約束のその先に
「ヘ、ヘレナ? 何だか増えていないか?」
さすがに異変に気付いたトーマスがヘレナに近付くと、瘴気もまたゆっくりと動き始めた。
「ひいっ!?」
「きゃっ!? ちょっと、押さないでください!」
ヘレナを盾にしようと瘴気に向かって押し出すトーマスの姿を見た周囲の貴族達が、いよいよおかしいと気付いたらしくざわめき始める。
「殿下、聖女様がいるから大丈夫なのですよね?」
「聖女様、早く瘴気を消し去ってください!」
貴族達が叫ぶと、それに合わせたかのように瘴気がふるふると震え、やがて分裂していたものが合体して巨大な瘴気に変化した。
瘴気とは、簡単に言うと悪い空気だ。
それでも小さなものなら直接触れない限りはそこまで影響はないし、神官の祈りでもほぼ無力化できる。
だが今ヘレナの目前にまで迫っている瘴気は、大人が腕を広げても抱えられないほどの大きさ。
それに付随するように力を増しているらしく、何とも言えない腐ったような焦げたような臭いを放ち、更に瘴気に触れたテーブルクロスがじわじわと黒く変色していった。
それまでただ浮かんでいただけの瘴気が、少しずつ動き始める。
通り過ぎた床が軒並み黒く変色して溶ける様子を見て、一斉に悲鳴が上がった。
誰が見ても危険だとわかるその姿に、今度こそ我先にと貴族達が広間から逃げ出す。
腰が抜けて動けず床を必死に手で掻く者や、転倒して立ち上がろうとテーブルクロスを引っ張ってグラスを割る者、騎士に暴言を吐く者も現れ始める。
「聖女なんだから、さっさとどうにかしてください! ヘレナ様!」
「そうだ、そうだ!」
恐怖と怒りの矛先がヘレナに向かうが、当のヘレナは巨大な瘴気の迫力に圧されたのか、何も言えずに座り込んだまま震えている。
とても見ていられなくなったミュリエルは、ロイの手を振り払って前に出た。
「トーマス殿下、神官を集めてください。それから騎士に招待客の誘導を。とにかく落ち着かないと二次被害が出ます!」
ミュリエルはそのままヘレナの傍らに膝をつくと、その肩に手を置いた。
「しっかりしてください。アレをすぐに祓えないのなら、神官と協力して対応すればいい」
「む、無理ですぅ。あんなに大きくて力が強い瘴気、見たことがありません。いつもちょっと祈れば消えていました。どうしたらいいかわからない……もう、逃げるしか」
震えながら首を振るヘレナの頬を、ミュリエルはぺちぺちと優しく叩く。
「いいですか、瘴気を消せるのは聖女だけです。いつも通り! ギュギュッとしてシューっと飛ばして、スパーンです!」
「ええ……何ですかそれ! 全然わかりませんっ!」
ヘレナが困惑の表情で首を振っているが、聖女同士なのに通じないとなるとミュリエルの説明が本格的におかしいのだろうか。
だがしかし、そう都合よくいい感じの例えなど浮かばない。
「嘆く暇があったら考える! 他の人と協力する! 聖女が諦めれば瘴気がはびこります。――自分ができることを頑張るのです!」
「そうだ、ミュリエルがいたじゃないか。おまえがどうにかしろ!」
トーマスがこれ幸いとばかりに叫んでいる。
さっさと神官を呼べと言ったのに、何もせずに馬鹿なのだろうか。
……いや、馬鹿なのか。
すぐに結論に至ったミュリエルは、立ち上がるとトーマスの横に控える騎士に視線を向けた。
「元聖女として要請します。この場に神官の派遣を。それから騎士達で避難誘導。安全に迅速に。いいですね?」
「――はい!」
元聖女という肩書が利いているのか、あるいはトーマスの指示を待っていられないと思ったのか、騎士は返事をすると同時に駆け出していく。
本来ならば誰よりも王子であるトーマスを守るべきなのだけれど……まあ、放っておいても勝手に自分だけは助かろうとするから、問題ない。
「ミュリエルはもう引退している。聖女の力を使えば死に近付くとわかっていて、よくもそんなことが言えたな!」
ミュリエルを庇う様にトーマスとの間に立ったロイの叫びにも、トーマスは動じない。
「搾りかすの聖女にも役目を与えてやるんだ。ありがたく働いて死ねよ。『自分ができることを頑張る』んだろう?」
ミュリエルの言葉の揚げ足を取るその台詞に、ロイの端正な顔が一気に歪んだ。
「いい加減にしろ! ミュリエルを都合のいい道具のように扱うのは許さない。そんな風に追いつめるために、あの約束をしたわけじゃない――!」
悲痛な表情でそう叫んだロイを見た途端、ミュリエルの脳内を遠い昔の記憶が駆け抜けた。
『もう少し頑張ってみるよ。……君のために』
ミュリエルの漆黒の髪と共にムスカリの花が揺れ、花の形のペンダントが陽光を弾いてきらめく。
……ああ、そうか。そうだったのか。
だからミュリエルが平民だと知っていたのだ。
ムスカリの花を供えたいと言った時にも何も言わずに用意してくれたのは、それがミュリエルの思い出の花だとわかっていたから。
トーマスの差し金で殺されかけたミュリエルを助けてくれた時、きっと既にミュリエルが幼い頃に約束をした相手だとわかっていたのだろう。
でもミュリエルはそれを忘れていたから、ロイの顔を見ても思い出さないから。
死が迫るミュリエルが約束に従って頑張りすぎないように、名乗れなかったのかもしれない。
「ミュリエル!」
「え?」
ハッと気づくのと、ロイの腕の中に収められるのはほぼ同時だった。
何かがぶつかる衝撃と共に、ロイの呻き声が耳に届く。
慌てて見れば、ロイの上着の腕の部分から黒い煙のようなものが立ち上っていた。
「ひいいい、なんだそれ! 来るな! さっさと何とかしろ、ミュリエル!」
「だから、ミュリエルを使おうとするなと……!」
無責任なトーマスの言葉に返すロイの声は弱い。
恐らく瘴気を浴びた何かが飛んできて、ミュリエルを庇ったのだろう。
傷自体はたいしたことがなくても、瘴気の毒に侵されれば最悪の場合、死に至る。
震えて動けないヘレナと腰を抜かしたまま叫ぶだけのトーマスの向こうでは、騎士達が懸命に避難誘導している。
瘴気本体も少しずつこちらに向かってきているし、どんどんその大きさを増していた。
瘴気に飲み込まれたテーブルはテーブルクロスが焦げた後に溶けていき、テーブル本体もぐにゃりと形を変えながらその形を失っていく。
床はこぼれた水が這うように少しずつ変色範囲が広がり、それに触れたグラスが小刻みに震えたかと思うとパンッと勢いよく爆ぜた。
このままでは神官が到着して弱体化させる前に、広間を瘴気が埋め尽くし、大きな被害が出るだろう。
唯一の対抗策は、聖女の力のみ。
ミュリエルは唇をかみしめると、ロイの腕をそっと撫でる。
「触らない方がいい。これは」
「瘴気の毒です。放置すれば死に至る可能性もある。そして、私はその毒を消す術を持っています」
ミュリエルはそのまま、黒い煙を上げるロイの腕にゆっくりと唇を落とす。
「ミュリエル!?」
傷に触れた瞬間、唇をピリピリとした痛みが走り抜けたが、気にせずにそのまま祈りを込める。
「ミュリエル、駄目だ!」
ロイが慌ててミュリエルの肩をつかんで引き離す時には既に黒い煙は消え、代わりとばかりに小さな光の粒がふわりと飛んだ。
「私は『自分にできることを頑張る』と約束しました。あの瘴気を消す力があるのに、このままでは事態が悪化するとわかっているのに、放置して逃げることなんてできません」
ちらりと目を向ければ、瘴気は更に速度を上げて大きさを増している。
変色した床もすぐそこに近付いているし、今逃げ出してもきっと王宮自体が呑み込まれてしまうだろう。
「その約束の相手は俺だ。俺のせいでミュリエルが危険な目に遭うなんて駄目だ! 君が犠牲になる必要なんてない!」
ああ、やはりそうか。
何だか嬉しい答え合わせに口元を綻ばせると、ミュリエルはロイの手をぎゅっと握りしめる。
「ずっと、聖女として頑張ってきました。でも今はロイ様を守りたい。自分にできることだから頑張るのではなく、大切な人を守りたいのです」
ロイの手を握ったまま、ミュリエルは祈りを込める。
「いいですか? これが、ギュギュッとしてシューっと飛ばしてスパーン、ですよ!」
体の奥底から、ほんの少しだけ残った光の粒の源をすべてかき集めて、育てる。
白くなった髪一筋に至るまですべてに魔力が行き渡り、光の糸のように美しく輝く。
そうして満ちた清らかなモノを、一気に解き放つ――!
広間が真っ白な光に包まれ、目を開けているのか閉じているのかさえも判別できない。
ロイが必死に何か言っているのはわかるが、もうその声も届かない。
ああ、精一杯生きた。
大切な人も守れた。
もう十分。
十分、幸せだ。
ミュリエルが満足して目を閉じると、そのまま意識は白い光に溶けていった。
本日、もう1話更新予定。
☆次話「人間って、意外としぶとい」
「……ずっと気になっていたが……何故、ミュリエルはカルヴァート公爵に抱っこされているんだ?」
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