悪役令嬢の予感 1
シャツのボタンが性急に外され、露わになった小麦色の肌の上を汗の粒が流れ落ちた。
日の光を浴びて焼けた肌はほてり、いつになく赤くなっている。
荒い息と共に上下する胸と、逞しい太い首。
そこに蜂蜜のような手が滑り──
冷えた布袋がボシャリと当てられた。
目が覚めるような冷たさが肌にあたっても、すぐには身体が動かない。
ゆらゆら滲む視界の中、こちらを覗く黒い瞳があった。
高貴な方々の前で失態を犯したことに肝が冷える。
もうすでに処罰されたから地面に伏しているのかと過る。
「申し訳、ございません。すぐ、すぐ下がりますので……」
「よかった。意識はあるようね」
木々を揺らす風に乗せられ、細い肩から黒髪が滑り落ちた。
朦朧とした意識はあと数秒で現実へと引き戻される。
口内に広がる刺激と共に。
*
「本日は日差しが強いですね」
「ええ。王都では珍しいほど」
王宮の庭園の中で一番涼やかな東屋にて。
丁度プラージュ伯と共に登城していたリーヴァ様を招き、私とサーラ様の三人で氷菓子を楽しんでいる。
先日デニス様に頂いた防水の布袋で作られたというミルクの氷菓子はこんな暑い日に最適ですわ。
ほうっと、よほどミルクの氷菓子が気に入ったのか、リーヴァ様は頬に手を当て味わっている。
「ローズ様は商人ともやり取りをなさるのですね」
「商人、と言ってもデニス様は学園のお友達なのです。なのでお話ししやすいというだけですわ」
素敵です、とキラキラとした貴公子のような笑みを向けられた。
「シャンデリアや数々のご活躍は遠く離れた私の領地まで届いておりましたが、先日のお茶会も見事でした。ローズ様が各領地の働きをとりあげてくださると、皆応えようと活気づくのですね。
サーラ様はローズ様のお傍にいる機会も多いと存じますが、何か身につくものはございましたか?」
サーラ様は急に話を振られると思っていなかったのか、口に含んでいた紅茶を静かにコクリと飲み込み、ゆっくりと口を開いた。
「ローズ様には色々なことを教えていただいています。ぼんやりと生きていた自分が恥ずかしいぐらい。己のなすべきこと、守りたいものが見えた気がします」
扇を持つ手が震えるわ。
黒猫ちゃんが……あの、高飛車で警戒心の塊だった黒猫ちゃんが……!
こんなにも立派になって! 感激ですわ。あぁ、涙が
当初はサーラ様の振る舞いに冷たい視線を向けていた侍女たちも、今では親鳥のようにサーラ様の成長に感激し、目頭を熱くしている。
「この機会にローズ様の傍で色々と学ばせてもらい、今まで私を支えてくれた友や皆のために、力をつけたいと強く思いました」
リーヴァ様もウンウンと感心して聞いている。
やはりサーラ様の初めてのお茶会相手をリーヴァ様にお願いしてよかったわ。
同じ沿岸部のご出身とあってお話しも合うでしょうし。
リーヴァ様の優しく包容力のある視線に勇気づけられたのか、サーラ様は一生懸命何を学んだのか、将来の展望などを話している。
メイドも侍女も子供の演奏会を見守る親のような表情でウンウンと頭を揺らしている。
「そして、いつか、己の足で立てた暁に好いた方へ私から求婚しようと……っ!」
「まぁ初耳ですわ! そんなにも大きな目標が出来上がっていたのね」
「まだ遠すぎる目標……というか、夢なので……」
ローズ様には言えませんでした、と拗ねたように頬を赤らめる黒猫ちゃんの可愛らしいことと言ったら。
レイノルドお兄様はこの表情を知っていまして?
「──素晴らしい志をお持ちですね。ぜひ、どのように歩まれるのかこの目で見たいものです」
弟子の成長に目頭を熱くする私の横で、リーヴァ様は眩しそうに目を細めた。
その表情にはどことなく陰を感じた。
「……何かお悩み事でも?」
「いえ……、もったいないお話しではあるのですが、婚約話がまとまりそうで」
「あまり喜ばしいお話しではないのですね」
その質問には答えられないのか、眉を下げ、微笑んだ。
「私の趣味は観劇でして。この臨場感、人の一生のドラマティックな場面を体験できる特別感、もっとより多くの方々へ広まってほしい。広めたい。そしていつしか自分で脚本を執筆したいと考えるようになりました。そのために事件・欲望・陰謀が渦巻くこの王宮で文官として働きたいという夢がございました」
いつから王宮は毎時間なにか事件が巻き起こる、手に汗握るスリリングな場所になったんだろうか。リーヴァ様の真剣な語り口に訂正を入れる人間は現れなかった。
「しかし、父に訴えたら『やめておけ』と取り合ってもらえず……」
もちろん、それはそうだと相槌をいれる人間はいなかった。
「そんなに王宮に行きたいならば、と婚約の話を持って帰って来て───」
その時。
騒がしい声が風に乗って聞こえてきたことで、リーヴァ様の意識が途切れる。
それにつられ、私もサーラ様も耳を澄ます。
何事かと侍女に視線を流せば、様子を見に走っていく。そして『日差しに当たりすぎたのか庭師が倒れたそうです』と囁かれた。
その囁きはサーラ様にも聞こえていたのか、「大変」と席を立ち中座の許可を求め風のように走っていった。
あまりの焦りようにリーヴァ様と私は視線を合わせてキョトリとしてしまう。
何が起きているのか、見に行っていいかしら……?
*
私たちが後を追い向かうと倒れたという老いた庭師は木陰に寝かされ、メイドが持って行った氷の入った袋を当てられていて、そばには覗き込むサーラ様と庭師の息子がいた。
「無事ですの?」
「アディール侯爵令嬢様! 父がご迷惑を……申し訳ございません」
庭師の息子は私たちに気づくと、胸に抱えていた壺をわきに置き身を低くした。そばに置かれた壺は見慣れない形をしていた。
「なんですのそれは」
「こちらは先日お話しいたしました、≪宝島≫の植物の実でございます。天気が良いので今度は天日干しを試してみようと運んでおりました」
パカリと壺の蓋が開かれた瞬間なんとも奇妙な匂いが香り、警戒した侍女たちが私たちの前に立ちふさがった。なんとも忠誠心の高い侍女たちである。
これは確かに嗅いだことのない匂いだわ。
サーラ様は平気なのか、壺を覗き込み、ハッとした顔で壺の中に手を入れた。
何が起きたと目を丸くする一同を無視し、引き抜いたサーラ様の手には冬薔薇のような色をした小さな実のようなものがあった。
こちら側の侍女や護衛たちは、魔物の首を素手で掴んだ猛猛しい勇者を見るような顔をしていたことだろう。
そんな周囲の視線を一切無視したサーラ様は、徐に顔に近づけたり匂いを嗅いだりしている。
ヒィ……っと誰かが小さく叫んだ。
「これをどこで手に入れたの」
「そ、そちらは、港で……手に変わった痣のある男から譲り受けたものです」
庭師の息子は突然愛する子どもを誘拐されたかのような悲壮感のある顔をしている。大丈夫よ。奪ったりしないわ……! ね、そうよね!?
「変わった痣……」
そう呟いたサーラ様は、ふっと懐かしいものを思い浮かべたような表情で口端を上げた。
そして、横たわる庭師の父親の口にソレを入れたのだ。
ひぃ!! と、今度こそ侍女たちから悲鳴が上がる。
庭師の息子はもはや紙のような顔色をしている。
赤い実が出てこないように口を抑えられた男はグッ!! と目を見開いた。
サーラ様は真剣な顔で「噛みなさい。中に種があるから気を付けて。果肉を食べるのよ」と声をかけている。
庭師の父親は涙目でコクコクと頷いている。
「あぁ!! おやめください! これは食べれたものではございません!」
「食べられるのよ!! あなたはさっさと水を持ってきなさい! 父親を救いたかったら水を飲ませるのよ!」
「こちらに水差しがございます!」
先ほどまでお茶会をしていた東屋から持って来たのか、メイドが優美な水差しとカップを持って走ってきた。
サーラ様は慣れた手つきで水を男に含ませ、水差しにもう一つ赤い実を入れ庭師の息子に説明している。
侍女たちは『砂漠の民の献上品である水差しに奇妙な実が……あぁ』と嘆いていた。
一仕事終えた顔で戻ってきたサーラ様は「奇妙な実ではなく、ウメボシといいます」とキリッとした顔で訂正していたが、
侍女たちは聞き覚えがない実であると水差しを慰めるように撫でさすっている。
ウメボシ、と聞いてピンと思い出した。
「あぁ、船に乗る時は必ず用意する、とー--っても酸っぱいという……!」
ハッと庭師の父親をチラリと見ると、燃え尽きたような顔で微笑みが返ってきた。
これは大丈夫なのですよね? 命が燃え尽きたわけではないのよね?? 天使さんはお迎えに来ていないのよね???
「このウメボシの入った水を飲ませて、涼しい場所で休みなさい。これ以上ひどくなっていたら死んでいたわ」
「この実の入った水で命は助かるということですか……あぁ、奇跡の水だ」
感激したように声を震わす庭師の息子の言葉が、耳に残った。
「あぁ、父をお救いくださりありがとうございます……! また、この実にそのような素晴らしい効能があったとは……あの港街で出会った男はやはり天の使いだったのか」
庭師の息子はサーラ様に向き直ると、地面に頭をこすりつけるほど身を低くし感謝を述べた。
「ただの”海乗り”よ」
「まさか、お嬢様はあの男とお知り合いなのですか! あぁ、まさか、まさか」
庭師は目を見開き、わなわなと震えたかと思えば目にも止まらぬ速さでサーラ様の手を掴んだ。
「もっと、もっと詳しいことを教えてくださいませんか……!」
「や、あの、手を離し」
「どうか、お願いします! 知りたいんです! あぁ、あなたに……っ、あなた様に会えてよかった……!!」
サーラ様の手を両手で握り膝を地に付け、全身で乞う姿はまるで愛の奴隷である。
植物への愛に突き動かされる庭師の姿は確かに、愛の奴隷なのだが。見る者が見ればなんとも言えない光景である。
──こういう時に限って、見られたくない人に見られるのはもはやお決まりの流れである。
「なんの騒ぎなのかな。ローズ」
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