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開かれた扉

 亜紀は静かに歩き始めた。

( これが定めなの? ここまで来てどうにもならないの……? )


 彼女はそんなことを考えながら緩やかな坂道をバス停に向かって歩き始めたが、坂道を上りきったところで、ふと立ち止まって

「信也ごめん、少しだけここに寄らせて……」今までに見たことのない悲しそうな母親の表情に


「いいけど、神社で何をするの? 」彼は不思議そうに尋ねた。


「少しだけ、ごめんね」


 彼は静かに階段を上り始めた母のその後ろ姿を見つめながら

 ( 母さんは何がしたいんだ…… さっきの家にどんな用事があったのだろう? )

 そんなことを思い、ただ静かに階段を上っていった。


 境内から見下ろした町の様子は壮大であった。

 すぐ下に先ほど訪ねた家が見えた。大きな屋敷だとは思ったが、こうして上から見るとその大きさに驚くばかりであった。


 母は寂しそうに町を見おろしていた。

 彼女は何をしたかったのか、何を望んでいたのか……

 気にはなったが、とても尋ねることはできなかった。


 その時であった。

「久しぶりじゃのー」後方から神主に声をかけられ、


「えっ、覚えていてくださったのですか?」母は驚いて振り向いた。


「そりゃ覚えているよ、もう19年か……」

 神主は、遠くを見つめながら、昔を思いだしているようだった。


「もう忘れてしまいそうです」 彼の視線の先に一瞬目を向けた母の声がフェードアウトしていく。


( 19年前? 俺が生まれる前か? 何があったんだ? )

 信也は二人の会話に耳を傾けながら、今までに見たことのない、さまよっている母に不安を感じていた。


「家には行ってきたのかな?」


「いいえ、門番に追い返されました」信也が言葉を投げ捨てるように口を挟んだ。


「そうか、まぁお茶でも飲んでいきなさい」

 信也に目を向けた神主は、一瞬目を見開いたが、穏やかな声で、亜紀に語りかけた。


「いえ、もうそろそろ失礼しますので…… 」

 信也には、母が懸命に何かにけじめをつけようとしていることがよくわかった。


「いや、いただきます。喉が乾いてしまって、ありがたいです」

 彼は笑顔で神主に答えた。


建物に戻ると神主は直ぐに青山の家へ電話を入れた。

『 もしもし、神主じゃ、婆さんいるか?』


『 はい、もしもし青山です』


『何をしとるんじゃ、今日は大事な日だって言ってただろっ! あんたところの門番が大事なお客さんを追い返したぞっ!』


『えっ、 大事なお客さん?』


『内で持たせておるから、直ぐに迎えに来させろ……』


 慌てた洋子は門のところへ出向くと

「どなたか、訪ねてきたかしら?」そう尋ねた。


「はい、仏壇にお参りしたいという親子が来ましたが、この前のこともありますので帰っていただきました」


「何という方だったの? 」


「たしか… 中田さんとか言っていました」


「なんですって、中田亜紀さん?」


「はいそうです、そんな名前でした」


「なんてことをしてくれたの! 上の神社にいるからすぐに迎えに行ってちょうだい」


「あっ、はっ、はい、わかりました」


 

 門番をしていたガードマンは慌ててリムジンを出し神社の境内へ急ぐと、そこには、ベンチに腰を降ろし、静かにお茶を飲んでいる先程の親子がいた。

 その傍らで立っていた神主が、ものすごい勢いで上がって来た黒塗りのリムジンを見ると

「おう、来た、来た、ほんとにバカ者目が……」

 車に目をやりながら微笑んだ。


 その車に驚いた亜紀と信也は、目を見開いて降りてくる運転手を見つめていた。


( あっ、さっきの門番だ…… )

 そう思った瞬間、


「とんでもない失礼なことをいたしました。誠に申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げ、悲痛な声で謝りながら近寄ってくるその男に、信也は微笑んだが、亜紀は複雑な表情をしていた。


「お迎えに上がりました。本当に申し訳ございませんでした。どうか、お車へ……」

 懸命に頭を下げる運転手に向って


「いいえ、近いですから歩いて伺います」

 亜紀がそう答えると


「申し訳ありません、どうかお車へお願いします」

 彼は今にも泣き出しそうで悲惨な表情をしていた。


「母さん、乗せてもらおうよ。こんな車、二度と乗れないよ」

 運転手が気の毒になった信也が母を促した。


 彼にはことの成り行きはよくわからなかったが、それでも母がこの下の大きな屋敷に住んでいる誰かに取って、大事な人なのだろうということは何となく察しがついた。

ドアを開けてもらって車に乗るなどということは初めてで、何よりも滅多に見ることさえないような車に乗せてもらって、思いもよらないことが起こりそうな予感に彼の心は高揚していた。


 門の中に乗り入れた車を降りると、同時に重層な玄関の扉が開かれ、中から初老の女性が迎えに出てきた。

「いらっしゃいませ」そう言いながら顔を上げて信也を見つめた彼女は目を見開いて驚いた。


( 俺の顔に何かついているのか、さっきの神主も何か、おかしかったけど……)


「ど、どうぞおあがりください」


「ありがとうございます」


 二人は長い廊下を歩いて、奥の客間に通された。

 しばらくすると、品のいい、和服姿の女性が入ってきた。一目でこの家の主であろうことが想像できるほど、他の人との違いを感じずにはいられなかった。


 ソファに腰を降ろしていた母につられて信也も立ち上がった。


「とんだ失礼をいたしました。どうかお許し……」信也に目を向けたその女性の言葉はそこで止まってしまった。

 かつて19年前に亡くなってしまった筈の息子がそこに立っている錯覚に襲われ、一瞬時がフラッシュバックしてしまうと、彼女は信也から目を離すことができなかった。


「とんでもないです、こちらこそ突然に押しかけてしまい申し訳ございませんでした」

 亜紀が頭を下げると、信也を見つめて固まってしまっていたその主は、慌てて


「あっ、いいえ、とてもうれしいです」

 気を取り直したように亜紀に微笑んだが、それまで見つめられていた信也は目のやり場に困り、慌てていた。


「改めまして、お初にお目にかかります。中田亜紀と申します。これは息子の信也です」


「こちらこそ、信一の母です。お会いできてうれしいですよ」その主が涙ぐんでいるようで、信也は困惑していた。


「19年かかってしまいました。本当に長い間、失礼をしてしまいましてお詫びのしようがございません」


「とんでもないです。亜紀さん、息子さんは……」

 主がそこまで話した時に、亜紀が遮った。


「今日は、全てをお話しするつもりで伺いました。でも、その前に信一さんのご仏前にお参りさせていただけないでしょうか」


「あっ、そうね、ごめんなさい」


 二人は廊下へ出ると、再び奥に進み、和室へ通された。二間続きの大きな和室の奥にきれいに飾られた仏壇があり、左側手の桟の上には何枚か遺影が飾られていた。


 静かに仏壇に向う母について、信也も恐る恐る前に進んだが、仏壇の前に正座した母の横で、遺影の中にある1枚が自分とうり二つであることに驚いた彼は

「母さん……」遺影を見つめたまま呟いた。


 仏壇のろうそくに火をともし、線香を祀った母は、

「信ちゃん、お願い、もう少しだけ待って……」と、信一が好きだった金唾を祀りながら目もくれずにそう答えた。


 冷静であれば、父親かもしれない、そういう思いが起きてもおかしくはなかったが、頭が真っ白になってしまった彼は、訳がわからず動揺したまま、母親の後ろに正座した。


 ろうそくの炎が見たこともないような勢いで立ち昇り、ボッ、ボッと音を立てながら何かを語りかけてくるようであった。

 信也が生まれて初めて霊の存在を感じた時であった。


( 信一さん、長いこと待たせてしまってごめんなさい。あなたの息子の信也です……)

目を閉じて静かに瞑想する彼女の瞼にはぼんやりと信一の笑顔が浮かんでいた。


( 今日はあなたのご両親に全てお話しするつもりよ……

その結果、どうなるのかはわからないけど、でも後はあなたにまかせるわ

それでいいわよね……!)


 そこまで心で呟くと、亜紀の閉じた瞼にも感じることができるほど、ろうそくの炎がさらに強く、高くなり、亜紀の脳裏に浮かぶ信一は嬉しそうに微笑んでいた。


 意を決したように目を開いた亜紀は、深く仏前に頭を下げると後ろへ下がり、手前の部屋で待っている信一の母親のところへ行くと、信也もその横に座った。


「お母様のご想像のとおり、この子は信一さんの忘れ形見です」


「そうなの、やっぱりそうなのね…‥」

 信一の母は、目に一杯の涙を浮かべ、信也を愛おしそうに見つめると、仏壇に目をやり、何度も小さく頷いた。


「えっ、あの写真の人が父さんなの?」

 信也も驚いたが、目の前に祖母がいることを理解すると、慌てて

「お祖母さんなんですか?」不安そうに尋ねた。


「そうよ、お祖母ちゃんって呼んでくれるの?」


「えっ、もちろんです。父さんのお母さんなら、お祖母ちゃんですよね……」


 語りかけて来る信也に、この19年に及ぶ人生の苦悩が一気に振り払われた祖母は、涙を流しながら

「あの子は、親よりも早く亡くなってしまって、親不孝な息子だと、正直言って、恨んでいました。でも、こんな宝物を残してくれていたのね…… 亜紀さん、ありがとう、ほんとにありがとう。こんなに立派に育てて下さって……」


「いいえ、とんでもないです。もっと早くにお邪魔するべきでした。本当に申し訳ないです」


「あのー、もう一度、拝んでもいいですか?」信也が祖母に尋ねると


「ええ、どうぞ、あなたのお父さんだものね、喜んでいると思うわよ」


 再び仏壇に向う信也の後ろ姿に目を向けながら

「信一さんが亡くなった時、私は体調を崩して実家へ帰っていました。友人から連絡を受けたのですが体調が悪くとても動けるような状況ではありませんでした。でも、その後あの子をお腹に宿していることが分かって、周囲の人たちからは、色々なことを言われました。でも、あの子を産むことは当然のことのように思ってしまって、産まないなんてことは考えてもみませんでした。それにこの授かった命は絶対に私が守って行かなくては……って思っていましたから、その決意を知った母や兄は理解してくれて、何とかここまでやって来ることができました。兄の奥さんは私の友人だったこともあって兄夫婦には本当に助けてもらいました」亜紀は静かに話した。


「大変だったでしょうね、ほんとにありがとう…… 」


「19年の間には、私にも色々な思いがありました。あの子に父親のお墓参りをさせてあげたいって思ったこともありましたし、お母様方にお知らせするべきじゃないだろうかと考えたり…… でも、もしここに来てしまったらこの子をとられてしまうかもしれない…… あるいは財産目当てなのかって、罵倒されるかもしれない…… 次々とそんな愚かなことばかり考えてしまってずるずると時間が経ってしまいました」


「そんな、愚かだなんて……」


「でもあの子が突然、信一さんが通っていた大学を受けるって言いだして、何も知らない筈なのに…… 何かが動き出しそうな予感がしていました」


「……」義母は無言で何度も頷いてくれた。


「ちょうどそんな時、幸せに暮らしていた隣の家の息子さんが交通事故で亡くなってしまいまして、若奥さんは子供を連れて実家へ帰ってしまったんです。その日から、ご夫婦は二人だけになってしまって、後は死ぬのを待つだけ、そう言って辛そうに毎日を過ごしていました」


「よくわかるわ……」


「ところがある日、若奥さんが子供を連れて帰って来られて、また一緒に暮らしたいって言われたらしいです。ご夫婦はとても喜んでお孫さんの面倒を見ていました。この時あたしは初めて信一さんのご両親の思いに向き合うことができました。私はとんでもないことをしていたと後悔しました。どうなろうと、もっと早くにご両親の思いに気づくべきでした。19年もかかって本当に申し訳ないです」

 亜紀も涙を浮かべながら思いを語った。


「亜紀さん、それは誰のせいでもないと思うのよ。人として生きていたら色々な思いがあるもの…… 私は、この歳になって、初めて息子を授かった時以上の喜びを感じています。遅くても早くても、あなたがあの子を、あんなに立派に育てて下さって、私たちに会わせて下さって、ただ感謝の思いでいっぱいですよ、本当にありがとう」


「お義母様……」


「奈津さん、あの人に直ぐに帰って来てもらって!」彼女は、傍に控えていた女性に目を向けた。


「はい、でも今は、総理と会食されていると思いますが……」


「そうなの? でも構わないから、とにかく連絡してくださいな、大事なお客様が来られているからって伝えて」


「わかりました」


 傍に帰って来ていた信也は驚いた。

「あのー、総理って、総理大臣のことですか?」


「あっ、ごめんなさいね、びっくりするわよね」


「はあー…… お祖父ちゃんて、何をしている人なんですか?」


「あなたのお祖父ちゃんはね、青山グループの社長さんなの」


「えっ、青山グループって、あの青山グループですか?」


「信也さんが継いでくれるとうれしいんだけどね」


「えっ」彼は母親を見たが、亜紀は苦笑いをしただけだった。


「あのー、父さんの姉弟は……」


「一人っ子だったのよ、だからこの家の血を継ぐ人はもうあなたしかいないの……」

 彼はあまりにも突然の話で頭が混乱していた。

 母の兄は医者をしていたので、よく助けてもらったが、自分は母子家庭で、何とか生きて来るのが精一杯であった。

 それが突然、たった一人の青山家の後継者だと言われても、やはりそれはよその家の出来事のようで、自分の家は母と二人なんだと思ってしまって…… 

 ただ不安だけがその余韻を残していた。


「信也さん、あなたのお父さんの部屋へ行ってみる?」


「はい、是非見てみたいです」

 祖母に連れられ二階へ上がると、父の部屋だけでも2部屋あり、手前の部屋の机の上にはノートパソコンが置かれていた。


「パソコンは新しいですね」信也が尋ねると


「適当に取り換えてもらっているの、三日前に新しくなったと思うわ、誰も使わないのにね」


「えー、誰も使わないのに、新しいのにしたんですか、開いてもいいですか」


「もちろんよ、あなたが使ってくれたらうれしいわ」


「えー、使ってもいいんですか?」


「もちろんよ、この家のものは全てあなたの物よ」


「えっー、そんな」


「亜紀さんの前では話しにくかったけど、私達夫婦が亡くなってしまったら、相続する人はあなたしかいないのよ……」


「えっ、そっ、そうなんですか…… 僕はどうすればいいんでしょうか」


「それは、あなたのお母様の思いもあるから、ゆっくりと考えていきましょう」


「はい」


「だけど、この家にあるものは、勝手に使えばいいのよ」


「はい、ありがとうございます」


 連絡を受けた信一の父親、青山グループの社長、青山義信は、総理との昼食を中座し、慌てて帰宅した。帰宅した彼は、玄関に女性用のパンプスと、おそらく学生ものだと思われる革靴が並べられているのを見て、母、子の来訪者であろうとは思ったが、総理との会食中に電話を入れてくるほどの大事な客、しかもそれは母子、どのように考えてみても思い当たる節はなかった。


 彼が部屋へ入ると、亜紀と信也は姿勢を正し、彼に対峙したが、信也を一目見た彼は、一瞬立ち止まり、目を見開いて唖然とした。


 19年前、不幸にも親を置いて旅立った息子が、あっという間にフラッシュバックして、一瞬、彼は何が起きたのか、ここが現実なのか、夢の世界なのか、もう何も考えることができなかった。


「初めまして、中田亜紀と申します。これは息子の信也です」二人は深々と頭を下げた。


 中田亜紀、と聞いて、はっとした彼は、彼女を見つめたまま、そこに腰を下ろした。

「あなたは、信一の…… 」


「あなた、信也君は信一の忘れ形見ですよ……」妻の言葉に彼は一瞬彼女に目を向けたが、

信也を見つめながら、目を細め、遺影に目を向けると目頭が熱くなるのをどうすることもできなかった。


「お邪魔するまでに19年もかかっしまって、ほんとに申し訳なく思っています」

 亜紀が詫びると


「いや、とんでもない、思ってもみなかったことで……」初めて彼が口を開いた。


「ほんとは、もっと早くにお知らせするべきだったのだと思います。でも、私にもいろんな不安がありまして、時間がかかってしまいました」


 しばらく混乱していた思考が落ち着きを取り戻すと、彼は再び信也を見つめ、左手の指で瞼を抑えたまま俯いてしまった。

( 孫がいたのか…… なんでもっと早くに気づかなかったのだろう…… お墓が黒く染まっていったのは、信一が懸命に訴えていたのか…… あの子に子供がいたのか…… 私達の血をつないでいく子がいてくれたのか…… )


 そこまで思ってしまうと、彼は滝のように零れ落ちる涙を懸命にぬぐい、しばらく静寂の時間が流れたが、その様子を見つめていた亜紀は、今さらながらに勇気のなかった自分を悔いて、彼女もまた目頭が熱くなるのを懸命にこらえていた。

 信也は初めて会う祖父を見つめながら、この人に取って自分が生きているということは、こんなにもすごいことなのか? たった一人の子ども失くして、血のつながっている者はもう誰もいないと思っていたのに、実は血のつながっている孫がいた…… 確かに感慨深いのかもしれない……


 まだ若い信也にも、この血の意味がなんとなくわかるような気がした。


「申し訳ない……」祖父は何かを言おうとしたが、顔を上げて、息子の遺影に目を向けると、再び涙があふれ、嗚咽に言葉が遮られてしまう。


「あのう……」信也が申し訳なさそうに口を開いた。


 皆が一様に彼に目を向けると

「あのう、お祖父さんて呼ばせてもらってもいいんですか?」

総理と席を共にするような人だと知って、何故か恐れ多い感じがしたが、彼はこの空気を何とかしたいと思い、静かに伺いを立てた。


「もちろんだよ、こちらの方からお願いしたいよ……」

ようやく涙にぬれた顔を上げて、微笑んでくれた祖父に彼は安堵した。


「今日はどこかの試験だったのかな?」


「はい、東栄大学の試験でしたが、あまりできは良くなかったかもしれません。明日は滑り止めの西高大学なんで頑張ります」


「えっー、そうなのか…… 東栄が第一志望なの?」


「はい、でも担任からは難しいって言われています」


「そうか…… 」


 彼は、携帯を取り出すと、

『ちょっと悪いんだが、東栄大学の理事長に電話して、私の所へ電話を入れるように伝えてくれないか』


「えっ」信也は驚いたが、亜紀は冷静だった。

 2分もしない間に、電話が入った。


『はいもしもし、あっ理事長、忙しいのに申し訳ないね』

『……』 

『実はね、私の孫が今日、お宅の大学を受験してね、出来が悪かったって、心配しているんだよ、申し訳ないが、どんな状況か、調べてくれないかね。うん、うん、名前は中田信也、信じるに也って言う字だよ』 

『……』 

『うん、よろしく頼むよ、受かればまたお宅でお世話になるからね』

『……』 

『10分もあればわかるかな?』

『……』 

『うん、よろしく頼むよ』

皆、その成り行きを静かに見守っていた。


「10分ぐらいで、結果がわかるよ、もし受かっていれば明日の受験は行かなくてもいいんだろ?」


「はっ、はい、そうなんですが……」


「何も心配はいらないよ、裏口入学をしようとしているわけじゃない、ただ、早めに情報を知らせてもらうだけだから……」

「はいっ」


りりりりーん

『はい、もしもし、あっそうかね、ありがとう。またお世話になるよっ。忙しいのに無理言って申し訳なかったね』

『……』 

『 また、古くなって困っているところがあれば、協力させてもらうよ』

『……』 

『うん、うん、有り難う』 


「あのねっ、間違いなく合格しているってよ」


「えっ、本当ですか?」


「理事長がそう言うんだから間違いないよっ」


「でも、こんなに短時間でわかるんですか?」


「それは、信也君の実力だよ……」


「えっ」


「信也、たとえ、理事長さんが採点してなくて合格ですって言っているとしたら、それはあなたのお祖父様の力でしょ! あなたがそのお祖父様の孫であるということは、あなたの力なのよ!」


「なんか、変な理屈だなー」


「でもね、あなたがお祖父様の孫である以上、これからもこんなことはあると思うのよ。それが嫌だったら、お祖父様の孫であることは隠して生きて行くしかないわよっ!」


「亜紀さん、まあまあ、私達は孫がいてくれるだけでうれしいんですよ、私達のせいで信也君に不自由な 思いはさせたくないです。初対面で、こんな場面を見せてしまって申し訳なかったね」


「いいえ、とんでもないです。今日、こちらにお邪魔することを決めた時に、もし、この子を孫として受け入れていただけるのであれば、この子にも相当な覚悟をさせなければ、この子が道を誤ってしまう…… そのことを思いながらやってきましたので……」


「亜紀さん、あなたは素晴らしい人ですね、信一が亡くなる前、あの子が人としてすごく成長していることを感じていました。やはりあなたのおかげだったんですね、当時あの子が付き合っている女性に早く会いたいと思っていたことを覚えています」


「そんな、わたしなんか、とても……」


「いやいや、なかなかのものです。どんなお仕事をされているんですか?」


「市役所に勤めております、今は市長秘書をいたしております」


「そうですか、今は行政の方も大変ですよね」


「はい、いろいろございまして……」


「あなた、お話しはまたゆっくりさせていただくとして、今夜はゆっくりしていただきたくて、合格の確認を急いだのでしょ!」


「ああ、そうだった。今夜はここに泊まっていただけますかね」


「あっ、でもホテルが……」


「どこのホテルですか?」


「パークサイドホテルです」


「ああ、そこなら内のホテルです。荷物はどうされてますか、もし整理しているのであれば、持ってこさせますから」


「はい、全てバックにつめてはいるのですが……」


「じゃあ、ここに運ばせます」


「すいません」


「はははっ、私達のわがままですよ。夜はどこかへ行きたいが、信也君は何が食べたいの?」


「えっ、自分はなんでもいいです。お祖父さんたちのいいもので……」


「私達はね、君が大好きなものをおいしそうに食べてくれるのを見たいんだよ……」


「えっ……」


「焼き肉がいいんでしょ」


「でも、お祖父さんやお祖母さんが……」


「甘えさせてもらったら……」


「そうか、焼き肉が好きなのかね。じゃあ、そうしよう! 奈津さん、聖蘭園を予約してくれるかね」


「はい、旦那様」



 7時過ぎに店に出向いて特別室に案内された4人は、支配人に迎えられ着席した。

「社長、お久しぶりでございます」


「いや、突然に悪かったね」


「とんでもございません」


「今日はいかがいたしましょうか?」


「今日は、この子が主役だから、何がいいのかなー」


「お孫さんでいらっしゃいますか?」


「えっ、よくわかったね」


「亡くなられたご子息にそっくりでございますから……」


「へえー、20年も昔のことなのによく覚えているね」


「若奥様も2度目でございますよね」


「えっ」


「確か、ご子息とご一緒に来られて、この部屋へお通しすると、若奥様が『私達は学生なのよ、何を考えているのっ』って、ご子息に小言を……」


「すごいですね、ほんとに20年前のお話しですよね……」


「いや、あの時、ご子息は素敵な方とお付き合いされているんだなーと思ってうれしくなったのを覚えています。なのに……」


「支配人、ありがとう。でもね、今日は、私達も初めて孫がいたことを知ってね、こんなうれしい日はないんだ。それに君の思いに触れて今日は、本当にいい日だ」


「おめでたい日に失礼をいたしました。若奥様のお顔を拝見してついうれしくなりまして……」


「ありがとうございます」


「さあー、信也君は何がいいのかな?」


「よくわかんないんですが……」彼がそう言って支配人を見上げると


「おまかせいただけますか?」


「はい、お願いします」


「お若いので、ロースよりもカルビの方がお口にあうかと存じます。今日は特別なカルビが入っていますのでそちらをご用意いたします」


「うん、よろしく頼むよ」


「ところで亜紀さん、市役所にお勤めだったらそろそろ市長選挙じゃないのかね?」


「はい、4月末の予定です。ただ、現職の市長が厳しい状況で……」


「ほう…… その市長さんにはお世話になったのかね?」


「はい、お世話というか、とても誠実な方で、18年前、試験を受けて1次、2次は合格したのですが、未婚の母だということが問題になって……」


「特に行政なら、そんなことも気になるんだろうね」


「はい、とても厳しい状況だったのですが、『人にはそれぞれ事情がある。大事なことは、その人材が必要かどうかということだ。憶測で判断してはいけない。私生活が乱れているとも思えない。子供がいることが合格させない理由になるのか……』と言われたらしくて、そのおかげで合格することができました」


「ほうー、なかなかの人だね」


「はい、尊敬しています。」



 翌日、朝食が済むと、居間で義父が話し始めた。


「亜紀さん、いつまでいてくれるのかな?」


「仕事のことがありますので、私は今日中には失礼させていただきますが…… 信也は卒業式まではもう何もすることはないと思いますので、もしよろしければそれまで滞在させていただければと思うのですが……」彼女がそう言って信也に目を向けると


「えっ、いいんですか?」彼は驚いて祖父母を見つめた。


「いいも悪いも、こちらからお願いしたいよ」

祖父母がうれしそうに微笑んだ後で


「それから、大学につきましても、もしご迷惑でなければこちらから通わせていただければ嬉しいのですが……」亜紀の思いに


「亜紀さん、ありがとう、本当にありがとう。そこまで考えていてくれて、本当に感謝の言葉もない。本当にうれしいですよ」


「とんでもないです。そうさせていただければ、私も時々、お参りによらせていただけますからうれしいです」



 午後2時、亜紀は信也を残して青山の家を出た。

 会社から駆け付けていた長崎という秘書に付き添われ、彼女は駅へ向かったが、車中で

「社長にお仕えして、5年になりますが、あんなにうれしそうな社長のお顔、初めて拝見いたしました。お話し伺って感動して私もつい目頭が熱くなってしまいました」

 30過ぎぐらいであろうか、美しい女性秘書にそう言われて


「よくわからないんです……」亜紀がぼそっと呟いた。


「えっ」驚いた秘書は亜紀を見つめた。


「亡くなった信一さんは、出会ったころは、金持ちのボンボンで、世の中のこと何も知らなくて、お金さえ持っていれば女は寄ってくる、なんて思っていた人で……」


「えっー、そうなんですか」


「だから、私も最初は相手にしなかったんです」


「……」


「それでもしつこく言い寄ってくるから、あなたの遊んでいるお金は、誰のお金なの?

あなたがご馳走してくれるディナーは誰のお金で支払うのっ? って、いちいち叱りつけたんですよ」


「ええっー、なんか、私、すごいお話し聞いているんですけど……」


「全然、すごくないですよ、でもね、私がどんなに叱っても、『わかった、なおす』っていって、努力はしていたんです」


「やはり性格のいい人だったんですね」


「違うのよ、周りの友達に私をものにするって、豪語していたから、引くに引けなかったのよ」


「ほんとですか……」


「おそらく……」


「ご子息も本気になっていたんじゃないですか?」


「今でもよくわからないのよ」


「奥様、それは……」


「大学出たら、結婚しようって言うから、あなたが貯めたお金でするんだったらいいわよって言ったら、なんか喜んで、流れで一度だけ身体を許したの…… 今思えば、それが全ての始まりだったような気がする……」


「えっ、なんか、奥様、私はもう聞かない方がいいような気がするんですけど……」


「そんなこと言わないで聞いて下さいよ」


「どっ、どうしてなんですか?」


「あのね、今の現状だけ見ると、わたしって、『純愛を貫いた信一さん一筋のすごい女』ってイメージでしょ」


「はい、その通りです。私も感激しました」


「だけどね、それは結末だけ見るからそうなるのよ」


「ええっー、そんな……」


「私が体調崩して実家に帰っていた時に彼は交通事故で亡くなってしまって……

そのあと、信也がお腹にいることに気づいて…… この子を守れるのは私だけ、そう思って一生懸命育てて、言い寄ってくる男はいたけど、大したのがいなくて…… それに信也と二人の生活は楽しくて、あっという間に18年が過ぎてしまったの」


「ええっー、そんなものなんですか?」


「そうよ、信一さんを愛しているからこの子を育てなければ、なんて、そんな気持ちは全くなかったのよ…… だって私の一人息子なんだから、ただ大事に育てただけなのよ」


「奥様、なんか、このまま聞いていていいのでしょうか……」


「いいですよ、だけどうそんな時……」

 彼女は隣家の老夫婦の話を聞かせた。 


「私は、自分のことしか考えていなかったのよ。だけど隣のご夫婦を見て目が覚めたのね。初めて19年の罪に気が付いたの……」


「そうだったのですか……」


「だけど、今の現状だけで判断すると、私は愛した人の忘れ形見を懸命に育て、愛を貫いた愛一筋の女ってイメージでしょ。そんなにいいものじゃないんですよ……」


「でも、社長ご夫妻はあんなに喜んで……」


「信也がまだ幼かった頃、あの人が何度も枕もとに立って、手を合わせるのよ」


「ええっー、本当なんですか!」


「だけど、子育てで疲れているのにうっとうしくて、『私はまだ生きているのよ、何故、手を合わせるのよっ、もうどこかに行って』って、本当に声出して言っていたの……」


「奥様……」


「だけど、あれは早く両親に会わせて欲しくて、お願いしていたのね」


「そっ、そうなんでしょうね……」


「その時は、霊だとか、魂だとか、そんなことは全く思わなかったけど、昨日、仏壇でお参りして、初めて霊っていうものを感じて、鳥肌が立ったの」


「何かあったんですか?」


「もうローソクの炎がすごく上がって、不気味だった」


「不気味って…… ご子息の思いなんでしょ……」


「そうねー、だけど、その時に思ったの。彼が亡くなったころ、私は彼をちゃんとした人にしなければって思ってたの、結婚までは考えていなかったけど、でも今後は彼との関係を育んでみたいって考えていたことを思いだして、そしたらこの19年間、何もできていなくて……」


「でも亡くなられているんだから……」


「そうなんだけど、でも何故か、何とかしてこの19年間を埋めてみたいって思ったの……」


「そうなんですか……!」


「そんなこと考えていたら、せめて仏壇にお参りしたいなとか、一度でいいからお墓にお参りしてみたいなって、何度か思ったことがあって、でも日々の生活に追われて、そんな思いは忘れてしまっていたのね」


「やはり、奥様も愛していたんですよ……」


「うーん、自信はないけど、でも今は、誰にも遠慮しないで、仏前に座って、好きなだけ語らうことができるし、お墓にだって行くことができる、そんな日々を送って、彼への思いを育んでみたいって思うの…… それに、信一さんに代わって、少しでも親孝行をしてあげたい」


「奥様、私、感激しています。やはり奥様はご子息を愛していらしたんでよ。だからこそ、そのご両親ことを思えるんですよ……」


「実はね、この度お邪魔するにあたって、信也を養子に欲しいと言われれば、それも仕方ないって、それだけの覚悟をしてきたの…… でもお義父さん達はそれを口にしなかった。私から言った方がいいんだろうかって考えているの……」


「奥様、私が言うまでもないことですが、社長ご夫妻の亡き後は、あの家を継ぐ人は信也さん以外にはいないですよね。 だけど、信也さんを養子にとお願いすれば、奥様が一人になってしまう。それがわかっているから、社長は口には出せないんですよ」


「やはりそうなのね、じやあ私が切り出した方がいいのかしら……」


「そんなに難しく考えないで奥様がお二人の養女になればいいんじゃないですか、それが一番自然で、誰も寂しい思いはしなくて済みますし…… そうすれば、最終的には信也さんに繋がっていくじゃないですか」


「ええっー、そこまで考えていなかったわね、でも、それこそ、財産目当てだって思われるでしょう」


「いいえ、私が考えるくらいだから、おそらく社長は既に考えていると思いますよっ」


「えっ、そうなの……」


「それから、今日のお話しは、昨日はきれいごとばかり話したような気がして、心苦しい思いがあるから、私の方から社長に奥様の思いを伝えて欲しいということでよろしいんですよね」


「あなた、すごいですね。やはり青山グループの社長秘書をするぐらいの人は、あなたみたいな方なんですね」


「ありがとうございます。それから、養女になることを了解していただいたとして、その後、おそらく社長はカードを渡して、いくらでも使いなさいっていうと思うんです。でも、奥様からしたら、そんなものいただいても使えませんよね」


「えっ、ええ、そうですね」


「社長はとてもいい人なんですが、その辺りが弱いところで…… ですから、奥様にも何らかの形で所得が得られるような方策を社長に提案いたしますので、そこのところはご安心なさって下さい。」


「ありがとうございます。お義父さんがあなたに送っていただくように言ったのには、何か意味があったのかもしれませんね……」

 それを聞いた秘書は嬉しそうに微笑んだ。


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