第九話 猪突猛進
「人生に無意味なことは一切存在しません。そのときは、無意味に思えても、いつか役立つことが必ずあるのです」
ジョセフ・マーフィー(アメリカの宗教家、著述家)
小中学生だった頃、どちらかといえば体育は嫌いな科目だった。体操や球技はまだ良いとして、なぜ走る事について、あれほど時間を費やすのだろうか。50m走にはじまり、100m,200m,400m…個人だけでなくリレーもある。果ては幅跳びやハードル、あれも速さがなければ結果が出ないものだ。
子供時代の優人はクラスの中で遅い方だった。それがなんだか気恥ずかしくて、走る事自体に抵抗があった。走るのが遅いという事を、自分が劣っていると感じていた。大人になると走りが早い事など無意味になるのだから、体育の授業から走りを無くしてしまえば良いと思っていた。
しかし今、優人は日本の体育教育が走る力を鍛えてくれていた事に、心から感謝していた。
「うおおぉぉーーー!」
丘の上から転がるように走りおりてきたイノシシは、まっすぐ優人に向かってきた。逃げるためには、走るしかないだろう。優人は全力で走って逃げた。そして、走りながら昔の体育を思い出していた。今ならオリンピックに出られるくらいの速さで走れているんじゃないか?などと考える。火事場の馬鹿力とはよく言ったものだが、人間、生命の危機に直面すると思いもよらない力が出るものだと実感した。
祖母の実家は田舎だが、イノシシまでは出ない。初めて見たイノシシは、可愛さのかけらもない『凶暴』を絵にかいたような見た目と行動をしていた。走っても走っても、しつこく優人を追いかけてくるイノシシ。猪突猛進という言葉があるが、まさに猛烈な勢いで進んでくる厄介な奴である。
この世界にやってきて手に入った『体力強化』のパッシブスキルがありがたかった。全力で走っても、そこまで疲れを感じない。しかし、その走りもいつまでも続くわけではないだろう。何か対策を考えねばなるまい。疲れを感じてきた優人は、思考を巡らした。
少し先に、草の生えていない2m四方ほどの乾いた大地が見えた。そうだ!と、優人の中に名案が浮かぶ。走りながら、意識を集中し、右手にウォータの魔法で水球を作り出す。先ほど使ったファイアと同じように、バスケットボールサイズの球体が出来る。ウォータという名前からして水色の球体をイメージしていたが、水球は無色である。ふよふよした感じは、まるでシャボン玉のようだった。走っているのに手から落ちないのがなんだか不思議だ。
乾いた大地に向けてウォータを放つ!豊富な水量を有したウォータの水球は優人が走る数倍の速さで飛んで行き、大地に命中すると広がりを見せた。乾いた大地に雨の後のようなぬかるみが出来る。よし、ここまでは成功だ。優人とイノシシが、出来たばかりのぬかるみにせまる。
(「頼む、うまくいってくれ…!」)
少し速度を落とした優人の、すぐ真後ろまでイノシシの巨体が迫る!と、優人は素早く左へ飛んで突進をかわし、草地に転がり込んだ。優人の急な動きに対応しようとしたイノシシは、ウォータが命中した大地の上で左に急カーブしようとして、ぬかるみに足を取られて盛大に転倒した。
「よし!」
声に出して喜んだ優人は、再び右手に意識を集中し、今度はファイアの魔法で火球を作り出す。自分が転倒した事態を呑み込めず、起き上がったばかりのイノシシの顔面に向けて、それを力(気持ちの問題だが)の限り撃ちだした!
火球が見事にイノシシの顔面に命中し、ボッという音がした。イノシシの顔から、シュウシュウと音を立てるように、煙が出ている。…が、結構な威力だったと思われるにも関わらず、チリチリと体毛から煙を出すだけで、全くダメージを負っていないように見える。
「あはは、やっぱアカンか…」
そんな気はしていたが、倒せなかったどころか驚いてすらくれなかったようだ。イノシシはブルブルと顔を振り、プスプスと煙の出ている体毛を綺麗にした。そして「フンっ」という感じで鼻を鳴らすと、再びこちらに向けて突進を開始した。
再びイノシシと優人の追いかけっこが始まった。しかし、今回の逃走劇は、先ほどのように長く続かなかった。『体力強化』によって強化された体力も、もう限界だったのだ。
(「こんなところで人生が終わるのか…」)
優人の走る速さが落ちる。その好機を逃すまいと、イノシシがすぐ真後ろに迫る!まさに絶体絶命だった。と、その時、いままさに優人に追突せんと走っていたイノシシが、突如、横倒しになるように転倒した。
え!?思わず走るのをやめて、後ろを振り返る。倒れたまま「ヒギィィー!!」という叫び声をあげて、のたうち回るイノシシ。よく見ると、口から血を流している。何かに攻撃されたのか?と、優人はここで初めてイノシシの横に誰かが立っている事に気づいた。女の子だ!危ない!!
「ちょっとキミ!そんなところおったら危ないで!!」
ぜーぜーと息も絶え絶えに、女の子に大声で呼びかける優人。そんな優人の声など聞こえていないかのように、少女は不敵な笑みを浮かべ、イノシシを見ている。
(「まてよ…さっきの攻撃、まさかこの子が?」)
優人は少女を観察した。
歳は優人と同じか、少し下くらいだろか。後ろでポニーテールにした、黄とピンクが混ざったような色の髪。薄い赤色をした、パーカーのような服。サンドバッグのようなリュックサック…ボンサックというのか?を肩にかけた、軽装の旅人…いや、それは旅人と言うより、町で見かける普通の女の子である。これといった武器は持っていないようだ。あのような華奢な体では、殴ったりけったりしたわけでもなさそうである。魔法を使って攻撃したのだろうか?
よたつきながらも態勢を立て直して起き上がったイノシシは、ポタポタと血を垂らしながら、ジッと少女を見ている。激しく怒っているのか、それとも先ほどのダメージがあるのか、その目は鋭く、鼻息も荒い。
と、イノシシが少女めがけて突進を開始した。ダメだ、助けられない!早く逃げてくれ!!
少女は足を半歩ほど開いて腰を少し落とし、両手でリュックサックの口ひもを掴んだ。何をしているんだ?と思った次の瞬間、優人は信じられないものを見た。少女の体がくるっと1回転したかと思うと、その動きにあわせて背中にかけていたリュックが弧を描き…イノシシの横っ面に叩きつけられた。
べキバキッ!
生き物から鳴ってはならない音がして、イノシシが2mくらい吹っ飛んで再び転倒し…そのまま動かなくなった。倒れたまま、手足がぴくぴくと痙攣している。あまりにも一瞬の事に、ポカーンと口を開けて少女を見る優人。
「大丈夫?」
少女が近づいてきて、二カッと笑いながら優人に声をかける。
「あ、うん」
我ながら、なんとも気の抜けた声が出た。
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