悪役令嬢の役割 1
ふと手を見れば、カタカタと震えていた。
この震えはなんなのか。
そうね。
これは────武者震いよ。
頭を支配していた恐怖。
過去の痛みと今を重ね、追体験していた苦しみを怒りがグリグリとねじ伏せたわ!
なぜ前回(リヒト様の一件ね)は大人しく引き下がったのか、自分でも自分が信じられないわ!
だって、なぜだか今は許せないもの。
リチャード様は戻られたらわたくしに一番に会いに来るとおっしゃったのに。
会いたい気持ちを我慢して、頑張っていたのに。
サーラ様と仲良くお話しして、ついには……ついには……!
「緊急事態よ。婚約者が浮気しているようだわ」
心の中の飢えた虎も大暴れだわ!
無表情で二人を見ていたレイノルドお兄様は静かにため息をつき、なんとも気まずそうな表情で振り向いたが
私の突撃5秒前のような様子を見てギョッと目を剥いた。
その表情が「浮気を見咎められたリチャード様」のように見えて、5秒と言わず今!いざ出撃とばかりに進もうとしたところをレイノルドお兄様に掴まれた。
「ちょ、ちょっと待てローズ! こんな場面に出ていくなんて正気か?!」
もちろん私とレイノルドお兄様はごくごく小声なので、まだ二人ともこちらに気づいていないようである。
つまり、未だ二人は二人の世界にいるということなのである!
今行かないでいつ行くというのでしょうか!? という叫びはレイノルドお兄様の手によって阻止され、暴れる猫を取り押さえるかのように引きずり戻されてしまった。
ちょっと放しなさい!
浮気者を懲らしめてやるんだからー!
「ちょっと落ち着けって。リチャードにも考えがあってああいう行動をしているんだ。邪魔してどうする」
そのままズルズルと引きずられ、寄り添い合う二人がどんどん小さくなっていくのを見ていた。
*
「騙したわね! 側室候補として時間を稼ぐって……名実ともにこんなことになるなんて、兄弟揃ってとんだ裏切者だわ!」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。俺は国に忠誠を誓っている。最初にローズに言ったことから何も変わっていないし、それにサーラが側室候補としてでも、後宮に実際に入ってもそこは問題ではない」
私を強引に引きずっていた男の手が緩み、ここぞとばかりに怒りをぶつけるが
裏切者はやれやれと顔を振ってなんのそのだ。
「レイノルドお兄様だってサーラ様が人の手に渡って嫌ではないの!?」
そう問われて、貼り付けていた表情がストンと一瞬抜ける。
そして、ゆらりともう一度かぶりを振るとそこには獲物の尻尾を捕まえた狼のような鋭さがあった。
「ローズはどう思う。先ほどの場面」
「婚約者の浮気現場ですわ!」
言い逃れできないようにその場で捕まえ問い詰めるべきですわ! と狼に噛みつかんばかりに言えば少し怯んだように体を引いた。
さあ、いざ参りましょう! と戻ろうとするが、また掴まれてしまったわ。
「あのなぁ、問い詰めて何がしたいんだ? あの行動を止めたくても過去には戻らないし、何か理由があろうが上辺だけ『勘違いじゃないか?』『君だけ』『信じてほしい』なんて言われて納得するのか? 問い詰めることに意味はない。
それに、何度も言うように今は痴情の話をしているんじゃないんだ。
リチャードは王太子として、サーラに価値を見出し、本気で国に取り込もうとしていたら?」
邪魔してやるなよ、と背を撫でるような声が上から降ってくる。
確かに理性を欠いていたかもしれないわ。痴情、は少し語弊があるけれど!
「──俺だってサーラを好んでいるよ」
絞り出すような、小さな声だった。
そして、自分の言を否定するように「そんなもの、理由にならないだろう」と切り捨てた。
「先日言ったように、サーラは王女だ。しかし、宝島内での立場はもうそろそろ旧王朝の王族となる」
弾かれたように顔を上げ、踏み出していた足を元の位置に戻した。
その様子を見て、一つ頷きレイノルドお兄様は再び口を開いた。
「現王朝はサーラが女のために終わる。親戚筋の新王朝派が現王朝派をおさえるための婚姻からサーラは逃げている。サーラに王位継承権があれば俺が王配として行く道もあっただろうが、これは無理がある。
だがリベラティオ国としては、この機会を逃したくない」
サーラ様のいう海のような瞳が、ここではない遠くを見ている。
「どこの国も欲しがっていた宝島の情報がここまで少ないのは、あの国が長らく鎖国状態だったからだ。
しかし数年前から周辺諸国に宝島の王族を名乗る一派が貿易相手の調査をしていた。聡い周辺諸国はもう気付いている。待っているだけであの国が落ちるってね」
レイノルドお兄様は鼻の上に皺を寄せて怒りを見せた。それは、私に取引を持ち掛けてきた時の「面の皮が厚い狸どもにいいようにされては困る」と言った時と同じ表情だった。
それも振り払うように瞳を閉じ、かぶりを振る。
「リベラティオ国としては誰かが攻め落とし、道を作った後に侵攻してもよかったんだが。
──宝島の技術を独占できるなら、それにこしたことはない」
「サーラ様は飛んで火にいる夏の虫、ということですね」
正解、というように金の片眉がクイッと上がる。
「だから後宮に入れて捕まえた方がいいと言っただろう? オニイサマも価値に気付いてくれてよかったよ。
しかもローズが手塩にかけて教育してくれたから、一通りは整ったかな。協力をありがとう」
ニッコリと微笑みを向けられたが、私にはなんだかそれが仮面に見えた。
レイノルドお兄様の心を守るための仮面なのだ。
「それで、いいのですか」
「ああ、そんな心配そうな顔をしないで。大丈夫、リチャードの気持ちはローズのものだ。気持ちと行動は別だよ」
「違います。レイノルドお兄様の気持ちの話です。国の状況はわかりましたが、これしか方法は無かったのですか」
仮面を貼り付けたまま、口を開いて。
「……王族にはそれぞれ”役割”があるんだよ。
必要なら情愛なんて置いといて子どもでもなんでも作って駒にする。王族、王太子にはそれが求められる」
そう、仮面は言う。
私はどんな顔をしたらいいのか、気持ちがぐちゃぐちゃだった。
「泣くのを我慢しているの?」
クスクスと小さく笑うレイノルドお兄様の機嫌の良さそうな声が更に乱れた気持ちを逆なでする。
「──ほんと、ローズはかわいいね。昔から、なぜだか泣かせたくなるんだ」
レイノルドお兄様の手袋をはめていない指が私の白っぽい銀髪を巻き取る。
昔、「老婆のようだ」とからかってきたのはレイノルドお兄様だったと思い出す。
あの時、なぜだかとても傷ついたのだ。
私は”お姫様”になれない人間なのだと突き付けられたようで。
「”大好きなリチャードお兄様”がそんなことを出来るなんて、ローズは泣いてしまうかな?
夢物語の王子様とリチャードは違うって、まだ気付いていないなんてことはさすがにないよね。現実の王子様には役目があるんだ」
レイノルドお兄様の指に絡まる私の髪を見ていた視線が、顎を上げさせられ持ち上がる。
見たかった空色の瞳より濃い青の瞳が私を突き刺すように見ていた。
「そうだ、ついに念願だったお姫様になるローズに”役目”の選択肢をあげようか。普通は選べないのだから特別だよ」
視線を逸らすことを許さないかのような力になすがままになる。
「王太子妃になるということは未来の王妃だ。王妃の仕事である、後宮の「管理者」になっていいんだ。気に入った娘、敵にならない家門の娘を自分好みに教育して後宮に入れればいい。そうやって裏から政治を操るのもよし」
じわじわと距離が近づいてくる。
「もしくは、俺のように国の駒になって他国に行くもよし。外からリベラティオ国を、リチャードを守り支えるんだ。独占欲を垂れ流し醜く唯一の愛を乞うより、崇高な愛を捧げられると思わないか?」
まるで悪魔のように耳障りのよいことを並べ、その甘い声は弱った心に容易く染み込んでいった。




