第三十八話 トンファーと舞脚
「素敵な夫婦関係の決め手は、「ありがとう」のたった一言」
斎藤 茂太(精神科医・著述家)
左側、アイ。
通路を進んでいたアイは、その先に事務室があるのを発見し、開いたドアから室内に飛び込んだ。恐らく、普段は協会の職員で一杯になっているであろうこのフロアは、既にもぬけの殻となっていた。50㎡ほどの敷地に所狭しと置かれた机椅子が、静かに主の帰還を待っていた。
大柄なアンセルミに比べて身軽なアイは、この場所であれば戦いを有利に進められそうだと感じた。優人はそうした事情も考えて、こちら側に走るように指示をくれたのであろうか。アイは心の中で、優人の気遣いに感謝した。
正体を現したアンセルミが、これまで見せていなかった速さで追いついてくる。そこには、先ほどまでの、気の良い中年の面影は無かった。
「嬢ちゃん…怪我する前に降参しな。嫁に行けなくなるぜ」
アイはアンセルミの軽口には返答せず、相手の手に握られたトンファーを目で追った。錆びた鉄を思わせる色をしたそれは、よく使い込まれた物のように見える。先ほど優人が展開したバリアウォールを内側から打ち破ったのは、恐らくあのトンファーだろう。あれを自分が受けたら、ひとたまりもない。
「(こんな事になるなら、リュックを持ってくるんだったわ…)」
オリハルコンの入ったリュックがあれば、あのトンファーと幾分か対等に渡り合えただろう。裁判の後、まさか戦闘になると予想していなかったアイは、リュックを法廷に持ち込まなかった事を後悔した。
アイの返事を待っていたアンセルミが、しびれを切らしたように舌打ちする。
「返事なし、か。つれねぇな」
そう言い終えてすぐ、アンセルミがアイに向けて突進する。アイは突くように打ち出された左フックを、上体を右後方に逸らしてヒラリと避けた。続けざまに、トンファーを使った第二撃が上方から繰り出される。持ち手を180度反転させたそれは、飛躍的にリーチを伸ばしてアイに襲い掛かった。その魔手を左へ身を躱すことで避けたアイを、トンファーが横薙ぎに追尾する。
「(早い!)」
アイは後方に飛び退り、一足飛びに机から机へと跳躍して、アンセルミから距離を取った。トンファーから、あのような攻撃が繰り出されるとは予想していなかったアイ。打撃力を高める為だけの武器だと思っていたが、攻撃に変化を加える為の武器でもあるらしい。
アイは事務机の上に置いてあったコップを掴み、それを投げつける。アンセルミがトンファーを持った左手を構え、その攻撃を防いだ。軌道を逸らされて床に落下したコップが、ガシャンと高い音を立てて割れた。トンファーは防具にもなるようだ。武器を持っていないアイは、自分が厄介な相手と対峙していることを、改めて認識した。
「おいおい嬢ちゃん、ろくに攻撃出来てないじゃないか。逃げてばっかじゃ俺に勝てねぇぜ?」
アンセルミがアイに詰め寄り、上下左右からトンファーを振るう。しなりを効かせて襲い掛かるそれは、打撃武器と言うよりもまるで鞭であった。トンファーの動きに対し、劣勢に立つアイ。これでも、初めて見る武器を相手に健闘していると言えるだろう。アイはアンセルミの攻撃を避けに避けた。
ここまで何とか敵の攻撃を躱してきたアイの左肩をトンファーの先が浅く擦過し、チリチリと火傷のような感覚を彼女に刻んだ。アンセルミがニヤリと笑い、余裕の表情を浮かべた。その瞬間、アンセルミの攻撃の手が緩み、両者の間に距離が出来た。アンセルミに油断が生じたのだ。そして、アイはその一瞬の隙を見逃さなかった。腰を落とし、溜めの姿勢からまっすぐに右拳を突き出す。しかしその突きは、アンセルミの体まで2メートル以上離れた位置で繰り出されていた。アンセルミはあきれ顔でアイを見た。
「おい、どこを狙っ…」
そう言い終わらないうちに、パアンッ!という、風船を割ったような音が室内に響いた。アンセルミの意思とは別に、右手が後方にのけぞり、トンファーが彼の手を離れ、窓をガシャリと割ってそのまま空中へと吹き飛んでいった。
「(なんだ!今、何かが手に…)」
驚きの表情で右手を確認するアンセルミに追い打ちをかけるように、アイが裂迫の気合いと共に、再びアンセルミを突くモーションを取った。得体の知れないその攻撃を防ごうと、アンセルミが顔の前に左手のトンファーを掲げる。しかし、彼の防御も虚しく、左手のトンファーは床へと弾かれ、机の下に入り込んでしまった。
『波動撃』
武闘家が用いるこのスキルは、圧縮した空気を相手にぶつけるものだ。熟達した者が使えば、岩をも砕く威力が発揮される。アイは、その一撃をトンファーの持ち手目掛けて放ったのだ。武闘家になったばかりのアイには、これが精一杯の威力だった。
「く…嬢ちゃん、あんまり大人を舐めるなよ!」
アンセルミが机を蹴り、天井近くまで跳躍する。その右脚が、斧のように大上段から振り下ろされた。すんでの所で飛び退き、その攻撃を避けるアイ。アンセルミの踵が、直前までアイが乗っていた木製の机に叩きつけられる。その刹那、凄まじい音とともに机が真っ二つになった。
「(あれを受けたらマズイわね…)」
アンセルミの追撃が続く。縦横無尽に部屋の中を逃げ回りながら、アイはその攻撃を躱していった。しかし、追跡劇はそう長くは続かなかった。アイは部屋の中央にある柱にもたれるようにして、荒い呼吸をする。先ほどからずっとハードな運動を強いられているのだ。疲労するのも無理はない。そして、ついにそんなアイを射程圏内に捕らえたアンセルミが、追いつきざまに「せいっ!」っという声と共に、容赦のない蹴りを放った。
アンセルミの右脚が駒の如く回転し、宙に躍る。バシッ、という空気を裂くような音が無人のオフィスに響くのを、アイは確かに聞いた。繰り出されるその蹴りを、腕で受け止めようと構えていたアイは、その寸前で自ら転倒して床を転がった。アンセルミの右脚がそのまま柱に当たり、ゴッという鈍い音を立てた。
「やった!」
ここまで無言を貫いていたアイが、喜びを声にした。決定的な攻撃手段を有していないアイが狙っていたのは、アンセルミの自爆だったのだ。体力の限界を装い、柱まで退避した彼女は、アンセルミの攻撃を誘ったのだ。そして、その作戦は見事に成功する。
だが…
驚くことに、砕けたのは柱の方であった。蹴りの跡が柱に残り、頭上からパラパラと石片が落ちた。その凄まじい破壊力を目の当たりにして、驚愕の表情を浮かべるアイ。背筋にヒヤリとしたものを感じた彼女は、素早く起き上がった。
しかし、次の攻撃を避けるより一寸早く、アンセルミが渾身の力を込めて突きだした蹴りが、彼女の鳩尾を捉える。避けられないと判断したアイは、咄嗟に両腕をクロスさせるようにしてその攻撃を受けた。
華奢な2本の腕は彼女を十分に守り切る事は叶わず、突きの威力をそのままに、アイの身体を後方へと運び去った。そのまま4メートル近く吹き飛び、背中からワードローブに激突するアイ。木製の洋箪笥は、その衝撃でミシリという音を立てて内側にひしゃげた。背中に激痛が走り、アイが苦悶の表情を浮かべる。一瞬、息が出来なくなる。そして、腕にはびりびりとした電気が流れるような感覚が残った。
「く…。どうして…」
かろうじてそう言って、顔を歪めるアイ。
「はは、さすがに足じゃ柱に勝てないとでも思ったか?いい作戦だったが、俺が足に仕込んでる鉄板にまでは気が付かなかったようだな。悪いが、今の俺の蹴りに、砕けないものは無い」
ゆっくりとアイに歩み寄り、距離を詰めて襲い掛かってくる。
「お前はあのガキの連れだ。それに、さっきの得体の知れない攻撃も気になる。女子供を手に掛けるのは気が乗らないが、危険因子は摘ませてもらうぜ」
ここまでか…
そうアイが思った瞬間、聞き覚えのある声が事務室に響いた。
「アイ!」
追手が来たと思い込んだアンセルミが、声のした方を振り向く。しかし、そこに人の姿は無く、代わりに開いたドアから猛スピードで何かが部屋に飛び込んできた。
「なんだ?…ネコだと!」
「デールちゃん!」
アンセルミの驚きを無視して、デールは必死にアイの所へと駆けた。自分の体には大きすぎるリュックの紐を口にくわえて引きずりながら。
「させるか!」
アンセルミの蹴りがアイに向けて繰り出されるのと、アイがデールの引きずるリュックをキャッチするのは、同時だった。アイは愛用のそれを構え、横薙ぎに払われるアンセルミの渾身の蹴りを全身で受け止めた。インパクトの瞬間、バキバキっという、木が折れるような異音があたりに響く。
「ぎ、ぎぁあああ!」
断末魔のような悲鳴を上げたのは、攻撃したアンセルミだった。床を転げる彼を見たアイは、その足があらぬ方向に曲がっているのを確認して、敵であるアンセルミに、ちょっとだけ同情した。しかし、自分だって背中も腕も痛い。ここはお返しを兼ねて、強気に出ておくところだろう。
「あら、砕けないものは無いんじゃなかった?」
「おおお、お、おまえ…そのカバンに何を入れてやがる…」
「ただのオリハルコンよ?」
「んなもん…砕けるわけ…ないだ…ろ」
そう言い残し、アンセルミは白目をむいて気絶した。あまりの激痛に意識を無くしたのだろう。ふぅっ、とため息をついたアイのもとに、デールが駆け寄って声をかける。
「アイ、大丈夫だったか?」
「デールちゃん!ありがとう、とってもお利口だったね」
アイは、まだ痺れの残る腕の事も忘れてデールを抱え上げ、両手で強く抱きしめた。リュックは宿に取りに帰って運んでくれたのだろうか。それともデールの能力で取り寄せたのだろうか。いずれにせよ、この小さな体で頑張ってくれたデールの事が、愛しくて仕方なかった。
「こ、こら。離しなさい!」
ジタバタと腕の中で暴れているデールに構わず、アイは頬をぐりぐりとすり寄せた。戦いの中で感じた恐怖が、ネコの肌触りで癒やされていくのを感じる。「(これは…定期的にデールちゃんをモフモフしよう)」と、誓うアイだった。以降、激戦の後の癒やしとして自分がアイに使われるようになることを、この時のデールは知る由もない。
【用語等解説】
ありがとうと伝える…「ありがとう」は、相手に自己重要感を持たせる上で、とても大切な言葉。人に感謝する時は、行動で示すよりも、まずは「ありがとう」と、言葉で伝えるのが効果的。相手が自分に何をしてくれたか、それを発見する能力が不足していると、有り難いという感情を抱くことが出来ない。
経験上、この言葉は家族などの親しい間柄で、特に効果を発揮するようです(^^♪
【詳細と活用方法】(人間関係ナビ☆彡)
http://for-supervisor.com/human-relationship/7skill-3/
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