私の勇者
青い空が樹々の間から見える。あの向こうに行けたなら…。
外に繋がる窓や扉は冬彌の手では決して開かない。どんなに力を入れようと。鍵など掛かっていなくても。
屋内はどの場所へも自由に行き来出来る。だが朝露に輝く新緑の空気を感じたくても、夕暮れが広がる乾いた空気を感じたくても、窓も扉も決して開かない。外に行けたとしたらあの高い塀の向こうはどうなっているのだろう。
本当に自分は生きていけないのだろうか。それ程危険な世界が広がっているのだろうか。
ーーーーーーーーーーー
日常は突然非日常になった。冬彌はいつも通り夕食を取り、入浴迄の時間を自室で過ごしていた。いつもの様に授業の予習をしていた筈が、気が付けば見たこともない洋室の広いベッドの上にいた。
ベッドサイドには幼なげな西洋の若い少女が椅子に腰掛けていた。顎の辺りに揃えられた髪は白金で、瞳は紫と黄色のオッドアイだ。その両手には厚い書物が握られている。柔らかなその雰囲気は子猫の様だ。
少し後方には高く髪を結い上げた年嵩の女性が腰掛けていた。縫い物をする手を止め顔を上げこちらを見ている。彼女も白金の髪に緑と黄色のオッドアイを持っていた。二人は親子の様に見える。
辺りを見回すと広々とした部屋は大型の窓があり、光が多く差し込んでいる。部屋の温度は高くもなく低くもなく過ごしやすかった。室内には高級そうなアンティークの家具が並んでいる。
『良かった…、目覚めて。』
少女は微笑んだ。
『ずっと目を覚さないから心配しちゃった。本当に良かった。』
鈴が鳴る様な声で話し出す。冬彌はゆっくりとベッドから身体を起こし、少女に向き直り語り掛けた。
『あの…、ここはどこですか?』
声は掠れており、思う様に発せられない。ニコニコと少女は笑顔で答える。
『ここはインダストリアルの首都レーヴェよ。と言っても端の方だけど。』
『インダストリアル?』
聞き覚えの無い国名だ。見た目も人種も違う様だがどうして言葉が通じるのか。
一か八かで問い掛ける。
『あの、僕は日本という国に住んでいるんです。ここは日本からどの位離れているんですか?』
冬彌の言葉に少女は首を傾げ分からないといった顔をする。
『日本?』
少女は呟き、後方にいる女性と目配せをする。後方にいる女性が冬彌の方を見て答える。
『そんな国名は聞いた事がないわ。それにあなたは空から降って来たのよ。それは覚えてる?』
『いいえ。』
思いがけない事実を告げられる。それは有り得ない。確かに部屋の中にいたのだ。記憶に一切無いことを告げられ背中がゾクリとした、女性は考え込む様に目線を落とし話を続ける。
『運が良かったのね、あれだけの高さから落ちて来たのに…、木々があなたを受け止めてくれたのよ。丸三日間眠り通しだったわ。』
知らない内に時間が経過していた。
『丸3日もですか…、ご迷惑をお掛けしました。僕は何か持ち物は持っていましたか、スマホとか…。家族と連絡を取りたいのですが、スマホかパソコンでメッセを送るか、電話を掛けたいのですが。無ければ電話をお借り出来ませんか?』
二人は困った様な表情を浮かべ互いに見つめ合う。目線をこちらに戻し少女は気遣う様にゆっくり語りかけてきた。
『あなたは何も荷物は持っていなかったわ。スマホやパソコン、電話とは何ですか?』
スマホも、パソコンも、まさか電話すら知らないというのだろうか。
『ここは王都の端に位置していて、広大な林が広がっています。人が住む村まで10日以上はかかる場所です。行商人の行き来すらありません。』
居た場所との余りの差に驚く。理由も分からず気付いたらここにいた。状況が分からず不安で胸が占められ気持ちが沈んでいく。項を垂れるしかない。
『僕はどうしたら良いんですか、ここがどこかも分かりません。生活様式も文明も違う様ですし、どうしたら…。』
声が段々と小さくなっていく。
少しの沈黙の後可愛らしい高い声が返ってきた。
『私もあなたから知らない国や物の名前を聞き驚いています。どうやら行く宛が無い様ですね…。あなたさえ良ければ目処がつくまでここで過ごして下さい。私はシリルと言います。もう直ぐ13歳になります。同じ年頃の方だと思うのですが違いますか?』
冬彌にはシリルは小学生位の少女に見えた。二つ違いと聞き驚く。それをこの場で言うのは憚られた。頭ひとつ分は身長差がある様に思う。
『僕は朽木冬彌と言います。15歳です。』
二人に頼るしかない。命を繋ぐ為に夢中で頑張るしかなかった。
ーーーーーーーーーーーー
『シリル様、冬彌、その辺で。あとは明日にしましょう。冬彌、薪を少し割って貰って良いかしら?それからお昼にしましょう。』
フレイアは辺りに呼び掛けた。何も遮る物が無いこの土地では距離が離れていても声が届く。薄雲が掛かる青空が広がり、背に当たる陽射しは強く熱を齎す。優しい風が頬を掠め心地良い。冬彌は直ぐに返事を返した。シリルも続き答える。
『はい、分かりました。』
『ええ、分かったわ。』
今日もフレイアと冬彌で畑を耕していた。屈み続けていたので一度身体を起こし伸びをする。シリルは側で鼻歌を歌い、畑の雑草を抜いていた。
いつもの風景だ。彼女とならば外に出られる。
この数ヶ月で分かった事は、この世界の人間は冬彌を遥かに凌ぐ身体能力や魔力、異能を持っているという事だ。
フレイアが冬彌の身体能力や魔力、異能を測る為、剣や、体術、魔法の稽古をつけてくれた。だが何一つ満足に行えなかった。この世界で自分は酷く非力な存在だ。
早々に冬彌を守る為にこの館に魔法が掛けられた。一人では一歩も外に出られない。物理的に無理なのだ。扉も窓も決して開かない。
扉や窓に手を掛けていると、いつの間にか傍にシリルが立っている。
眉を寄せ、心配そうな様子で尋ねる。
『冬彌どうしたの?』
『何となく外の空気を吸いたくて…。』
『そうなの。私も丁度そうしたかったの。一緒に行きましょう。』
シリルと一緒であれば、広い庭園を歩く事も、花園を抜け、畑を抜け、小川を抜ける事も出来る。冬彌達は外へ外へと誘われ館を取り囲む高い塀や門の前まで行き着く、決まって申し訳なさそうにシリルは告げる。
『ごめんなさい、この先はどうしても通せないの。私でも守り切れるか分からないから。魔物がいつ現れ襲い来るか分からないから…。』
『有難うございます、大丈夫です。』
まるで籠の鳥だ。その度にやり切れない思いになる。
フレイアからの稽古は減ったが、ここで暮らしていく術を教えてくれた。
シリルもフレイアも本当に不思議な人だ。
平民の様な暮らしをしているが実際は違う。
フレイアはシリルの侍女兼護衛だ。外出時は鎧を身に纏い、到底背負えないと思える程の大剣を背に掛け出て行く。
シリルはこの国の上流階級に属する貴族で、稀有な癒しと守護の力を持つ。20年程前から北の森周辺から魔物が出現する様になり、それを食い止める為に選ばれた。この地に住み国全体に強固な結界を張り巡らしているという。
二人以外誰も目にした事が無いので何とも言えないが、二人の纏う雰囲気はとても良く似ている。だが親子では無いという。この国に住む人自体、髪や瞳の色素が薄いのかもしれない。
そんな尊い人だというのに、いつも冬彌と同じ様に掃除や洗濯、調理といった家事をしていた。気さくで朗らかで接し易い。
今まで治癒や守護といった特別な行為を見たことがないので余計にそう思うのだろう。
冬彌は薪割りをし、その間にフレイアとシリルは野菜を収穫した。それから家に入ると昼食の準備をした。
いつも通り冬彌が火起こしをし野菜の皮を剥く。シリルとフレイアは野菜を切ったり煮炊きをする。今日はスープの出汁を取ったり、釣りで得た魚の身で調理していた。出来上がると3人で食卓を囲んで食事だ。
まるで家族の様に過ごしていた。フレイアがあれこれ気を配りつつスープをよそう。冬彌はフレイアの指示を受け、力仕事や危険がある事を引き受け、今は窯からパンを取り出していた。シリルはそれらを受け取りテーブルに並べていく。
本当に穏やかな風景だ。フレイアが外出した時を除けば…。
シリルはフレイアの姿がないと兄妹の様に接していた時とは打って変わり積極的な行動を取った。守護者と言われていてもまだ13歳。普段の穏やかで明るい様子とはかけ離れた衝動性や刹那性を持っていた。
冬彌は15歳といえども分別はある。この間までランドセルを背負っていた様な見目の少女に欲情し、現を抜かす事はない。適度な距離を保ちつつ説得を繰り返していた
案の定、フレイアが家を空けるとシリルは冬彌に纏わりついてきた。本当は力任せにいきたいが、無理矢理腕を振り解いたり、突き飛ばす訳にはいかない。それとなく避けていたら強行突破をしてきた。
抱きしめようと近付いてきた身体を、遠ざけようと腕を伸ばし肩や腕を押さえた。だが痛みや苦しみを訴えられれば慌てて手を離すしかない。その隙に引っ付かれた。
『ねぇ、お願い冬彌もギュッとして。』
冬彌の胸に顔を埋め、シリルは上目遣いで見上げてくる。
『シリル様いけません。こんな近い距離でこんな風に抱き合ってはいけません…。』
シリルは冬彌の身体を一層強く抱きしめる。
『どうして?私、冬彌が大好きなのよ。』
冬彌は真っ直ぐにシリルを見つめ返し囁く。
『僕もシリル様が大好きですよ。そうだ、シリル様、また一緒に折り紙したり、絵を描いたり、物語を考えましょう。人形遊びでも良いですよ。シリル様の好きなお話をまた聞かせて下さい。』
シリルに優しく微笑み掛けた。すると名残惜しそうな素振りはするものの身体を離した。
シリルが好む遊びは妹に幼稚園や低学年にやらされていた遊びばかりだ。本当は退屈だが、愛を囁かれるよりずっとマシだ。
二人でシリルの部屋に移動する。そこで飽きるまで幼い遊びを繰り返す。
夢見がちな少女の部屋は人形やぬいぐるみ、絵本で埋め尽くされていた。ベッドサイドの傍にはお気に入りの絵本がある。背表紙が擦り切れるまで読み込まれていた。シリルのお気に入りだ。
長い時間遊び倒すとそれを読み始める。
話は勇者譚だ。厄災が降りかかり世界が闇に包まれる。神より選ばれし勇者と聖女が地上に現れる。仲間と共に世界を救う旅に出て、数々の苦難を乗り越え闇を撃ち払う。最後は世界に平和が訪れ王国の姫を娶り幸せに暮らす。めでたし、めでたしだ。
何故かシリルは勇者のセリフを冬彌に言わせたがった。この絵本に登場する勇者は肌も髪も目の色も冬彌と同じなのだ。
気になり聞いてみると。
『そう同じなの。』
『冬彌に初めて会った時、勇者様かと思ったの。目覚めて瞼を開けた瞬間に見た瞳が黒色だったから…。髪が黒い人はいるにはいるんだけど、この肌と目の色の人は滅多にいないのよ。』
シリルは手元の本を静かに見つめる。
『私ずっとこうしてフレイアとだけ暮らして来たでしょう?』
顔を上げ冬彌の方に振り向き、赤面したままじっとこちらを見ている。
『嬉しかったの、ずっと夢見ていたから…。こうして同じ年頃の男の子を見たのも初めてだし、声を聞いたのも初めて。こうして触れ合うのも初めてなの。私生まれて今が一番幸せなの。今までずっと勇者様が私の前に現れるのを待っていたの。』
夢見がちな少女の告白に堪らず答える。
『僕は勇者様じゃありません。』
シリルはそっと冬彌に身を寄せる。腰に手を回し抱き着き、胸に顔を埋めた。
『冬彌の匂いがする。知ってるわ、でもあなたは私だけの勇者様よ。大好き、ずっと、ずっと。』
鳥籠の中にいる少女にとってそれは錯覚だ。選択肢がない中で起こった致し方ない事だ。雛鳥が親を認識する様に、彼女は冬彌を異性として認識せざるを得なかった。不幸な事だ。
考え事をしていた為にいつの間にかシリルが側に寄って来ているのに気付くのが遅れた。柔らかな感触が唇を掠める。ほんの一瞬の間だったが、それはシリルから冬彌へのキスだった。
流されても良いのかもしれない。そんな考えが冬彌の頭を過る。本当は理不尽に知らぬ世界に投げ出され、苦しく寂しく悲しかった。今後の事を考えれば考える程気持ちは暗くなる。ならいっそ、シリルのお気に入りとして後先考えず、生きていくのも良いんじゃないか。誰かに愛され必要とされ孤独を癒したい。
冬彌は思わず、シリルの背に手を回し強く抱きしめた。甘やかな匂いが鼻を擽る。想像よりその身は柔らかく温かい。
静けさの中バタンと扉が開く音がした。フレイアの帰宅を告げる音だ。現実に引き戻され、冬彌は青褪め狼狽える。急いでシリルを抱きすくめていた腕を離し距離を取る。
『すいません、シリル様。俺、なんて事を!』
シリルはキョトンとした顔で小首を傾げ不思議そうな顔をする。
シリルからの返答を聞く事なく無言でその場から立ち上がり、冬彌は急いで階下に駆け降りた。
魔が差した自分の理性などもう信用出来ない。愛を求めるシリルに特別な感情が無く行為に及ぶのは余りに不実だ。恩を仇で返している。本当にシリルの事を思うのならば、回避しなければならない。このままではいづれ流されてしまう。そうなる前にフレイアに洗いざらい話すべきだと思った。
そのあとは気不味いままシリルとは何事も無かったかの様に振る舞った。普段通り家事を手伝い、夕食を取り、入浴を済ませ、早々に自室に逃げ込んだ。
フレイアにシリルとの事を打ち明けるタイミングが見つからない。一人になるといけないと思うのにシリルの事ばかりが頭を過ぎる。キスで触れた唇の弾力、抱きしめた時の肌に触れる髪と香り、身体に当たる胸や背中の柔らかな感触、鈴が鳴る様な甘い声。頭を埋め尽くしていく。
最低な事に自らの手で一糸纏わぬ姿にし、何も知らぬその身体に昂り持て余した熱を吐き出した。満足するまで何度も肌を重ねる妄想に取り憑かれ、疲労し微睡み転寝をする。目覚めると罪悪感に押し潰され、自分を律しようとするが想いを振り払う事は出来ず愚かにも繰り返した。
夢と現を行き来する中、朝焼けの陽が室内に射し込む。陽の光に照らされて思い浮かべるのは母親の様に自分に接してくれるフレイアの面影だ。救いを求める様にフレイアの部屋を訪ねた。こんな自分を罰してこの悪夢を終わらせて欲しい。
扉を軽くノックすると、髪を下ろした寝間着姿のままフレイアは扉から姿を現した。安堵の息を吐く。
『冬彌、一体どうしたの?シリル様かと思って、こんな姿のままでごめんなさいね。少し待ってて。』
フレイアは突然の冬彌の訪問に驚いていた。扉が閉まり少ししてまた開かれる。
室内は先程と違い明かりが灯され、厚手で長めのガウンを羽織ったフレイアが再び顔を出した。その髪は横に流され結われていた。
冬彌は休んでいたフレイアを無理に起こしてしまったと胸が痛んだ。
『中に入って。寒いから…。』
室内は魔法が掛けられているのか、ほんのりと暖かい空気が流れ出ていた。
『失礼します、お休みのところすいません。』
立ち尽くしている冬彌を見兼ね、フレイアは椅子に腰掛ける様勧め、自分も向かい合うように腰掛けた。
『こんなに朝早くにどうしたの?何かあった?顔色が悪いわ…。』
張り詰めていた思いが溢れ頬を涙が伝う。
『もう駄目です。このままだとシリル様を襲ってしまいます!』
『どういうこと?話が見えないわ…。』
困惑しているフレイアを尻目に、告げ口する様で気が咎めた。
『シリル様に想いを寄せられています。フレイアさんの外出時や目が届かない時には男女では不適切な距離になっています。』
声が震え上手く話す事が出来ない。
『シリル様の為に黙ってたのね…。あなたは悪くないわ、寧ろシリル様を大切にしてくれているじゃない。あなたの力になりたいと思ってるわ。ただね、私の身分ではシリル様に進言は出来ても、行動を抑する事は出来ないわ。』
『でも…、このままじゃ…。』
『冬彌よく聞いて。あなたが何に苦しんでいるか教えて。それが分かれば一緒に考える事が出来るわ。』
その声も目も暖かく、冬彌を責める色は無い。
『シリル様が僕に寄せる想いは錯覚です。夢見るお年頃ですから恋に恋しているんです。それに…シリル様が求める事は、そもそも年端も行かぬ子供同志がすべき事じゃない。』
歯を噛み締め固く拳を握りしめる。
『不実になりたくありません。でも箍が外れてシリル様の唇に触れ抱きしめてしまいました。』
『それにもう昨日までとは違う。シリル様に欲情しています。』
冬彌は肩を震わせ泣きじゃくり、項垂れて両手で目を覆った。
『本当に愛する人じゃないと駄目だ。それは僕じゃない。』
優しく冬彌の頭から背を撫でる感触に顔を上げる。そこには横で跪き微笑むフレイアがいた。
『それこそ、珍しいわ。この世界では。』
『高位であればある程、家同士の繋がりで付き合う相手が決まるわ。そこに愛や恋は無い。…それにシリル様にはそれは到底叶わぬ夢だわ。』
フレイアの瞳は見る見る涙で潤んでいく。
『9つの頃からここにいるの。王命を受け生涯をこの国を守る為だけに生きよと言われたの。』
『そんな…、どうして…。』
『シリル様はインダストリアル国の第二皇女様よ。シリル様以外に守護の大役を果たせる方はいないわ。この地を離れれば戦禍は広がる。』
フレイアの瞳から涙が溢れる。
『それをしっかりあの方は分かっていらっしゃる。でももしもの場合はお止めしなければならない。どんな手を使ってでも、生きているのならばどんな形でも…。』
フレイアは目を伏せ、はらはらと涙を流し続ける。
『そんな酷い…。嘘ですよね?』
フレイアは冬彌の瞳を見据え、両手を握りしめる。
『あの方にとってあなたは生涯唯一よ。きっと錯覚でも何でもないわ。』
『あなたにはシリル様と共に長く元気で生きて欲しい。それが私の唯一の願い。』
冬彌の目から涙は引き、フレイアの話を固唾を呑んで聞いていた。
『シリル様はあなたが思う程子供ではないわ。きっとあなたの迷いも苦しみも感じている。包み隠さず全て話してみて。全てを受け止め、あなたの気持ちが育つのを待っていてくれる筈よ。』
フレイアは優しく抱きとめ背を撫で続ける。
『きっとあなたがシリル様から離れると言っても、あなたの為に最大限の手を尽くし送り出してくれる筈だわ。』
身体を離すとフレイアは泣き笑いの様な顔で微笑んだ。
ーーーーーーーーーーーー
『見て見て、スミレが沢山咲いてるわ。』
シリルは冬彌の手を取り前を進む。
スミレが群生し微風に吹かれそよいでいる。
あれからフレイアの言う通り、シリルに冬彌の想いを全て伝えると、冬彌を軽蔑する事も責める事もなく静かに話を聞いてくれた。
寧ろ困らせた事を謝り、節度を弁え接してくれる様になった。
毎日愛を囁く事は変わらないが。スキンシップは散歩や一緒に遊ぶ時に手を繋ぐ程度になった。
漸く冬彌も分かってきた。不安も悲しみも寂しさも話すべきだった。シリルはそれを分かち合い、一緒に涙し、手を取り励ましてくれる。
案外冗談を言うのが好きで、フレイアと軽妙な掛け合いを見せてくれる。冬彌はテンポの良さに上手くついていけてないが。
喜びも悲しみも一緒に…。きっとずっと…。
冬彌は立ち止まり、シリルに告白する。
『シリル、俺、シリルのことが好きだ。ずっと待たせてごめん。』
シリルは驚き目を瞠り涙で潤ませていく。うんうんと無言で頷いていた。
『これ、下手だけど小石で作ったんだ…。受け取ってくれるかな?』
冬彌の手には白や茶の縞模様が入った艶やかな藍色の小石のペンダントがあった。
『付けて良いかな?』
冬彌はペンダントを手にシリルの後ろに回り込み、首元に付ける。
シリルは振り向き頬を染め冬彌を見つめた。
『うん、似合う。すっごく可愛い。』
冬彌がはにかみ微笑む。
『有難う…。本当に嬉しい…。愛してるわ、冬彌。』
シリルはペンダントの石を手に取り、表面を指先で優しく撫でる。
『うん。俺も。』
冬彌はそっと屈みシリルに口づけを落とし、優しく微笑んだ。
二人が微笑み見つめ合う刹那、
スローモーションの様に冬彌はシリルの目の前でゆっくりと瞼を閉じ、そのまま崩れ落ちた。
『冬彌?冬彌!?』
シリルが何度呼び掛けても、何度身体を揺すっても冬彌はピクリとも動かない。
シリルは両手で冬彌の身体にあちこち触れる。生命反応は無い。こんなに暖かいのに。身体の隅々を探るが脳や臓器、血管に異常は無い。まるでゼンマイが切れた人形の様に突然活動を停止してしまった。
両手翳し魔力を注ぎ込むが擦り抜けていくだけだ。
『冬彌、冬彌、お願い戻って来て、お願い。』
シリルは悔しさで悲鳴を上げた。不治の病に侵された人でさえ、心臓が止まり肉片になった人でさえ、蘇らせたのにどうして…!
何度繰り返しても冬彌は目覚めてはくれなかった。
ーーーーーーーーーー
『同日に勇者様もご逝去されていた様です。冬彌様はやはり落ち人様だったのではと…。』
フレイアは憔悴し切った様子のシリルを見て痛ましい気持ちになる。
『……………有難う。』
二人には定期で王都や周辺の国々の様子が報告されていた。その中にはインダストリアルに降り掛かる魔物の進行や戦況も含まれており、勇者及び聖女の逝去の件も含まれていた。
本来落ち人は勇者と共に召喚され、宿りし全ての力を勇者に与え亡ぶ存在だ。追う様に召喚される聖女も対であり、聖女の生死は勇者と共にある。二人の聖女の能力差は歴然の為、前線と戦禍の村や町に別れ救済に当たる。
召喚の際、勇者や聖女は祭事時に開放される神殿広場に降り立つ。それに反し落ち人は人気の無い寂しい場所で命を落としていたのが幾人かに確認されていた。
前回の召喚から半年という異例の早さで勇者聖女等は命を落とした。恐らく本来亡ぶ存在の落ち人が生きており勇者に備わるはずの力が欠けていたのだろう。フレイア達が冬彌の命を長らえさせたことが多くの若い犠牲を生んだことが分かり慄いていた。冬彌の事は決して知られてはならない。
フレイアは未だ冬彌の身がここにあることが恐ろしかった。
『シリル様、冬彌を神の元に還しましょう。』
『嫌、嫌。絶対に嫌!』
シリルはこれまでに無い程声を荒げる。その様子にフレアイはたじろぎ言葉を無くす。
冬彌は亡くなった後もシリルの部屋のベッドに寝かされている。その顔色は血の気は無いが、腐敗する事もなくまるで眠っている様だ。
『だってここは冬彌の住んでいた世界じゃないわ。どこに還るというの?黄泉の国に行っても冬彌は誰からも身を守る事は出来ないわ。…逝く時は私と一緒よ。大丈夫、冬彌はここにいるもの。動く事は叶わないけれどここにいるもの。』
『シリル様…。』
冬彌の頬を撫で、髪を手で梳いてゆく。
『私の代わりに守護者となれる者が現れたらこの世に冬彌を取り戻すわ、必ず。』
シリルは冬彌の手を取り、そっと口付けた。