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暗渠を泳ぐ竜  作者: 芹沢ハト
3/9

【 承 ukeru 】


気はまるで進まない。しかし、それでも俺は宮殿内の回廊を進むしかなかった。


ドラゴンを見てみたい。そんなニンゲンの要望により、休暇中の俺がわざわざ呼び出されたのである。愉快であるはずがない。


とは言え、これもまたお役目である。仕方が無い。かのニンゲンは留置所にて勾留されていたが、そこへはサイズ的に俺が不向きだったため、ハデスの指示により大広間へと身柄を移されていた。聴取のため、そこへと向かう。


しかし、どうしてもやはり気は乗らない。


気持ちを切り替えるため、業火のブレスでも吐いちゃろうかしらん……と何度目かの衝動が訪れたその時である。


頭の中をノックされる違和感。次いで独特の低音が鳴り響く。竜族の血縁者間にのみ交信可能の思念波である。思い当たる相手は多くないので、俺は()()を開いた。聞えてきたのは案の定、耳慣れた掠れ気味の声であった。


『……聞えているか、甚六(じんろく)。いまどこじゃ?』


親父である。まぁ、そうだろうなと、俺は予想通りの相手に不謹慎ながらもちょっとだけ張り詰めていた気が緩んでしまった。


『王宮だ。急用か?』


『つれないことを言うな。ハデス王直々の命により、慌てて直帰した息子に激を飛ばしてやろうというこのあふれんばかりの父の愛、ぬしにはなぜ伝わらぬのか』


『その陛下の勅命を遂行中なのだ。専念させてくれ。もう切るぞ』


『このバチあたりめが。ぬしは親をなんだと思うておる! まったくいつまで経っても嫁ももらわんヒョーロク玉のくせに、口だけは達者になりよって』


『その話はまた今度だ』


『ならぬ。あのな、交換留学生としてヤマタノオロチちゃんという娘さんがご近所に越して来たのじゃ。本来ならぬしの先の休暇中に引き合わせる段取りだったのだが、ぬしのトンボ帰りで話が宙に浮いたままなのじゃよ。どうだ? この次に会ってみないか? 気立ての良い、おしとやかなお嬢さんじゃて。ぬしの嫁にぴったりじゃ。今から念で画像を送るので見てみろ。色白のカワイ子ちゃんじゃ。まぁ、首が八本も有るので、中にはアレでソレでナニな首もあるが、四捨五入すればべっぴんの範疇じゃ』


『言っている意味がわからん』


『たわけが。考えてもみろ、首が八本あるということは交尾の時に全身ありとあらゆる処を同時にレロレロチロチロしてくれるということじゃ。想像するだけでめくるめく快楽の花園のようではないか』


『何の話をしている?』


『床上手の嫁をもらえという話じゃ』


『もう切るからな』


『こら、ぬしは一体いつになったら孫の顔をかあさんとわしに……』


一方的に切った。もういい。まとわりつく親父の思念を振り切るように、俺は駆け足で宮殿内を進んだ。



大広間へと脚を踏み入れる。


さすがは魔物のレセプションすら容易に可能とする空間である。その規模はとにかく破格、視認できるのは扉を擁する背後の石壁だけで、右方向も左方向もまるで果てがなく、無論として天井も窺えない。頭上には吸い込まれるような闇だけが、ただただ深く垂れ込めているだけなのである。


そんな室内の中央付近に燭台がひとつ、小さく灯したロウソクの炎を揺らしていた。そして傍らに人影が一つ。


結論から言ってしまうが、まず違和感はここから始まっていた。


先方にも俺の姿かたちが認められている筈なのである。


ところが、その人影は微動だにしなかった。俺はよくよく眼をこらし、仔細に観察する。影は後ずさりもしなければ、震えてもいない。この異形の巨体が見えている筈なのにである。微塵として臆した気配がない。


ドラゴンは初見ではないのか? 


理由は皆目見当もつかないが、だからと言って遠慮する義理はない。俺はずんずんと近づいて行った。


若いニンゲンのようだ。痩躯。喰う気はないが、とても不味そうである。くるくるとウェーブの掛かった頭髪が肩まで伸びていて、なぜか茶系統の発色を有していた。ニフォン人は黒髪という認識だったが、これもまた時代の変化なのだろう。


意外性は装束にも現れていて、鎧かぶとの重装備はもはや前時代的であると聞かされてはいたが、いかにも普段着然としたペラペラの布製の服なのである。ふわふわの腰巻で訪れられてしまうとは、いやはや地獄も甘く見られたものである。魔物蠢く冥府への道を、春先の遠足気分で散策されてもこちらが困ってしまう。


更に濃くなった嫌悪感を抑えつつ、俺は首を伸ばせば余裕で噛み付ける距離まで接近してから歩みを止めた。


ニンゲンは腕組みをしていた。威風堂々、加えての満面の笑みで、見下げる俺を真正面から見上げていた。


無言を貫くニンゲンと俺。しばし互いの視線が交錯。竜の威圧もどこ吹く風と、なかなかどうして大した玉である。初めて見るはずの竜を目前にして、一ミリもひるまず冷や汗のひとしずくもかかないとは。これは無意味の根比べが続くかと思った矢先、不意にニンゲンが口を開いた。


「あなたがお仕えしているのは、とても器の大きな方のようね」


それなりに意表をつく発言であったので、俺はつい素直に応じてしまった。


「なぜそのように思われる?」


「簡単な話、私から引き出したい情報があるのなら、手とか足とかにカプーって噛み付けばいいじゃない。私、ギャーってなって何でもベラベラ喋るわよ。わざわざこっちの要望に添ってくれた意図をお聞かせ願えるかしら?」


疑問を疑問で返されはしたが、悪い気はしなかった。


「こちらこそ簡単な話。貴殿を粗末に扱っていないのは亡者ではないからだ。ここはそもそも生ける者が脚を運んでよい場所ではない」


「……そうですか」と、ニンゲンは一度だけ浅くうなずいてから、再び俺を見上げた。


「立ち入ってはならない場所へと踏み込んだ禁を犯してはいます。その裁きはどうなさるおつもりで?」


「来訪の理由による。故意か偶然か」


「毅然として歴然と偶然です。たまたま見かけた洞窟を興味本位で探索してみたら、思いのほか深いところまで侵入してしまったに過ぎません。気がついた時にはすでにそちらとの境界線を越えていました。まったくもって情けない話でごめんなさい。信じてもらえますか」


そう言ってニンゲンが申し訳なさそうに顔を歪め、頭を下げる素振りを見せたので、俺は素早くそれを制した。


「不届き者ならば、魔物の巣を踏破前提の身なりのはず。その軽装に加えての丸腰とあれば、それは信じるしかあるまいて。我らをたばかる腹づもりにしても、いくらなんでも無鉄砲が過ぎる。その一方、地獄を管理するこちら側の不備もハデス自身が認めている。総体的に鑑みて、悪意ある侵入者ではなく不運の遭難者、そのように対応させていただく。あとは貴殿の出方次第だ。ハデスはそちらの希望に応えて小生をここに寄越した。ならば今度はそちらが誠意を示す番である。ハデスにとって益となる情報をもたらしてくれたのであれば、小生自らが貴殿を地上へと案内し、そのまま解放する。約束する」


「それで構わないと?」


「それで構わない。これはハデスの意向である」


「眉唾の情報を掴まされるとは思わないの?」


「粗野な魔物の集まりとて、序列を敷いた組織造りを常に皆が心がけている。我らは決して無秩序ではない。情報の精査もまた臣下の務めであり、専用の機関も設けてある。心配御無用。さておき、こちらしてはほぼすべてのカードをオープンにしている現況である。つまり、話してさえくれれば貴殿はまっすぐ家族のもとへ帰れるのだ。情報を秘匿することでまだ駆け引きを続けるおつもりか? 無論こちらの譲歩にも限りはある。この冥府より、持ち帰れる宝は貴殿の命以外なにも無い。五体満足での生還に勝るものなど有りはしない。金貨が欲しくば貴殿本来の立ち位置の地表にて、汗水にまみれるのが最善かと。過ぎたるは及ばざるが如しうんぬんとは、そちら伝承の言の葉だと記憶しているが、いかに?」


すると、ニンゲンの腕組みがだらりと解けた。肩の力が抜けたように。声の張りも無くなり、ささや

くみたいに「そうね……」と、つぶやいた。


「……了解しました、竜の使者殿。ハデス王の御厚情に深謝の意を表します。『異世界転生』について、私が知る限りの統べてをお話しましょう。でもその前に、ひとつ」と、ニンゲンは人差し指を一本だけ立てて示した。


「貴殿キデンと先ほどから言ってくれちゃってますが、一応女の子なんだけど」


指摘され、俺の思考領域は数秒間の空白を許した。


「オンナ?……ん? あ、雌か。これは大変失礼いたしました。えーと、つまり、アレだ。その胸の盛り上がりは大胸筋ではなく、哺乳類独自の器官・チチブサーという奴か。誠に申し訳ない。見ての通り小生は原則爬虫類的要素で構成されていて、チチーとかオパーイとかにはまったく縁が無くて……えーと、えーと、ほらほら、貴殿……もとい、そなたらもエビとかカニとかのオスメスはなかなか区別がつかないだろ。アレと一緒だ……すまん、他意はないのだ。許されよ」


あたふたと釈明に追われる俺。対してなぜだかよくは判らないのだが、ニンゲンのオンナはほんの少しだけ目許を緩めて見せた。


「大丈夫、使者殿。もう気にならなくなりました」



ニンゲンのオンナから『異世界転生』の説明を受けた俺にとって、優先すべきはハデスへの報告であった。しかし、その内容はまったく急を要すものではなかったし、また粗末には扱わないと宣言し、来賓であることも容認した手前もあり、まぁせっかくなので観光でもしますかと宮殿の外へと俺はニンゲンのオンナを連れ出してた。


だが、そこはさすがに我が地獄、風景としては絶望的なまでに訴求力が弱く、真逆の意味での景観しか案内する場所が無い事実を俺は改めて認識した。


まず地獄は色彩に乏しい。


そこかしこに闇が寝そべる世界であるがため、視野の大半を漆黒が占める。次いで岩肌の灰色や白、土くれの茶系統などが我が物顔で主張してくるので、赤や黄などの眼に鮮やかなものは必然として肩身が狭くなる。空の青はもとより望むべくもなく、樹木は存在しているが枯れ木や枯れ草が主であるため緑は無いに等しい。つまり冥府は、彩りからも魂を抜いているのである。


故に俺がニンゲンのオンナと訪れた王宮裏の河原も見事なまでに地味な構成で、見渡す限りが灰色の小石の河原、その中央を黒い水の川が上流の闇より下流の闇へと流れているだけという、なんとも実に清々しいまでに寒々しい、陰隠滅滅の景色なのであった。


気がつけばニンゲンのオンナから再び表情が消え去っていた。眉の一筋も動かさないままに辺りをただ見回している。


「水墨画みたい」


ぽつりと洩らしたその感想を、好意的に解釈してよいのかどうか……いや、どうにもよろしくない按配である。ニンゲンの嗜好の琴線にはぴくりとも触れないチョイスをしてしまったか……俺は気まずさの余り「あー、オッホン」と空咳をした。ちょっと口の端から炎が漏れたりしたが、そこも一緒に誤魔化した。


「花でも咲いている時期なら良かったのだが……」


すると、どうしたことかニンゲンのオンナがこちらへ振り返ったのである。好奇心を忍ばせた瞳で。


「花? 四季があるの?」


「ある。極寒・酷暑・豪雨・暴風で一巡だ。もっともハデスの気分次第なのだが」


「……それは災害なのでは……」


「そうなのか? てっきりあれが四季だと思っていたのだが……王と王妃さまの夫婦喧嘩の時の天候なんて、もうそれはそれは地獄のような有様でな……って、そもそも地獄なのだが」


「なんていうか、地獄も大変なのね……まぁ、地獄なんだから大変なのは当たり前なのかもしれないケド……」と、ニンゲンのオンナから心底同情申し上げます的な横顔をされてしまい、俺の動悸は妙な高まりを示した。


「いやいや、変な気を使わせてしまったか。すまぬ……おう、そうだ。ならば気晴らしに血の池でも見るか? あそこだけは視界の隅々まで鮮やかな血の色でな、常に絞りたての生き血でいっぱいなのだよ。辺りに漂う独特の生臭さもお気に召すかと」


「……それは遠慮しておきます」


まるで噛みあわない会話に四苦八苦する俺だったのだが、そこへ不意に思念波が割って入って来た。


『甚六!』


脳の内部へ雑音が轟く。それは回線の受信解除を無視しての強引さで、当然として怒声だった。


『おのれ、一方的に実父の念を遮断するとはどういう了見じゃ!』


『すまん親父。いま取り込み中なのだ』


『ふん、おなご連れでも有るまいに、たわけた事をほざくでないわ!』


……いや、ある意味でオンナ連れなのであるが、それを言っても混乱するだけなのは明白である。


『あとでこちらから折り返す。約束する』


取り繕おうとする俺に対し、しかし親父はけんもほろろ、一笑に付してくれた。


『相も変わらずぬるい奴め。念が近づいている事に言われぬと気付かぬとはな。この田吾作め』


不適に笑う親父の横顔、それが鮮明な映像と成って脳裏を掠めた。


刹那、俺は腰をひねって片翼を全展開、ニンゲンのオンナを覆った。


同時、俺たちの前方百メートルほどの場所へ頭上から影が急降下、発生した衝撃波は石のつぶてを四方八方に飛散させ、広げた翼の表面を雨あられと痛打した。大音響の地響きと共に河原は揺れ、舞い上がった土煙は小高い山の頂ほどに立ち昇った。


翼の中でニンゲンのオンナが黄色い悲鳴を上げる。さらに後ずさろうとするので、俺はそのか細い背中へ右の前脚をそっと添えた。


「大丈夫、問題ない」


その一方、視界の隅にて粉塵の幕の奥、黒い物体がむっくりと起き上がった。


長い首をもたげ、天を覆うほどの両翼を伸ばすように全開にし、再びてきぱきと畳み込んだ。老いてなお全身のウロコは鋼の硬質さを曇らせておらず、それを鈍い虹色にてらてらと輝かせながら、親父は笑いながらこちらへと近づいて来た。


「見たか甚六、わしのスーパーヒーロー着地。老いてなお健在じゃわい」


「あいかわらず無茶をするよ。歳を考えろ」


俺もまた片翼を畳み、正面を向いた。すると現れたニンゲンのオンナに親父はすばやく気付き、その黒眼を芝居がかったみたいに白黒させた。


「ぬぅ、生きたニンゲンか。これは珍しい。よし、かあさんへの土産として活きづくりにしよう」


「よせよせ、陛下の客だ」


「そいつが? ふーん、そうなのか……お、チチブサーがあるな。メスか……ぬぬぬぅ、甚六、おのれ、もしやニンゲンのメスに転んだのではあるまいな? かあさんが衝撃のあまりに舌を噛んでまうぞ!」


「だから客人なんだってば。話をちゃんと聞いてくれ」



「そういう事情であったか。あいすまなかった。非礼をわびる。許してくれ、娘御(むすめご)


言うやいなや親父が長い首を地表すれすれまで垂らしたので、ニンゲンのオンナは慌てて小首を左右に振った。


「あ、いえ、大丈夫です。はい」


親父は上目づかいに俺とニンゲンのオンナを交互に見て、そしてするすると首を肩の上まで戻した。


「おい甚六。ちゃんと紹介してくれ」


俺は簡潔に答えた。「ニンゲンのオンナだ」


「…………だからぬしは婦女子に受けないのだ。この唐変木め。すまぬ、娘御。名を聞かせてくれまいか」


「タエです。伊藤多恵と申します」


親父は「うむ」とうなづいた。


「かたじけない、タエさん。我らは見ての通り黒竜の父と子である。そなたらヒトと異なり、我らには各個体を識別する名前などはない。わしが先代で、こやつは対外的にⅡ世だのセカンドだのジュニアだのと呼ばれておる。まぁ、わしからすればまだまだハナたれ小僧じゃがな」


いい様にコケにされた俺だったのだが、そんな親父の軽口にニンゲンのオンナの緊張は幾分かほぐれたようで、やや遠慮気味の感じで「あの……」と、親父に話し掛けた。


「お父様は、かつて地表には?」


「出向いたことはあるが、もうかれこれ三百年ほど前のことじゃて。近代のそなたらの生態への理解は不勉強ゆえ少々、心もとないわ。なにか気がかりでも?」


「人間の世界にはスマウグとかL・ケブレスといった高名なドラゴンの伝承があります。お父様がモデルなのかなって、ちょっと思いまして」


すると、親父の目尻が露骨に下がった。


「ほうほう、現代でもドラゴンは有名か。それはなかなか痛快じゃな。どうだ、竜は強いのか?」


「はるかに格が上の生命体です。畏敬の念を抱く人の方が大多数かと」


親父の顔はさらにほころんで「そうかそうか、これは気分がええわい。よし、気に入った。うちに来なさい。かあさんにも紹介しよう」と、すっかり竜であることを忘れたかの様なエビス顔となって、満足気に胸を張った。


俺は慌てて割って入る。


「そんな暇あるか」


「固いことを言うでないわ、甚六よ。陛下の客人をもてなすのも臣下の務めぞ。わが家に代々伝わる郷土料理、赤犬の踊り食いを馳走しよう」


「ニンゲンには喰えんわ」


「ヒグマの一夜干しならええじゃろ?」


「食事をしている時間は無い」


「もう少しニンゲンの勉強をせぇ、甚六。ケルベロスの話では、最近のニンゲンの間では『いんすた()む』とやらが流行っているらしいぞ」


「知らんわ。そろそろ地表へと送り届けねばならぬ。諦めろ」


「そうなのか、ちと残念じゃの」と、親父が不満そうに口をへの字に歪ませたので、今度はニンゲンのオンナがしおらしく頭を下げた。


「ありがとうございます。お父様。お眼にかかれて光栄でした」


「名残は尽きぬがここまでじゃ。道中気をつけて帰りなさい。そなたに竜の庇護があらんことを。そして竜の祝福が永久(とこしえ)にあらんことを」


「お心遣い感謝いたします。お父様もお体にお気をつけて」


親父は「しからば御免」と会釈し、下半身に力を溜めてから一息に頭上へと跳躍した。中空にて両の翼を大きく上下に羽ばたかせ、そのまま弾かれたように闇の彼方へと飛翔していった。


そんな去り行く親父をニンゲンのオンナと揃って見送りながら、俺の口から極々自然に素直な感想がぽつりとこぼれ落ちた。


「……何をしに来たのだ?」



俺は再び王宮へと戻り、一旦ニンゲンのオンナと別れてから中庭へと向かった。ハデスへの報告のためである。


ただ、中庭に一歩踏み込んだと同時に、俺の嗅覚がひとつの違和感を捕らえていた。自然と脚が止まってしまう。


「ん? どうした、黒竜卿?」


畑作業中のハデスから先に声を掛けられ、俺は慌ててこうべを垂れた。


「失礼いたしました、陛下。黒竜、参りましてございます」


「うん。ご苦労様」


「陛下……父が御挨拶に参りましたか?」


「うん。近くまで来たからって、顔を見せに来てくれたよ。なんでわかったん?」


「微かにですが、特有の加齢臭が漂ってございます」


ハデスは「ははは」と軽やかに笑ってから、「では報告を聞こうか」と促した。


腑には落ちない。父はここに来た帰りに河原へ赴いた。そういう事らしいのだが、では、何が目的で『近く』まで来たのか? 『近く』とは? 疑問は山積みではあったのだが、今は御前である。私的なことは脇へと置いて、俺は自分の務めを最優先とした。


結論から言えば『異世界転生』は只の妄想でしかなく、まったくの無害であった。


根底にあるのは願望としての人生の再構築で、身体能力や知力などのステイタスを過剰に優遇、のみならず非現実的な異能力も加味し、来訪した異世界にて八面六臂の大活躍。その傍らにて複数の異性と恋仲になるなど、まさに公私共にやりたい放題の極めて自分本位な夢想、剥き出しの承認欲求。

それが現代ニフォンにおいて、一部の若者を中心に疫病のごとくに蔓延している模様と、どうやらその程度の認識で問題はないらしい。笑ってしまうほどの取り越し苦労であった。


ところが、である。


「んー、そういう事か。ま、大事にならなくて良かったよね」と、発言のわりにはなぜかハデスは浮かぬ顔で、まるでそれを隠そうともしていなかった。


「陛下、まだ何か問題が?」


しかしハデスはふるふると首を横に振って見せただけであった。その反応の方が俺としては尺然としなかったが、我が主はもうそれ以上には取り合ってくれず、思いついたかのように話題をすり替えた。


「ところで例のニンゲンは?」


「地獄の門にて落ち合う段取りです」


「ふーん、先に行かせたんだ。なんで?」


「最後にもう一度ケルベロスと話したいと懇願されまして。どうせ坂への道すがらですから、私の判断で許可しました。もちろん衛兵四名に帯同を命じてはおります」


……本当のところは指摘されるまでオス扱いしてしまったのが気まずくて、ついつい許してしまったのだが、これは伏せておく事とした。


すると、案の定ハデスは声帯が裏返ったような上ずった声を出した。


「はぁ? ニンゲンがうちのベロ助になんの用があるっての?」


「なんでも、可愛かったからとかなんとかで……はい」


「なんだよ、それ? ワン公の首が三つ並んでいるんだよ? なんなの?……よくわからんよなぁ、ほんと、ニンゲンって」


俺として「御意」と答えるのが精一杯であった。


それでもハデスはハデスで「ま、いいや」と背伸びをし、のんびりした口調で独り言のように漏らした。


「それではぼちぼちお帰りいただくとするかね。ぶぶ漬けは用意できないけど、いつもの『オルフェウス仕様』の準備はすでに整っているから。もう一働き頼むよ、黒竜卿。坂の入り口まで案内してあげておくれ……例の試練についての説明も忘れないように」



薄闇。ただひたすらに周囲は朧げで、閉ざされた闇の帳の只中にあった。


そんな何も無い空間にて、俺はニンゲンのオンナとぽつんと二人で……もとい、二個体で肩を並べ……もとい、肩の位置的にはとんでもない隔たりがあったが、とにかく並んで目の前の登り坂を見詰めていた。


坂の周囲だけは闇の密度が薄く、緩やかに向上している様が見て取れた。果ては知れず、延々とどこまでも上へ上へとまっすぐに伸びている緩やかな傾斜。決して悪路というわけではないが、整備が行き届いているとも言い難い、そんな道を呆然とオンナは眺めていた。


俺は首をぐにゃりと曲げ、オンナの顔を覗き込んだ。


「坂を登り切るには、体力に自信のある者でも一日以上は掛かる計算だ。無理はせず随時休憩をはさむように。道中に魔物の類は一切いない。保証するよ。食料と飲料水は用意できるが……こちら側のものは口にしない方がいいのだよな?」


異世界のものを体内に取り込むことにより、魂の拠り所が対岸に移行する。ニンゲンが奏でる神話にはその様な記述があり、彼らは現代に至っても頑なにそれを信じて止まない……うんぬんの資料を目にした記憶がある。根拠はまるで希薄なのに、その突拍子のない考え方をおもしろいと俺は感じていたので、これはよく覚えていた。


案の定「異界のものは口にできない。魂がこちらに帰属しちゃう。帰れなくなる」と、オンナにはやんわりとお断りを入れられた。


「そうだな」と、ありていに同意する俺へ、オンナは質問を重ねてきた。


「この道は地表のどこに繋がっているの?」


「ニフォンの某所、とだけ言っておこう。ちなみにそなたが侵入して来た経路はすでに塞がれている。これは別ルートだ」


「正規の脱出口(EXIT)?」


「違う。これはハデスの権限で強制的に穿たれたそなた専用の帰路だ。用が済めば『なかったこと』として元の地層に戻される」


「そんなことまで可能なんだ……」


「大地の神を甘く見ないことだ。この規模の地殻変動など、ハデスにすれば眉根を動かす程度に過ぎない」


「……了解しました。使者殿」


そしてニンゲンのオンナは、体ごとくるりとこちらの方を向いた。俺の右前脚をその両手でそっと包み込む。


「お別れだね、ドラゴン。お世話になりました」


闇に覆われた坂の上から、静かに風が吹き下りてきた。それがオンナの肩の掛かっていた長い髪をさらさらと揺らす。頬の辺りでふざけるように踊る毛髪を気にするでもなく、オンナは俺に微笑んでくれていた。


俺は息を呑む。


初見は確かに『不味そう』だった。今でも喰う気はもちろんさらさら無いが、しかし、まったく印象が変わってしまっている事を俺は認めなくてはならない。


ひょっとしたら、喰えばそれなりに美味いのじゃないだろうか……いや、美味い不味いとか、そういう次元の話ではなくて、もう少し話していたいと言うか、関わっていたいと言うか……


しかし、オンナは地上へ戻さねばならない。試練の準備も整っている。引き止めることは論外でしかない。俺に髪は無いので今ひとつ掴めない感覚であったが、後ろ髪をひかれるとはこういう事なのだろう。もどかしい。だが、もう許された時間はわずかだ。正体不明の暗澹たる気分に、俺はしばし言葉を紡げないでいた。


「どうかした?」


オンナの問い掛けに、俺はようやく我を取り戻した。そして役目も。


実務は果たさねばならない。俺はそういう立場にあるのだから。


「実は……伏せているカードが一枚ある」


「……なんですか……」


俺が切り出そうとしていることの重要性を察したのか、オンナの顔から柔和なものが掻き消えた。まるでこの展開を覚悟していたかのように。もちろんそれは不可能で、まったくの偶然なのだろうが、それでも俺は告げなければならなかった。


「坂を登るにあたり一つだけ条件がある。決して、何があっても、後ろを振り返らない。振り返ってはだめだ。わかるか?」


「何があっても?」


「何があってもだ」


「どうしても?」


「どうしてもだ」


「もし振り返れば?」


「地獄に関する記憶、そのすべて失う。それはここでの滞在期間のみならず、これまでのそなたの半生全域に及び、些細なものすら漏らさず漏れなく、根こそぎ剥ぎ取られる。わかるか? そなたの脳内にて『地獄』関連のキーワードが残さず『 not found 』と表示されるようになる。ハデスはそういう呪式をこの空間に編み込んでいる」


オンナが俺の前脚から手を離した。再び坂の方を向く。首を伸ばせば表情を窺うことはもちろん出来るが、それを俺に躊躇わせる気配がしっかりとあった。


また風が吹く。坂の上より。地表より。


オンナの髪が再度ふわりと舞い上がって、髪型を崩した。それすらもまるで気にせず、オンナは絞り出すように疑問を口にした。


「それってつまり、この坂ではヒトは必ず振り返るって事だよね?」


「ああ。それこそ神話の時代より、この試練を成し遂げられた者はいない。成功者は零だ。ニンゲンは必ず振り返る」


「地形を変えてしまうほどの力があるのなら、私の記憶を操作することなんて簡単なんじゃない? どうしてわざわざこんな手の掛かることをするの? 何のための試練? ヒトの何を試したいの?」


「地獄を訪れた理由はさておき、生けるニンゲンにはここの事を自発的に忘れてほしい。忘れてしまわなければならないと、自らを律してほしい。それがハデスの願いだからだ」


オンナはまだ正面を見据えたままだった。少しだけ沈黙して、そして静かに疑問を口にした。


「……ドラゴンはどう思う? 私は忘れてしまった方がいい?」


「もちろんだ。その方が良い」


「あなたのその可愛らしいまん丸お目々のことも?」


「それは積極的に忘れてほしい」


失笑する俺。吊られてオンナも薄く微笑む。


「ドラゴンに触れたことも?」


「ああ。そなたのためである。竜なんぞ居るわけがない。地獄なんぞ存在する訳がない。地表に戻り、ニンゲンとして真っ当に生きよ」


するとオンナはもう一度笑った。泣きそうな顔で。


「なによ、マットーって」


ゆるゆると風だけが抜けていく。それを全身に受けながら、俺もまた指摘されたことを自問自答していた。


ハデスの仕様は絶対である。オンナは必ず振り返る。記憶を無くして地上へ帰る。


それが唯一の正しい選択である。そう信じて、俺はこの場所に立っている。使命を忠実に全うしている。しかし、晴れ晴れしいほどの充実感を全身で謳歌していて良い状況の筈なのに、気分としては有り得ないほど沈んでいた。


事実を受け入れねばならない自分と、拒絶したい自分。対峙する自身の内面にて葛藤は重く、そして何より俺は苦痛を強いられていた。


心苦しい原因は一体全体なんなのだろう。もがく俺にオンナが気付くはずもなく、彼女は彼女でどこか淋しそうにつぶやいた。


「あなたもお父様もケルベロスも、あのホネホネロックのヒトですら……骨だけだったけど……あなたたちはみんな穏やかだった。怖いなんてちっとも思わなかった。どうしてなんだろう……魔物なのに」


俺は息を呑む。


……そう、我らは魔物なのである。『者』ではなく『物』。


相互の理解は最初から存在しえない。


彼女の独白に俺は自身の立ち位置を改めて認識し、その上で魔物だという自覚を強くした。


彼女と俺は異なる種である。よこしまな好奇心はわきまえねばならない。かなぐり捨てねばならない。陛下の意思を尊重しなければ。俺は腹をくくった。


「あるいは、ひょっとしたら、もしかしたら、などとは夢にも思わぬことだ。そなたらはニンゲンで、我らは魔物。不動の前提としてわかりあえない。我らとそなたらの間には明確に分断された溝がある。それを越えてはならぬし、探ってもならぬ」


「本気でそう言っている?」


「その方がそなたのためなのだ。わかりあえない事をわかってほしい」


「溝があるのはわかる。でも、わかりあえない事はわからない」


「かもしれないが、それでも溝が無くなる事はない」


「お父様が河原に着地した時、わたしを守ってくれたじゃない。あの行為もただの使命感だけだったってこと? 客人に怪我をさせてはいけない、その思いしかなかったと?」


そうだ。それ以外は何も無い……という言葉が露骨に咽喉で詰まる。あの刹那、『主の客』などという余計なものは微塵も無かった。とっさに翼を開いていた。反射的に。


俺は言葉に窮し、そして彼女はうなだれた。


「……ごめん。困らせているね、私……」


違う。困らせているのは俺の方だ。


「ねぇ、ドラゴン。私は……あなたを忘れてしまう。でも、あなたは私のことを憶えていて」


魔物である俺が君を迷わせている。


「あなたに触れて、あなたとお話して、あなたを忘れてしまうことを嫌だと思っている私のことを、どうか、ちょっとの間でもいいから憶えていて」


化け物である俺が君を惑わせている。


「地獄に来られるように悪いことをいっぱいして、そして死んだらもう一度あなたに会えるかしら……あ、私はドラゴンの事を忘れているのか……門のところまで迎えに来てくれる?」


そして、竜である俺が君を誤らせている。


俺は君を正さねばならない。


「悪いことは言わない。やめておけ」


「そうね……」


ゆらり、と彼女が前に出た。坂に向かって一歩、さらに一歩。もう一歩。そこへ、ひと際強く風が吹き抜けた。それが静まってから、次いで彼女の実に弱々しい声が流れてきた。


「もし……もしもだけど……ねぇ、ドラゴン……」


坂の手前にて、彼女は振り返ることのないまま背中越しに問い掛けてきた。





「伏せているカードが……私の方にも有るとしたら……」





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