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暗渠を泳ぐ竜  作者: 芹沢ハト
9/9

【 蛇足 】


……大丈夫……問題ない……


耳元でささやくダレかの声。それは優しく残響の尾を引きつつふわりと拡がり、安堵感を胸いっぱいに染み渡らせてくれた。


そして、暖かいものが頬に触れる。


薄目を開けてそっとのぞけば、カーテンの隙間から陽光が漏れていた。


伊藤多恵はベッドから半身を起こし、サイドテーブル上に置いていた毛糸のカーディガンを羽織った。病室内には緩い空調が効いてはいたが、やや肌寒い。温もりを保持した毛布に下半身を包んだまま、多恵は窓際へと目線を戻した。


日の光。手を伸ばせば届く距離にあるそれが、奇妙に感慨深いのは何故なのだろう。


ここでの入院生活もそろそろ十日となるが、その前の半年間の記憶がなんともあやふやなのである。どうやらここではないどこかに行っていたらしいのだが、それをまるで思い出せない。


この部屋に移されたのは昨日のことで、それ以前はベッド以外には窓も備品も無い、無機質な壁に四方を覆われただけの殺風景な部屋に閉じ込められていた。しかも最初の二日間はベッドに四肢を拘束されるという理不尽さ。さらにどうやら薬で長時間に渡り眠らせていたらしく、ぼんやりと戻った意識は当初まるで不安定で、現状の認識すら手間取る始末。しばらくしてようやく頭が働くようになったが、今度は隔離されている理由に皆目見当がつかない。見計らったように防護服をまとった担当医だと名乗る男が姿を見せ、まるで感情のこもっていないおざなりさで、かい摘んだ概要だけを説明をしてくれた。ここは某県某市の国立総合病院の一室で、あなたは未知の感染症に罹患している疑いが濃い。ゆえに今しばらくの不自由をご容赦願いたいとの事。


もちろん納得など出来るはずがない。すかさず反論しようとしたその時、脳裏にて声が木霊した。


……大丈夫……問題ない……


さらに拘束を解かれてから気付いたが、両肘の内側に注射痕が数箇所あった。点滴なら納得だが、採血に同意した覚えはない。いや、記憶が曖昧なだけで了承したのか?


すかさずそれを訊ねると、返ってきたのは「貴女は『おるふぇうすけいかく』の同意書に書名捺印されましたよね」というまるで意味不明の言葉だった。


「……なんですか、それ。なんの同意書です?……」


しかし、医師はそれに答えてはくれず、「約款(やっかん)には『帰還後、二週間以上に及ぶ隔離、および検体検査に同意します』うんぬんの文言があったはずです。目を通されていないのならば、それはそちらのミスです」と、なぜか蔑んだ目で見られた。まるで意味がわからない。


その日は()()()()も数名あって、学者だの研究家だのと、彼らの肩書きはいにかもご立派なものばかりではあったが、質問の内容がいかがわしさの百花繚乱だった。地獄がどうだとか異世界がどうだとか、多恵の開いた口はしばらく塞がらなかった。しまいには生物学の権威だという初老の男が現れ、自分が今までいかに魔獣の実在を客観的論理的学術学的に切々と説いてきたか云々と、口角泡を飛ばし熱く語られた。ある程度は我慢していた多恵だったが、とうとう会話の途中で吹きだしてしまい、自分で自分を権威だと言い切るのもなるほど蛮勇と背中合わせの滑稽さですよね、あはははは……あ、しまったと思ったが時すでに遅く、自称生物学者は猛烈に激怒、罵詈雑言を並べるだけ並べ、内扉を乱暴に閉めて退出していった。肩をすくめるしかない多恵。


……大丈夫……問題ない……


またあの声が聞えて、そして多恵は自分の変化に気付いた。


なんとも奇妙なことではあるが、落ち着いている。


理不尽な扱いを受け、不自由な環境の中、不可思議な質問責めをされている。それでも感じているのは危機や焦燥ではなく、少々のさざ波はあれど、どちらかといえば平常心であった。諦観から開き直っている訳でもないのに、なぜか肝がどっしりと据わっている。


……大丈夫……問題ない……


ダレかがそう言ってくれたから。闇の中で。


そう、ダレかは決まって暗いところにいる。光が狂おしいほどに乏しい、さながら井戸の底のような場所から、言葉を掛けてくれる。


しかし、そのダレかが誰なのかがわからない。あれはダレなのだろうか。記憶が要所々々で曖昧になる。時間だけは潤沢にあったので、じっくりと思慮に思慮を重ねる。すると、ほんの少しだけ記憶の断片を手繰り寄せることができた。


……軟禁状態は長く続かないと踏んでいる。いくら調べても何も出てこないからな。心配無用、いざとなればうちの甚六が矢のごとくに飛んで参上、身を挺してそなたをお守りいたすゆえ……


……ジンロク……ん?……んん?……


ダレかの嫡子(ちゃくし)のことなのだろうが、それがまるで見当もつかない。この一連の記憶の錯乱と何か関係しているのだろうか……


それからいくら考えても納得のゆく答えは片鱗も見えず、どこか悶々としながら数日を過ごした。


そして昨日、この明るい個室へと移され、視覚的な開放感にようやく気分も優れてきた。部屋は高層に位置しているらしく、窓を開けば随所に緑をはべらす街並みと、彼方に寝そべる山々の稜線がくっきりとうかがえた。空気が澄んでいるのもいい。どうやら見知らぬ地方都市のようだが、景観は極めて好印象だった。


そして朝を迎え、しばらくまどろんでいたところへ、来客を伝えられた。


部屋に現れたのは特務自衛隊で士官の階級にある若い男で、姓名を名乗ってはくれたが、所属に関する詳細は伏せられた。機密に抵触するからとのこと。よほど特別に編成された組織に身を置かれているようで、そんな雲の上の方が果たして何の御用なのでしょうか……と、まるで来訪の理由に思い当たれない多恵としては「はぁ、そうですか」と曖昧にうなづくしかなかった。


「『答えられないことが多いですよ』という説明も半年前にしたのですが……」と、なぜか男は端正な顔立ちを淋しそうに曇らせる。


初対面を否定されたことに多恵はいささかの戸惑いを覚えたが、しかしどうすることも出来ない。記憶に無いものは無い。そう答えるしかない。正直に告げると、士官の男は取って付けました感が丸出しの微笑を浮かべ、上着の内ポケットからビニールの小袋を取り出した。


「これは貴女が持ち帰ったケモノの体毛なのですけれど、覚えていらっしゃいますか?」


多恵は無言でうなづく。すると、士官の男は小袋をかさかさと振ってみせた。


「貴女がご自身で『これはケルベロスの毛である』と申告されたと記録にはあるのですが、事実ですか?」


「はい……」


「なぜそう言われたのです?」


「……そう答えなさいと……言われたからです……」


「誰に?」


多恵の脳裏に、またあの声が静かに響く。




……大丈夫……問題ない……




「ダレかに……です」


士官の男の表情は変わらない。しかし、はっきりと眼から力が抜けた。気力の衰えた声で「質問を変えます」とつぶやく。


「オルフェウスはご存知ですか?」


「……たしかギリシア神話に出てくる吟遊詩人ですよね」


士官はうなづいた。「ほかにご存知のことは?」


「……亡くなった奥さんを連れ戻そうと地獄まで降りて行って……ハーデスに直談判をしたとかなんとかってお話だったような……あまり詳しくはないです」


「充分ですよ」と答えてから、士官は少しだけ表情を引き締めた。


「では『オルフェウス計画』はわかりますか?」


瞬間で多恵の頭の中が真っ白となる。


……また、あの言葉だ……おるふぇうすけいかく……って……


『オルフェウス』は知識にある。それなのに『おるふぇうすけいかく』という単語になると、途端に思考が濁る。考えること自体を拒絶するかのように、頭の中を濃霧が覆う。


顔をしかめるしかない多恵に対し、士官は残念そうに肩を落とした。


「そうですか……やはり半年前のことは一貫して全否定という事ですね。かの場所にて()()()有ったにせよ無かったにせよ、持ち帰られた結果がすべてです。本日は謝罪にうかがわせていただきました」


「え?」


「六ヶ月間、私とスタッフとで伊藤さんのお世話をさせていただきました。その間、貴女の心痛にまるで気付かなかったと言えば、もちろん嘘になります。ですが、それが我らの仕事だったということを、どうかご理解いただきたい。しかし開き直るつもりは毛頭ありません」


すると、多恵の中に申し訳ない気持ちが込み上げてしまい、士官より先に頭を下げていた。


「ごめんなさい。なにか、ご迷惑をお掛けしてしまったみたいで」


士官は「とんでもない」と頭を振った。


「最初から計画自体に無理が有ったということです。今さら悔んでも詮なき事ではありますが、大変申し訳ありませんでした。謝らなければならないのはこちらの方です。ご無事で何より。怪我がなくて本当に良かった。直帰後、すぐに上の者へ破棄も踏まえた計画自体の見直しを掛け合います。あと数日のご辛抱を。必ずや貴女をこの不自由から解放いたします。お約束します。本当にすいませんでした」


深々と頭を下げるその男に、多恵はかえって「いえいえ、そんな」と恐縮するばかりであった。



士官の男が退室した後、多恵は窓際に立った。開かれたカーテンの先には人々の日々を優しく包む街並み。隅々まで光の行き届いた世界。


そして抜けるような青空。


大振りの雲がぽっかりと浮かび、蒼穹の中をのんびりと流れていた。


ダレかさんはどこにいるのだろう……多恵はふと、その考えに捕われた。この日差しが降り注ぐどこか? 違う。見える範囲に収まっているここではない、まるで違う何処か。そのように思えてならない。


ため息をひとつ。


確かに神経が図太くなったかのように感じる。大して動じていない。


しかし、それはあくまでも意識が自分に向いている場合限定に過ぎない。ふと、親しい誰かや家族の事が頭をよぎると、たちまち不安が鎌首をもたげてしまう。


面会は叶わないが、父には連絡が行っているとの事。せめて声くらいは聞きたいが、許可できないと言う。


彼氏はどうしているだろうか。一緒にアルバイトをしようと誘われたのは覚えているが、その後が五里霧中、まるで思い出せない。元気でいてくれているのだろうか。わたしを探して東奔西走……だったら、少し泣けてくる。


「……ヒデちゃん……」


はからずも想い人の名を零してしまう。涙腺が緩みそうだ。


視界に涙の幕がゆるゆると下りてきて……


と。


いきなり窓の外に浮かぶ雲の中から、黒い何かが顔をのぞかせた。形状からして間違いなく生物のそれだ。息を呑む多恵。雲の大きさと比較すれば、それはとんでもない巨体だった。


バケモノ。怪獣の類。


唐突にして、非現実へと突き落とされる感覚。


しかし、驚きはしたが、なぜか次第に多恵は冷静さを取り戻していった。


脅威であるとか邪悪であるとか、そんな怪獣らしい肩書きからまるで縁遠い存在。


そうとしか思えないほどにそれの目はまん丸で優しく、どこか可愛らしいほどであった。


「まる見えなんですけど……」


そして目が合う。多恵のつぶやきが聞えているはずはないのに、それでも雲にまぎれたバケモノもどきは、にっこりと微笑んだ。


その口元が何かを言っている。なんだろう?


じっと目をこらす。


伊藤多恵はようやくにして、それが懸命に伝えようとしている事をなんとか理解した。






…………大丈夫。問題ない…………












【 おわり 】



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