悪役令嬢の婚約者-リヒト- 2
「これは、これは。見事なアムレットストーンですなぁ……リヒト殿下」
どうしてこうなったんだ。
ソーニャは約束の日になってもアムレットストーンを持って来なかった。
日に日に傷が増える彼女を見ていられなくて、強引に聞き出したところ
父親である男爵に取り上げられてしまい、返してもらえないということだった。
すぐにヘルディン家に向かい、男爵と直接話すことにした。
執事らしき男に出迎えられ、話は通っていたのかすぐに応接室に通された。
そこで待っていた男爵は俺を見ても、のらりくらりと返すつもりは無いようだった。
「こちらを我が娘にお贈り下さったということは、我が娘を婚約者に……ということですかな?」
「……それは」
狸のように調子よく笑う男だった。
ソーニャの件が無ければ、娘に暴力を働く男だなんて思わなかっただろう。
「リヒト殿下。まさか我が娘に手を付けておきながら知らん顔なんて、なさいませんよねぇ。ましてや、あの!アムレットストーンを渡しておきながら愛妾などと……」
常に細められていた目が鋭い色を帯びた。
「ローズ……いや、婚約者は王家とアディール侯爵家が決めたもの。私にはどうすることも」
つい目を逸らしてしまう。
俺は、こんな男にも負けるのか
情けない自分に辟易する。
ふむ……と髭の無い顎を撫でた男爵は視線を上げ、愉快な話でも聞かせるかのように、ある噂話を喋り始めた。
「そういえば、殿下の現在のご婚約者であるアディール侯爵様の息女には黒い噂があるのをご存じかな」
噂。
噂なんて、良くも悪くも人の目があれば立つものだ。人より持つ者は必ず。
王族の婚約者であるローズも、俺も、兄上も、例外ではない。
「は……、まさか」
根も葉もない、ただの“噂話”を使うというのか。
「なんでも隣国に我が国の価値ともいえる宝石を、なんと破格の値段で流しているらしい」
「……そのようなことをしてローズになんの得が」
俺の言葉に、男爵は軽く笑うだけだった。
“そんなことはどうでもいい”と。そういう意味か。
一拍置いて、男爵は何か思いついたのか丸い顎をさすりながら目を細めた。
「……そうですな。ぜひ、皆の前で聞いてみましょう」
「なんだと」
えぇ、えぇ、と頷きながら男爵は機嫌よく続ける。
「私が長年神経を尖らせ苦労してやかましい隣国との間を取り持ち、このリベラティオ国に利を運んでいたにもかかわらず! 女子供が遊びで我が国の価値を下げるような真似をして、何を得たのか、言えるものなら答えるでしょう! 皆の前でどのような言い逃れが聞けるのか、楽しみです」
どうやらこの男は今まで得られていた利をアディール家にとられたと恨みを晴らしたいらしい。
「そもそも、王子妃は重責を担う王子を支え、慰める存在だと思いませんか。かの令嬢は少しばかり出しゃばりすぎだと。私の耳にも入っていますよ。賢さを驕り、周囲に悪影響を及ぼし、今度は国を裏切るなど……」
男のため息が長々と続いた。
「このような令嬢ではリヒト殿下も休まりますまい。その点、リヒト様はわかっていらっしゃる。うちのソーニャの良さを」
「……」
ここに来て、俺はローズを。ローズと過ごした幼い頃を思い出していた。
すぐにへそを曲げ逃げる俺と違って、ローズは逃げなかった。
立派な王子妃になるのだと、そう言って泣いたり笑ったり怒ったりしていた。
あの頃のローズは表情がコロコロと変わり、何を考えているのかわかりやすかった。
からかえばすぐに泣き、綺麗なものが好きで、俺の髪をよく触っていじってきた。
俺を馬鹿にしてきた講師を、あっと驚かせ謝らせるのだと…必死に机にかじりついていた。
泣きながらもやめない、逃げない、諦めないローズを俺は内心馬鹿にしていた。
ローズが隠れて泣いていたことは知っていた。嫌ならやめればいいのにと思って…俺は近づけなかった。
俺にはローズの涙を拭く資格が無いと思っていたからだ。
俺はローズがなぜ泣いているのか、なぜそんなにも努力するのかわからなかった。
戸惑っているうちに、泣いているローズを見つけ慰め笑顔にするのは…いつも、兄上だった。
兄上にはローズの努力がわかるんだ。
ローズが何を考え、何を耐え、涙しているのか。わかるんだ。
兄上も努力し、諦めず、目標を持っていたから
兄上には、ローズの涙の価値がわかるんだ。
俺は涙するほど何かに向かって努力したことがあっただろうか。
俺はいつの間にかローズが努力し皆に認められるようになっていくと、自分が責められているような気分になっていたんだ。
うしろめたくて…俺は更に逃げたんだ。
「ぜひ今度の舞踏会でそれを皆さんの前で追及しましょう。逃げられないように。
そして、その反逆者を公明正大に裁き!婚約を破棄し、新しく我が娘を婚約者にと宣言しましょう。
観衆は勧善懲悪が好きですからなぁ。身分の差を越える愛の話も……ね」
「……そんなことをしても、」
いまだローズのことを思い出している俺の目をじっとりと見る男爵。
言葉を止めると、男爵は応接室の扉の前に立っていた執事に合図を送る。
「殿下はお気づきだったのでしょう」
扉が開かれ、ソーニャが転がるように床に投げ出された。
思わず、駆け寄りソーニャの体を起こす。
「リヒト……っ」
ソーニャの震える体を抱き支え、落ち着かせるように大丈夫だと背を摩る。
「私も娘が痛い思いをするのは胸が痛むのです。殿下もでしょう?」
「……ッ」
男爵のわざとらしい声に背を撫でられたような不快感にのまれ、つい怒りを表情に出してしまう。
“王族は表情に出してはいけないんだ。大事な時こそね”そう言う兄上を思い出す。
「丁度良く披露目の場があってよかったですよ。さすがに陛下の御前では難しいですからね。それにまだあなた方は学生で夜会にも出られない。卒業を待てば婚姻してしまう……、本当に丁度良かった」
俺の怒りの表情に満足したのか、男爵はご機嫌で話を続ける。
「あぁ、ドレスもお願いしますね。せっかくの晴れ舞台だ。うんと綺麗な姿にしてやってください」
「………あぁ」
ソーニャの瞳から涙が零れるのを、俺はただ見ていた。
*
『王子妃となるなら体に傷をつける訳にはいきません。丁重に扱うことを約束しましょう』
そう、男爵は言っていたがソーニャは大丈夫だろうか。
帰って早々、俺は兄上の執務室に向かった。
扉を開けると、ローズまで机に向かって書類を捌いていた。
仕事を手伝っているのは本当だったらしい。
俺に気付いた兄上が手を振ると、室内にいた文官たちは退室し部屋の中には兄上と側近であるローズの兄、ベンの兄、ノアの兄…そしてローズのみとなった。
皆が何か用かとこちらを見ていた。
その視線に負けないよう、足に力を入れる。
「兄上。緊急の相談があります」
「……遅いぐらいだ。聞こう」
兄上はどこから知っているのか、なぜここに来たのか、今から何を話すのか察しているようだった。
ここにきてなるべく怒られない言い回しを考えていた自分に気づき、自分が情けなくなる。
ソーニャの震える背に触れた手を強く握り、噓偽りなく、全てを話した。
男爵のこと、今度の舞踏会での計画、ローズの噂を利用すること
そしてソーニャのこと。
「それで」
「……ソーニャを助けたい。このままでは混乱を招くだけだ…」
「…助けてどうする。今、男爵を捕らえれば男爵家は取り潰しで娘は良くて修道院か、娼館か」
「俺に出来ることはなんでもします!!助けたいんだ…」
「我儘はもう聞けないと言ったはずだよ」
「兄上!!!ソーニャは男爵に虐待されていたんだ!俺が責任を取る。だからソーニャだけは…」
兄上は執務机の向こうで手を緩く組んだまま、動かない。
ほほ笑んでいるようにも見えるし、冷たく氷のような無表情にも見える。
俺が説明を続ける間、兄上が返す間、誰も口を挟まなかった。
そこに、ローズの小さな声がポツリと聞こえた。
「確かに、丁度良い晴れ舞台ですわ」
先ほどの男爵の台詞を繰り返すように、ローズは呟いた。
その声につられるようにローズを見ると、ローズは俺の方をじっと見ていた。
あの菫色の瞳で。
「リヒト様。わたくしを“断罪”してくださいませ」
そう言ったローズの表情は、俺の思い出の中のローズより
ずいぶんと大人になっていた。




