おしまい
由緒は両手で、大人の腕ほどもある枯れ木を構えており、肩で大きく息をついている。
圭介は、意識のない江渡の身体を足で押し退けてから、屈みこんで志緒里を助け起こした。
「大丈夫か?」
圭介は言った。
志緒里はうなずいた。いつの間にか笑い声は止まっていた。何がなんだかわからず呆然としていると、由緒もやって来て、志緒里は二人に両脇から支えられながら、岩の下から外へ出た。
外はすっかり明るくなっていた。
目の前に、うつむく女の子がいた。スカートの前をぎゅっと握り、肩を震わせる彼女を、志緒里はよく知っていた。三年生くらいに見えるのは、おそらく彼女の時間が、あの日で止まってしまったから――
「ごめんなさい」
百合は言った。何やら、電波の悪いラジオのように、ノイズ掛かった声だった。
「こんなことになるなんて、思わなかったの」
確かに、彼女を探しに来て巻き込まれたようなものではあるが、考えてみれば志緒里の空約束が発端でもある。
「百合ちゃんが教えてくれたんだ。志緒里ちゃんが、ここにいるって」
由緒が弁護するように言う。
「そして、ここで何があったかも」
圭介が付け加える。
「だったら、もういいよ」
志緒里は言う。
「それに、あの時私を笑わせて助けてくれたのも、百合ちゃんなんでしょ?」
百合は顔を上げ、小さくうなずく。
「他に、何もできなくて」
「ゲラゲラのゲラ子さんらしい、すごい妖力だと思うけど」
志緒里が言うと、百合はきょとんとした。
「私、妖怪なの?」
「幽霊の方がよかった?」
「頼むから幽霊にしてくれ。妖怪は専門外なんだ」
圭介が渋い顔で口を挟む。
とは言え、人の顔を見てゲラゲラ笑うなどと言う意味の分からない行動が、妖怪じみていたのは事実だ。それに比べれば、今はちゃんとした幽霊である。よく見れば、その姿は多少透けてさえいる。
おそらく、遺体を見つけてもらいたいと言う妄執のようなものが、人間らしい心を百合の魂から奪い去っていたのだろう。しかし、志緒里が頭蓋骨を見付けたことで、彼女はついに解放されたのだ。
「さて、そろそろ行こう」
圭介が言った。
「そうね。早く帰って、警察に通報しなきゃ」
志緒里はうなずき、言った。たぶん、お寺にも連絡が必要だ。きっと、百合が成仏する手助けになるはずである。
志緒里は来た道を戻ろうとするが、圭介と由緒は、幽霊の百合を間にはさんで立ち止まったまま、動こうとしなかった。振り返って、訝し気に二人を見る。
「それは、藤田に任せるよ」
と、圭介。
「俺たちは、仲里を連れて行かなきゃならない」
「連れて行く?」
「うん。百合ちゃんみたいに、迷った子供を連れて行くのが、ぼくたちの仕事なんだ」
由緒が答える。
「どこへ?」
志緒里に問われた由緒は首を傾げ、しばらく経ってから「あれ?」と言う。
「とにかく、今回は藤田が手伝ってくれて助かった。ありがとう」
圭介は礼を言って、にこりと微笑んだ。そうして百合に目を向け、彼女に右手を差し出した。まったく同時に、由緒も右手を差し出す。
百合は二人を交互に見て、少し迷ってから由緒の手を取った。圭介は少し苦笑いを浮かべてから、差し出した手を顔の横に持ち上げ、左右に振った。由緒と百合は、圭介に見送られながら、手に手を取って歩き出した。その行く先には朝日が輝いていて、それはみるみる光を強め、二人の姿を消し去った。
いつの間にか圭介もいなくなっており、志緒里は山の中に一人、取り残されていた。いや、意識を失っているとは言え、百合を暴行し、殺した変質者がすぐ近くにいる。志緒里は、わんわんとセミが鳴く山道を駆け出し、麓へとむかった。
それからが大変だった。
警察には、山の中で昆虫採集をしていたところ、意識のない江渡を発見したと告げた。近くに白骨死体があったから、怖くなって起こさずに逃げて来た――と言う筋書きである。
すぐに警察が現場へ向かい、江渡の身柄は確保された。志緒里の証言通り、彼が倒れていた場所からは白骨死体も発見され、ほどなくそれが、失踪した仲里百合のものであることが判明する。
志緒里は警察から事情聴取を受け、江渡が以前から、身体にべたべた触って来るイヤな先生だったと話す。もちろん、嘘ではない。彼の素性を知る前は、大して気に留めていなかったことだが、思い返せばやけに接触が多かったと気付いたのだ。
すぐに江渡の自宅が調べられ、失踪当時、百合が身に着けていた服や下着が見つかり、江渡は誘拐と死体遺棄の容疑で逮捕された。
町には再び警察とマスコミがあふれ、全校集会が開かれた。そこで、うかつにマスコミの取材には応じないよう釘をさされ、次いで一週間早く夏休みにすることを告げられる。子供たちは気楽にそれを歓迎したが、その後の大人たちの苦労は、推してはかられた。
まったく奇妙なことに、志緒里の周囲の人たちは、大人も子供も関わりなく、圭介と由緒の存在を覚えていなかった。まるで、彼らは最初から存在していなかったようで、志緒里さえもあの日の出来事が、幻だったのではないかと思えるほどである。
しかし、二人は確かに存在したのだ。そして、今日もどこかで、不憫な死に方をして、迷っている子供の魂を、いずこかへ導こうと奮闘しているに違いない。