第三十一話 闇の中へ
そこは漆黒の空間だった。
ただ光が届かないだけでなく。
灯した明かりさえも吸い取ってしまいそうな濃厚な闇。
気の弱い者ならばそれだけで滅入ってしまいそうな深い闇の中に、さらに不気味な音が響く。
――うううぅぅぅぅ
――るううぅぅぅぅ
それはまるで、地獄から響いてくる亡者の呻き声。
あながち間違いではないだろう。
そこは、怨霊の支配する空間。
怨嗟の声に満ちていて当然だろう。
その不気味な空間を、ソフィアは進む。
闇に臆することなく、その足取りは軽い。
「やはり結界が無いと死者の声が聞きやすいです。今こそ怨霊――ドラクレイル族の方々と話し合いましょう。」
聖女は元をたどれば神職者の中でも巫女と呼ばれる存在だった。
神や精霊といった超自然の存在の声を聞き、人との間を取り持つ仲介者。
そこに祖霊信仰が加わったことで、死者の声を聞き、その未練や無念を受け止める役割も果たすようになった。
その巫女の技術と精神を受け継ぐ聖女にとって、悪霊祓いとは力尽くでねじ伏せ打ち倒すことではない。
死者の思いに寄り添い、無念を解きほぐし、納得して逝ってもらうための交渉である。
やがて闇の中に何かが浮かび上がった。
決して光が差し込んだわけではない。
自ら光っているということもない。
闇は未だ闇のまま。
光によらず、ただその存在だけが浮かび上がった。
それは人の姿に見えた。
おそらく亡者なのだろう。
怨霊の本体なのかもしれない。
ソフィアは躊躇うことなくそちらに向かった。
近付くにつれて、響いてきた呻き声もはっきりとしてきた。
――るぅぅ
――守る。
「え?」
――家族を守る。
――街を守る。
――この国を守る。
――絶対に守ってみせる!
「違います! 怨霊ではありません。」
闇に浮かぶ姿も次第にはっきりしてきた。
一人だけではない。
気が付くと無数の人影が闇の中に浮かび上がっていた。
よく見ると、騎士や兵士の格好をした人が多い。
「あなた方は、この国を守ろうと戦ったのですね。」
かつてこの国の人々は怨霊の操る死霊と戦った。
三百年前の建国直前に。
二百年前の死者の大行進事件で。
死霊と戦い、死んだ者の屍は新たな死霊となった。
だがその魂は怨霊に取り込まれ、しかし今なお守ろうと足掻いていたのだ。
大切な家族を。
生まれ育った街を。
故郷である国を。
亡者となった後も戦おうとしていたのだ。
「大丈夫です。あなたの戦いは終わりました。」
「建国は成されました。三百年後まで続いたのですよ。」
「事件は終わって平和になりました。あなたの家族もきっと先に逝って待っていますよ。」
ソフィアはその一人一人の話を聞き、言葉をかけて行った。
彼らにあったのは強い怨恨でも後悔でもなく、残された者に対する気がかりだった。
本来なら亡者になることもない魂が、怨霊に取り込まれ、けれども思いの異なる怨霊とは同化せずに、こんなところで彷徨っていたのだ。
だから、その胸の内を語り、その思いを受け止めたソフィアから言葉を掛けられることで、簡単に未練を断ち切ることができた。
一人、また一人と、思い残すことの無くなった亡者が天へと還って逝く。
そして、ついに最後の一人が晴れ晴れとした笑顔で昇天した。
「皆さん解放されたようでよかったです。」
ソフィアは一息ついた。
聖女の手法は相手が納得した上で祓われるため、上手くいけば強力な魔法など必要とせずにあっさりと終わる。
その代りに亡者一人一人に向き合う必要がある。
数が多いと非常に手間がかかるのだ。
むしろ、魂の無い死霊の群れをまとめて浄化する方がはるかに楽だった。
そんなこんなで一仕事終えた気分になっているソフィアだったが、本番はこれからである。
◇◇◇
ソフィアを見送ったアベール達は、そのままその場にとどまっていた。
ソフィアの帰りを待つため。
そしてもう一つ、切実な事情があった。
「さすがはソフィアさんね。浄化魔法の効果がこんなに長続きするなんて。」
怨霊の下に向かうソフィアが最後に放った浄化魔法がまだ効果を保っていた。
未だ死霊で溢れる王都の中で、この場所だけは安全地帯なのだ。
魔法の効果なのか、人を見れば襲って来る死霊があまり寄ってこない。
ある程度近付けば、さすがにこちらを見つけて向かって来るが、そのまま浄化されて消滅してしまう。
しかし、どれほど強力な魔法でも、その効果が永続することはない。
いずれは効果が無くなり、死霊が殺到して来ることになるだろう。
「魔法が効いているうちにソフィアが戻ってくれば良いのだが……」
アベール達の入る場所は王宮前の広場だった。
随分と大人数になってしまった全員が収まる場所は他にない。
しかし、魔法の効果が無くなってしまえば、籠城には向かない場所だった。
周囲は開けていて見通しが良く、遮蔽物も少ない。
このままではそれなりに広い範囲を線で守らなければならない。
王都での防衛戦は、障害物を利用して戦闘を点に集約したからこそここまで粘ることができた。
適切に戦場を整えることができなければ、長くは持たない。
かといって、今から障害物を設置しようと思っても、資材が足りない。
この場でこのまま戦えば、圧倒的な数の差に押しつぶされるだけだろう。
「魔法が切れたら、全力で死霊の群れを突っ切って、一気に王都の外に出るしかないだろう。」
「ちょっと! ソフィアお義姉様を見捨てるつもり!?」
現実的な意見を出したのは、ケイリーだった。
シャーリーが食って掛かるが、意に介さない。
今のケイリーの立場はガザム帝国に雇われた軍人である。
その使命は、旧グランツランド王国の状況の調査。帰って報告する義務があった。
聖女ソフィアに対しては、元グランツランド王国国民としての聖女に対する敬愛以上の物はない。
ケイリーは現状を冷静に分析していた。
「いや、聖女様なら一人きりでも何の危険もないだろう。むしろ聖女様一人に守られている俺達の方が危ない。」
「あー」
ソフィアの魔法によってここまで労することなくやって来て、今なおソフィアの魔法によって安全が確保されている一同なのである。
ソフィアを見捨てることよりも、ソフィアに見捨てられることを危惧しなければならない立場だった。
もちろん、純粋な体力腕力戦闘能力で言えばソフィアは弱い。
浄化魔法が特効となる死霊以外の脅威に関しては相変わらずか弱い女子なのだ。
しかし、今の王都において最大の脅威は死霊だ。むしろ死霊以外の脅威は獣だろうと不審者だろうと死霊に恐れをなして入ってこれない。
ある意味、ソフィアにとって今の王都ほど安全な場所は無いのだった。
「そうだな。魔法の効力が無くなったら、一度王都の外に出て南門で死霊を食い止めよう。あそこならばまだましな戦いができるはずだ。」
「兄様!」
「我々が死霊になってソフィアの前に現れるわけにはいかないだろう。」
「それは、そうだけど……」
「だが、なるべく長くここに留まれるように手を尽くそう。多くの死霊を浄化するほど魔法は早く消えるのだろう?」
「そうですわね。ただ魔法を発動するより、実際に死霊を浄化した時の方が魔力を使いますから、そう言うことになると思います。」
「ならば、死霊が浄化される前に倒せばよい。死霊が反応するギリギリの場所で死霊を迎え撃つ!」
アベールはテキパキと近衛騎士に指示を出していく。
まず、遠くの死霊がこちらに気付くギリギリのラインを割り出し、その内側に近衛騎士を並べた。
「その線から絶対に外に出るな。無理をする必要はない。近付いてくる死霊だけでいい、浄化される前に倒して外に叩きだせ!」
そして、静かに戦いが始まった。




