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8 鞠子を求めて

 すべては夢のように消えてしまった。

 今までのことは夢だったのだろうか。

 鞠子も手紙も、私の悲しみや喜びも、皆夢の中での出来事だったというのか。

 私はそれを受け入れることはできなかった。あれが幻だったなんて、けして受け入れてはいけない気持ちだった。


 私は日曜日にも覚妙寺を訪れた。しかし一日そこにいたが、やはり鞠子が姿を現すことはなかった。薄暗く肌寒い境内には荒れ果てた庭が横たわり、崩れかけた本堂が鎮座し、裏の洞窟は朽ちた神棚を抱えて沈黙しているばかりだ。

 翌月曜日も早退して行ってみたが同じことだった。

 火曜日も。

 しかし鞠子はいなかった。


 私は茜色の光が弱くなってゆく谷の底にたたずんで、茫然と、静かなさざめきと陽光の煌きを降らす境内を眺め渡していた。

 いったい何があったというのだ。どうしていなくなってしまったのだ。お願いだから姿を見せてくれ。あれが夢だったなどといわないでくれ。鞠子よ。谷の底の女神よ!


 濡れた頬に涼しい風が当たり、顔を冷やした。私は涙をぬぐおうと、ポケットの中を探った。

 出てきたハンカチをみて、私は首をかしげた。それは私のものではない。そう。それは半月前の土曜日に鞠子が渡してくれたものだった。


 よくみるとそれは薄桃色の絹のハンカチで、普通のものとは違い長方形をしていた。ハンカチの真ん中には何かのマークが描かれている。円の中に四つに区切られた菱形。家紋であるようだった。

 私はその家紋に見覚えがあった。有名な武田氏の家紋に似ているからではない。もっと最近、身近なところで見たことがある気がするのだ。


 はっとして、私は本堂を見上げた。堂の向拝の屋根の下には松の彫刻がある。その彫刻の少し下に確かに刻印がしてあった。このハンカチに描かれているのと同じ、丸に菱形の紋様が。




 よく探してみると、この家紋と思しきマークは境内のいたるところにあった。本堂の屋根の上に横たわる大棟や鳥衾。破風の拝飾り。向拝柱の沓巻……。仁王門の扉にも、境内の隅にある石の塔にも、この紋がついている。


 鞠子の渡してくれたハンカチに描かれた丸に菱形の紋様。覚妙寺境内のあちらこちらに刻まれた同じ家紋……。


 この共通点は私にひとつの仮説を与えた。それは鞠子がこの寺のゆかりの人間ではないかということである。寺の職員だろうかという予想は初めもしていたが、そうではなく、もっと深い因縁をこの寺に持っている人物なのではないか。

 もしそうだとしたら、この寺について調べることで、鞠子にたどり着くことができるかもしれない。


 もちろん仮説が間違っていることも考えられる。こんなことは偶然かもしれない。だが、今のところ手がかりはこれしかなかった。そしてそのはかない手がかりにもすがらずにはおれないほど、私は鞠子を求めていた。




 その日から、私はパソコンにかじりつき、覚妙寺について知りうる限りの知識を得ようとした。

「がくみょうじ」という文字を震える手で入力し、検索ボタンを押す。とりあえず検索の一番上にかかったウィキペディアのページを、息を殺しながら開いてみた。


 覚妙寺。鎌倉市にある寺。鎌倉時代初期に建立された。開基は比奈三郎。

 覚妙寺のあった谷戸は現在比奈谷と呼ばれ、鎌倉時代には比奈一族の屋敷があった。比奈能和は源頼朝に仕えた御家人で……。


 ページの短い記述の多くを占めていたのは、この寺についてよりも、この谷にもともと住んでいたという比奈一族についてであった。

 私は歴史好きのつもりであったが、この比奈一族についてははじめて知った。源頼朝の鎌倉幕府開府時からの御家人であるが、小さな氏族で、幕府内での地位も低いものだったらしい。頼朝死去後いくつかの有力御家人の起こした政変に乗じて挙兵したものの、北条氏に攻めたれられて瞬く間に滅亡してしまったという。比奈の乱と一応名のついているその戦いで生き残ったのは比奈能和の孫の三郎のみで、この比奈三郎が佐渡に配流の後、恩赦により鎌倉に戻ってきて一族の供養のために建立したのがこの覚妙寺であった。


 私がネットで得ることができた知識は、しかしここまでであった。

 ほかのページも大体同じことが書かれているのみで、その子孫について触れられているところはない。やはりいろいろな文献を調べなければ詳しいことを知るのは難しいようだ。


 私はその週末、鎌倉市にある図書館を訪れた。

 図書館に足をはこぶのは久しぶりだ。人が大勢いる建物の中なのに独特の静けさが漂い、大量の本が発生させる知識を載せた紙の匂いが鼻をくすぐる。音を立てない柔らかな床には陽だまりが浮かび、ふと見上げると街路樹が窓の外で木漏れ日を散らしながら揺れていた。

 ここは、森だな。

 私は思った。覚妙寺のある谷とは違う、人が集い、人が何かを得ようと活動する、静かだが活き活きとした森であった。

 その森の、歴史コーナーの片隅で、私は鎌倉時代の騒乱や比奈氏についての書籍を読み漁った。


 こんなに積極的な気持ちで調べものをするなんて、何十年ぶりだろう。高校のときは受験のことしか頭になく、大学のときは興味のない実験や卒論のために嫌々文献を探した。社会人になってからは仕事に関する書物を開くと、それを読んでいる自分に嫌悪感すら覚えるようになった。純粋な己の疑問や知的欲求の赴くままに、書を探し文字を追うなど、ひょっとしたら子供のとき以来かもしれない。


 いや、成長してからも一時期、私はそういう期間を持っていた。私が大学受験に失敗して上京し浪人生活をおくっていたころだ。私が本を読む楽しさに目覚めた年。あのころも先が見えず不安な日々をすごしていた。そのいたたまれぬほどの不安が本をとらせた。そしてすぐに読書することに、知識を得ることに夢中になり、のめりこんでいった。


 あのころは何にならなければならないという義務感もなく生きていた。ただ読むのが楽しくて、知らないことを知るのが面白くて、だから本を読んでいた。誰に褒められるからでもなく、評価してもらいたいからでもなく、金になるからでもなく。ただただ、読んでいることで己の生活が充実するのを感じていたから、それをやめることができなかった。


 大学に入ったばかりのころ、読書好きが高じて、自分でも何か書いてみたいと思うようになっていた。心の中にある何かを表現してみたいと。小説を、書いてみたいと思った。結局何を書いたらいいかわからずにやめてしまったのだが。自分にも、能動的に生きたいと思った時期があったのだ。

 先も見えず、不安なことはたくさんあったが、生きていることが楽しい時代だった……。


 本を探し読みながら、しばし私は、希望のあった昔の懐かしい思い出にひたった。求める情報にたどり着くことはなかなかできなかったが、私は久しぶりのこの感覚が楽しくて、若返った気持ちで、時間がたつのも忘れて本を読みふけった。


 日が暮れて閉館時間も近づいたが、自分が比奈氏について新しく得られた情報は結局たいしてなかった。比奈能和の嫡男真能が武勇に優れており比奈の乱で活躍したこと。能和の次女松の方の夫川越真頼が、圧倒的不利な比奈勢に加勢して討ち死にしたこと……。それくらいくらいであった。

 私の知りたい情報はどうやらこの図書館でも得ることはできなさそうであった。私の知りたいこと。比奈三郎には子孫があるのか。あるのならば彼らはどうしているのか。そこに鞠子の名もあるのかということを。


 夜は、またパソコンに向かって前の晩に見尽くしたページを眺めた。やはり無理かな。私の心にはあきらめと懐疑の気持ちがふくらみつつあった。たとえ彼女の素性がわかったからといって、彼女にまた会えるわけでもない。私は何でこんなことを調べているのだ。


 自嘲気味に鼻を鳴らしページを閉じようとしたとき、ふとある掲載写真に目がいった。比奈一族供養碑のそれだ。その供養碑にはこの騒乱で命を落とした比奈一族の人々の名が刻まれているという。


 その時私の胸に灯るかすかな光がゆれた。

(ここで投げ出してはいけない)

 私の体の奥底から、私の声が呼びかける。

 ここで止めてしまうのはいかにも中途半端じゃないか。

 こんな中途半端で投げてしまったら、ここに刻まれる彼らに、何だかとても申し訳ないような気がするのだ。


 すべてを知るなんてとてもできることではないことはわかっている。だけどまだ調べられることはあるはずだ。せめて自分の納得できるようにすべきだろう。私の声は私に言い聞かせてくる。お前はかつて自分が読みはじめた小説は、どんな題材も、たとえうまくなくても必ず最後まで読みきっただろう。


(そうだ、あの供養碑を、調べてみよう)

 私はふと、思いついた。鞠子が最初祈りをささげていたあの碑には、何かがあるような気がする。あの供養碑を調べれば、ひょっとしたらその後細々と命脈を保ってきた知られざる比奈の末裔への手がかりが、つかめるかもしれない。


 私は翌日またあの覚妙寺に行ってみることにした。彼女にはもう二度と会えないのかもしれない。だが私はそれでも、いやそれだからこそ、彼女に近づきたい。そのために、その手がかりに執着したいのだ。


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