ンヌジャグ
「──あーそういや、今日の授業クソみてぇだったよな」
「僕もそう思う」
僕は昼間の講義を思い出して、ため息をついた。
電車に揺られている僕と、凩航大君は高校一年生で、大親友だ。
中学校の時は沢山の親友が居たんだけれど、同じ学校に進んだのは彼だけだったため、彼だけを『大』親友と呼んでいる。
「僕達、もう中学生じゃないんだよ。なのになんで、一次方程式の復習をさせられるんだろう。そんなものは受験の時、嫌というほど学習したのにさ」
「ホントそれな」
窓の外の景色は、どんどん後ろへ遠ざかっていた。
夕暮れでオレンジ色に染まった空が、ちょっと美味しそうに見える。マンゴーみたいな。
「特に途中の『つまり、5÷2は五分の二なのですっ!』ってハゲ頭がドヤ顔で言った時。笑いをこらえるのが大変だった」
「あの人、あんまり頭良くないんじゃないかな。ハゲだし」
「そりゃ言えてるな、はははっ」
僕も彼につられて、思わず噴き出した。
「もう少し静かにしていただけるとありがたいのですが」
「あー、すいません」
コウダイ君はそう注意されたとたん真面目になって、頭を下げた。
それがなんとも面白くて、僕はまた笑う。
ガタンッ、と一際大きく電車が揺れた。
電車はだんだんとその速度を減少させていた。
窓の外に映るのは広大無辺な自然ではなく、人工のホームになる。
特有の音が鳴り響くとともに、電車は停止した。
夕映えの空を見て、僕は言った。
「そろそろ僕、降りるね」
「おう、また明日な」
コウダイ君は笑って僕に手を振った。
笑い返して、僕は彼に背中を向ける。
後ろの降りる人たちに押し出されるようにして、僕は外へ降りた。
『押し出されるようにして』とは言うものの、人々の波って言うほどここに人はいない。
今電車から降りたのは、ものの数名である。
わざと「押し出されるように」って言ったのは、ちょっと格好つけたかっただけ。
「すいません、切符……」
僕は手に切符を携えて、駅員さんに近寄った。
それは、僕の知らない駅員さんだった。
彼はのっぽで高身長で、不思議な事に目の焦点があっていないように見える。
おかしな人、というのが第一印象だ。
彼はにこりとも笑わずに、黙って僕から切符を取った。
優しくもなく、かといって乱雑でもない手つきで彼は入鋏し、僕に返す。
その時彼は、不自然なくらい顔を耳に近づけて僕に囁いた。
「ンヌジャグが来るよ、気を付けて」
僕は反射的に、「えっ?」と声に出した。
しかし彼は、そんな僕に目もくれず、背中を向けてスタスタ歩き出している。
駅構内の温度が、数度下がったような気がした。
「……ンヌ……ジャグ……?」
いやに反響する聞きなれない言葉に、なぜか僕は鳥肌がたった。
周りを見ると、もうほとんどここに人はいない。
コオロギの鳴く声だけが、遠くで響く。
……早く帰ろう。
僕はそう思った。
しかし同時に、こんなことも思い出す。
「そうだ、お母さんから雑誌を買ってくるよう頼まれてたんだっけ……」
確かこの駅には、コンビニエンスストアがあったはずだ。
左手側を見ると確かに、夕映えの中白く輝く店があった。
「でも……おかしいな。コンビニの位置が、前に見た時と変わっている気がする……」
電車通学を初めてまだ長くないから、確証がなかった。
しかし、あるならば利用するに越したことはない。
無人駅の売店だから相当に規模が小さく、どことなく廃れているような印象を受ける。
僕は自然と早歩きになった。
ウィーン。
音が鳴って、自動ドアが開いた。
入るとそこは、蒸し暑い。
冷房はついてないようだ。
「…………」
そこに、誰一人として客はいなかった。
唯一存在する、呆けて立ち尽くす定員さんは、こちらに挨拶もしない。
「……早く、買わないと」
僕はそう思って、雑誌コーナーに足を運んだ。
そこには黒塗りの雑誌だけが、ぎっしりと並んでいる。
じっとりとした汗が、背中に垂れた。
不思議と、この状況に対する恐怖は覚えなかった。
代わりに、これではどれが母さんから頼まれていた雑誌か分からないな、と他人事のように感じる。
しかし目を凝らすと、薄く文字が見えるような気もした。
週刊少年ジャンに、キャーセンサー、ひゃらんに……
あった、これだと僕は真っ黒な本を手に取った。
僕が握ったのは、とある詩集。
母さんから頼まれてたのは、これだ。
「早く、レジに並ぼう……」
僕は横目でもう一度、黒塗りの雑誌売り場を見た。
光が反射して、僕はある文字を見る。
──ンヌジャグが来るよ、気を付けて。
一体、何なんだ。
僕は震える手で雑誌と500円玉を握り、レジに出す。
「すいません、これ買いたいんですが……」
顔の白い店員は、黙ってそれらを受け取った。
無言のままペタッとシールを張り、僕に渡す。
彼はその瞬間、確かに口を開いた。
「ンヌジャグが来るよ、気を付けて」
僕は駆け出した。
コンビニを出ると、外はすっかり暗かった。
ンヌジャグが来るよ、気を付けて。
ンヌジャグが来るよ、気を付けて。
ンヌジャグが来るよ、気を付けて。
地面にも、空にも、電柱にも、全部そう書かれていた。
遠くでまだ、コオロギが鳴いている。
その音に交じって、駅の方から微かに何かの吐息が聞こえる。
それはこちらに向かってくるよう。
プルルルル、プルルルル。
電話が鳴った。
僕ははっとして、携帯電話を取り出した。
待ち受けには、『コウダイ』とだけ書いてあった。
たったそれだけのことが、とてもうれしい事に感じられた。
飛びつくように、僕は電話に出る。
「もしもし、コウダイ君!?」
「が・-く・-る・ ・よ・・気を・ --・つ-・ け・・・-- ・・・て- ・・」
「!?」
しかし、聞こえたのは途切れ途切れの気味の悪い音だけだった。
慌ててもう一度、電話を見る。
そこには、『ンヌジャグ』と書いてあった。
「うわあああぁぁぁっ!}
僕は思わず携帯を落とした。
拾いもせず、ただ我武者羅に走る。
後ろから、何かが走ってくるのが聞こえた。
振り返ってはならないと自分に言い聞かせ、ただ前だけ見る。
「……ンヌジャグが来るよ、気を付けて」
通り過ぎてゆく景色の中から、声が聞こえた。
だけど、振り返ってはならない。
夜の闇は、不自然に暗かった。
遠くで、踏切の音が聞こえてくる。
でも、電車の音は聞こえなかった。
やがて僕は、薄く光の漏れ出す自分の家を見つけた。
タックルするようにして玄関の扉を開け、即座に鍵を閉める。
「……?」
母さんが沈黙のまま、おかしな様子の僕を見た。
僕はほっとして、母の顔を見る。
すると、母さんは言った。
「ンヌジャグが来たよ、気を付けて」
***
次の日、駅には昨日よりたくさんの人達がいた。
ウグイスのなく声はどこか心もとなく、
まだ朝日は出ていないため、とても暗い。
電車の中には、青い顔をしたコウダイ君がいた。
僕は笑って、君達に告げる。
「ンヌジャグが来るよ、気を付けて」
ンヌジャグが来たよ、気を付けて。