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かくれんぼ

 市民センターの廊下は、ひどく薄暗かった。

 もちろん、天井の蛍光灯はちゃんと光っているし、実際にはじゅうぶんに明るい。それでも一滴の墨汁が散らされた水のように、うっすら煙がかかって見えるのはなぜだろう。ひょっとして、超常現象の前触れだろうか?

 いやいや、そんなはずはない――と、志緒理は自分の突飛な考えを否定する。おそらく、窓がほとんどない閉塞感が、そんな錯覚を引き起こしているのだ。

 廊下の左手は会議室の扉が並び、右手はのっぺりとしたクリーム色の壁が続いている。壁の向こう側は図書館だから、窓などあろうはずもない。無人のトンネルや洞窟を歩いているような気分だ。

 いくつか扉の前を通り過ぎ、よく見知った赤いマークの看板の前で、志緒里(しおり)は足を止める。その開口をくぐり、目かくしの袖壁を避けて奥へ向かうと、個室が四つ並んでいた。いずれも扉が開いていたから、志緒里は一番手前の個室に入り、扉を閉じてかんぬき錠を掛ける。そうしてスカートをたくし上げ、下着をおろしたところで、ふとゲラ子さんのことを思い出す。

 便座に腰をおろして用を足しながら、志緒里は目の前の扉を睨み付けた。もちろん、鍵は掛けてある。しかし、トイレの扉を開けられた前例があるのだから、あまり安心はできない。そもそも実態のない幽霊に、施錠の効果など期待できようはずもなかった。まあ、由緒(ゆい)のように、トイレの扉に鍵をかけない主義であれば、話は別と言うことにもなるが――

 志緒里は、トイレットペーパーに伸ばしかけていた手を引っ込めた。扉の前を通り過ぎる、ぺたぺたと言う足音を耳にしたからだ。

 一体、誰だろう。会議室は、いずれも空いていたから、足音の主は図書館の利用者に違いない。一階にある支所の窓口に用のある人たちが、こちらまで上がって来る事も考え難かった。トイレは一階にもあるのだ。

 由緒だろうか?

 いや、と志緒里は首を振る。あの騒がしい女の子なら、相手が個室にいようと構わず、声の一つも掛けて来そうなものである。

 志緒理は後始末もせずに、膝まで下げた下着を引っ張り上げる。

 とにかく、急いで外へ出よう。そうやって確かめれば、足音の主が幽霊などではなく、当たり前の人間だとわかるはずだ。

「いた」

 個室を出るなり、そんな声が聞こえた。

 ほうら、やっぱりそうだ。ゲラ子さんは、「いない」と言って笑い出す幽霊なのだから、これがゲラ子さんであるはずがない。

 ところが、声が聞こえた方に目を向けても、そこには幽霊はおろか、誰もいなかった。志緒理が入ってきた時と変わらず、個室の扉は全て開いている。ひょっとすると、志緒理を驚かそうとしたいたずら者が、個室の奥に隠れて声を殺しながら笑っているのかも知れない。

 念のため、全ての個室を覗いて回るが、やはりいずれも無人だった。すると、あの足音と声は、空耳だったのだろうか。

 もやもやした気分を味わいながら、志緒里は洗面台に向かい、自動水栓で手を洗う。何とは無なしに鏡を覗き込むが、怪しいところはない。いっそ、幽霊でも映ってくれたほうが、今の状況に納得が行ってスッキリしそうなものである。

 出口の脇に取り付けられたハンドドライヤーに、洗い終えた手を突っ込もうと横を向いた時、視界に女の子の姿が飛び込んできた。

 驚いた志緒理は二、三歩後ずさり、足をもつれさせて尻餅をつく。そして、トイレの出口に立つ女の子は、志緒里の間抜けな姿をあざけるように、ゲラゲラと笑いだした。

 頭の中を引っかき回すような、ひどく不快な笑い声だった。しかし、それは数年の間があれど、志緒里には確かに聞き覚えのある声だった。

藤田(ふじた)!」

 ゲラ子さんは、あの耳障りな笑い声と一緒に、いつの間にか消えていた。今は代わりに圭介(けいすけ)が、トイレの出口に立っている。圭介の登場は本当に唐突だったから、あの恐ろしい笑い声のせいで、一瞬なりとも気を失っていたのかもしれない。

「大丈夫か?」

 圭介は右手を差し出しながら言って、ぎょっと目を見開いてから続けた。

「パンツ見えてるぞ」

 志緒里は慌ててスカートの裾を整えた。

 遅れて走り込んできた由緒が、圭介の後頭部をぱちんと引っ叩く。

「もっと別の心配をしろ!」

「仕方ないだろ。丸見えだったんだから」

 叩かれた後頭部をさすりながら、圭介はおかしな弁解をする。

「まあ、確かに丸見えは大問題か」

 由緒は納得した様子でつぶやきながら、片膝をついて志緒里の横に屈みこみ、腰の横に左手を回してきた。

「立てる?」

 と、由緒。

 志緒里はうなずき、由緒の助けを借りながら立ち上がった。少しばかり膝が笑っている。

「とりあえず、図書館に戻ろう」

 圭介は言って、気まずそうに背を向けた。

「よく考えたら、女子トイレだった」

 その背中に向かって、由緒が「やーい、やーい。圭介のヘンタイ、パンツ星人」とはやし立てる。圭介は振り返って由緒のおでこにチョップをくれた後、逃げるようにしてその場を走り去った。


 三人は図書館へ戻り、再び元の席へ陣取った。

「やっぱり、ゲラ子さんが出たのか」

 圭介は言って、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。

「二人とも、笑い声を聞いたの?」

 志緒里がたずねると、圭介と由緒はそろって頷いた。しかし、図書館にいる他の利用者に、変わった様子はない。新聞を読むおじいさんと、勉強中の女子高生が三人。圭介と由緒に聞こえて、彼らに聞こえなかった道理はない。その疑問を告げると、

「きっと、子供にしか聞こえないんだよ」

 由緒が、こともなげに答える。

「それにしても、『いない』じゃなくて『いた』って言ったのは気になるな。ゲラ子さんが捜してたのは、藤田だったってことか?」

 志緒里は腹を決めてうなずいた。

箭神(やがみ)くんが言った通り、ゲラ子さんは百合だったの。たぶん、私が約束を守らなかったから、恨んで探しにきたんだわ」

「約束?」

 圭介は聞く。

 志緒理はうなずき、百合がいなくなった日の経緯を、包み隠さず話した。不義理なことをしたものだと、二人から責められること覚悟していた志緒理だが、

「それくらいで恨んだりする?」

 由緒は怪訝な顔で圭介に目を向ける。

「がっかりはしただろうが、恨むほどじゃないだろう」

 圭介は答え、志緒理に目を向ける。

仲里(なかざと)とは、よく一緒に遊んでたのか?」

 志緒理は首を振る。

「なおさら変な話だな。普段から仲良くしていて、急に約束をすっぽかされたら、裏切られたって思うこともあるだろうけど……」

「とにかく、裏山に行ってみようよ」と、由緒。「他に手掛かりもないし」

「まさか、そこに仲里の死体があったりしないだろうな?」

 圭介。

 その言葉に、志緒理はぎょっとする。しかし、ゲラ子さんと言う幽霊として現れたのなら、百合はすでに死んでいるのだ。その可能性は、否定できない。

「かくれんぼみたいだね」

 由緒が言う。

「どう言うこと?」

 志緒理は聞き返す。

「ゲラ子さんに『いた』って言われたんなら、今は志緒理ちゃんが鬼ってことさ。だったら、次は志緒理ちゃんが、ゲラ子さんを見つけてあげないと。ね?」

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