異世界の片鱗と覚醒 第五十六話 猫ウサギは医学博士の夢を見るか
皆さん、タコ助です。
前話は、碧斗がついにこの島が「異世界」だと確信した回でした。
広く浅い知識を持つ碧斗だけでなく、菊次郎も、その他の誰も知らない生物の出現に、キクハウスは驚愕、緊張。
するどころか、その生物の命名権とモフりを巡ってまたひと騒動起こします!
しかし、食欲不振の理音や、自分の体に異変が起きていないかと気をもむ菊次郎。
そんな中、猫うさの抱えるもう一つの謎。
夕花の夢と、その可愛らしいぬいぐるみが示す「猫うさ」の存在。
この小さな「猫うさ」と、俺たちの周りで起きている奇妙な出来事。この二つがどう繋がるのか、碧斗は考え続けます。
では、続きをどうぞ。
謎が謎を呼ぶ異世界とウサギネコの話は、キクハウスとその面々を巻き込んで混迷を深めていた……
「……あ、“ねこうさ”ちゃん……」
そんなとき、寝ぼけ|眼“まなこ”の夕花が眠そうな目をこすりながら抱えてきたのは、俺達の目の前でスヤスヤと寝ている“ウサギネコ”とそっくりの“ネコウサ”というぬいぐるみだった。
「ネコウサ?」
それを聞いた俺は、つい夕花の肩を掴んでつい問い詰めてしまった。
「おい夕花! こいつの、この“ネコウサ”のこと知ってるのか! なあ! 答えてくれ!」
俺は優しく猫うさ人形を抱きしめる夕花の肩を力強く掴み、揺すって問いただした。
「……ゆ、ゆ……め、め……でみ、ぃ、ぃ…たのぉ、ぉ、ぉ、ぉぉ……」
俺に激しく肩を揺さぶられ、目をまわしながら震えた声で答える夕花。
(夢で……)
俺は夢と聞いて夕花をバイブモードから開放してやり、一旦落ち着いて考えてみることにした。
(その夢の内容を、詳しく聞く必要があるな……)
そして夕花の肩から手を離して、今度はやさしく問いかけた。
「なぁ夕花ごめん。でもとっても大事なことなんだ。その夢は、いつ見たのかな? 何日くらい前だった?」
すると夕花は、
「……あのね……最初はね……波長丸くんに乗っていたときだよ……島の前で泊まった時……」
と答えた。
島に着いたのは、もうずいぶん前のことだったはずだ。
「そんなに前から……」
それはもう一ヶ月近く前、正確には……いや、確か約三週間前だ。
俺は夕花の大きくてまん丸な目を見てもう一度、今度はゆっくりと、優しく問いかけてみた。
「なあ夕花、その時の夢のことを、できるだけ思い出して、詳しく話してくれないかな? ゆっくりでいいからさ」
すると夕花は大きな瞳を斜め上にしてしばらく考えた後、
「……うーんと……あのね……」
と、夢で見たという話をしてくれた。
それによると夕花は夢の中で、高い空からゆっくりと沈んでいくような感覚を感じながらどこまでも続く大地を見下ろしていたということだった。
地面に降り立つとそこは様々な木や、草花が生い茂った森の中に立っていて、動物などにに囲まれて一緒に楽しく遊んでいたのだという。
実っている果物や野菜は美味しく、植物は薬やスパイスになり、動物たちの亡骸は、便利な道具に変化した、ということだった……
それを聞いて俺は、
(夕花の手芸や料理の願望夢かな……)
そう思ったのだったが、その中には、この“猫うさ”だけでなく、今までに作ったぬいぐるみの“ライオンだゾウ”や“ラクパンダ、そしてニワトリであり恐竜のようでもある大きな翼を持った“コケラ”も居たそうだ。
(ということは、夕花はここに来る以前、ずっと前からここに関連する夢を見ていたかもしれないということになる……)
「他には何かないかな? なんでもいいんだ……」
そう優しく問いかけても夕花は首を横に振るだけで、そのまま黙ってしまった。
「ありがとう夕花。もし、何か思い出したことがあったら、何でもいいから言ってほしいんだ、いいかな?」
すると夕花は猫うさをぎゅっと抱きしめながら、コクリと頷いた。
(この猫うさと夕花の間に、何らかのつながりがあることはわかった。
広大な大地、そして沢山の奇妙な動食物たち……しかしそれが一体なんなのか……)
俺はあまりの情報量の少なさに、今のこの冴え渡った頭でも、答えを見つけるどころか推理を進める材料の一つさえも考えつくことが出来なかった。
「よしわかった、とりあえずここまででいいだろう。この猫うさ? は怪我をして休んでいるから、元気になるまではそっとしておいてやろう。怪我をして警戒をしていたが、人間には懐いているようだ」
そう言うと、一同は猫うさを興味津々とじっくりと見まわしてから、部屋に戻っていった。
──翌朝
俺はカウチでぐっすり寝ている猫うさを起こさないようにしながら朝食の準備をした。
するとわらわらと眠そうなゾンビ軍団が集まってきて、それぞれ顔を洗い、猫うさを見て、そしてテーブルに座った。
「おはよう! 今朝は黒パンに、野菜とアランギの肉を使ってバインミー風のサンドイッチ作ったぞ。ちょっと酸っぱ辛にしてみた」
俺は全粒粉食のレパートリーを増やそうと、ほうとうに続いてパンを作ることにした。
キクハウスにはホームベーカリーももちろん置いてあって、そのホームベーカリーは「全粒粉」モードも備えていた。
「おはよー……なに? 黒いパンなの? 甘いの?」
理音はどうやら黒パンは初めてらしい。
蒸しパンや黒糖パンと勘違いをしているようだ。
「いいや、真っ黒じゃあないけど普通のパンのように真っ白でもない、それだけだ。ビタミンとか栄養満点だぞ?」
そう理音に説明すると菊次郎もやってきて、席に着くと瀬蓮さんの作った、アメリカンなコッテリとした「エッグベネディクト」の皿が菊次郎の前に恭しく置かれた。
その瀬蓮さんはヨーグルトとフルーツだけで、いつもながらのヘルシーさだった。
全員が席に着き、俺が挨拶をする。
「じゃあ、異世界で初めての朝食だ。いただきます!」
そう言って手を合わせると、皆それぞれ思うところがあったようだが、全員が手を合わせて食事が始まった。
「……いただきまーす」
ここでいつもながらガツガツと貪り喰うように食事を進める理音のはずだったのだが、今日はなんだかいつもと様子が違っていた。
「パク、モグモグ。 美味しいね」
いや、これが普通なのだが、いつもよりは行儀よく、ゆっくりとサンドイッチを口に運んでいた。
「……理音、おまえ、また調子が悪いのか? やけに行儀がいいじゃあないか?」
俺は理音のその様子を見て、からかい気味についそう言ってしまったが、理音は何も反応せずそのままサンドイッチを平らげて、コーヒーと砂糖、スキムミルクで作ったカフェオレを飲み干して、食器を片付けにシンクに向かって行った。
「夕花、あいつ、なんかやけにおとなしいけど、またなんかあったのか?」
俺はこの間の理音の高熱騒ぎをとっさに思い出し、夕花の顔を覗き込んで訊いてみた。
すると夕花は大きな目でクリっと斜め上を見て、
「ううん? 特に何も聞いてないよ? アレでもないし……」
と答えた。
「アレ?」
今度は俺が首を傾げて聞き返したが、夕花は慌てて、
「あ、ううん、なんでもないの……」
と慌てて否定した。
「そっか、ならいいんだ……」
(それにしても何だろう、食卓のこの違和感……)
すると夕花もすぐに食事を終え、キッチンに向かっていった。
(うーん……そうだ、夕花のあの皿……綺麗すぎる。今までの夕花ならぽろぽろこぼして、まだ俺達の半分も食べられていなかったのに、もう食べ終わったなんて……)
俺はここにも変化が現れ始めたのかと、また情報を更新し、再整理しなくてはならなかった。
そして俺も食事を終えると席を立ち、瀬蓮さんに声を掛けた。
「じゃあ瀬蓮さん、少し休んだら涼しい午前中に稽古をお願いします」
そう言うと瀬蓮さんもちょうど食事を終えてナプキンで口を拭っていたところだったが、口を拭き終えると、
「ええ、やるからにはみなさんに、基礎はきっちりと覚えさせていただきますから」
と言い厳しい目をして、カウチでタマぴょんを見ながら一休みしていた夕花は、一目散に女子部屋に逃げ込み、“鬼ししょー”の視線から逃れたのだった。
そして少しの休憩の後、いよいよ瀬蓮さんによる特訓が始まった。
「はい、ではこれから棒術の練習を始めます。まずは姿勢から。まずはしっかりと顎を引いて直立、前をまっすぐ見据えるところから始めます。その後、呼吸を整えながら、ゆっくりと片膝を付いて腰を落とします……」
デッキに立った瀬蓮さんを見あげるように、その前に整列してゴクリと息を呑む俺達。
俺達は瀬蓮さんの行ったことを復唱しながら、姿勢を整えた。
理音も言われたとおりにやってはるのだが、
「えーと、しっかり立って、息を整えて、膝を付いて……」
しかしいきなり“ししょー”の厳しい言葉が飛んで来た。
「理音さん、いちいち動作を止めてはいけません。流れるように自然に腰を落とすのです。起立の状態から腰を落とすまでを、動きがなめらかになるまで繰り返していなさい」
言われるがままに動作を繰り返していた理音だが、膂力は向上しても持久力はそうではないらしく、すぐに音を上げた。
「ぐえー……立ったり座ったり、なんども繰り返すの? これってもうスクワットじゃん……」
と瀬蓮さんを恨めしそうに、しかし気づかれないようにジトッと見つめた。
すると今度は夕花にも、瀬蓮さんの鋭い指摘が降りかかる。
「夕花さん、あなたは立ったり座ったりするときによろよろと前後左右に不安定になることが多いようです。まずはしっかりと、よろけずに動くことが出来るよう、ゆっくり繰り返して下さい」
ふぇぇ、と言いたくても息があがってそう出来ない夕花は、はへっ、はへっ、と答えとも喘ぎ声ともつかない声を上げてかろうじて頷いた。
そして瀬蓮さんの厳しい指導は、日頃特別扱いしがちな菊次郎にまで等しく及んでいた。
「お坊っちゃん、あなたは体が、その……大きいせいで、やはり上体が不安定に見えます。もう少しだけ足を開いて、重心をしっかりコントロールしながらの動作を心がけて下さい」
(菊次郎がその“大きい”体型になったのは、菊次郎に今まで瀬蓮さんが与えた食事もその一因だと思うけどね……)
そんなふうに俺も瀬蓮師匠に心の中で鋭い指摘を返したのもつかの間、今度は俺にも指摘の刃が突き刺さった。
「そして碧斗クン。あなたの動きはそう、申し分ないのですが、安定している分、やや型にはまりすぎているような気がします。どんな状況でも同じことが出来るように、あなたはそう……あの辺りで位置を変えながら繰り返し練習して下さい」
瀬蓮さんはこのキクハウスのある敷地の中で、耕されても整地もされていない荒れた地面の場所を竹刀で差し示した。
反論する余地もない指摘に、俺はスゴスゴとそこまで移動して同じ動作を繰り返えざるを得なかった。
「これは……思った以上に難しいな。やはり俺の状況予測をした動作は、毎回同じような単調な動きになってしまっているのだろうか……状況予測強化じゃ頭だけで、体には及んでいないということかなっ……と」
一同はもう披露困ぱいと言った様子で汗を流していた。
「あーもう何百回立ったり座ったりしたかわかんないよー。膝がガクガクしてるー」
両膝に手を突いて荒い息をする理音。
「確かに……これは膝と……腰にきますね……」
腰に手を当ててその豊満な腹をさらに突き出す菊次郎。
「夕花の膝も、もうだめかも……」
夕花も腰に手を当ててのけぞり、その豊満なアレを突き出した。
俺も足腰にはきていたが日頃のロードワークのおかげかそれほど疲労感は感じず、この色々なデコボコや石、草がある荒れた地面で、安定して腰を落とすことが出来たと思っていた。
と、そのとき不意に肩をなにかに突かれた。
「ぐいっ」
そして俺はあっけなく転んで尻餅をついてしまったのだ。
「どさっ」
見上げると、瀬蓮さんが物干し竿を脇に抱えて俺を見下ろしていた。
「姿勢がいいだけではダメなのです。こういった不意の力を受けてもよろけず、体勢を保ったまま次の動作につなげることが出来なければ、安定して構えているだけではこのように押されたマネキンの如く、転んでしまうのがオチですよ?」
俺は服に付いた土をはらいながら、自分のちょっとした慢心を恥じて、深く礼をして反省の言葉とした。
「はい! では本日はここまで。今日の練習の成果を最後に見せて立ち上がり、一礼をして終わりとします。起立!」
瀬蓮さんのその声に皆救われたのかホッとした表情になり、瀬蓮さんの頭が僅かに動いたところで皆一斉に深くお辞儀をして、静かに体を起こして今日の練習は終わりとなった。
「うわーキツイよこれー、あと一週間、ずっとやるのー?」
理音は俺に練習の継続を否定させて見たかったのだろうが、俺はきっぱりと理音の言葉を否定してみせた。
「まだわかんないのか? ここは異世界だぞ? どんな危険があるかも知れないんだ。いいや、一週間どころかこれから毎日みっちり鍛えてもらうぞ! お前は筋力はあるかもしれないが、俺が見たところ持久力がイマイチっぽいからな。有酸素運動をしたらどうだ? 明日から俺と一緒にロードワークに出るぞ! 全員だ!」
そう言うと、理音は口を突き出して嫌そうな顔をして、菊次郎は俺から逃げるように、理音と一緒にさっさとハウスに戻って行ってしまった。
「ほら、立てるか?」
俺はへたり込んでいる夕花に手を差し出すと、夕花はきゅっと俺の手を、その小さく柔らかい手で握りしめた。
「なぁ夕花、お前はどうも体幹が弱いんじゃあないかと俺は見ているんだ。これから毎日、ちょっとずつでいいから筋トレをしないか?」
筋トレと聞いてちょっと及び腰になるが、何かを決意したように
「ふぇ……ううん、 やるよ! ジョギングも一緒に!」
と逞しい顔つきを見せた夕花だった。
その後は俺達は軽くシャワーを浴びてから昼食の用意までの間、暖炉周りを少し片付けることにした。
(ここは酷かったなぁ、ピッタリ合わさっていた石が崩れちゃってる。ここに落ちた石をはめ込むのはちょっとむずかしいな。でも怪力になった理音なら楽勝かもな)
俺は暖炉の崩れた部分を押したり叩いたりして、簡単には崩れはしそうにないことを確認すると、手で簡単に長さを測って竹でつっかえ棒を作ることにした。
(どれどれ……)
畑に転がっている竹を持って、ツールナイフからのこぎりを選んで取り出すと、ギコギコと切り出した。
(ギコギコ……)
するとその音に紛れて背後で物音がした。
(がさっ)
間違いなく背後でなにかの音が聞こえ、何かが潜んでいるような気配を感じたが、俺はそのまま竹を切り続けた。
俺は気づいていない風を装って切った竹を持ってハウスに入ると、ブラインドの隙間から外の様子を伺うことにした。
(…………)
それから二十分くらい隠れて外を見ていたが特に変わった様子もなく、そのまま昼が近づいたのでキッチンに向かい食事の準備を始めた。
(今日は……そうだな、マカロニ&チーズにしよう)
マカロニを茹でてチーズと生クリームを入れ、塩コショウしてチーズが溶けたら茹で上がったマカロニを入れてフライパンを振って軽く混ぜ合わせて完成。
器に盛って、刻んだパセリをお好みでかけてもいい。
超時短レシピ。
「おーい! 昼飯ー!」
島での共同生活も三週間を超えるとやはりマンネリになり、呼びかけもだんだんルーズになってきた。
それでも皆ゾロゾロとやってきて、最初に声を上げたのはやはり理音だった。
せっかく綺麗に盛り付けたのにマカロニとチーズをフォークでぐちゃぐちゃに引っ掻き回しながら
「今日はチーズと、なにこれ?」
と訊いてきた。
「マカロニ&チーズ、アメリカの定番の昼飯ってとこだな。理音、コッテリがいいんだろ?」
すると理音は自分でもわからないと言った表情をして、
「うーん、今はそうでもないかなー……」
と言ってやはりいつもの元気が感じられなく、食欲が進まなそうにマカロニとチーズをかき混ぜていた。
「いいから食ってみろ、お前なら気に入ると思って作ったんだぞ」
そう言ってフォークを持ってぐちゃぐちゃとかき回すしばらく理音を見ていたが、いい加減にしびれを切らして、
「ハイ、じゃあいただきます!」
と声を張り上げた。
すると皆も手を合わせた後、ぎこちなく食事が始まった。
「いただきます」
みんなのフォークが順調にマカロニとチーズを口に運ぶ中、やはり一本だけ動きが鈍いフォークが目に着いた。
「どうしたんだ理音。不味かったか?……」
俺は訝しげに、しかし心配しながら理音に声を掛けてみた。
すると理音はハッとして顔を上げて俺の方を見た。
「ううん! そんなんじゃないの! ……ただ……」
そう言ってフォークを咥えたまま俯く理音。
「ただ、どうした!?」
俺はつい問い詰めるような口調になって、慌てて言い直した。
「理音、このあいだの高熱のこともあるし、なんかおかしいと感じたらすぐに誰かに言ってくれ。でないと俺達も心配だからさ……」
「うん……わかった……でもホントにただ食欲がないだけだから……」
そう言って無理にもう二口だけマカロニを口に運んでから、理音は席を立った。
「瀬蓮さん……」
俺は立ち去っていく理音を見ながら瀬蓮さんに視線を向けた。
「うん、わかってる。血圧や体温は一日一回、ちゃんと測ってるから。今のところ、特に問題はないんだけど……」
俺だけでなく、瀬蓮さんも、そして他の二人も、キッチンに向かう理音の背中を心配そうに見つめるのだった……
そして午後の勉強の時間になり、こちらも薙刀、棒術の稽古同様、瀬蓮さんの熱血指導がビシバシ続いた。
「では次の文章のここ、話してから訳してもらいます……では、夕花さん」
さっと下を向いた夕花を瀬蓮さんが見逃すはずはなかった。
ホワイトボードに書かれた一文を、いつの間にか夕花に作らせたのだろう、なかなかに立派な竹刀がカッと指し示す。
「To boldly drive the rails into the great unknown, that is to plant the seed of civilization, on a throne of star-forged iron and planetary bone!」
「さあ、夕花さん! あなたの内に秘めたる情熱を、世界に解き放つ時ですよ!」
もじもじと俯いていた夕花だったが、その一文を目にした瞬間、ぴくりと肩が揺れた。それは彼女が愛してやまないSFドラマ『スター・エクスプローラー』の有名なオープニングナレーションの一節だったからだ。
「……ぁ…」
小さな声が漏れる。碧斗や理音が心配そうに見守る中、夕花は覚悟を決めたように顔を上げた。
「トゥボールドリィドゥライヴザレイルズイントゥザグレイトアンノウン
ザットイズトゥプラントザスィードオヴシヴィライゼーション、
オンアスローンオヴスターフォージドゥアイアンアンドプラネタリーボーン!」
か細いながらも、その発音は驚くほど流暢で、ネイティブのようだった。
というか、完全にテレビのナレーションを耳コピしたような大げさで抑揚のある、その韻を踏んだ発音に、俺達は目を丸くしながらもちょっと恥ずかしくなってしまった。
そして、彼女は続ける。
「じゃあ訳します。こほん……」
かしこまって両かかとをトンと付くと、久々のニュートンさんの登場に俺は気を散らされてしまった。
しかし、
「偉大なる未知へと果敢にレールを敷くこと! それこそが、星の鍛鉄と骸で築かれた玉座の上に、文明の種を植えることなのだ!」
最後の言葉は、自信と確信に満ちていた。
目を閉じ、手を差し出して余韻に浸るような彼女のその意外で情熱的な姿に、理音は目を丸くし、菊次郎は羨望し、碧斗は「すごいな、夕花は…」と感嘆の声を漏らす。
しかし瀬蓮さんの感じ方は俺とは違ったようだ。
手にした竹刀をプルプル震わせながら竹刀でパシパシと手を叩き、大きく息を吸ったかと思うと
「夕花さん! 誰が詩的で扇情的なオペラのセリフのような訳し方をしろと言ったのですか! ここはこうです!」
と夕花を叱り飛ばしたのであった。
英文の下にカツカツとタブレットで翻訳を書く音が、シーンと静かなリビングに響き渡る。
「カツッ!」
ひときわ高いペンの音が響くと瀬蓮さんは落ち着いた声でこう言った。
「大いなる未知へと果敢にレールを走らせること、すなわち、星の鍛鉄と我々の骨で出来た玉座から、文明の種を撒くことなのである」
瀬蓮さんはカタン、と席に座ると、パタン、とスタイラスペンを置き、講義を続けたのであった。
しかし俺は思ってしまった。
(瀬蓮さんの訳も存外に詩的で意訳だと思うけどなぁ……)
と。
そしてそんな講義も終わり、しばし暇で、しかしのんびり、まったりとした午後をそれぞれが思い思いに過ごすと、必然と夕飯の時間になった。
今晩のメニューはシチュー。
じゃがいも、ニンジン、玉ねぎを切り、冷凍の牛の肩ロースを半解凍して一緒に鍋に放り込んだ。
じゃがいもの皮、玉ねぎの皮と芯は生ゴミとしてコンポストに入れたが、ニンジンの皮と少しの肉を軽く茹でてネコウサ用に浅い皿に盛ってやり、水と一緒にネコウサのところに持っていってやった。
ネコウサは相変わらず寝ていたが、俺が隣に皿を置いてやると、鼻と耳を一緒にピクピクとさせてからカバっと起き出し、まず水を少し飲んでから、ニンジンの皮と肉を美味しそうに食べ始めた。
「肉は喰えるのか? お前」
そう言って撫でてやると「キュルンニャンニャンニャ……」と鳴きながら食べる姿は、まるで猫のそれとそっくりだった。
その横を通り過ぎようとした瀬蓮さんが、
「あら、少し元気になったのね、良かった……」
と言って俺達の横を通り過ぎようとした時、瀬蓮さんはふり返ってこれに声を掛けた。
「碧斗クン……」
俺はネコウサを撫でながら瀬蓮さんの方を向くと、瀬蓮さんは、耳の前からちょっとだけ垂れ下がった髪を両手で摘んでくるくるしながら、恥ずかしそうに言った。
「あのね……菊次郎お坊っちゃまの食事と、できれば私のも、今度から碧斗クンにお願いできないかしら……面倒くさいとかそういうんじゃなくて、その……坊っちゃまがみなさんと同じものを食べて喜んでいる姿を見てみたいし、私も碧斗クンのを食べてみたいなって……だめ?」
(うぉぉぉぉ、そんな表情でお願いされたら、どんなに気難しい至高の陶芸家の料理人でも、お願いを聞くに決まってるじゃあないですかぁぁぁ!)
俺はそう答えるよりもブンブンと首を縦に振って、絶賛に肯定してみせた。
その頃、女子部屋では重要な会議が密かに開催されていた。
「ピョン吉!」
「タマ!」
理音と夕花はなにやらノートに順番に文字を書き入れていた。
まず理音が夕花の案に文句を言う。
「えー、タマだとネコみたいじゃん」
しかし夕花も負けじと反論をする。
「でも女の子かも知れないよ?」
どうやら二人はネコウサの名前を決めようとしているらしかった。
「うーん……」
二人して深刻な表情で悩む姿は、碧斗菊次郎が見れば失笑を買ったであろう事は間違いがなかった。
すると理音がひらめいたとばかりにポン、手をつと、
「じゃあ、あいだを取って、タマぴょん!」
と言った。
すると夕花もパン、と両手を合わせて、
「あ、それいいね、ネコとウサギ、両方入ってる」
そして二人は一緒にタマぴょんに手を伸ばして、より一層激しくタマぴょんをモフりだした。
「タマぴょーん!」
するとタマぴょんは困惑した表情で、
「キュルニャー!」
と声を上げた。
二人にモフられるタマぴょんは、それが自分の名前だとまだ気づいていないようだったが、二人のモフり攻撃に甘噛みと猫うさキックで応酬するのだった。
俺はそんな事は露知らず料理を続けていて、煮込みが終わったシチューにルーを入れ、少しスキムミルクを足してクリーミーにして、もう少しだけ煮込んだところでシチューが出来上がった。
「おーい! 晩飯できたぞー!」
声と共に集まる面々。
すると理音がまず第一声に
「あー! タマぴょん起きてるー!」
と声を張り上げると、続いて他の二人も
「タマぴょん、元気になったんですね」
「タマぴょん、あとで抱っこさせてね」
と続けて“タマぴょん”に声を掛けた。
(おいタマ……そのネーミングは一体誰がしたんだ?……決まり? 決まったのか? 俺は“にゃん兎”にしようと思ってたのに……)
すると瀬蓮さんもやってきて、
「あらタマぴょんっていうの? 元気になって良かったわね」
と嬉しそうにタマぴょんに声を掛けた。
(……う、四対一……決まってしまったようだ……)
瀬蓮さんの最後の声掛けで敗北を察した俺は、その名前が呼ばれるたびに股間がムズムズするのを我慢しながら、シチューが入った皿を四人分、テーブルに運んだ。
「いいにおーい! 今日はシチューだね!」
すると菊次郎が意外そうな表情をして瀬蓮さんに厳しい視線を向けて言った。
「あれ? 瀬蓮、僕の分、碧斗君たちと同じものを作ったのか? 余計な対抗心を出すのはよせよ」
と菊次郎は首を振ったが、訳を知っている俺はいたずら心を刺激され、
「いや、瀬蓮さんは俺の料理スキルに降伏して引退するんだってさ」
とうそぶいてみせた。
「なっ!」
すると一瞬言葉を失った瀬蓮さんが口を開いて反論しようとしたが、
「えーそうなのー! 瀬蓮さんのほうがコッテリしてて、肉が多くて、あたしにはあっちのほうが断然いいんだけどなー!」
と理音の言葉に遮られ、その機会を逸してしまった。
さすがは大人、瀬蓮さんは、俺をキッと睨んだあと、(仕方ないわね)という表情で笑ってくれ、ムキになって反論することはなかった。
「ごちそうさまー」
俺が最後の一口を食べようとしたのとほぼ同時に理音が席を立った。
「おーい、おかわりいいのかー?」
俺はスプーンを口の前にしたまま、ちょっと心配して声を掛けた。
すると理音は
「うん、もうお腹いっぱい。おいしかったよ」
と言って食器を下げ、キッチンに歩いていった。
(うーん……)
俺はまたなんとも言えない不安を抱えたまま、最後の一口をスプーンで口に運んだ……
食事が済んでしばらくした後、女子部屋にタマぴょんを拉致した理音たちは、タマぴょんを抱えて部屋から出てきた。
「さーいっしょにお風呂にはいりましょーねー」
どうやらタマぴょんは今度は水中に引き込まれてしまうようだった。
「おーい、フロに入れるのはいいけど、怖がるようなら無理させんなよー」
一応そう声を掛けておいた。
(そういえばちょっと臭ったしな)
俺はタマぴょんが理音や夕花にゴシゴシ擦られて、おフロが苦手にならないよう、祈るしか無かった。
『さーシャワーでちゅよー』
まるで赤子か幼児に話しかけるようにタマぴょんに話しかける理音。
すると次の瞬間、
『きゃー! タマぴょん!』
突然バスルームから叫び声がした。
「どうした! 噛みつかれでもしたか!」
俺はタマぴょんを捕えるときに見たあの凄まじい顎と歯の力をまざまざと見せつけられていたので、まずそのことをまっさきに心配した。
『タマぴょんの角が!』
次の瞬間
「ガララッ」
と扉が開き、全裸の理音がタマぴょんをバスタオルにくるんで飛び出してきた。
「ばっかおまえ! 裸だぞ!」
俺は動転するも機転を利かし、
「タマぴょんは俺が見るからお前は服を着ろ!」
そう言って理音からタマぴょんを奪い、暖炉の反対側まで抱えていった。
「どうしたんだタマぴょん……」
俺に抱きかかえられて苦しそうに固く目を閉じ、震えるタマぴょん。
(角がどうとか……)
すると、タマぴょんの角の欠けていた部分が泡を吹いていて、ドロッとした液体が少しこぼれた。
「なんだ、これ……なにか溶け出しているのか……」
俺はタマぴょんを抱えたまま慌ててキッチンに飛び込むと、キッチンペーパーでその“何か”がこぼれ落ちた部分を押さえた。
「キュゥゥゥゥゥゥ……」
力なく呻くタマぴょん。
俺は角の欠けた部分に水が当たってしまい、そこから角の中の物が溶け出したと直感をして、すぐにその穴にキッチンペーパーを押し込んでみた。
その部分は少し熱を持っていて、何か激しい化学反応のような物が起こっているように小さく泡立っていた。
「キュッ!」
少し痛そうな様子だったが、水分が吸われて取り除かれるたびにタマぴょんは落ち着きを取り戻し、次第に固く閉じていた目を開けると、
「キュルルルル……」
と甘えた声を出して俺の手をペロペロと舐め始めた。
(角の欠けた部分に水が当たって溶け出したのか……)
今回は幸いにも浴びた量が少なかっただけで、大量に水が入れば危なかったかもしれない。
穴に押し込んだキッチンペーパーを見ると、ドロドロとした液体の他にも、何か脆いものが崩れたようなポロポロとしたかけらも含まれていた。
(とりあえず、この傷口は水分厳禁なことは間違いないな)
俺はもう少しだけタマぴょんを抱きかかえて落ち着かせた後、タマぴょんを抱えて瀬蓮さんのところに事情を話しに行った。
「そう、水に弱い……そのかけらやゲル状の物質はどこにあるの?」
俺は手に持っていたキッチンペーパーを差し出して
「これに着いているはずです……この辺り……」
すると瀬蓮さんは「ちょっと待ってて」と声を出すと、それを持って地下室に降りていった。
すると着替えた理音たちがやってきて、
「タマぴょん、死んじゃうの?」
と、夕花と一緒に泣きそうな顔をしていた。
俺は二人を安心させるために
「いや大丈夫だ。ただし、タマぴょんの怪我してる角は水にとても弱そうなことがわかった。だからタマぴょんをおフロに入れるのは当分止めておこう」
そう言うと理音はタマぴょんの頭を撫でて、夕花はタマぴょんのお腹をモフモフし始めた。
「ゴメンねタマぴょん……グスっ……」
と涙目になり、二人はしばらくの間タマぴょんを優しく撫で、モフっていたのだった。
すると瀬蓮さんがやってきて、
「ダメね、ガスクロや質量分析機では成分や元素を特定することは出来なかったわ……酸やアルコールで気化させても何のピークも検出されなかったから有機物質でないことは間違いないんだけど、それ以上は……」
(なんか凄そうな装置まであるんだな)
俺は興味を惹かれ質問してみた。
「瀬蓮さん、その装置、すごく高そうですけどそこには突っ込みません。しかしどこでそんな装置の使い方を学んだんですか?」
すると瀬蓮さんは少し目を伏せながら、
「私、薬学専攻なの。本当は医学部に入ってお医者さんになりたかったけど、経済的に余裕がなくて……」
と話し始めた。
しかし次の瞬間、ぱっと表情が明るくなり、
「卒業して大学院まで出て、せっかく薬科学博士になったのに、やっぱり直接人を助けるお仕事に就きたくて……お医者さんになれないのなら看護師になろうと思って、勉強しながらドラッグストアで働いているときに、たまたまお見えになった大三郎様、菊次郎坊ちゃんのお父様に誘われて、お仕えすることになったの」
と話す瀬蓮さんの過去に、俺は思わず息を呑んで驚いた。
「大学で何度か使ったり論文を書いたり。何かの役に立つかもって用意したの。けど、今回は役に立たなかったわね……」
瀬蓮さんは肩を落としていたが、そんな瀬蓮さんに、理音に抱えられてモフられていたタマぴょんは体を入れ替えて、(ありがとうだぴょんニャ)とでも言いたげに、瀬蓮さんの手にスリスリするのであった……
さて、タマぴょんという奇妙な生き物の存在は、碧斗たちの前に広がる世界の真実を映し出した鏡のようなものでした。
そして理音の食欲不振や夕花の皿の綺麗さ、瀬蓮さんの教育熱心な姿勢。
この何気ない変化のすべてが、彼らの能力の覚醒と関連しているようです。
碧斗は、タマぴょんの角の謎に迫ろうと、その謎を解き明かそうと試みます。
そして理音の暴走がさらなる事件を引き起こすことになるのでしょうか!?
では次回もご期待ください!
あい:瀬蓮さんの隠された過去、薬学博士としての知識が明らかになったのは驚きだったわ。
彼女の専門知識が、タマぴょんの角の謎を解き明かす鍵となるのかしら?
そして、タマぴょんを巡っての理音の暴走と、瀬蓮さんの対応、そして理音の純粋な優しさが混ざり合い、物語はまた一段と深みを増していくわね。
そしてタコ助くん、今回の話で、瀬蓮さんの「薬科学博士」という経歴が、物語に新たな深みを与えてくれたわね。こういう「スペック盛り」は、物語を一気に面白くするわ。ただ、タマぴょんの角が溶けだしたのは、いよいよ話が本格的なファンタジーになった証拠ね。
まい: お兄ちゃん! タマぴょんが溶けちゃいそうになって、まい、本当にヒヤヒヤしたんだから!
もう、理音ちゃんってば、おっちょこちょいなんだから!
でもね、瀬蓮さんがタマぴょんを優しく抱っこしてあげてたのは、なんか感動しちゃった!
私も、お兄ちゃんがまいにもっと優しくしてくれたら、もっともっと甘えちゃうかも




