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9 鞠子の正体

 翌日は珍しく荒れ模様の天気だった。空には重苦しい雲が垂れ込め、冷たく濡れた風が吹き荒れている。街もいつもより活気がなくて、いつもの丘沿いの小路は言わずもがな、朝なのに薄暗く寒々しい路上に枯葉が舞っているばかりであった。


 一歩覚妙寺の境内に入ると、森の木々の圧倒的なざわめきが私の身体を包んだ。頭上の枝たちが海のように激しく波うち騒いでいる。それはまるで私を叱咤し、せかしているようだった。はやく。早く調べるんだ、と。


 供養碑の前に立つと心なし風が弱まったような気がした。その周囲だけ少し明るいような気さえする。しかしそのようなことを気にしている余裕もなく、石碑に手を合わせてから、さっそくその表面を私は覗き込んだ。


 供養碑は長い年月を経て汚れ、苔むし、そこに刻んである文字を読むのはなかなか大変な作業であった。しかしずっとにらみつけているうちになんとなく慣れてきて、いくつかの文字を判読できるようになってきた。昨日図書館で調べていたおかげで、見慣れた文字が幾つもあったからかもしれない。


 石碑には比奈の乱で没した人々の名が刻まれていた。それらはほぼ皆、私が調べた本に記述されていた人々だ。比奈能和はじめその兄弟たち。真能ら息子たち。まだ幼かったであろう三郎以外の孫たち。川越真頼の名もあった。


 石碑の脇には短い文が刻まれている。

「建仁××年の戦にてわが一族の者ことごとく滅す。我三郎のみ生き残ったため、この寺を建て一族を供養するものなり。私は子がないので私で比奈の血は絶えてしまう。とても無念であるがいたしかたない。今はただ、先に逝った一族の冥福を祈るばかりである」

 全部は読めないが、わかる文字から推測すると、おおよそそのようなことが書いてあった。


 私は比奈三郎の残した文を読み終わると、再びその場にて瞑目した。

(比奈一族は死に絶えてしまったのだ)

 比奈の人々、そして一人残されここで過ごした比奈三郎のことを思うと、失望感よりも、しんみりとした敬虔な気持ちが私の胸に持ち上がり、私はもう一度合掌した。


 結局鞠子のことは何もわからなかった。彼女は何者だったのだろう。彼女のくれたあのハンカチは何だったのだろう。

 しかしとりあえず今は、ひとつの結論を得た安堵感に私は浸っていた。鞠子は気の毒な比奈一族の末裔ではなかった。それとは関係ない不思議な人間で、今どこにいるかやはりわからないということである。

(もうこの辺でいいのではないだろうか)

 手がかりは途切れた。私は落ち着いたあきらめの境地で覚妙寺から去ろうとした。さらば、比奈一族。さらば、鞠子……。


 供養碑から視線を仁王門のほうに向けようとしたときである。

 ふと私は、供養碑の隣にもうひとつ小さな石碑が建っていることに気づいた。

 それは雑草に埋もれそうになっており、木の枝が覆いかぶさるようにかかっていたので、同じ供養碑だとは思っていなかったのだ。

 だが、その石碑の表面に昨日文献で見た文字を見つけて私は立ち止まった。


「松子」


 川越真頼に嫁いで彼とともにここで果てた松の方のことだ。どうやらこちらは女人衆を供養している碑であるようだった。


 風は相変わらず吹き荒れている。木の枝が手招きするように揺れている。一瞬強く当たってきた空気の塊に背を押されるようにして、私はその小さな碑に寄っていった。

 雑草を掻き分け、松子という文字を確かめ、隣の文字に視線を移す。その瞬間、頭上で騒いでいた木々がうそのように静まった。いや、樹木だけではなく、草も地面も大気も、全てのものが音を発するのをやめたかのようであった。


「鞠子」


 私はかすれた声で彼女の名を搾り出し、震える手でその名を刻んだ文字にふれた。


「比奈……鞠子」


 間違いない。それは鞠子の名であった。

「私の名は鞠子。蹴鞠の『鞠』に子供の『子』よ」

 はじめて出会ったとき、そう自己紹介してくれた、彼女の名に違いなかった。




 降りだした雨は強さを増し、図書館の大きな窓をまるで滝のように流れ落ちている。

 覚妙寺から走って図書館に駆け込んだ私は、人のまばらな辞書フロアのさらに奥の一角にしゃがみこんで、分厚い本を出し入れしていた。


 大日本史人物辞典。人物辞典は昨日も調べたが、これはまだ手をつけていなかった。つけられなかったのだ。なにせほかの辞書とはレベルが違う。神代の昔から近代までのさまざまな資料に登場する、あらゆる人々を網羅してまとめてある、人物辞典の決定版だ。決定版かどうかはわからないが、とにかくこの図書館にある人物辞典では一番細かく、収載人物が多いと思われる。なにせ広辞苑のように分厚い冊子を十数巻並べてようやく一作なのだ。


 その辞書の「ひ」からはじまる人物を検索するだけでも、とても時間がかかった。ほかの氏族の項が多すぎて、小さな比奈一族は埋もれてしまっている。なにせ「徳川氏」と「藤原氏」に挟まれているのだ。一ページ一ページ丁寧にみてゆかないと、あっという間に「藤原」か「徳川」まで飛んでしまう。


 ようやく見つけた比奈氏の欄には、それでも石碑に刻まれていたのと同じくらいはあるかと思われる人物の名が並んでいた。一人ひとりの記述は少ないがちゃんと書いてある。


 比奈真能……比奈能和の嫡男。比奈の乱にて奮戦し、寄せ手の武者十人を討ち取るも戦死。

 ……

 比奈正能……比奈能和の三男。比奈の乱にて戦死。

 比奈正和……比奈尼の次男。比奈能和の弟。比奈の乱にて戦死。

 比奈松子……比奈能和の次女。川越真頼に嫁ぐ。比奈の乱では夫真頼とともに比奈館に参じ、真頼討死の後、自害。

 比奈鞠子……


 私は彼女の名を見つけると、いったん目を閉じた。この二ヶ月、あの谷の底で触れ合った彼女の姿を思いおこす。木漏れ日の中で浮かべていた、そよ風のような微笑。私の問いに答えた後の、何かをこらえるような横顔。光の柱の中に立つ聖母のような柔らかな姿。私の背に当てられた手と額の温かさ……。


 私は目を開いて、彼女の記述を読んだ。

 比奈鞠子……比奈能和の四女。比奈の乱のおり、焼け落ちる比奈館から逃れた。その後幸明寺にかくまわれるものの、乱より一月後自害。


 乱より一月後、自害……。


 私は、その数行からいつまでも目を離すことができなかった。ページをめくることもせず、目を動かすこともできずに、閉館のチャイムが鳴るまで書庫の隅に私は、ただただうずくまっていた。




 家に帰り着いた私は、机の前に座ると姿勢を正した。引き出しから便箋を取り出し筆を執る。

 構成も何も考えてはいない。ただ、文は次から次へと頭の中に湧いてきた。いや、頭に浮かぶ前から手が動いた。己を突き動かす情動にただ身を任せ、私は猛然と、紙面に文字を書き連ねていった。

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