悪役令嬢の婚約者-リチャード- 5
我がリベラティオ国では貴族籍男児は十二歳になる頃に軍部へ見習いとして入団する慣例がある。
貴族籍にない平民においては家業によるが、希望者は各領地の騎士団や警備隊に入団することとなる。
最初は主に食卓給仕、武器や馬の保管、馬の世話等をしながら集団生活を学ぶのだ。
体が成長する十四歳頃には武芸として実践的な訓練が始まる。体を作るために陸上、岩登り、格闘、弓、水泳、乗馬、槍投げ、剣技などを学び武具の手入れ等ももちろん必修だ。
少年期に同じ体験・時間を同世代の仲間と共有することで、自然と仲間意識や連帯感が生まれる。将来軍門に入らないとしても結束を深める必要な経験として貴族はもちろん、王族も等しく教育を受ける慣例だ。
俺も慣例に従い、まだ陽も登らぬうちから就寝の時まで見習いとして仲間と過ごした。
それに加え、たまの休日には王宮に戻り講師から講義を受ける日々が続いていた。
ローズは七歳を超えた頃から王宮でリヒトと授業を受けていた。
その頃はまだ俺も自分の目でローズの成長や、意欲的に勉学に勤しむ姿や、まだお姫様を夢見てダンスの練習を続ける姿を見ていられた。
リヒトを馬鹿にする講師の鼻を明かしてやるのだと燃えていたローズの表情や、どうしても上手くいかないと隠れて泣いていたローズの姿や、顔を合わせればあの菫色の瞳を丸くさせ笑顔で駆け寄ってくる姿──記憶の中の無邪気なローズを思い出す。
しかし、ここ最近はほとんどローズの侍女となった乳母の娘からの手紙で様子を知るだけだった。
その乳母の娘から定期的に受け取る事務的な内容の手紙をぼんやりと眺めていると、足音が耳に入り手に持っていた手紙を伏せた。
「リチャード! これから休みのやつはロバートさんが街に連れて行ってくれるって今──って何読んでんの」
「……なんでもない」
勢いよく部屋の扉を開け放ったレイノルドを一瞥し、手紙をくしゃりと握り潰す。そのまま炉に投げ入れた。
「ははーん。またローズのことでしょ」
手紙が燃えながら形を変え、文字がこちらを挑発するように踊った。
それを見ていたのは自分だけでは無かったらしい。同じく見習いとして軍部で生活しているレイノルドがいつものしたり顔でそう言った。
「リチャードも飽きないよねぇ。まだリヒトからって風を装ってプレゼントを渡してるでしょ。自分からだってバレたらまずいってわかってるならもうやめたら?」
幼い日々は流れるように過ぎていった。
成長するにつれ、ローズを婚約者にするということ──隣国との取り決めを反故にすること──とは、どのような問題があるのかが見えてくるようになった。
また、自分は王太子という立場にあり、”私”では無く”公”であるということも理解するようになった。
自分の立場を理解すればするほど、うかつにローズに贈り物も出来なくなり、関わりも数える程度になった。
──それに、ここ最近の俺は苛ついていた。
「あ、そういえば。ローズは王子妃教育が始まったんだっけ? この間、ローズに声をかけたら『リヒト様の傍に立って恥ずかしくない妃となれるよう頑張ります!』って言ってたよ。元気良すぎで笑っちゃったよ」
ケラケラと笑う声は自分の声変り中の声と似ていて、自分の中にくすぶる苛つきをさらに煽る。
「ローズは本当にリヒトのことが好きだよねぇ」
こちらの反応を楽しむような声がうっとおしい。
「──仲が良くて、よかったじゃないか」
こんなにも俺は何に苛ついているのか、自分で自分を制御出来ず困惑していた。
今の俺はあの可愛い無邪気なローズに苛ついていたからだ。
*
休日ということで王宮に戻り、詰めるように組んでいた講義が終わった。休憩がてら書物庫にでも寄ろうかと回廊を歩いていると通路の向かいから今は会いたくなかった人物──ローズが歩いてくるのが見えた。
十二歳になったローズは成長期なのかリヒトの背を越した。顔立ちや、ふとした瞬間の視線も大人びてきた。膝丈だったドレスも王子妃教育の開始と共に長くなり、もう庭を駆け回っていた頃とは違っていた。
しかし、日の光を浴びて発光しているように見える髪や、俺を見つけて無邪気に駆け寄る笑顔は、思い出のままだった。
いつものようにこちらに駆け寄り、その勢いのまま腕の中に飛び込んで来る。俺が受け止めると信じ切って全身でぶつかってくるローズに、ジリジリとした苛つきが湧いてくる。
抱きついたまま挨拶をしてくるローズに会えて嬉しいと思っている自分も、この光景は他者から見たらどう見えるのか思案する自分もいる。
──まだ幼い子ども同士の戯れに見えるだろうか──
こちらの気持ちを知ってか知らずか、ローズはダンスの練習に付き合ってほしいとまた無邪気な顔で強請った。
先週は「忙しいから」と断ったことを引き合いに出され、ましてやリヒトが付き合ってくれなかったからと寂しそうな表情をされてしまえば強く断れなかった。
*
あの暖かい侯爵家で大切に慈しみながら育てられたローズは、姿が大人びてこようとも中身は未だ夢見がちな”小さなレディ”だった。
「──リチャードお兄様! ローズはこの前より上手に踊れているでしょう?」
たくさん練習したのよ、と得意げにこちらを見上げるローズから体を少し離しながら笑みを返す。
ローズのことを溺愛する宰相や兄であるパトリックもダンスの練習に付き合っていると聞いているし、レッスンに付き合う度に上達するローズの腕前には素直に感心する。
「それでね、レイノルドお兄様が通りすがりに『得意げな顔をするな』とか『お前の講師の腕がよかっただけだ』とか『腕のいい講師に当たって運が良かったな』なんて言ったのよ。確かにお話ししやすい先生でよかったと思うけれど、上達したのは運じゃなくて一生懸命練習したからだと思うの!」
うんと相槌を打ちながら続きを促せば、小さな唇が休みなく動いた。
「悔しくてお母さまに相談したら『相性の良い先生と会えたのは幸運だったけれど、その幸運を力にしたのはローズなのだから自信を持って』とおっしゃっていたの。ローズもそう思うわ。レイノルドお兄様ったら意地悪ばっかり!」
「努力を積み重ねたりだとか、諦めない力は誰にでも備わっている訳ではないからね。ローズのそういうところが大好きだよ」
白くて柔らかそうな頬を膨らませるローズの顔を覗き込みながら伝えると、レイノルドへの怒りは吹き飛んだようだった。次の瞬間には照れたように頬を緩め、ふにゃりと笑んだ。
「──昔、お勉強が思ったようにゆかず悔しくて泣いていたらリチャードお兄様が慰めてくれたのよ。『今の自分に出来ることからコツコツと、一歩ずつ階段を登るように着実に取り組んでいけばいい』のだと。だからローズは立ち上がれたと思うの。そんな優しいリチャードお兄様がローズも大好き!」
自分の欲しい意味を含んでいない『大好き』に、自分勝手にもがっかりしてしまう。
「大好きなリチャードお兄様と出会えたってことは、やっぱりローズは運が良いのね。……ということは、レイノルドお兄様の言う通りかもしれないわ」
ハッと天啓を得たかのようなローズの表情を見て思わず笑ってしまった。
繋がれた手が強く握られ、視線を目の前のローズに戻す。
あの菫色の瞳がこちらを見上げていて、小さな唇に誘われるようにぐわりと自分の暴力的な何かが動きそうになり身をローズから離すことで抑える。
「だからね、”特別な方のワルツ”を踊りたいの」
久々に耳にした”特別な方のワルツ”という単語を聞いて、昔を思い出す。
昔、まだ幼かったローズをダンスの途中で抱き上げグルグルと回したことがあった。
その時の俺はローズを喜ばせたくて何度もやったし「王子様がお姫様のことだけしか見えないからグルグルするの」とうっとりとしていたローズに『特別だからね』と強請られるままやっていた。
今でもたまに父である宰相やパトリックが”特別な方のワルツ”をローズに強請られるままやっていると聞いている。
──特別、ね。
過去に自分が言った言葉に。こちらを兄や親類を見るような目で見上げるローズに苛ついてしまう。俺が何を考え、ローズを傷つけまいと必死に抑えているのに、そんなことをローズは全く気付いていない。俺がローズのことをどれほど”特別”に思っているか教えてしまおうか、とまた暴力的な自分が囁いて──自分が何にこんなにも苛ついているのか自覚した。
「リチャードお兄様と踊りたかったの」
俺のことを兄のように慕い、今も俺が笑顔で是と言うと信じて疑ってもいない、なんの下心も無く身を寄せて預けて来るローズの肩を抑え体を離す。
「──ローズ、ごめんね。それは婚約者でないと出来ないよ。”特別”だからね」
断られると想像もしていなかったのだろう。猫のような目を丸くさせポカンと薄く唇を開き固まる様子のローズから視線を逸らし、その後はおざなりに解散となった。
自覚してしまった自分の変化に、休息日だというのに居ても立っても居られなくなり結局軍部にある寮まで戻ってきてしまった。
そこで丁度休憩中のリヒトたちの姿を階下で見かけた。
仲の良い仲間に囲まれて気が抜けているのか、普段より荒れた口調のリヒトの声が聞こえる。王宮ではできない会話の内容のようだが、今は見過ごされるべきだろう。男の集団になるとそうなるのも仕方がない。
その姿をぼんやりと見ながら、
昔、乳母の娘が言っていた言葉が頭をよぎる。
『”ローズ様を婚約者にしたい”という気持ちも”妹がほしい”とかそこに近いでしょうが……』
『幼い頃の”好き”と年頃になってからの”好き”は違うのですよ』
確かに、その通りだった。
その時の俺はローズのことを妹のように可愛がっていただけだったし、それは愛玩動物を傍に置きたいというのと同意だった。
いつの間にかローズのことを一人の女性として見るようになって、自分をそう見ないローズに勝手に苛立っていた。
「──見るわけがない、か」
小さな呟きは自分しか聞いていない。
ローズが自分を”そう”見ることはないだろう。弟の婚約者であるローズにとって”優しいリチャードお兄様”としてでしかいられないのだから。
暴力的なほどローズを求める心の変化に気付いたところで状況は八方ふさがりだ。父上が言っていた”時の運”はやってこなかった。
俺は王太子であり、その婚約者は王太子妃──未来の王妃となる。
王妃とは国母として、また王が不在時の指導者となる場合もある。必要なのは愛では無く、信頼だ。
王子妃教育と、王太子妃教育では教育範囲も習熟度も異なるだろう。
王妃とは、国王の隣に並び立つべく教育と本人の資質と政治への影響力が必要なのだ。
年に1,2度の頻度で顔を合わせる婚約者を思い出す。彼女はローズより王妃の席に相応しいだろうか。
もっとも、ローズなら資質も努力する力も影響力もあるのだけれど、と未練がましく考えてしまう。
「────リヒトの婚約者殿はまさに才色兼備だな! 噂は俺のところまで届いたぞ。実際、どうなんだよ」
「……さぁ」
聞こえてきた単語を耳が拾い、つい足を止めてしまう。
「おいおい、なんだよ隠すなよ」
「隠してないさ。ただ、ローズが褒められても、俺には関係ないだろ」
「俺はブリトニーが褒められたら嬉しいぞ」
お前のところはな! と大きな笑い声が階下から俺のところまで響く。
「なんだよ、リヒトはおもしろくなさそうだな」
「……優秀な婚約者がいると常に比較されるからな。別に俺はあそこまで求めてないんだ
いっそ、要らないぐらいだ」
それから次々ともったいないことを、なんて軽口が続いていたが
不思議とリヒトの言葉だけ頭に残った。
────『俺はあそこまで求めていないんだ』?
ぐわりと怒りが噴出しそうになり、堪える。
なぜローズが努力するのか知らないのか。なぜ隣にいるのに知らないのか。求められているのに、それが不要だと。
きっと男同士の会話の中、ついつい気が大きくなり出た言葉だろう。
わかってはいるが、どうにも冷静になれずその場を離れる。
きっとローズのリヒトを見る視線は、兄のような存在に向けるそれではないのだろう。
リヒトはローズの”特別”で、あの視線も唇もすべてリヒトのものになる。それを俺はこれからも兄として見守るのだろう。
それを想像して。ぐわりと、また自分の中で暴力的な何かが動き。自分の迷っていた心が、ストンと”あるべき場所”に戻った。
「──リチャード、お前も今日休息日、だ……ろ……?」
パトリックが俺を見つけ、走り寄ってきた。その少し色味の違う銀髪と紫色の瞳を見て、口端が自然と持ち上がった。俺の”上機嫌”な様子に気付いたのか、パトリックの足は少し離れたところで速度を落とし恐る恐るといった風に近づいてくる。
「パトリック、丁度よかった。隣国について見識を深めようと思うんだけど、手伝ってくれない? あぁ、あと王宮に来てる講師陣ともローズの教育範囲について話をしないと」
「ローズの? まぁそれはいいが、どうかしたのか……?」
パトリックは問題事に対する嗅覚が鋭いのか、いつもの”怯えたような”表情でこちらを見ていた。
「はは、やはり運を待つのではなく、自分から迎えに行かなくてはと思い直してね。”今の自分に出来ることからコツコツと、着実に”」
なんだかんだと言いながらも最後まで付き合ってくれる親友を安心させるように笑顔を向けると、パトリックは胃のあたりを押さえた。
「なんだか俺は心配だ……」
「よろしく頼むよ、”お兄様”」
そう声をかけた時のパトリックは見たこともない表情をしていて、とてもおもしろかった。




