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6 大切な人

 研修会の翌日、私は起きて早々に支度をし、覚妙寺へと向かった。蝉の鳴き声のしなくなった小道は静かで、時々草むらから思い出したように鈴虫がささやきかけてくる。午前の清涼な空気の漂う山門には明るい木漏れ日が散り、小鳥が楽しそうにさえずりながら飛び回っていた。


 早すぎる時間に来てしまったかと思ったが、境内にはすでに鞠子の姿があった。午後とは違う虹色のカーテンのような陽の柱の中にたたずむその姿は、まるで西洋画の聖母のようで、私はしばらく呆けたように見とれていた。


 振り返ってふわりと微笑んだ彼女の表情を見たとき、私の胸にはなんともいえぬ喜びが湧き上がった。その笑い出したいような嬉しさとともに私を包んだのは、和歌子さんに会ったときとは違う、己の虚勢を全く取り払って寄りかかることのできる安心感であった。


 鞠子もクッキーをみた時のような明るい声で挨拶してくれた。

「よくいらっしゃいました。今日は、はやいのですね」

「君に、ききたい事があるから。君と、話したいことがあるから」

 彼女の元に駆け寄り、息を切らしながら私は一気に言う。実際何をききたいか、何を話したいか、具体的なことは何も私の頭にはなかったが、気持ちはそれを欲していた。とにかく何でもいいから、いつまでも何か彼女と話しをしていたい。と。


「何を、していたの」

 鞠子の手にスコップが握られているのを見て、私は問う。

「ええ、ちょっと、花を植えていたの」

 微笑みながら答える鞠子の視線をたどると、いつも彼女が手を合わせている石碑の前に、数株の桔梗の花が植えられていた。作業はまだ途中らしく、彼女の足元の掘り起こされた土の前に、まだたくさんの色とりどりの花の株が置かれている。

「僕も、一緒に植えていいかな」

 鞠子の笑みがさらに柔らかくなる。それがまるで花開くようで、私は照れ隠しに頭の後ろをかきながら、斜め上に視線をずらした。


 朝の清涼な空気。頭上でそよぐ木々のさざめき。首筋に当たる木漏れ日の暖かさ。そして自分に寄り添う人の気配……。そういうものを心から愛おしく感じることができたのは、一体、いつ以来だろう。私は、鞠子と隣り合ってしゃがみ、土や花をいじくりながら、最近の出来事や、仕事の失敗談などを面白おかしく話した。不思議なことに、頑張らなくても言葉は自然とあふれてきた。そして、その話に彼女は柔らかく微笑みながらうなずいたり、口に手を当ててわらったり、あるいは同情するように眉を寄せてくれたりして……。


 花を植え終わっても、私はしばらく彼女の傍らから離れることができなかった。もっと、彼女の表情を見ていたい。彼女の笑い声を聞いていたい。彼女の傍に寄り添っていたい。


「手紙は、きているかな」

 そう、彼女にきいたのは手紙を読みたいからではなかった。ただただ、この場から離れたくなくて。まだ彼女の隣にいたくて。


 鞠子は静かに首を振り、しかし懐から一枚の折りたたまれた和紙を取り出し、私に差し出した。


『世の中は本当につらいことがたくさん。苦しいことも、たくさん。嫌なことばっかり。でも、不思議ですよね。こんな世界が、たまに、美しく見えるときがあるのです。海が、空が、山が、林が、池が、花々が。とても、とても美しく見える瞬間があるのです』


 それを読んだ私は、思わず鞠子に顔を向ける。彼女は少し恥ずかしそうにして、目を伏せた。

「手紙。わたしも書いてみたの」

 そして、まるで自分に言い聞かせるように、つぶやく。

「わたしはいつも傍観者だった。わたしなんか、いる意味あったのかな。わたしは、どうすればよかったんだろう」

 顔を上げた鞠子は私をみつめた。その目じりに小さな露が宿って光る。

「ねえ、きかせて。文ではなく、あなたの言葉で。あなたは、どんな人?」


「僕は、変な人間だよ。そう。僕はずっと変なんだ。周りの人間に溶け込むことができない。人間関係をうまく作ることができない。気を使っているつもりなのに、すぐに人を不快にさせて。一方で、人の言動にすぐに傷ついて……。だからそれが怖くて、人とは距離をとってしまう。僕は他人が怖いんだ。他人を傷つけるのが怖くて、他人から傷つけられるのが怖くて……」


 私は言葉をきった。鞠子の視線を意識してしまい、急に頬が熱くなる。彼女から自分のことを問われるのは初めてだったし、自分の口から自分の感情を吐露するのも初めてだった。自分のやりきれない思いを聞いてもらうことなど、親に対してさえなかったのだ。誰も理解してくれるはずなどない。結局は知った顔で非難され否定されるだけ。そう、思っていたから。


「わたしも、怖い。人を傷つけるのも、傷つけられるのも、嫌」

 鞠子は目を細め、その頬に柔らかな笑みを浮かべた。

「あなたは、ちっとも変なんかじゃない」

 彼女の瞳の中で淡い光が、まるで透きとおった湖の底のようにたゆたっている。その表情は哀しそうで、でも、慈愛に満ちていて、寄り添うようで……。


 それまで私の喉をふさいでいた堰の厚い板が一枚また一枚とはがれて落ちてゆく。

「昨日は本当につらかった。だけどうれしいんだ。こんな僕の思いを受け止めてくれるところがある。君が、こうやって迎え入れてくれる。だから……」

 私の眼の奥にある腺がふっと緩んだ。人に泣くところを見られるのが恥ずかしいので、彼女に背を向ける。瞬きを何回かして心を落ち着けようとしたら、はからずも目じりから涙がこぼれてしまった。


 私の肩に鞠子の手があてられる。背にも、温かい感触がある。彼女の額のそれであることに気づくのに時間はかからなかった。

 彼女も泣いてくれているのだろうか。


(もしかして。彼女こそが……)


 私は陽だまりの中で揺れる花々を見つめながら、思う。この人こそは地獄で亡者を踏みつける鬼でもなく、はるか雲上で虹をかける菩薩でもない存在。ただ、人生の谷の底で寄り添い、ともに笑い、悲しんでくれる。そんな存在。この人のためならば、きっと自分は耐えることができるのではないのだろうか。この人と一緒ならば……。


 再び鞠子と向き合うと、彼女はニコリと微笑んでハンカチを差し出してくれた。それを受け取った私は、まだ涙の跡のぬれている己の頬が紅潮していくことをいかんともできなかった。


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