【 起 okiru 】
ハデスの玉座はいつも空である。
この冥界を司る王の座が空位、という意味ではない。謁見の間におもむいても、主はほぼ不在だからである。
念のため大扉の左右に陣取るオーガの衛兵たちに「いる?」と問い掛けてはみたが、彼らは揃ってブンブンと首を左右に振り、ほがらかに「あ、いないっス」と否定した。
「御苦労」と彼らを労ってからそこを素通り、俺はまっすぐに中庭を目指した。
どういう理屈かは知らないのだが、ハデスの宮殿は地下にありながらもなぜか中庭にだけは陽光がさしている。いや、お日さまを苦手とする闇の魔物軍団を率いているから、地の底に居城を構えたのではないのですか……的な考えは愚問である。
ハデスは冥府の王にして大地の神であり、王妃ペルセポネは豊穣の女神である。故にハデスの趣味は必然として家庭菜園となり、必要な日の光を地底に取り入れて、暇さえあれば土いじりをしていると、つまりはそういう事なのであった。
日光が燦々と降り注ぐ中庭にて、俺は案の定として主を見つけた。上下の野良着に素足、首筋にはぐるりと手拭いを巻きつけるという、冥界の王としてはあるまじき装いで、ハデスはせっせせっせと実に嬉しそうに畑へ鍬を入れていた。その手のことは手下にやらせたらええやん等など思わなくはないのだが、たぶんこのヒトは(※ヒトではないが)こういう事が好きなのである。
もくもくと土を耕しているハデスの後方十メートルぐらいまで近づき、俺は翼とシッポを小さく丸め、出来るだけ首も縮めた。わが主は体積的に俺の十分の一にも満たない。だから配下として、御前では出来るだけ小さく身を丸めるよう心掛けていた。首長竜体型として正直な話、首をぐぐーっと萎縮させておくのは結構な苦痛ではあるが、しかし窮屈などとは考えない。額を接地してぬかづくことは適わないが、それでもしっかり平身低頭、平伏の姿勢を示した。
「失礼いたします、陛下。黒竜Ⅱ世、参じましてございます」
「おー、黒竜卿。休暇のところ呼び出してすまなかったな」
くるりと振り返るや、ハデスは土にまみれた顔のままでにっこりと微笑んだ。
勇退し、田舎で楽隠居の身分となった父の許へと帰省していた俺だったのだが、そこへ『火急の事態にて登城されたし』の一報が届けられた。しかし、すわ何事とばかりに舞い戻ってみれば、当の主が野良仕事の真っ最中でありました……という次第である。
まぁ、どうやら大事ではなさそうだ。胸に巣くっていたよろしくない圧迫感がフッと軽くなり、俺は静かに安堵の溜め息をこぼした。
「おやじ殿は達者だったか? ん?」
顔の汗を手拭いで拭きつつ、ハデスは畝の脇に「よっこらしょ」と、あぐらをかいた。
「息災にございます」
「おやじ殿さ、昔、その気になれば首は百本まで生やせますぞって事あるごとに言っていたのだけれど、あれ結局どーなったん?」
「おそれながら、どうにも四本がマックスのようで」
「まぁ、そうだろうねぇ、首が百本有っても意味無いしね……つーか、四本もどうかと思うけど……まぁ、ヒドラなんかは八本あるけどね、アレもどーなんだろうねぇ……あ、楽にしていいよ。くび伸ばしなよ」
それでは遠慮なくと、俺は縮めていた首筋から力を抜いて、ゆったりともたげた。そうすると主君を上から見下ろす形になってしまうのだが、当のハデスがまったく意に介さず、無防備を丸出しで「さてさて」などと独り言をこぼしつつ両の肩をゴリゴリとほぐしているのである。格式や体裁に重きをおかない、わが主のこういう部分はとても好感が持てる。
そんなハデスの一人称は『おじさん』である。さすがに公的な場での発言においては朕だの余だのを用いるが、ざっくばらんと化した雑談においてはひたすら『いやー、おじさんったらさー』と、とことんへりくだるのである。部下や民はもちろん、状況次第ではニンゲンの亡者にももれなく情をかけてしまう、そんな気さくな人柄の(※ヒトではないが)地の獄の王なのであった。
「もう最近五十肩がひどくてさ、おやじ殿はなんか愚痴ってなかった?」
「父も最近ブレスの出がよくないと、ぼやいてばかりおりました」と、当たり障りのない受け答えをする俺。
するとハデスは「そうかー、いやー、全盛期のおやじ殿のブレスったら、ハンパなかったからね。三秒で一キロ四方を灰にするんだもん。あれにはタマげたわー。がはははは」と、笑い飛ばした。
いや、いくらなんでもそりゃ盛りすぎですよね……などと答えられる筈もなく、「はっ!」的な勢いだけの受け答えで俺はなんとか流した。
そうこうしていると、「あ、そうそう」とハデスは何かを思い出したように手の平をポンと叩いた。
「ところでさ、おじさん、この間ふと思いついたんだけど、ドラゴンの長男なんだからドラ息子なんだよね。なんつて」
先ほどよりさらに輪をかけて答えに詰まった俺は、「……御意」と精一杯の苦笑いで曖昧満点にごまかした。
なんというか、親子二代に渡って仕えさせて戴いている身分ではあるのだが、このヒトは(※ヒトではないが)本当に捉えどころがない。父は『王としても破格の大器』と心酔していたものだが、俺としては時々ついて行けなくて不安になる。
もちろんそんな俺の杞憂などつゆ知らず、ハデスは「で、本題なんだけどさ」と切り出した。
「卿が不在時の全体集会での話なんだけどね、ケルベロスから奇妙な報告があってさ。どうにも地獄の門を訪れた最近の亡者たちの中に『ここは異世界なのか?』って問いただす奴がちらほらいるらしいんだよ。しかも決まってニフォン人(Nifon-jin)の若いやつ」
「ニフォン……ですか」
「うん。ハラキリの潔さとモエモエの混沌を同軸の文化として持つ、奥深い多様性が持ち味の民族だよ。でね、ケルベロスが『ちがいますよ、ただの地獄ですよ』って答えたら、なんかすんごいショックを受けるらしくてね。『異世界転生じゃなかったのか』とか『金髪碧眼の美少女おらへんのかーい!』みたいなことを口走ったりもするらしい。はてさて、どう思う、これ?」
「おそれながら、異世界も謎ですが、転生の方はもっと解せませぬ」
「そうだよね」と、ハデスは顎をゆっくりと揉んだ。
「うん。彼らの生前から考えれば地獄も異世界ではあるのだけれど、その口ぶりからすると『異世界』行きを望んでいるような感じなんだよね。でも極楽浄土を願っているのなら『ここは天国か?』って質問になるはずでさ」
素直にうなずく俺。「仰せの通りかと」
ハデスもまた、ひとつ「うん」と肯定してから、「だから違うんだよね」と否定した。
「天国でもなく地獄でもないどこか。そこへの転生に淡い期待を抱いて死を迎える輩が、ニフォン限定で量産されていると。どうやらそういう事らしい。なんかキナ臭いよね。で、この場合の想定される最悪のシナリオは『ニフォンが独自の転生技術を確立しつつある』ということ。それが何なのか、まったく見当もつかないけど、技術として制御可能になった暁には当然全世界に伝播するよね。すると、地獄への亡者のみなさまの来場が激減してしまうと。これはインバウンド的にも由々しき問題だ。死者で溢れかえり、ワイのワイのとにぎわってこその地獄の存在意義なのだからさ」
インバウンドはさておき、ハデスの懸念も納得である。
「状況は理解できました。して、わたくしめの役目は?」
「それでねー、やっぱりここはニフォンへの査察を試みるべきではないのかなと。あーだ、こーだ思案しているところへ昨日、客が来たのよ」
なにやら不快な予感で胸がいっぱいになる。
「……ニンゲンの生者ですか?」
ハデスは上目遣いとなり、「そう。しかもニフォン人」と、すこぶるだるそうに頷いた。
「さらに何と御ひとりさまだったのよ、その客。すごくない? 単身で地獄に乗り込んで来たんだよ。いやー、冥土だけどメイドカフェじゃねぇっつーの。なんつて」
ハデスはおどけては見せたが、その心労はここに至ってすっかり露呈していた。
ハデスの管理下にない余分な入り口は、『こちら側』から徹底的に塞いではいる。しかし、冥王の千里眼とて地表の隅々までは見渡すことは叶わず、取りこぼしの開口部より、未だに命知らずのニンゲンが稀にではあるが盗掘者として侵入して来るのである。よせばいいのに。
身の程知らずとはこのことで、意気揚々と踏み込んだそこは魔物の巣窟である。水晶の欠片も見つけられないままに、彼らは復路の無い往路のみの死の道程を進むこととなる。その顛末は言わずもがな。
見かねたハデスが百年ばかし前、『迷い込んだニンゲンの暴れ喰い禁止』との布令を発しはしたが、もちろん焼け石に水でしかなかった。ニンゲンに災厄を与えるからこそ、我らは魔の物なのである。この定めがそうそう覆ったりはしない。もとよりそれを何よりも承知しているハデスなので、うっかり生者を食べてしまった同胞にも処罰は無いに等しく、書面での注意喚起に留めていた。王の苦悩は深い。
そもそもこちらの領域にのこのこやって来るニンゲンがいけないのであって、取って喰われても文句は言えないような気もするのだが、国王の立場ともなればそう単純に済ませていいものではないらしい。臣下としてそれが手に取るようにわかってしまう。
曖昧になりつつあるヒトと魔物との距離感。それへの新たなる線引き。透けて見えるハデスの苦慮、それが顕著なここ百年であるからして、故に危惧してしまう。ハデスは大胆な変革を思い描いてはいまいか、と。
ヒトと魔物の共存共栄。
……否。ありえない。何を今さら。
しかし、またぞろ目前でそれを匂わされてしまっている。
実は陛下の心変わりを勘ぐり始めた当初、俺は側近としてニンゲンについて詳しく知る必要があるべしと考えた。公務の合間を縫って関連の公文書を読み漁り、知識としてのニンゲンを掘り下げてはみたのである。
しかし、感触としてあまりよろしくはなかった。
いわく、
●脆弱(薄い皮膚に覆われているだけで、ウロコが無い)。
●短命(百年生きたら表彰もの)
●自力で空を飛べない(翼が無い)。
●攻撃としてのブレスを吐けない(臭い息は吐けるようだが、内臓疾患等が原因の模様)……うんぬんと、欠陥に関しての枚挙に暇がない。
かつて、我が竜の一族の祖先の中には好んで連中の姫をさらって来た好き者がいたらしい。俺に言わせれば正気の沙汰ではない。火中の栗を拾うにしたってほどがある。そもそも略取の理由が曖昧で、喰うのなら姫にこだわる必要はないし、交配の相手にしようにも互いの生殖器が構造的に適さない。拉致したところで、手許に置いてせいぜい眺めて愛でるだけであろう。たったそれだけのために、なぜ手間隙を掛けてさらうのか? 果てしなく理解に苦しむ。
ニンゲンの何に魅せられたというのか。俺にはとんとわからない。
それこそ昨晩、実家の父親にこの件をやんわりと振ってはみたのである。しかし「なんじゃい、ぬしは? ニンゲンの娘を嫁にでもするつもりなのか、このたわけ。かあさんが腰を抜かすわ」と、取り付く島もなかった。まったくニンゲン絡みの諸問題にはろくな事がない。
願わくば関わりたくはないというのが本音である。焼いて喰えばそれなりに旨いとの話だが、俺は御免こうむる。生涯食わず嫌いのままで結構。
そんな俺にハデスは何を命じようとしているのか。
つい先ほど安堵の溜め息を漏らしたばかりだったが、雲行きはどうにも怪しくなってきた。
それでも主君の話に耳を傾けるしかない。拝聴の姿勢を崩さずに、俺は主の次の言葉を待った。
「……それでね」と、ハデスはややためらいがちに口を開いた。
「たまたま居合わせたオーガが先の集会の話題を覚えていて、その御ひとりさまを生け捕りにしたのね。それでおじさんのところへ連絡が上がって来て、それじゃあってガイコツ兵に尋問させてみたのよ。いいかい? ガイコツ兵だよ? スケルトンのホネホネロックだよ? 声帯も無いのにしゃべるんだよ? ニンゲンからしたら有り得なくね? 超々不条理不可思議非常識現象じゃね? だからビビリまくって、こちらの問い掛けにベラベラ喋りまくってくれると思っていたらさ、どーもコイツ、カタギじゃないのね。変に度胸が据わっているというか、豪胆でさ。なんと交換条件を出して来やがったのよ。もう、おじさん開いた口が塞がらなかったよ」
御前ではあったが、俺は少し笑ってしまった。大胆にもほどがある。かなり奇天烈なニンゲンであるらしい。
条件か……やれやれ、嫌な予感しかしない。
「……どうやらその虜囚、肝の太さは魔物級のようでございまするな」
「たしかにねぇ。でね、ここでようやく卿を呼んだ理由になるんだけどさ」
ハデスは再び「よっこらしょ」とつぶやくと同時に立ち上がり、曲げていた腰を伸ばした。左手でそこをぽんぽんと叩く。「あたたた、寄る年並みだわー」などと弱音を吐いてから、改めて真正面から俺を見据えた。
「そいついわく、『異世界転生』についての情報を得たいのならば、魔界のドラゴンにひと目あわせろ、だってさ」