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暗渠を泳ぐ竜  作者: 芹沢ハト
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【 転 korobu 】


地方から都心の大学へ。


伊藤多恵にとって、人生初の一人暮らしはそこから始まった。戸惑いと新鮮さが常に背中合わせ。程よい緊張感の毎日に手応えを感じ、彼女は存分に学生としての本分へ精を出した。


そうこうしていた数ヶ月後のある日、頭数合わせで参加していた合コンにて見初められ、恋愛自体に不慣れなこともあったが、結果としてその同じ学部の男子学生と深い仲となってしまった。ただ、多恵はよく知らなかっただけで、かじってみればこれはこれで楽しかったのである。


やがて二人の距離は半同棲という甘美な形態へと推移、彼女にしてみればこれもまた初めての経験であった。


大袈裟かもしれないが青春を謳歌。過剰な言い草かもしれないが人生を堪能。そのこそばゆい自覚こそが、何よりも彼女に日々の活力を与えていた。


満たされている。報われている。だからその分いずれはしっかりと社会へ貢献しないと。男手ひとつで育ててくれた父に感謝。自由に生きることを保証してくれている、この国の在り方にも感謝。大学生活は始まってまだ半年も経てはいなかったが、多恵はしっかりと将来を見据えていた。


そんな折、転機は唐突に現れた。避けられなかった。その契機もまた、例の恋人経由だったからである。


率の良いアルバイトがあるので、一緒にやらないか。


導入部は至って普遍、そこら辺にありふれているようなものだった。もちろん当初は多恵なりに警戒はしていたのである。


巧い話には乗らないこと。まずは疑うこと。郷里の父より、都会へ移り住む際にこれでもかと釘を刺されてはいた。しかし、恋人が懇願するので無碍には断れない。まずは話だけでも聞いてみてくれとの熱意に折れ、先方の都合に合わせた日時に彼氏とともに赴く運びとなった。場所は学び舎の片隅の教授室で、相手はもちろん部屋の主であった。


その民族学の教授は田宮三紀彦と名乗った。


みどりの黒髪に浅黒く日焼けした張りのある肌。六十代とのことだったのだが、まるでそうは見えなかった。背筋はすっきりと伸び、脚の運びも軽やか。その手指には高齢者特有の節くれや浮き立った血管がまるで目立ってはなく、不自然なほどに若々しいその手を差し出され、多恵はおずおずと握手に応じた。



まずはご足労を感謝します。ありがとう。出来るだけ簡潔に話しますね。私の知人に某製薬会社の役員を務めるものがいて、彼から『学生を紹介してほしい』との相談を受けました。正確には彼が懇意にしている人物からなのですが、内容としては同義です。


さて、その依頼なのですが、もちろん誰でもいい訳ではなくて、身元のしっかりとした若いひと。可能ならば体力に自信のあるひとで、加えてさらに可能ならば未整備の自然や野生動物に対して人並みの適応力を示せるひと。噛み砕いて言えば悪路や闇夜に怯まず、昆虫や節足動物、爬虫類などにも動じず平静に対処できる人材がほしい……という事でした。


わたしは独自に候補を絞り、選出した数名の中に貴女が含まれていました。たまたま彼が私の教え子でありましたので、仲介と説得をお願いした訳なのです。喧嘩とかしませんでしたか? よろしい。


まずはざっくりと述べますね。準備期間として約半年、その後だいたい一週間程度の現場での実働となります。それらすべてを対象として給金が発生、はっきり申し上げまして報酬は法外です。もちろん期間中すべての衣食住をこちら側で負担させていただきます。


……そうですね、準備期間は指定の施設にて生活して頂くことになりますので、大学の方は休学をお願いする形となります。それを踏まえての高額な謝礼となりますので、どうかご理解を願いたい。


ではこれより詳細な説明に入りますが、その前にこちらへサインを。


いえ、契約書はこれとは別です。今回の事業は国が主導するものであり、守秘義務が課せられます。それに同意してほしい。いえいえ、これに書名したところで貴女を拘束するものではありません。ご安心を。ただし、部外者への口外やSNS上への書き込み等、違反行為が認められた際は刑罰の対象となります。よろしいですか。


そこに拇印を。


ありがとう。それではこちらの書類をお預けいたします。しかし、これを持ち帰ることはできません。この場で隅々まで眼を通すこと。いいですね。



手渡されたのは冊子としてはかなり厚めで、二百頁は軽く超えているような代物であった。


その表紙には赤の明朝体のスタンプで『関係者以外の閲覧を禁ず』『持ち出し厳禁』『複写厳禁』等の注意喚起が眼を引き、肝心の書名はどちらかといえばひっそりと控えめに記されていた。


『 第八次 オルフェウス計画・概要書 』


……オルフェウス……


当然の疑問とともに教授を見た。教授もまた多恵を見ていた。とても楽しげに。



かの吟遊詩人の名を冠していますが、当初は『アルゴー計画』という呼称で企画されたものでした。


著名な探検隊にあやかったのには、もちろん理由があります。


要は地獄の釜の蓋をこじ開けてみようと、つまりはそういう計画内容だったのです。


いえいえ、当然ただの比喩ですよ。地獄なんて存在する訳ないじゃないですか。わたしは社会的な地位を認められたいい大人ですし、それには貴女も彼も準拠しています。子供扱いをしているのではありませんよ。当然ではないですか。ええ、そうです。この場合の『地獄』とはありふれた揶揄なのです。ただ、そのように暗喩されても仕方がないような地域が、実はあるのです。『彼ら』により厳重に秘匿されていますがね。そこは字面の通り、さながら地の獄のような有様なのです。だから、ある程度の皮肉を込めて『地獄』と、そのように呼称しているだけなのですよ。


ここまでよろしいか。


さて、その地獄モドキ、前述の通りかなり厳しい環境にあります。


第一次アルゴー計画探索隊は専門の学者先生たちを中心とした顔ぶれでしたが、あえなく撤退の憂き目となりました。続く二次は一次に即したメンバーのみならず、現役特務自衛隊員の生え抜き数十名を加えた大所帯での編成で臨んだのですが、こちらも残念な結果となりました。ちなみにどちらにも犠牲者は出ていません。全員無事に生還しています。怪我人もいなかったとのことです。国の事業ですから、安全には十二分に配慮していますよ。はい。


二度の失敗から組織は刷新を余儀なくされ、『オルフェウス計画』として舵を切り直しました。


そこまでしてなお、地獄へと踏み込んで行くのは何故なのか? 


とても魅力あふれる土地だからです。大変な価値が想定されます。未知の技術と未知の物質、さらに未知の超生命体が溢れかえる宝物殿なのです。その埋蔵量や生息数は尋常ではなくとにかく莫大、貴重性・有効性は近海に眠るレアメタルやメタンハイドレートの比ではないのです。なんとしても近隣諸国に先立ち、この場所をわが国が独占する資産としたい。この国家としての悲願のため、関係各位は寝食の間も惜しんで日々努力と研鑽を積み重ねていると、つまりはそういう事なのです。


そして伊藤多恵さん、貴女にも今回是非ご協力いただければと、そのように思います。


いえいえ、とんでもない。決して難しい内容ではありませんよ。約束いたします。


もちろんこれからの半年間、入念な準備をしてもらわなければなりません。異形のものを目前にしても、確実に冷静に任務を遂行していける精神力、その強化を念頭に置いた鍛練をしっかりと受けて頂きます。よろしいですか?


異形? 異形の意味ですか?


言葉のあやの範疇です。そうですね、やや大型の犬を模した生物の存在が想定されてはいます。いえいえ、レトリーバーの成犬ぐらいのサイズとのことです。もちろん犬です、カテゴリ的には。そう、ただの犬。……犬は苦手ですか? 大丈夫? それは良かった。何よりです。


……住人ですか……そうですね……住人、といいますか、先住民族がいて、彼らが日々の営みを育んでいるのは確かです。ただ、彼らはかたくなに外界との接触を拒んでいて、こちらの話し合いにはまるで応じてくれない。さらによろしくないのは、少々好戦的なのですね。


いえ、大丈夫ですよ。ご安心ください。『アルゴー計画』の失敗の原因は、言ってしまえばそんな彼らとの積極的な交渉にありました。ですから、『オルフェウス計画』では隠密性に特化した行動を主としています。


つまりは斥候(せっこう)です。


あ、軍事用語なのでご存知ないですか。平たくいえば偵察ですね。


まずは彼らの日常を探る。どのようなものを食べ、どのような産業があって、どのような国づくりをしているのか。


とにかく何でも構わない、どんな小さな事でもいいので、彼らに関する情報を徹底的に蒐集する。それに特化したのが『オルフェウス計画』なのです。

…………


大丈夫です。大丈夫ですから。お約束します。大丈夫なのですよ。伊藤多恵さん、どうか最後まで話を聞いてください。


よろしいですか。


最終的には貴女お一人で行動していただくことになりますが、道中の半ばまでは四名ほどが護衛として同行します。もちろん、危険と判断された場合の撤収もありです。


単独行動に移行しても、帰還を念頭に置いた探索で構いません。なにも最深部まで侵入する必要はない。ほどほどのところで引き返してもらって大いに結構。さきほど『隠密性』という言葉を用いましたが、計画の実動はこれに集約されていると言っても過言ではありません。


密かに忍び込んで、密かに帰ってくる。もちろん空手では意味がありませんので、何かしら彼らの世界の物質を入手、それを目標とします。


なんでも構いません。石の一欠けらでも一握りの砂でもいい。一枚の葉でも数滴の水でもいい。ほんの少量、ひとつまみでもよろしいので、彼らの世界を構築する物質を持ち帰って来る。そういうお仕事です。


地獄であっても水は水。硬水と軟水のように成分比率の差はあっても、地表のものと内容的には同等ではないのか……と、不思議に思われるかもしれませんが、やはり『異形』の理由を解明するのに仔細な解析は必須なのです。ご理解ください。


……先住民と遭遇した場合ですか。


ご安心を。想定内のイレギュラーとして、その対処方もきちんと習得していただきます。


こちらとしても過去七度の遠征において、何も学んでいない訳ではありません。当然です。


異形ゆえになのか、異形だからこそなのか、その辺は曖昧ではありますけれど、彼らにはヒトに対する態度として、とある傾向が顕著なのです。


彼らは……


ヒトを試します。


そう、試練を課して来るのです。


さながら神々の物語における挿話のように、振り返らずに坂を登り切れと。そのように横柄な注文を付けてくるらしいのです。


ですので、それも踏まえた上での徹底したメンタルの強化訓練をお願いいたします。


『振り返らない』訓練です。惑わされず諦めず、決して折れない胆力の維持。それを事前に徹底します……


それにしてもですよ、いやはや、なかなか滑稽でしょ? 


ヒトを試すなんてね。そこに我らの付け入る隙があるとは言え……


笑えませんか? まったく片腹痛いですよ。何様なんだか……


バケモノのくせに。ねぇ?


あ、もちろんバケモノは比喩ですよ。比喩。安心してください。そんなものは居ませんから。


はい…………





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