7 異変
私はうかつで優柔不断な人間であるから、決断することが非常に遅い。後になってああすればよかったこうすればよかったと後悔したり、決めるべき時に決断できなくて取り返しのつかないことになってしまうことが、ままある。
私はあの日曜日、鞠子と長い時間を過ごしながら、結局何の約束もしないまま別れてしまった。
話をしている最中、何度も切り出そうと悩んだのだ。
彼女を誘おう、と。
何に? 映画でもいい。コンサートにしようか。歌舞伎などの舞台のほうがいいだろうか……。
あれこれと考えをめぐらしているうちに時は過ぎ、そして何も決めることはできなかった。
そして、いつものように別れて帰り道、無駄に遠回りして段葛の桜並木の下をふらふらと歩きながら、ようやく、文学館で行われる野外コンサートに誘おうと思い立つ。みあげるともう空には淡い桃色に染まった雲が漂い、陽はビルの間に隠れてしまっていた。
今度覚妙寺に行くときこそちゃんと誘おう。そうだ。お菓子もまた買っていってあげよう。今度はもっとたくさん。もっといろんなお菓子を。
私の想いは募っていったが、社会というのは意地悪なもので、その想いを打ち砕こうとするかのように翌日から仕事が忙しくなってしまった。私は毎日疲れ果てて、夜はアパートの部屋に戻るのが精一杯だった。行きたい気持ちはあるものの結局、その週は覚妙寺を訪れることができなかったのである。
忙しさに追われているうちに、いつの間にか十五夜も過ぎ、夜空を見上げて月の美しさに感じ入りながら物思いにふけることもできず、日は過ぎていった。疲れた足を引きずる夜道に響いていたはずの虫の音も、気づいてみれば盛りは終わり、わずかに生き残っている者たちが、かすかな声をたてているだけになっていた。
まだ陽光は温かいものの、街角にはすっかり涼しい風が吹き渡るようになり、そしてついに私が鎌倉にいられる最後の月になった。
十月最初の土曜日、ようやく忙しさから解放された私は久しぶりに覚妙寺を訪れることができた。
相変わらず大きな木々に覆われて薄暗い参道には、街の辻よりもいっそう涼しい空気が漂っている。しかし、しばらくこない間に古めかしさというか、なんとなく殺伐とした感じが一層増したように感じられる。
気のせいだろうか。そもそも、もともとこんな感じだったのが、頻繁に足を運ぶうちに慣れていたのかもしれない。それだけここ最近の、来れぬ期間が長かったということか。そう思うと私の歩みは速くなった。はやく、鞠子と逢わなければ。急ぐあまりお菓子を買うのも忘れてしまったが、それでもかまわない。逢うことができればそれでいい。逢って話ができれば。そして、今日こそデートに誘うのだ。
私ははやる気持ちに突き動かされて、階段を二段飛ばしに駆け上がった。
境内に鞠子の姿はなかった。
彼女のいるはずの空間には、闇の切れ端のような寒々しい空気が積み重なっている。
おかしいな。土曜の午後のこの時間は、必ず彼女が本堂の前で待っていてくれたのに。
私は鞠子の名を呼んだが、返事はない。己のしゃがれた声が谷のうっそうとした木々の間にただ吸い込まれてゆくだけである。一歩後ずさって境内を見渡してみるが、誰の姿を見出すこともできない。本堂の前庭は荒れ果て、重厚なその屋根にはところどころ雑草が生い茂っている。
(はて。この寺はこんなに荒れていただろうか)
その時ようやく私は異変に気づいた。半月前とは明らかに景色が変わっている。庭の草は乱雑に伸び、本堂の扉は片方が傾き、屋根の瓦は幾つも割れ、あるいは剥がれ落ちていた。いくら人の通わぬ荒れ寺とはいえ、そんなことがあるだろうか。
そのとき、私の胸が、重く大きな鼓をひとつうった。
とても嫌な予感が私の全身を突き抜けてゆく。体中の力がいったん抜けたものの、すぐに気持ちを奮い起こすと、私は本堂の裏へと駆けていった。
本堂の裏の崖にうがたれた穴の奥には、ちゃんと今までどうり、屋根つきの小さな木箱が置かれてあった。しかしそれはかつて私が神棚と呼んでいたあの箱とは似ても似つかぬ代物であった。
扉もはずれ、どす黒く変色し、腐りかけて苔の苗床となりつつあるその箱の前に、私は崩れるように座り込んだ。
頭を抱えて一声獣のように咆える。その声だけが、静かな谷の底にむなしく響いた。