悪役令嬢の兄は心配性7
某日。
ローズにつけていた影から急を要する連絡を受け、私たちはローズの居室へと急いだ。
ベッドの上に眠るローズの頭には包帯が巻かれ、まるで眠り姫のようだった。
「私たちがおそばにいながら……っ、申し訳ございません!!」
周囲にいた侍女たちを押しのけるように前に進み出たリチャードが、今までに見たこともない表情でローズの枕元に急ぐ。
普段は王子様然とした装いを崩さないリチャードも、そんな余裕もない様子が心境を表している。
「なぜ、こんなことに……ッ」
行き場の無い感情が込められた慟哭が這う。
そんな声色とは裏腹に、リチャードは壊れやすい繊細な宝物に触れるように、そっと行儀よく胸の上でまとめられていた手を握った。
「ローズ、目を覚まして。眠る時間ではないよ」
リチャードは眠ったようなローズに向かって、そう呟いたきり口を閉じた。
白い手を温めるように包み込み、唇の熱を移そうとする姿は胸を抉るようだった。
俺だってローズのそばに駆け寄りたい。
それなのに、足が前に出ないのだ。
もし、触れてみて、冷たかったらどうする?
もし、呼吸が止まっていたらどうする?
もし、もう起きなかったらどうなる?
そんな可能性、知りたくなかった。
最悪な場合が頭を占める中、リチャードがガタリと派手な音をたてて立ち上がった。
「ローズ! 気が付いたのか!」
その声に竦んでいたことなんて頭からすっかり抜けて、リチャードを押すように妹の顔を覗き込む。
血の気がなくなっていたローズの頬はピンクに染まり、俺と同じ色の瞳がこちらをぼんやりと見返した。
「……おはよう、ローズ」
「ローズぅうう! やった! よかった!!」
喜ぶ俺たち、侍女たち、輪の外側で見守っていた従僕や護衛達の安堵の表情が再び固まるのはすぐだった。
「……なんですの。淑女の寝室に入るなど、無礼にもほどがありますわ!」
そう叫んだからだ。
「あぁ、ごめんねローズ。驚かせたね。倒れたと聞いて皆心配して……」
「ひっ、手を放しなさい! 気安く触れないでくださるかしら!?」
ピシャリとリチャードの手を跳ね除けたローズは、警戒心を隠そうともしない。
明らかに様子のおかしいローズは、俺と目が合うと手を伸ばし瞳を潤ませ叫んだ。
幼い頃によく聞いた『ふえーん』という副音声が聞こえた気がする。いや、絶対に聞こえた。全幅の信頼を寄せるお兄ちゃんに助けを呼ぶ妹の声が。
「お、お兄様ぁッ! 助けてください。狼藉者が寝室に!」
「大丈夫か。お兄ちゃんが今すぐこの変質者を追い出すからな。すぐに」
「あ、おい! 変質者って俺のことか!?」
つまみ出されたリチャードには悪いが、ローズを助けるのが先だ。お兄ちゃんだからな!
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「──わたくしが、リヒト様のお兄様の婚約者?」
どうやら、ローズはリチャードにまつわることを忘れてしまったらしい。
ローズは朝からリチャードとの結婚式の準備に動き回っていた。
なんでも、結婚式で指輪を運ぶ役を飼い猫の『スコちゃん』に任せるらしく、「素晴らしいリングキャットになる訓練ですわ!」とおやつとおもちゃ片手に燃えていた。
関係ない訓練? 遊び? をしているようにも見えないこともなかったが、飼い猫との絆は着々と深まっていたらしい。何よりだ。
そこで事故は起きた。
愛猫は日々のおやつに慣れたらしく、最近料理長と共同開発した猫用の新おやつ【ミャオチュール】なるものをお披露目したらしい。
新おやつは猫を狂わす魔力を秘めていたらしい。
液状になっていたスコちゃんは野生に戻ったかのような俊敏な動きで、新おやつを持ったローズに襲いかかった。
飛びかかるもふもふを顔面で受け止めたローズは、そのまま後方に倒れ頭を打った……ということらしい。
目を覚ましたローズは、幸せの絶頂だったというのに自分の婚約者を忘れてしまった。
混乱した様子のローズにどうしたものかと頭を抱えてしまう。
ローズの中には、リチャードとの思い出も、どんな困難を乗り越えてきたのかも、どんな想いと覚悟を胸にここまでたどり着いたのかも何もないのだ。
「……どうしてそうなったのかは理解が及びませんが、わたくしも貴族の娘。政略で決まったことに否はありません」
「──政略ではないよ」
つまみ出されたはずのリチャードが、音もなく舞い戻って来た。
いつからそこに! という非難の視線は、王子様スマイルに弾き返された。ローズの警戒心を解こうと、普段よりも増してピカピカの”王子様”を背負って舞い戻ってきたようだが、ローズの表情は不審者を見るソレだ。
「……先ほどは失礼いたしました。その髪に瞳の色……リヒト様のお兄様とお見受けします。本当によく似ていらっしゃること」
「私に、リヒトが、勝手に、似ただけなんだけれどね」
ローズの耳には届いていないかもしれないが、リチャードが小声で訂正した。カップを握り壊さないでくれないか?
「なんでも婚約を結んでいるとか。リヒト様ならいざ知らず、お兄様とは初対面。いわば他人です。婚前に寝室に入るだなんて身持ちを疑われます。わたくしを貶める意図がないのであれば、以後はお控えください。二度目は正式に王室へ抗議を送らせていただきますわ」
「……本当に記憶が混乱しているようだね」
リチャードは一瞬だけ地を這うような声を出したかと思えば、パッと王子の仮面を背負い直した。ぞわっと悪寒が走ったのは俺だけではないようで、部屋の中にいた全員が腕を擦った。鳥肌が肘と手首を行き来している気がする。
リチャードはおもむろに、ローズの足元へと跪いた。
普段ならば『これは姫に忠誠を誓う騎士仕草では?』と瞳を輝かせるローズは、冷たくリチャードを見下ろしていた。その表情は氷の女王のようで。
「一時的に忘れてしまっているかもしれないが、私はリチャード。婚約者であり、真実愛し合っている恋人同士だ」
「そうですか」
ローズは冷たく返す。だが、取り付く島もない冷えた態度に怯むリチャードではない。
ローズ。この男は、とんでもなく粘着質なんだ。
「これも忘れてしまったかな。ローズは幼い頃から私のことが誰よりも好きだったんだ。誰よりも」
「……誰よりも? まさか、リヒト様よりもとおっしゃりたいのですか?」
大事なことだと念押しするように繰り返された言葉に、ローズはピクリと眉を動かした。
リヒトのことは覚えているのか、ローズの口から『リヒト』と出る度にリチャードが黒いオーラを漏れ出すので勘弁してほしい。俺の鳥肌が沸いている。
「あぁ、そうだよ。そもそも婚約者を取り違えていた私たちは真実の愛に導かれ、元のかたちに納まった。王子はお姫様を見つけ出したんだ。ローズは私を忘れてしまったかもしれないが、私は変わらず愛しているよ」
決め台詞と共に、リチャードはローズの手に触れた。
それを振りほどかれないことを確認して、リチャードはローズを射貫くように見上げ、指にキスを落とした。
ローズはカッと頬を染め、動揺したように瞳をゆらゆらと彷徨わせる。
……記憶を無くしても有効なんだな。王子様的なやつ。
「そ、そんな小説や観劇の中の話しではないのですから、夢物語なことが現実にあるはずがないわ……っ」
ないぞ。かなり事実を端折って脚色している。
この男、やはりただでは起きない。
ローズの記憶があやふやなうちに不都合な事実を無かったことにしているらしい。詐欺師の思考では? お兄ちゃん心配だなァ!?
「わ、わたくしたちが愛し合っていただなんて、にわかには信じられませんッ」
氷の女王様然としていたローズは溶かされ始めてしまったのか、期待たっぷりにリチャードからのおかわりエピソードを催促した。
「それは寂しいな。忘れているようだからいいかなと思っていたんだけれど、普段通りにすることで記憶を取り戻せるかもしれない。そうだな、ローズは普段、座る時は私の膝に乗っていたことも忘れてしまったかな」
「んなッ!? そんなはしたないことを、わたくしが……ッ!?」
いやいやいやいや一度も見たことないが?
俺の前以外ではそうだったということか?
ちょっと待てェい! と立ち上がりそうになったところに、リチャードが指を鳴らす。するとどこからともなく現れた影が俺の口を塞ぎ、縛り上げられてしまった。
「ローズと私は相思相愛の婚約者、恋人同士だ。結婚式も目前。膝に乗ることはおかしくない。だろう?」
「そう、なのですか。恋人同士になるとこれが通常運転なのですね」
だ、だめだローズ! 騙されるな!
難しい顔をしたローズは拳を握り、すくりと立ち上がると覚悟を決めた顔でリチャードがソファに座ると同時に、膝に腰掛けた。
「座り心地はソファの方が上ですわ」
「……っ、あぁ、こういうものは慣れだから」
ローズは膝の品評を冷静にしているが、リチャードの方がまさか乗って来るとまでは想定していなかったらしく動揺して顔を隠している。
ふっ、どうやら普段から膝に乗っているわけではないらしい。俺はローズを膝に乗せたことなんて何度もあるがな!子どもの頃だが!
「……恋人同士といっても、これだけですのね」
「いや、まだある」
がっかり、という顔を隠しもしないローズにリチャードがガバリと顔を上げた。
ま、まさか。まだやるのか!?
「ローズは私に菓子を手ずから食べさせるのが好きだった」
「手、ずから……?」
キリッとした顔で言い切っているが、嘘だ。嘘に違いない。この機に乗じて夢を叶えているに違いない。
だが、ローズは気付いていないのか「それの何が楽しいのかしら……」といぶかし気だ。
テーブルの上に並べられた菓子から、一口サイズのものを選び取ったローズはゆっくりとリチャードの口へ運んだ。
だが、リチャードの口は開かない。
戸惑うローズの肩口から見えたのは、瞳孔が開いたリチャードの顔だった。記憶に焼き付けるように穴が開くほど見ている。怖い。逃げろローズ!問題は菓子の角度ではない!
「ローズ様、こういう時は『あーん』と合図を送るのですよ」
「そ、そうなのね」
エイ!エイ!と菓子を押し込もうとするローズを見かねたのか、モネのアドバイスが入った。
見ているなら止めるか、俺を解放してくれないだろうか!?
「あ、あーん、ですよ。あーん」
呆けたように口をあけたリチャードは、菓子を噛みしめながら顔を手で覆った。手の隙間から輝くものが見えたが、ある意味これだけで感動するのかと驚く。お前ら、もうすぐ結婚式を挙げるんだろう……?
「ふふっ。これはなんだかわかるかもしれません。なんだか給餌をしているようで、可愛らしいもの」
給餌が気に入ったらしく、ローズは次々とリチャードに菓子を与えていく。
しみじみ咀嚼するリチャードを待てなかったのか、そばに控える侍女たちにも菓子を与えていた。
「……お兄様は食べられそうにありませんね」
この猿ぐつわを外してくれたら食べられるんだけどなァ!?
「だいたいわかりました。恋人同士となった私たちは、きっとこうして愛を育んでいたのですね。覚えていないのは少々もったいない気分ですが、こうした穏やかな愛に囲まれた生活は幸せだったのだとわかります」
結論は出たとローズは少し寂しそうに笑むと、リチャードの膝から降りようとした。
それを許さないとリチャードの腕が回る。
ぽすりと戻されたローズの肩に、リチャードの頭が乗った。
その距離感に緊張したのか、ローズの顔に動揺と羞恥と、何かが走る。
「──一番大切な約束事を忘れていたよ」
「い、一番大切な……?」
金の頭がローズの頬をくすぐるたびに、ローズの顔がみるみる温度を上げていく。
「これだけは覚えておいてほしい。私たちは、おはようとおやすみのキスを欠かさない」
嘘だ。
何を言い始めた、やりすぎですって、いける!押せ!という空気が部屋のいたるところから飛んでいる。
先ほどから壁に溶け込むように空気に徹している侍女や護衛たちだが、勝負の行方に圧が隠しきれていない。
ローズはピシリと固まっている。
だが、追い打ちをかける勝負師リチャードの猛攻は止まらない。
「それだけじゃないんだ。顔を合わせたら私たちはキスを交わしていた。今日はまだだったよね」
「う、うそ……わたくし……そんな……」
今度は氷漬けにされたように固まってしまったローズの髪をくるくると指に巻き付け、リチャードは上機嫌だ。タガが外れたのか。
カタカタと震えだしたローズの頬は膨れて真っ赤に染め上がっている。悔し気にドレスを握りこむ指先まで赤い。これは羞恥ボルテージが限界に近い!あまりいじめるなリチャード!
「──寂しいな。いつもまだかとねだって……「キャー!!だだだめです!そんな破廉恥な、悪役令嬢の解釈違いですわァアアア!!」
お兄ちゃんの警告も空しく、限界を超えたローズはガバリと立ち上がった瞬間にリチャードの顔面に頭突きをお見舞いした。
調子に乗ったリチャードは勝負に負けたというのに、ぐったりとソファに仰向けでもたれかかり満足そうな顔をしていた。負けたくせに。
「リチャード様、ひどいですわ!わわわたくし、普段から膝に乗るだなんて子どものようなことは致しませんし、『あーん』にキキキキスをおねだりするなんてッ!しかも朝も夜も、あああ会うたびだなんて!」
「ごめん、そうだったらいいなって願望が……」
「がががが願望……!?」
ローズは記憶を取り戻したようで、モネに抱き着きながらリチャードに抗議していた。
もう顔を赤くするローズはいつもの瞳でリチャードを見ていた。
その様子を見て、部屋の中に安堵が広がる。
このまま記憶を失くしてしまったままだったらどうなっていただろうか。
……まぁ、この二人ならどうにかなっていたかもしれないな。
それはそうと、円満解決してよかったんだが、いつになったら縄を解いてくれるんだろうな。
次回の発売に合わせて用意しようと思ったらノリノリになっちゃいました。
早く読んでほしかったので公開します。次回の発売記念の短編だと思ってください。




