【 転転転・続 korobu 4 】
見えはしない。それでもわかった。大質量の何かが、こちらへ向かって移動してくる。
それはどうやら生物のようで、一歩動くたびに周囲の空気が押し出され、田宮の顔を生臭い風が撫でた。さらに一歩。闇の塊が近づいてくる。恐怖しかない。スマートフォンが手から滑り落ちた。小さな灯火すら失い、田宮は全身すっぽりと闇に飲まれたが、それでも何かが近づいてくる気配だけは濃密だった。
暗闇の中、それの輪郭が浮いて見えた。
田宮は息を呑む。それが余りにも巨大だったからである。
巨象をも遥かに上回る大型の体躯。二足歩行ではあるが、腕部に該当するのはどちらかといえば前脚のようで、体重を支えている後ろ脚のたくましさは尋常ではなかった。
見るからに堅牢な鱗で全身を覆い、背には巨大な翼を有していた。背後にて筋肉の束のごとき尻尾をうごめかし、また前面では長い首がゆったりと放物線を描いて、雄々しい角を生やした頭部をゆらゆらと揺らしていた。鼻面は鰐のように伸びており、半開きの口から鋭利な牙がびっしりと覗いていた。眼球は爬虫類のように顔面の横についているらしく、その表情はうかがい知れない。しかし、総じて相貌は凶悪そのものであった。
禍々しいほどの異形。おぞましいほどの怪物。自身の正気を疑うほどの存在。
それが近づいて来る。自分に向かって。
まず田宮は疑った。そして迷った。
CG? いや、映像ではない。物体だ。生物か……いや、あんなバケモノ、見たことも聞いたこともない。では何だ? 機械仕掛けのフレームを内包したヌイグルミ?……たしか恐竜をモデルとした、そのような催し物が近年海外であったような……しかし、これは恐竜というより……どちらかといえば……これは……
……ドラゴンか?……
困惑が幾分か恐怖を弛緩させ、奇妙な余裕を感じさせられていた。
そこへ、闇を裂いて異形の顔が田宮の眼前へといきなり現れる。田宮は驚愕、背後へと飛びのいて、そのまま転倒した。それでも化け物の首は伸びてきて、腰から崩れ落ちる田宮へと挨拶を寄越した。
「お初にお目にかかる、タミヤ教授。黒竜である。ようこそ地獄へ。もちろん歓迎はしていない」
立ち昇った畏怖に歯の根を震わせながら、田宮は喚いた。
「な……遠隔操作のロボットなんだろ! どこだ! 誰だ! どこに隠れている! 出てこい!」
しかし異物の首はゆるゆると左右に振れて、田宮の訴えを否定した。
「残念は三つだ。残念ながら小生は本物である。信じたくない気持ちはわかるが、信じられなくとも信じる以外に残念ながら道はない。諦めろ。そして残念だろうが正真正銘、ここは地獄だ。居場所の座標さえ特定できれば、ハデスの異能による強制転移は可能。もっとも冥府の王の権限を持ってしても、これは超越権行為だがな。『上』の連中には内緒だ。事情が事情なので、こちらとてなりふり構ってられんのだよ、残念ながらな。おっと、残念は四つだったか。まぁ、いい。つまりだ、教授。流行りの異世界転生だと思ってくれ。それなら残念ではないのだろ?」
それでも田宮は逆らった。
「にせ物、造り物だ! お前みたいな化け物がいるものか! 化け物! バケモノめ! 地獄だと。ふざけるな、バケモノ!」
瞬間、異形の首が消えた。見えなくなって、しかし、すぐに戻った。
掻き消えたのではなく、前後に伸縮したのである。そう理解できたと同時に、田宮の右肩に激痛が走った。
「がっ!」
耐え切れずにその部位を左手で押さえる。肩まわりの肉がごっそりとえぐれていた。思わずあてがった指先が固いものをとらえた。肩の骨だった。悲鳴と共に慌ててそれを引き込めると、結構な勢いで血が吹き上がった。闇の中であってさえ、血の赤だけは一際に鮮明だった。
「あ……が……あ……」
痛みで言葉にならない。骨を避けて傷口をやわらかく抑えるしかなく、血はだらだらと流れ続けた。まるで止まらない出血と痛み。もがく田宮を尻目に、バケモノが唾と共に何かを地面へ吐き捨てた。ぺしゃり……と、湿った軟らかい音。田宮の肩の肉だった。
「不味い。臭い。喰えたものじゃない。お前の肉はゲロの味だな、教授」
そして田宮を睨みつけた。
「小生への侮辱はまるで得策ではない。言葉を慎むのだ、教授。次は反対の腕を喰い千切る」
田宮は肌で理解した。こいつには悪意を越えた害意しかない。微塵の躊躇もなく傷つけてくる。その力の差は歴然、田宮は無抵抗も同然だった。このままでは殺される。いい様に弄られて。
「お前、ふざけ……ちくしょう……」
あまりの痛みに涙が出た。全身が生汗に濡れている。腰を曲げて、顔を地に伏せる。口を満足に閉じることもままならず、よだれも鼻水もだらだらと糸を引いて垂れた。それでも痛みは増していく。そこへ頭上よりバケモノの声がした。
「おもてをあげよ、タミヤ教授。お前には小生の質問に答えねばならない義務がある」
有無を言わさぬ圧を感じ、田宮は震えながらに顔を上げた。
「……どう……な……」……どうして、なぜ、俺の名を知っているのだ?……震える舌によりまるで言葉に出来なかったが、なぜかバケモノは察してくれた。
「教授のことはイトウタエが教えてくれた。それでお前に鉢が回ってきたのだ。さぁオルフェウス計画について知っている事を話せ」
「ぐっ……」
今度は意外性に息を飲まざるを得なかった。あの小娘が口を割っている。機密を漏洩している……しかし、あの娘は生還したのではないのか……いや、そもそも価値のある情報なのか? あの馬鹿げた計画が?
しかし、何よりも痛覚には有無を言わさぬ説得力があった。痛みは幾千の言葉よりも幾万の自問自答よりも、それは圧倒的に冷徹であった。
これは現実であると。
右肩は尋常ではない痛みに支配され、指先どころか右肘の感覚すらもはや危うい。意識の大半を痛覚に削がれ、思考は鈍化の一方だったが、それでもこいつを本物のバケモノだと認定し、ここを本物の地獄だと認識した。まずはそこから始めた。不条理でも不可解でも非常識でも結構。命の瀬戸際なのだ。対策を講じねばみすみす殺されてしまう。今はそういう状況なのだと、自らの認識を強引に上書きした。焦がすほどの視線でバケモノを見る。
あの図体にして猫並に俊敏な動き。翼も飾りではあるまい。逃走は徒労に費える。試みれば今度は脚を傷つけられる。この惨状からの突破口、それが有るとするのならば奴の語る内容にある。命を賭した拝聴。それに集中せねばと判断したその時、肩の傷口が更にずくりと疼いた。たまらず押さえていた右手に力を込める。骨に触れた。もういい。それどころではない。気がつけば、流れ出た血が下半身を生暖かく濡らしていた。どれほどの血液を失ってしまったのか。気を緩めれば意識を失いかねない。畜生。あんな端金で殺されかけている。たかだか学生を紹介しただけじゃないか。そいつらも金を貰って喜んでいた。俺に落ち度はない。言うならばすべて鳩村の悪事だ。俺はただ、ほんの少しだけ手を貸したに過ぎない。元凶は鳩村だ。あいつのせいで、どうして俺がこんな酷い目に遭わされなければならないのだ。
田宮は激痛を堪え屈辱に耐え、憤怒に猛り憎悪に歪み、そして生還のためだけにさらにもっと力を込めてギリギリと奥歯を噛みしめた。そんな田宮の悲痛な決意など知る由もなく、バケモノは流暢な口調で続けた。
「答えろ、教授。お前はどの組織の何者から、計画への加担を持ちかけられたのだ? しゃべろ」
伊藤多恵が鳩村のことを知る訳はない。情報としての差はそれくらいしかない筈である。むしろ半年間に渡って訓練として機関に携わっていた伊藤多恵の方が内情に精通している可能性が高い。自分が持っている有効材料は鳩村のことだけだと思っていい。それだけしかない。考えろ。現状を打破するには交渉しかない。
「わかった……取り引きだ……」
バケモノの口角が露骨に吊り上がる。せせら笑っている。
「どの口が言う? 自分の立ち位置を理解できていないのか」
見下されている。腹立たしいが、しかし怒りの感情維持は必須である。こいつと鳩村に対する激情を持ってしてこの難局を乗り切る。命乞いもすれば、泥水もすする。なにがなんでも生きて帰る。田宮は腹の底にありったけの力を込め、目前の異形を睨みつけた。
「お前は『圏外』と言った……つまり、携帯電話を理解している……違うか?」
バケモノが小首をかしげる。
「だとすれば?」
田宮は血まみれの震える右手で、手許に落ちていたスマートフォンを拾い上げた。「こいつをくれてやる」
バケモノは即答だった。
「あいにくだが、スマートフォンの取り扱いに不自由はしていない。お前の協力がなくとも登録されている人物のデータをそこから抽出するなど造作もないわ。交渉に応じなければその端末を破壊すると脅すか? どうぞどうぞ。満足いくまで壊すがいい。その痛んだ片腕では、せいぜいタッチ面のガラスをひび割れさせるのが関の山だと思うがな」
異形は余裕すら匂わせている。押しが足りない。たたみ掛けねば。田宮は二の矢を放つ。
「違う。登録はしていない。記憶している。俺の頭の中にしかない。どうする? 試してみるか? 俺とこれでワンセットだ。使い方に慣れているのなら話は早い。確認してみろよ」
もちろん嘘だ。連絡先は登録してある。しかし、鳩村への不信感から名称を『とり頭』に変更していた。児戯のような行為であったが、ここに到って功を奏している。辛うじてだが、まだ運がある。田宮は右腕を伸ばしてスマートフォンを横に構え、地面を滑らせるように投じた。それは流れるようにするすると移動して、異形の足許に当たって止まった。凝視するバケモノ。さぁ、確認してみるがいい。そのサツマイモみたいな指でタッチ画面を操作できるのならな……田宮の勝算はそこにあった。
奴の表情は読めない。はったりを見透かされているかどうかはまるで不明だが、それでも虚勢を張り続けるしかない。田宮は必死に言葉を紡いだ。
「計画の主幹に近しい人物にまで、たどり着きたいのだろう?……その芋づるを引くのに手を貸してやる……どうだ?」
「引き換えとして安全を保障しろ、か?」
喰い付いた。好機。田宮はさらに饒舌を加速させる。
「そうだ。俺もお前ら側に寝返る。お前らに協力する。だから俺を助けろ。毒を盛った皿であるのはすでに承知、ならば徹底的に皿の隅々まで舐めつくしてやる。信じろよ、ドラゴン」
……ぽたり……と、小さな何かが頭上から降って来た。足許に転がったそれは形状としてはさくらんぼを思わせたが、見るからに気色の悪い灰色をしていた。
「闇の地に生る果実だ。食え。おまえの魂をこちら側に引き寄せる必要がある」
異世界のもの、ヨモツヘグイを取り込めというのか。提案としては想定外であったが、やむを得ない。断れない。食うしかない。田宮は果実のへたを摘まみ、拾い上げた。色味をすべて削ぎ落とされたそれは不気味そのものでしかなく、のど許まで躊躇がせり上がってきたが、両目をつぶって口内に放り込んだ。噛み潰すことはおろか、舌の上に乗せるのも嫌悪感しかなく、そのままゴクリと嚥下した。表面を軽く舐めたに過ぎなかったが、それでも異物は強烈なまでに田宮の味覚へ痕跡を残した。すさまじく不味い。おぞましいほどに不味い。胃の腑が悲鳴をあげ、嫌悪に嘔吐感がこみ上げてくるが、奥歯を食いしばってそれを押しとどめた。
「かっ……がっ!」
むせびながらも田宮はなんとか堪えた。左肩の激痛にてすでに全身は発汗にずぶ濡れではあったのだが、それとは異なる意味合いの汗がまた噴き出していた。大量の生唾を再度飲み込んでから、田宮はバケモノを見た。
「これでいいんだな」
「もちろんだ。いいとも、教授。ではお前に関与をそそのかした人物の名を言え」
「スマートフォンを返せ。それが先だ」
「……ふん」
バケモノは鼻で笑ってから、足許のそれを軽く蹴った。スマートフォンは行きと同じ様にくるくると回転しながら横滑りをして、田宮の手に戻った。
「では答えよ。お前を導いたのは何者だ?」
「……鳩村だ」
「ふむ。それは初めて聞く名だな。イトウタエの証言には無かった。そいつは誰だ? 古い友人か」
「……ただのクソ野郎さ」
田宮は鳩村のことを仔細に語った。薬品会社の重役であることはもちろん、家族構成から現住所の番地まで喋り、次に罵倒した。血も涙もないろくでなし。屑。畜生。腐れ外道。罵詈雑言はこんこんと果てしなく垂れ流しとなり、抑え留めたのはバケモノだった。
「わかった。もういい、教授。次だ」
「次?」
まだ条件を上乗せしてくるのか? つのる焦燥感は田宮に咽喉の渇きを意識させたが、バケモノが提案してきたのはそれなりに意外なことだった。
「スマートフォンからSDカードを抜き、その場に置け。データの解析はこちらで勝手に進める」
「ま……待て。鳩村の連絡先はこの中にはない。本当だ。俺の頭の中だけだ」
「その確認もこちらでする。大丈夫だ、お前の交友関係をすべて精査する。ハトムラへは自力でたどり着くので心配御無用。端末自体はお前が持って行くがよい。脱出の際に必要となる」
バケモノから飛び出した予想外の単語に、緊迫の最中に有りながらも田宮の思考能力は一瞬だけ空白を許した。
「脱出……だと?」
「協力を感謝するよ、教授。お前はハデスに有益な情報を提供してくれた。ならばチャンスをくれてやろう。背後を見よ」
田宮は素直に振り返った。闇の彼方、上方に針で突いた点のような光明が差しているのがうかがえた。光はか細い線条でしかなかったが、それは疑うまでもなく地表の光であった。あそこから出られる。あの光の線をたどれば生還できる。カンダタの目の前に垂らされた蜘蛛の糸のように。思わず田宮の頬が緩む。絶好の機会を得た。それを裏付けるように異形が続けた。
「あの光まで坂が続いている。行くがいい。登りきれば地上だ。圏外ではなくなる。助けを呼べ」
「……いいのか?」
バケモノは肯いた。「約束は守る」
よし。ここまでの駆け引きが成功した。ざまあみろ、鳩村。俺は生きて帰り、今度はお前が地獄行きだ。生きたまま手足をもがれるがいい。腹わたを引きずり出されるがいい。心の底から快哉を挙げ、全身に力が湧いた。抜けていた腰に活力が戻り、次いで膝が武者震いに震えた。膝が笑うのは怖気づいた時だけではないのだな……初めて知った感覚に思わず笑い出しそうになった田宮だったが、それは異形に制された。
「ただし」
声に先ほどまでの砕けた感じがなくなっていた。あくまでも硬質な声音で、それは告げた。
「振り返ってはならない。何があってもだ。振り返らずにまっすぐ坂を登り切ること。それが絶対条件である。やり遂げたならばお前は自由だ」
「振り返ったら……どうなる?」
より一層の只ならぬ気配に、田宮は堪らずに訊いてしまった。竜は答えた。
「小生はこの場に留まり、じっとお前の事を見ている。もし振り返ったのなら、その瞬間にこの黒竜が自ら飛んで行き、業火の吐息でお前を焼く。それだけだ」
※
血は止まらない。
当然だった。裂傷は深く、左腕が抜け落ちてもおかしくないほどである。しかも痛覚が遠のきつつある。感覚の麻痺などという生易しいものではあるまい。致命傷。脳が痛みの伝達を遮断するという、噂に聞く最後通牒ではないのか。もはや残された時間はさほども有るまい。それでも地表の光は遥か彼方であった。
どれほどの距離を登ってきたのか。気にはなったが、しかし振り返ってはいけない。あいつが下で眺めているはず。十分……いや、二十分は登って来たはず。せっかく掴んだ好機である。必ず生還する。生きて戻らなければならない。
陽光の下に出られたと同時に、救助を求める。大声を挙げつつ、警察へ通報……いや、消防か。救急車……いや、ドクターヘリか。あれの管轄は病院そのものだったか……とにかく大至急で搬送され、なんとか一命を繋ぐ。事情聴取には転落事故とでも伝えればいいだろう。問題は大学から『発見された場所』まで、どうやって移動してきたかの説明だが、なんせこの重篤状態である。体調が安定するまで、繰り出される質問には限りがあるはず。その間を利用して適宜な回答を熟考するとしよう。
オルフェウス計画にはついてはすべて忘れる。真実を叫んだところで、揉み消されるのが明白である。国家権力が相手なのだ。無駄な抵抗はせず、逃走に全力を費やす。
連中が追ってくるか否かは五分というところか。自分が地獄に転送され、超生物と接触した事実を掴んでいるはずはないのだから、逃避行は取り越し苦労かもしれない。しかし念には念をだ。何より、地獄などいう存在してはならないものに関わってしまっている。冗談ではない。すべてを断つ。断たねばならない。
大学には戻らない。借家にもだ。もう何もかも捨てる。治癒がほどよく進み、ある程度の体力回復を見計らって病院から遁走、ヒッチハイク等を駆使して数十年ぶりに郷里に舞い戻る。かつての知人なり親戚なり教え子なりを訪ね歩き、なんとか金を工面する。あとは高飛びを試みるだけだ。指名手配されている訳ではないので、公共交通機関は制限なく利用できる。よし、これでいい。ここまでの青写真に極端な無理もなければ不備も無い。大丈夫だ。
鳩村の奴は腹立たしい限りではあるが、もういい。知るか。始末はバケモノどもがつけてくれるだろう。それでよしとする。
自分が消息不明になっていることを『機関』の連中が知るのは、まだ当分先の事だろう。末端の協力者なのである。そこまで配慮が行き届いているとは到底思えない。むしろ奴らの関心事は伊藤多恵に注視されているはずだ。その間隙を突く。
大事なのは療養先にて身元が露見しないこと。可能な限り発覚を遅れさせなければ。
田宮は震えの止まらない右腕を使い、なんとかスラックスの尻ポケットから財布を抜き出し、それを闇の向こうへ放り投げた。運転免許証もクレジットカードも含まれている。スマートフォンは救助隊の姿が確認できたと同時、出てきた洞窟の入り口にでも放り投げるとしよう。身元を証明できるものはこれで全部だ。あとは記憶障害を装って、ひたすらに回復に専念する。
いや、待て。スマートフォンの着信記録から番号を割り出せば、個人の特定は容易ではないか。この端末を用いての消防への通報は、最後の手段だと考えるべきだ。地表へ出て、通りすがりの誰かに助けを求める。その人物が所持する携帯電話から救助要請しなければ。日の光を浴びてもしばらくは徘徊せねばなるまい。休めるのはもうしばらく先のようだ……体力は持つか……いや、何が何でも持たさなければ……
そんな具合に田宮は遠謀深慮に意識を注いでいて、ささやかな異変に気付くのに少々の時間を要した。
脚を止める。目を疑った。
頭上の光が明らかに太くなっていた。地表が近い。
「よしっ!」
思わぬ誤算に歓喜の声が口をついた。小さな点でしかなかった頭上の陽光が、気付けばバスケットボールほどの大きさになっていた。届く。あともう少しだ。重い足取りも何のその、田宮は最後の力を振り絞った。前だけを見ている。地表の光だけを、ただそれだけを求めて懸命に脚を動かした。
さらに光が大きくなった。もうそれは完全な円ではなくなっていて、周囲の凹凸すらも明確に確認できるほどになっていた。洞窟の入り口である。間違いない。田宮はさらに急いだ。無理は承知、それでももがく様に、あがく様に、もつれる脚を強引に動かして、ずるずると緩い斜面を登っていった。
光の漏れる入り口は、もう目前にまで迫っていた。地上である。あと数メートル。
振り返らなかった。背後を確認せずに、とうとうここまで来た。やり遂げた。遥か眼下にて、あのバケモノが歯噛みしているかと思うと胸がすく。ざまあみろ。見下しやがって。
ヒトを軽く考えるな。ニンゲンを甘くみるな。俺をなめるな。思い知ったか、バケモノが。
そして田宮は全身を光の中に包まれた。長かった洞窟の出入り口。そこに到達したのである。
一転して、ただまばゆいばかりの世界。闇だけに塗り込められていた魔窟より、田宮はようやくにして一歩足を踏み出した。
光。陽光。日差し。体いっぱいに温かみを感じながら、田宮は闇から抜け出した。のろのろと歩く。左右を見回す。
歩いて……
違和感が強烈に主張していた。
光に包まれている。地表である。まちがいない。しかし、ただそれだけなのである。
風がない。山間部の只中に出るものばかりと思っていたのに、林も無ければ森も無い。足許は小石ばかりが目立つ地面ではあるが、それだけがはるか彼方、視界の果てまで間際なく展開しているのである。そのくせ距離感は曖昧で、広いような狭いような、なんともいえない不気味な静寂だけが、静かに横たわっていた。遠方に山も無ければ街も窺えない。何も無い。光に満ち満ちてはいるが、何より空が見えない。
言うなれば光しかない。光だけの広間。ただ陽光だけがあふれている空間。その只中に、田宮はぽつんと立ち尽くしていた。
「……なんなんだ、これは?……」
気の抜けた声音で、思わず一言漏らしてしまう。
呆然としていた田宮ではあったが、我に帰る。そうだ、GPSだ。現在位置を確認できるはず。慌てて懐からスマートフォンを取り出し画面に指を走らせた、その時である。
「無駄だ。圏外である」
はっとして声のした方向、背後を振り返った。
白一色の光だけの背景の中、ぽっかりと口を開いた洞窟の入り口にて、あのおぞましい異形が立っていた。
漆黒の竜。
バケモノはこれでもかと大きな口を開き、ピンクの舌をぞろりと覗かせた。
「ご苦労、教授」
想定外の相手に、田宮は愕然と目を見開いた。
「お………お前、どうして……」
総毛立つ田宮を満足気に眺めながら、異形はうなずいた。
「教授の疑問はさておき、その前に指摘させてくれ。振り返ったな、教授。あれほど言ったのに。あれほど警告したのに。振り返れば焼くぞと、あれほど念を押したのに。返すがえすもつくづくも、残念だよ、教授」
再度、田宮は動揺する。咽喉もとまでせり上がってくる恐怖に、全身ががたがたと音を発して振るえた。
「まっ……待て。ふざけるなよ、おい。地上じゃないか!」
バケモノはその長い首をゆっくり左右に振った。
「違う。まだ黄泉路の途中である」
「光があるじゃないか。日が差している。地表だろうが!」
「違う。日の光は本物だが、これはハデスが地下に取り込んだものだ。王宮の中庭の話をしても仕方がないのだが、まぁ、うちの王さまはこういう芸当も出来るって話さ。すまないな、チート技がてんこ盛りで」
顔を真っ赤にし、田宮は抗議の大声を挙げた。
「詐欺だ! 騙したのか!」
しかし、異形はどこ吹く風と涼しい顔だった。
「おいおい、誰に言っている? 魔物相手に騙すも何もないだろうが。お前はこちらの提示した条件を反故にした。そちらに慎重さが足りなかった。お前の落ち度だ。違うか? ここまで来ればもうわかるよな。お前にスマートフォンを持たせたのは演出の一環だ。この絶望の局面を堪能してもらうための前フリだったのさ。骨の髄まで味わってくれてありがとう。実に清々しい気分だ。では死ね、教授。死ぬといい。灰にしてやろう」
歯の根が振るえ始める。田宮の口元から、意図せずしてカチカチという音が漏れ出した。
「待て、待て! 待ってくれ!」
「見苦しい。とっとと観念して沙汰を受け入れよ。ハラキリの潔さをどこで手放した?」
「まだ話していないことがある。本当だ。聞くだけの価値はある。頼む、待て。待ってくれ!」
もう何も無い。しかし、時間稼ぎをしなければ。この展開を阻止せねば。震えは全身に回っていたが、それどころではなく、田宮は必死に脳の中をかき回していた。何か思い付け。なんでもいい。奴の興味を引かねば。どんな事でもいい……なにか……なにか……
しかし、異形はそんな田宮のささやかな願いを、あっさりと斬って捨てた。
「もうよい、教授。もういいのだ。お前は寝返らなくていい。お前にもう用はない」
「ふざけるな、あの実を食わせたじゃないか! それならあれはどういう意味だったのだ?」
田宮は必死に食い下がるが、バケモノは実につまらなそうに吐き捨てた。
「ただの嫌味だ」
「は?」
「ちなみに、あの実ならイトウタエも食べている」
田宮の身を唐突の脱力が襲う。精いっぱい張っていた意地すら、するすると抜け落ちてしまった。
あの小娘がそこまで……あのクソまずい実を食ったというのか……何故……どうして……何があった?……
察したように、異形は答えてくれた。
「お前らの敗因は彼女に負荷を掛けすぎた事だ。イトウタエの恋人を言いがかりの理由で拘束しているらしいな。地獄から成果を持ち帰らないと彼氏を解放しないと。善悪で測れば我ら魔物は悪だ。異論はないが、ではニンゲンは善かというと、いやはや、胸を張って『はい、そうです』とはなかなか言えないよな。どう思うよ、ニンゲン?」
「知らん! そんなことを言われても、俺は知らない! 俺には関係ないことだ! 本当だ。信じてくれ!」
田宮は血を吐くような大声で叫んだ。何かを喋っていないと、絶望に押し潰されそうになるからだ。喚いている限りは命が続いている。発言を絶やしたくない。必死だった。黒い異形にはまだ効くそぶりがある。会話を続ける。今はそれしかない。
田宮の願い通りに、バケモノは答えてくれた。敵意を剥き出しのままで。
「教授が知っていようが知っていまいが関係はない。とにかく彼女はお前たちの非道に辟易していたが、恋人のために従わざるをえず、地獄までやって来た。ところが、我らとの接触で彼女の心境に変化が生じた。オルフェウス計画の果てにあるのは、ヒトの都合だけを優先した地獄の再開発だ。イトウタエは迷った。そして逡巡の挙句に、彼女が出した結論は『ドラゴンのブレスで焼いてもらう』だった。何も持ち帰らない。何も語らない。恋人を見殺しにしてしまうが、それは自らの命を投げ出すことで侘びよう。彼女はそう覚悟した。しかし、うちの甚六がそれを拒んだ。イトウタエは八方塞がり、甚六はオルフェウス計画を知らないので彼女の葛藤そのものを理解できずに思考停止。場は煮詰まって、わしの出番となった。ハデスの指示により、少し離れた場所に身を潜めていたからな。わが偉大なる冥府の王は見透かしていたのさ。こうなるとな。事実そうなった。そこでわしはハデスの真意を彼女へ伝えた。同意してくれたよ。ありがとう教授。実にすばらしい人選をしてくれた。これだけはお前に感謝する。彼女の採用はヒト側からすれば誤りであったが、こちら側にすれば願ったり適ったりの正解であった。信に足るヒトを協力者として地表へ帰す。これがハデスの『プルートー計画』であり、その骨子だ」
「……しかし……」
「彼女の軟禁状態がいつまで続くかはまったくの未知数で、あるいは長期に及ぶかもしれないが、それでも命を取られることは間違ってもないだろう。イトウタエが持ち帰ったのは地上で捕らえた赤犬の体毛で、彼女の靴底に仕込まれていた取入れ口に収まっていたのも地表の砂粒と川の水だ。いくら調べても目新しいものは何も出てこない。つまり、怖気づいて虚偽の報告をした、結局はここに落ち着いての手打ちとなり、恋人ともども解放されると、そのように見込んでいる。何より連中もそこまで暇ではないだろうからな」
「……しかし、あの女はこちらの監視下にあって……」
「ぬかりはない。雲間に潜んだ飛竜が護衛にあたっている。彼女には竜の庇護を約束したからな。言い換えるならば、監視されているのはお前らの方だという事さ」
「し……しかし、しかし……」
後がない。諦めるな。頭を回せ。わかってはいるが、『しかし』しか出てこない。否定する材料が何も無い。それを認めたらおしまいだ。でも、もう詰んでいる。
それを察したように、異形がはっきりとため息を洩らした。
「もういいだろ、ニンゲン。諦めろ。すべてはお前たちから始めたことだ。魔物とヒト、その魂には歴然とした上下関係がある。いくらお前らを食したところで、我らの魂がそちら側に寄ることは決してない。その序列を無視し、暴挙に及んだお前らが報いを受けるのは当然至極と言える。天に唾を吐けないから、地に唾棄したのか。とんでもない、恥を知るといい」
闇の開口部を抜け、漆黒の異形が一歩前に出た。長い首を左右に振る。田宮からすればそれはただただ拒否を示すだけの所作にしか見えず、案の定として竜はそれを口にした。
「我らはただ暗渠の中を泳いでいただけである。それだけ。たったそれだけだったのに、お前らがその蓋を剥ぎ、中を覗いた。お前らは小賢しさから驕り、そして禁断そのものに手を突っ込んだ。まったく厄介なことをしてくれたよ、ニンゲン。もちろん覚悟はできているのだよな、ニンゲン。ではさよならだ。心置きなく死ね」
かっと口を開く黒竜。場の空気が音を発ててそこへ流れ、一点に熱が集中し始めた。高温による大気の揺らぎをまとう竜。全身の鱗の隙間から光が漏れ出し、もはや灼熱の塊そのものと化していた。
たまらず田宮は悲鳴を挙げて竜へ背を向け、つんのめるように駆け出した。体力も気力もすでに限界を超えていて、せいぜい小走り程度の速度でしかなかったが、本人は必死だった。顔を涙でぐしゃぐしゃにし、声の限りに絶叫しながらよたよたと進んだ。
「助けてぇ! 誰かぁぁぁ! ああぁぁぁぁ!」
凄まじき熱源体そのものと成る竜。反して声音はただ静かで抑揚はなく、冷酷そのものでしかなかった。
「臆するな、教授。熱いと感じた一瞬ですべて済む。苦痛の一欠けらさえ脳が処理できずにお前は灰になる。そして次に意識が戻った時には、目の前にケルベロスがしゃがんでいる。良かったじゃないか、奴に逢いたかったんだろ? お前の魂はすでにこちら側へと寄っている。生前の行いは一切合切で不問、地獄行きは確定である」
そして竜はゆっくりと、どこか優しげな口調で告げた。
「今度は歓迎する。ようこそ、地獄へ」