晩中愛を囁いていた。

 旦那の頬から流れる涙が愛おしくて、合わせた瞼と流れる涙が混ざって痛かった。

 あの時の唇の味、熱い頬、体温、今でも鮮明に思い出して悦に浸ってしまう。

「お前だけだ。あたしにはお前だけ」

 そう告げるあたしに、旦那は鼻をすすり、胸に顔を埋めて。

 老いて行く自分に自信が無いのよね。

 指にはめられたエンゲージリングを添い合わせて、体温と心音の合わさりに身を任せていた。チーズのように溶けていた。

 旦那は痛いくらいに力を込めて、旦那の背中に爪を食い込ませて肩を噛んでいた。

 愛している。愛している。愛している。何度囁いても足りないぐらいに愛している。

 蕩けそうな思い出は、今でも甘く誘惑して満たしてくる。


 疲れて家路へ。コートを外して炬燵へ入り、夫の用意してくれた熱燗とおつまみでうとうと。

 目を覚ますと夫の胸の中――酒臭い息を押し付けて鎖骨辺りに唇を寄せると、微睡む夫が頭にキスをしてくれる。頭を撫でられて、背中を撫でられて、疲れたね、今日も頑張ったねって、いい子いい子って、かすれた声に息が漏れるほどに身もだえて、離れたくなくて上になるとがっちりと密着して足を絡めた。

 後ろから包まれて、背中に走る唇の感触に酔う。

 膝に乗せた頭と、モモに擦れる頬の感触、甘えるように見上げる表情と、絡み合う視線に照れるように笑って顔を反らす仕草。

「おっぱい触る?」

 そう言葉を投げて目を反らして、半開きになりそうな口をグッと噛んで、泣き顔ような切なそうな顔をして、発情したのがすぐにわかる。その表情を眺めて、あたしも堪らなく発情する。

 傍に来て、下から持ち上げて求めて、顔を埋めて、息を吸う、ニオイを嗅ぐ、心臓に近い顔に高鳴って、見上げる顔と擦りつけてくるそれ。

 撫でられて私が二回、旦那は暴発で一回。二回目はまるで獣みたいに。三回目は無我夢中で、落ちついてお互いを愛で撫でるように四回目、ここまで来ると頭は真っ白で、それでも相手を求めて、くっつくのをやめられない。

 真っ白な中に残ったお互いを求める切ない何かを二人で合わせ五回、六回、七回。

 吐き出して無くなった肉体の枷、それが無くてもお互いを求めるて最後の一滴を二人で味わい貪り堪能する。これが欲しい。貴方のこれだけは絶対に欲しい。誰にも渡さない。果ての果てに残ったたった一つの感情の一滴を二人で確かめ慈しみ合う。

 手を合わせて身を寄せ合い眠りに落ちて、泥沼のように溶け込んで、目が覚めると旦那の腕の中、その唇へと寄せると眠り姫のように旦那は目を覚ます。

 鼻をすするような音、潤いを帯びる瞳、耳元に顔を寄せて、お互いの汚れや汗の酸っぱいニオイに酔う。離れがたい。離れがたく、離れがたい。手を合わせているだけなのに心臓まで鷲掴みされているような、しているような感触に悶える。

 思い出すたびに胸の奥底がじんわりと温まり、時を忘れてぼんやりとしてしまう。

 旦那が死んでから、あたしは随分と枯れてしまったようだ。


 旦那が亡くなってからも、長女は家にいた。

 秋になるとあたしの好きな梨を剥き、冬になると無言で美柑が差し出されてテーブルへと置かれた。

 梨の剥き方が旦那と一緒で腹が立った。

 子沢山だったけれど、父と母、それに旦那、長女や弟も面倒を見てくれたので苦ではなかった。もっと産んでもよかった。もっと産めばよかった。もっともっと旦那と愛し合うべきだった。

 まぁもうみんな子供ってわけじゃないけれど、あたしにとってはどいつもこいつも何時までたっても子供だ。

 長女を通して旦那が透けて窺えて、なんでこのクソガキが旦那の面影を持っているのかと苛立ちもした。まぁ娘なのだから当然と語れば当然で、旦那をお手本に育ったのが良くわかって苦笑いも漏れてくる。

「お前は結婚しないのか」

 嫌味を込めた言葉を投げると長女は妖艶な笑みを浮かべてあたしに向き直り。

「来世でパパと結婚するからしないよ」

 ふざけんなクソガキがとは考えたけれど、だけれど子供を産めない体に産んでしまった負い目もあり、強くも問えないあたしがいた。思うだけなら自由だ。例え実の娘であったとしても。子供の世話もしてくれた。旦那と一緒で頭が上がらないあたしもいた。

「ママよりもパパを愛している自信あるよ」

 そう語る娘の薬指には指輪が光り、旦那の骨を使用したものだと自慢気に語った。わざわざスイスに骨を送り、作った特注品なのだと左手の薬指にはめていた。

「イカレテやがる」

 我が娘ながらそう感じたが、本人を渡すわけにはいかないのでそれで我慢するならそれでもいいかと考えた。やっぱりムカついた。

「つうかふざけんな。あたしの方が愛しているに決まってんだろ。ガキが」

 長女が睨み付けるようにあたしへ視線を向けてくる。見せびらかすように、あの人のイニシャルの入った薬指の銀の質素な指輪をかざした。

 エンゲージリングだよ。エンゲージ。わかっかな。ガキにはわかんないかな。

「自慢の美貌も衰えたし、早く再婚でもしたら? お父さんだってママより若い私の方がいいって言うよ」

「自慢してねぇ。は? あいつは死んでもあたしにゾッコンだッつーの。つうかテメェが早く諦めて早く他の奴と結婚しろやこのクソガキが」

 美貌を自慢にしたことはねーよこのクソガキが。色気づきやがって。素だっつーの。

「口悪ばばあ‼」

「あ゛?」

「もう二人共、そこまでにしなさい」

 父はすでに亡くなっており、母とは一緒に住むようになっていた。血の繋がらない母だけれど、母よりも母らしくて頭が上がらなかった。

 父が亡くなる時は穏やかだった。孫に囲まれて父は笑っていた。言葉を話すほどの力もなく、母と私の手を握ってゆっくりと眠るように亡くなった。遺言書にはあたしの事を心から愛していると、そして母の事を誰よりも愛していると書いてあった。

「喧嘩ばっかりして。そんな喧嘩ばかりするなら、おっお母さんが貰っちゃうから」

「無理」

 貰っちゃうからと口には出すものの、自分の発言が恥ずかしいのか母は真っ赤になっていた。何時まで経っても可愛い人で、父はこの人に愛されて幸せだったのだろうなと母には感謝の念が堪えなかった。

 私の子供達はみんな長女と母の味方で私の味方をしなかった。そりゃそうだ。面倒なんて見ていないからだ。いくら金を出していると告げてもそれだけだ。

 でも娘と母は子供たちが世話をしない貴方に懐いていてすごく嫌と語っていた。


 ……娘は四十を越えても恋人すら作らなかった。

 だけれど、画面の向こうには沢山の恋人がいて四十を過ぎたと告げているのに沢山の愛を貰っていると語っていた。

 定年退職したい所だが、後継が育たず先送り――今の若い奴はと考えたが、できる奴はできるし、できない奴はできなかった。ただそれだけだ。


 あたしが死ぬ時、沢山の人に囲まれていた。あの人だけがいなかった。幸せな死だとは考えたものの、心の中ではどうでも良かった。あの人だけに傍にいて欲しかった。

 みんな泣いてはいなかった。穏やかな笑顔だった。母より先に亡くなるとは考えていなかった。母だけが表情を崩してに泣いていた。母は貴女が娘で良かったと語り手を強く握ってきた。次も私の娘として生まれて来て欲しいと零していた。

 あたしも貴方が母親で良かった。父も幸せだったと、なんとかそう呟いた気がする。父にもあたしにも過ぎた人だった。心からありがとうと、こんないい人はいないと感じた。

 あの世に金は持っていけない。やっぱ愛だわ。

 気が付くと光のある部屋にいた。

 無数のドアがある。

 あたしはぼんやりと誰かが何処かの扉に入っていくのを眺めていた。あの人を待っていた。扉に入ったら、二度と会えないんじゃないかと何故だか感じていた。

 ずっと待った。ずっとずっと待った。ずっとずっとずっと待った。

 その内自分自身が何なのかもわからなくなり、それでもただあの人を待っていると、あの人が来るのを待っているのだとそれだけが残っていた。

 ずっとずっとずっとずっとずっと待った。通り過ぎる人達を眺めていた。

 ある時、一人が通った。引き込まれるようだった。

 心が張り裂けるように傷んだ。あの人だ。

 でも長い事待っていたあたしには呼び止める事も声をかけることもできなかった。どう声をかければいいのか、どう呼び止めればいいのか忘れてしまった。

 きょろきょろしていて、その仕草にデジャブを覚えて嬉しかった。

 手を伸ばして掴まえて、あの人はあたしを眺めて、不思議そうに首を傾げる姿に微睡みそうになる。

 手を引いて扉へと入る。

 今度は、初恋だってあたしのものだ。


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