二
二(中学生時代)
語り手はそこまで語ると、徐に目の前のジョッキに入った麦酒を呷った、彼の喉はグビグビと麦酒を胃へと送るように、再び上下に蠢いている。
男はそのビールを飲み干すと、ジョッキが割れない程度に机に叩きつけた。
「どうしたの?」と男の隣の女性が聞くと、男は「何でもない」と一言だけ。
「……麦酒はまだあるのか?」と語り手と机を挟んで反対側にいた男はテーブルを囲む聴衆に聞いた。
「ケース一つ分くらいはあったかな?」と誰かが答えた。
「その麦酒はできるだけ彼の前に置いてやれ、……大丈夫、こいつは麦酒なんかでつぶれねえから」と麦酒を確認させた男は言った。
「うるせえぞ、てめえ」とジョッキを呷った男は罵るように言った。その言葉は怒気さえあれど呂律ははっきりと回っており、男の顔はあまり赤くなってなどいなかった。
「つづき行くぞ」と語り手はまた口を開いた。
***
――中学では、小学生と同じ科学部というものに入った。
理由は単純明快、どこに入るかを考えるのがめんどくさかったからだ。
俺が通っていた中学でも仮入部というものはあったが、その内、始めの二、三日で俺自身、その時に気になっていた部活動に仮入部しに行くのが面倒臭い、と諦めてしまった。
ただそれだけだ`
そんなわけで、俺は科学部員になった。
そこでの活動内容はまあまあ充実したものだったよ。
そんな中、俺は中学一年生の後半、《好きな女の子》ができた、言うまでもないが恋愛的な方の「好き」だ。相手は同じ化学部員だったやつだ。
出会った当初は、特別にはなんとも思っていなかった、ただの同じ科学部員と、それだけ。 その時の俺は、彼女と関わる内に無意識に惹かれ、その子を好くようになった。あわよくば彼女、そして、妻にしたいと。
……我ながら、非常にバカバカしいと思っていたさ。
同時に、その頃の俺は非常に偏った、というか「ませた」思考をしていたこともあり、中学生と高校生の頃が最も恋愛感情が熱くなるという偏見を持っていたがために、付き合おうなどという思考は微塵も無かった、いや厳密にはあったが、それは冷静に恋愛観ができるであろう大学に入ってからだろうと思っていた。
さて、この話のヒロインは彼女じゃない、【別の女の子】だ。
【彼女】もまた、名を明かさないが、出会った当初は特に思い入れは無かった。ただの【クラスメート】であり、俺の同級生だった、本当にそれだけだった。
【その子】とは、《その時の気になっていた女の子》と同様に一緒のクラスにはなったことがあるにはあった、中学一年生と三年生の時だ。だが、《気になっていた女の子》と比較して、接点はとことん少なかった。
それこそ友達と呼ぶには距離が遠すぎる、「名前だけは知っているその他のクラスメート」とほぼ同じ位置付けだったはずだ。
……いや、どうだっただろう?
気付いた時には自分の目が【彼女】を追っていたような気もしなくはない。【彼女】が俺の視界に入れば、「その他の交友関係が薄いクラスメート」とは違って、「あっ、【彼女】」と心の中で【彼女】の名前をつぶやいていた気もする。
それだけで、自分の中での【彼女】の立場が「その他のクラスメート」というより《ちょっとだけ気になるその他のクラスメート》となっていたのかもしれない。
……少なくとも、【彼女】と俺は一度も会話をしていなかったにも関わらず、俺は彼女の名前を知っていたことだけは確かだった。
中学二年生になった頃から、俺は塾に通い始めた。それまで俺が使っていた通信講座をめんどくさがるようになって、成績が下がってきたために、通わされたのだった。
その塾は個別指導塾という部類で、俺が住んでいた地域では有名な方だった。
それに通い始めたのも親の提案であり、あまり乗り気ではなかったが、行くしかなかった。
あるころ、【彼女】が自分と同じ塾に通っていたことに気がついた。
しかも、同じ曜日、同じ時間帯に、だ。
そのことがわかったのが、通い始めて何回目だったのかはわからない。
だがしかし、これが【彼女】に好意を持つようになった一つのきっかけであったことは間違いなかった。【彼女】のことをほんの少しだが知ることができたからだ。
俺が英語を習っていたのに対し、【彼女】は数学を習っていたこと。
俺と【彼女】の授業時間が同じになるのは金曜日の最終時限、万人が夕食をとるような時間帯だったが、【彼女】はその前の時限から授業を受けていたこと。
そんなことを自分は無意識に認識していた。
――そうだ、それだけだ、何か悪いか?
はっきり言うが、俺は世間一般の言い方をお借りすれば変人の類いだ、だがストーカー行為を行う変質者じゃない。これくらいの違いは分かるよな?
それに、中学時代、俺は【彼女】が異性として好きだったのかはわからなかった、少なくとも「人」として好きだったのは確かだがな。
だが、それだけだ、俺にとってはまだな。
ああ、そうそう【彼女】と同じ塾に通っていることを知ってから、少しだけ塾に行く足取りが軽くなったことも確かだった。それがどういう理由かはわからないがな。
だが、そういうものだろう?
自分があまり知らない場所で知り合いと出会う、それだけで、なぜだか心が少しだけ楽になるだろう?
それと同じだ、間違いなく、……多分。
…………もしかしたら。
……。
……わかるやついるよな?
……………そうか、……。
……そういえば、こんなエピソードがある、俺が【彼女】と同じ塾に通っていることを知ってからしばらく経った、ある金曜日の夜のことだ。
先にも述べたように俺は、金曜日の最終時限に授業を受けていた。
その時もいつも通りだったさ。
いつも通り母の車で塾に向かい、塾のドアを開け、いつもの先生と生徒の組み合わせ、俺が受けていたのは1対2の方式だったが、それで授業が始まり、一方の生徒の学校の愚痴を小耳に聞きつつ問題を解き、授業が終わった。
そして、俺は家に帰るため、机に広げていた勉強道具を片付け、カバンを背負い、玄関まで見送りに来た先生にさよならを言うと、塾のドアを開けた。
その時の空は真っ暗な漆黒に塗りたくられていた。
そりゃそうだろうな、最終時限の終了時間は、大体の家庭は夕食も終わりリビングでくつろいでる頃合いだ。夏だろうと夜だろうとその時間には日は沈む、そうなれば辺りは暗くなり、街灯が煌々と輝くようになる。
至極当たり前のことだ。
ちなみに、俺が通っていた塾のすぐ近くにはジェイアールの駅があったもんでうまく時間が合えば、電車のブレーキ音が聞こえてきた。その音は迎えを待つ間、暇だった俺には良いBGMになった。
この日、行きは親の車だった俺だが、帰りもまた親の車だ。
だが親が気分屋のせいで、塾の授業が終わるのは毎度同じであるにも関わらず、俺が塾から出るときには既に到着している時もあれば、五分後に到着することもあった。
五分、その時間を大概の人は短いように感じるが、その時の俺はケータイも持っていなかったがためにその時間はとてつもなく長いように感じた。
そしてその日は、運が悪いことに、後者の方だった。
俺は塾が終わると、真っ先に塾の傍にある親との集合場所に向かうんだが、その日、親の車は無かった。
またか、とそんな心の声を呟きつつ、俺は塾の玄関前まで歩き、そこで親の車を待つことにした。
俺は子供ながらに縁石ブロックの上にのぼり、道路の奥に見える駅前の信号を眺めていた。
その時だった、俺より遅れて塾から出てきた【彼女】が、俺の後ろを通り過ぎたのだ。この時、俺はそのことに全く興味を示さなかった、……ということはなかった。軽く彼女に目線を向けた程度のことはした、……と思う。
【彼女】が着ていたのは学校の制服である、紺色のセーラー服に白いスカーフ、襞がついた、セーラーと同じ色のスカート。髪型は【彼女】の真っ黒な黒髪を項の上部あたりで髪を結い、真っ直ぐ下に髪を下ろしただけの一つ結び。
そう、【彼女】は、学校にいた時と全く同じ服装だった。
別に、【彼女】の私服を見たかったなどという下心は全く無かった、これは確信できる。
俺がそれよりも心に残っているのは、その後だ。
そんな【彼女】は俺に見向きもせずに通り過ぎる、別にその事は気にしていない。
俺と特段親しくない大概の人は誰しもそんな反応をする、ましてやクラスメートであったとしても話した事のない俺を別に気にする必要もないだろう。そんな【彼女】は、俺の前を通り過ぎた後、塾を沿うようにして塾の傍の方へ進んだ。
・・・・・・「塾の傍」?
実を言うと、塾は二方を道路に囲まれており、内一方の道路は比較的幹線だが、もう一方は脇道となっている。塾には駐車場があるにはあるが、待ち合わせをするには狭すぎるため、車で送り迎えをする場合、待ち合わせは塾の側の脇道で待ち合わせる人が多かった。
そのため、塾の授業が終わると塾の脇道に向かおうとする人は車で送り迎えをする人が多かった。【彼女】はその方向に向かったのだ。
となると、【彼女】もまた車で帰るのだろうか、と俺は徐に考えた。いや、もしかしたら塾の近くのマンションに住んでいるのかもしれない。そのマンションはその脇道から行った方が近かったからな。
そんなふうに頭の端で考えを巡らせていると、目の前の比較的幹線っぽい二車線の道路の奥、交差点を曲がってこちらに向かって来る白いミニバンがあった。一目見ただけでわかった、それは母の車だった。
俺はそれを確認すると、車に向かって左手を大げさに振った、自分の位置を知らせるためだ。
車は俺の前で停止した、俺は後部座席のドアを開け、母に「ただいま」と一言二言言葉を交わしながら車に乗り込んだ。
母は俺が車に乗りこんだことを確認すると、車を走らせる。車はUターンをするため、あの塾の脇道に入っていった。
すると、車の窓からその脇道の端に【彼女】が佇んでいるのが見えた。
……これは余談だが、母は事あるごとに「わしは孫が見たいんじゃ」という悪ふざけをしていた。母にとっては半分真剣だったのだろうが、俺にとってはウザいとしか思ってなかった。
ちょうどその時も母とそんな話をしていたかといえば、いつもの「わしは孫が見たいんじゃ」という悪ふざけで、俺に彼女ができないかの〜、と母がおばあちゃんのような話し方でそんな話をしていた。俺はいつものように、その話を適当にあしらっているときに、窓から【彼女】が見えたのだった。
母もまた【彼女】が運転席から見えたのだろう、このくだらない話に【彼女】を引き合いに出してきた、【彼女】を「可愛い」と言って。
もちろん母は、【彼女】が俺のクラスメートだということを知らない。おそらく、俺が「【あいつ】、俺と同じ中学校だよ」と反射的に投げた言葉を聞くまで知る由もなかっただろう。
それと同時に、このことは母にとっては何気ないことだったのだろう、それから母が【彼女】について俺を追求することもなかったし、【彼女】が母の話に出てきたこともなかった。
まあこのとき、俺の《そのときの本命》が母にバレており、事実、俺も《彼女》の方に御執心だったため、【彼女】についてはただの知り合い程度にしか母は思っていなかったのだろう。
それは、ある意味、不幸中の幸いだったのかもしれない。
中学三年生の時、【彼女】ともう一度同じクラスになった。
だからといって、特段特別なことは何も無かった、これまで通りだった。
俺と【彼女】との間には何もなく、相変わらず俺は【彼女】と同じく中学三年生で同じクラスになった《彼女ではない別の女の子》に御執心だった。
さて、中学校……、でなくとも小学校、高等学校でも同じだと思うが、クラスには大概友達のグループができる。そのままそのクラスの「テストの点数」ランキングにも繋がることもあるそれだが、俺もまたクラス内の二つのグループに入っていた。
内一つは、趣味で気が合う奴でつるんでいたグループだった。その時の俺はカードゲームにはまっていて、その趣味で一致する奴らで月に二回程度集まってゲームに勤しんでいた。
もう一つは、中学二年生のときに仲良くなった、ある友達を中心にできた友達グループだった、……今から思えばそのグループで集まっていたのはみんな頭が賢い奴らばかりだったような気がする。
――えっ、なんで恋話のはずなのにこんな話をしているか、って?
関係あるさ、休み時間になると友達グループで一つの場所に集まるだろう?
俺はそれを「溜まり場」と呼ぶが、後者のグループでいつもの「溜まり場」に集まり、たわいの無い話をするのが毎日の習慣となっていた。「溜まり場」はクラスの席替えの度に変わったが、大概はそのグループの中心的メンバーの席の近くになることが多かった。
その「溜まり場」が一時期【彼女】のすぐ近くになったことがあったのだ。
そうだ、彼女の隣にそのグループの中心メンバーがいたのだ、別にそれがどうという事ではなかったが。
まあつまり、「溜まり場」が【彼女】の近くにあった時だけ、俺は【彼女】に非常に近い場所にいることができた。
……そこで俺が【彼女】にやっていたことは俺から見ても非常にしょうもないことだった。
――いや、別にいじめとかじゃない。
幼児や小学生の男子がやってしまうような、好きな女子にちょっかいを出すつもりでいじめてしまう、とかそういう類いじゃない。それに比べたら、ずっと大人しいものだ。
それは何かって、言うとだな。
……俺たちのグループが会話に夢中になっている間に、彼女を凝視する、または、彼女に手を振る、といったことだ。
……。
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――そうだ、それだけだが?
何か、言いたい奴はいるか?
ん?
……「しょうもない」と言ったろ、今思い出したら、赤面するほどでは無いが、非常に恥ずかしく思う。どんな気持ちでやっていたのかは今となっては自分でもわからないし、今の自分が同じ状況になったとしてもそんなことはやらないだろう。
本当にくだらないことをしていた。
俗に言う、考えをこじらせにこじらせた結果、自分でもよくわからない行為に走ってしまう中二病、ってやつよ。
……いや、もしかしたら、【彼女】に振り向いて欲しかったのかもしれない。それによって、少しでも彼女に俺を知って欲しかったのかもしれないし……。
――お前ら、わかりやすくにやけるんじゃない。
言っておくが、まだこの時点でも【彼女】と俺の間には、直接の関係では何もなかった。
――本当だ、あの塾の案件を除けば、だがな。その塾の案件に関しても中学三年生の夏休みを過ぎると、彼女と会うこともなくなってしまったが。
……そう言うものだとしておこう。中学生というのは、心と体が急に大人に向かっていくが、まだ子供だ。自分はもう大人だと勘違いをして、つい背伸びをしてしまう。
故に大人となった今では理解できないこともよくある。
話がまた逸れてしまった、本筋にもどろう。
そんなこんなで過ごしていた中学三年生時代だったが、最後の最後で奇跡が起こった、と思うようなことがあった。
【彼女】の志望校が俺と同じだったのだ。
それを知ったのは最後の学年末テストが終わった頃くらいだったと思う。
俺が通っていた中学校では、受験日が近くなると同じ志望校同士の生徒で集まって、会場への行き方を先生から確認させされることがあった。俺はその時、その都道府県でもトップの私立高校を受けようとしていたため、同じ高校を志望する人は少なく、俺を含めて四人しかいなかった。
一学年につき三二〇人くらいいる中学校の内の四人だけだ、偏差値以外にも学費などいろんな要素もあるが、この数字がいかに少ないかわかるだろう。その中に偶然にも【彼女】がいたのだ。さらに運が良いことに、彼女と同じ専願、その高校だけの志望であることもその時知った、なんと言うことだろうか。
……念の為言っておくが、【彼女】の志望校をリサーチしたことは決してない、神に誓っても良い。
――「あなたはキリスト教信者なの?」ってそんなよくわからないツッコミは要らないんだよ。
あくまで、ストーカーまがいのことは全くしていない、ということは言っておきたいだけだ。あれは結局、自分もそれをやられた奴も幸せにならないからな。
ただ、……多分、その時だったのだろう、初めて【彼女】とまともに言葉を交わしたのは。
だからといって、その時にどんなことを【彼女】と話したのか覚えていない。
ただ、久しぶりに話た友だちのような話し口調だったように思う、大して話したこともないのに。実際はどうだったかは正確には覚えていないが。
ちなみに、実際の入試の日、残念ながら俺と彼女は一度も顔を合わせることはなかった。これは後で【彼女】から聞いたが、【彼女】は専願は専願でも試験内容は面接のみの推薦入試だった、俺が受けた筆記試験もある一般入試では無かった。
――ん?
ああ、そうだ。俺はその入試に受かった、【彼女】もだ。入学数日後から【彼女】と会っていたしな。
その頃の俺も【彼女】も入試に受かっただろうと思っていた。
――なぜかって?
推薦入試の合格率は大概どの高校でも高いんだ。特にあの高校は九〇パーセントを超えていたんだ、そんなもん「受ければ受かる」と俺は思ってたさ、その代わり受験資格という壁が結構高かったけどな。
あともう一つ、公立高校の入試日、あいつは中学校に登校したんだ。
世間の傾向を鑑みても、その日に中学校に登校するやつは、すでに第一志望校に受かったか、高校を諦めたかの二通りだろう。
その内、後者の人間はそうそういない。それに【彼女】はきちんと高校を受験した、しかも合格率の高い方を。
これだけで確実に【彼女】があの入試に合格したとは言えないかもしれないが、その確率は天文学的な数字に違いない。
その時の俺はここまで高度に考えていなかったが、彼女が中学校に登校した時点で【彼女】は俺と同じ高校に通うことになったと確信したんだ。
***
「っていうかさ〜」と口を挟んだのはチャイナドレス、ではなく明るいグレーのスーツを着た、茶色の髪を肩まで伸ばした髪型の真面目そうな女性だった、確か俺はこいつを『委員長』と呼んでいたことがあった。
委員長はビールの小瓶に口を付けながら、「話聞いてる限りだと〜、もうその時点で恋してるようにしか見えないんだけど、本当のところどうなの?」と顔を赤らめながら語り手に言った。
……こいつ、あのときはあんなに凜々しかったのに、酔っ払うとそんな面影も無いほどに荒れるなるのか。
「無い、と思いたい」と語り手が言った。
「どういうこと〜〜?」と委員長は問い返すと、語り手は「どうもこうもない」と語り手は返した。
「さっきも言ったが、その時の俺には、【彼女】とは別に、異性として好きな“女の子』がいた、その“女の子”のことが本当に好きだったんだ。その「好き」という感情は明らかに【彼女】に対する好きとは違ったことは確かだった、明らかに“あの女の子”の方が、熱量が高かったんだ」
語り手は目の前の、いつの間にか麦酒が注ぎ足されていたジョッキの口を自分の口につけ、底を上げる。すると、ジョッキに蓄えられた黄金色の液体が彼の口の奥に向かって流れ出した。
麦酒の三分の一ほどがなくなったところで、語り手はジョッキを机の上に下ろし、「……本当に、俺はなんで【彼女】をここまで覚えているのか」と口を開いた。
すると、「それくらい【彼女】に未練があるんじゃないのか?」と、白作業服が言った。
語り手は、それに関しては何も言わずに、未練、と言った男を一瞥し、もう一度ジョッキを呷った。