悪役令嬢の婚約者-リチャード- 6
「──隣国の件は耳にしていると思うが、お前との婚約の話は白紙となった」
父から呼び出され学園から急ぎ戻れば、父の執務室には宰相も待っていた。人払い後に知らされた内容は想定していたもので驚きはない。
昔よりも鋭くなった二つの視線を受け止め、言葉の続きを待つ。トントン、と一定の速度で父が執務机を指で叩く音だけが部屋の中に響いていた。
しばらくの後、横から宰相の重い溜息が聞こえた。
「……隣国とは随分とこちらに旨味のある取り決めで婚約の解消が整いましたよ。どこかの、誰かが、しっかりと手を回したようで。ご健康だった姫は”長く患っていた”病に散ります。ご存知でしょうけど」
宰相はゆるりと目頭を指で揉みながら、疲労が滲んだ声色で『設定』を説明した。やや嫌味っぽい言い回しだが、甘んじて受け入れよう。
我が婚約者は以前から患っていた病に治療の甲斐なく儚くなった、と説明される予定だ。当然、そうなるように宰相の息子と共に駆け回っていたのだから知っている。
「しかも、婚約者の再選定をこれから始めようかと思えば。貴族院からは”繰り上げればいい”と案が出た」
今度は父が大きな溜息と共に椅子の背もたれに体を預けた。
どうやら親愛なる国王陛下と宰相に多大な心労をかけたらしい。パトリックも日に日に顔色が悪くなっていたので、結果が実って良かったと思う。
「──随分と、強引なやり方だな。まったく、誰に似たんだか」
父はまたあの時のようにジャリジャリと音を立てて顎を撫でた。
自分と似たような青色の瞳がこちらの様子を探るように流される。思っていた反応と違ったのか、おや?と言いながら片眉を上げた。
「せっかく”時の運”が整ったというのに、浮かない顔だな」
なるべく表情を作っていたはずだったのだが、どうやら父にはわかるらしい。
*
隣国の王女が行方不明との報を受けて軍の暗部が秘密裏に捜索を行っていた。
そのさ中、内々に張っていた筋から知らせを受け馬を飛ばした。
捜索を難航させている大雨が俺たちの騎馬を隠していた。外套の中までじっとりと水を含んでいて体が雨雲のように重かった。
隣国との境界線をまたぎ、リベラティオ国側の森の中。何かあれば来るように伝えていた通り、地図にも載っていないような小さな集落のそばに立つ迎賓館に待ち人はいた。
ずぶ濡れのまま迎賓館の扉を開け、ずかずかと中に入ると黒髪の騎士が隣国独自の形をした抜身の剣をこちらに向け警戒していた。こちらもとっさに剣に手をかける。しかし、騎士の後ろから小柄な女性が出てきたことで緊迫した空気は霧散した。
以前は燃えるような赤毛だった髪は短く、隣国の染料で濃茶に染められていた。
「それで、誰の子?」
「リチャード、開口一番にそれは失礼よ」
ここにバーナードがいたら大変だったわよ、と呆れたように笑った横顔を見て。姫を”従妹”以上の熱を込めて見ていた男の横顔を思い出す。どうやら、相手はその男では無いらしいことに思わず舌を打ちそうになった。
外套を下せば、侵入者を警戒していた騎士は気づいたように複雑に表情を歪め膝をつき騎士の礼をとった。
主の婚約者の顔も名も知っている騎士──そういえば、たまに鋭い視線を向けてくる近衛騎士がいた──それをしばらく眺め、廊下は冷えるからと部屋に戻るように促した。
主を今も守るように立つ騎士の背中を見送り自分も濡れた洋服を着替えに向かった。
着替えを済ませ、暖められた室内で早速話しをしようと腰掛ける女性の正面に座った。
「──怒らないのね。わかってたけれど」
傷ついたとでもいうような表情で不満を漏らす相手に、なんだか複雑な感情が湧いてくる。
怒らないのね、とはどちらの意味だろうか。
不貞の果てに行方をくらましたことだろうか。
計画から外れたことだろうか。
それとも、相手が公爵家嫡男だというのに未だ婚約者を決めないあの男でもないことだろうか。
あの日から時間を縫っては隣国の周辺諸国とのつながりを密にしていった。おかげで今では隣国に無理を言いやすい立ち位置になることができた。
こうすることで円満に婚約を白紙にすれば。
今では親友とも呼べるほど親しくなった隣国の友人二人の間にあった、小さな芽生えが穏やかに育つかと。
──そうすれば、こちらの都合でこの婚約を白紙にするという罪悪感が和らぐかと。愚かにも独りよがりに考えていた。
恐らく、姫の立場を傍で見守っていた近衛騎士がこれから訪れる未来に気付き流れを変えたのだろう。
主の後ろに立った男が殺気を隠しもせず、こちらを見ている。
あの男と俺は同じだ。全てを捨ててまで奪ったか、全てを巻き込んで奪いに行くかの違いだけ。羨ましいぐらいだ。
力を抜いて椅子に背を預けた。
「怒るはずがない。”友”が自由を手に入れて心から嬉しく思うよ」
そういうと、後ろに立つ番犬は疑わしいとでもいうような目をして
番犬の飼い主は『当然』とでもいうような顔をした。
「時間がないから本題を。私の立場からはやはり、王族としてのけじめを求めるんだろうけど」
短くなった髪をチラリと見て、溜息を吐く。
「用意周到だな。いつから計画してたんだか」
「もちろん手伝ってくれるのでしょう? それはそうよね。リチャードだけ無傷で想い人と幸せになるなんて許せないわ」
気が緩んでいたのか、いつもの勝気な言葉に一瞬反応してしまった。もちろんそれを見逃す相手ではない。
「あら。気づかれていないとでも思っていたの? ダン、ほら言ったでしょう? この男には想い人がいるって」
いつも勝気な緑の瞳が一泡吹かせてやったとばかりに輝いた。
それを愛おしそうに見つめる男が手を伸ばし、姫の細い肩を撫でた。
その”想い人”とは、あの決意をした日から顔を合わせていない。
たまに王宮で遠くから見かけるローズは未だリヒトを一途に好いているし、今後リヒトがローズを認め宝物を扱うように遇するなら俺の出番はないのではないかと頭を過ることがある。
全ての者が幸せになる道はありえ無いことを知っている。
しかし、確実に幸せにすると決めた人はいるのだ。
自分が進んでいる道に間違いはないか、問う。
この男は覚悟を決めたのだ。リヒトを見つめるローズを見かけるたびに迷う俺とは違う。
「……羨ましい限りだよ。おめでとう」
彼女の手が主を守るように控えていた騎士へと伸ばされ、騎士はその手をしっかりと握り返した。
*
ローズの気持ちを置いたまま、こちらの状況だけが整ったことに俺の心境は複雑だったが。パズルのピースが一つ動けば他の物事も変化していく。
待ち望んでいたピースは俺の元に届いた乳母の娘モネによる未だ続く密偵の報告書──ローズの行動日記──だった。
内容に目を通すと『リヒトが別の女性に恋をしたとローズが泣き伏し、何かを企んでいる』とあった。
”時の運”が巡ってくる時は必ずしも多幸感で胸が満たされるわけではないのだなと頭の端に浮かんだ。
さて。リヒトが原因でローズが泣き伏したという状況に怒ればいいのか、このローズの不運をこちらの幸運にしていいものか、ローズは一体何を企んでいるのか心配すればいいのか……。
まずは何から手をつけようかと無意識に顎を撫でた。
やっと時が追いついてきましたよ!




