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5 和歌子さんと

 その週は週末に横浜で研修会があるというので、昼休みに私がその会場を確認していると、和歌子さんが声をかけてきた。

 会場のホテルの位置がわからないのだという。

 何線に乗るか、どこの駅で降りるのか、調べたことを説明してみても和歌子さんは首をかしげているので、いっそ一緒に行ってみることを提案してみた。


 若い娘は私と歩くのはさぞかし嫌であろうなあ。そんなことを思っていると、

「ああ、ありがとうございます。たすかります」

 意外とあっさり彼女は同意した。


 去ってゆく彼女の背を唖然と見送る私の頭に、ある妄想がひらめく。

 ひょっとして、彼女ははじめからそのつもりで私に声をかけたのだろうか。実は心ひそかに私のことを慕っていたりして。

 妄想は桃色に染まりながら広がってゆく。我ながら都合の良すぎる想像だとわかっているが、心が温かく、軽くなる。


 実は私は、この短い間に和歌子さんに尊敬の念すら抱くようになっていた。

 彼女はまさに理想の人だった。仕事ができるのに謙虚で、博識で教養があるのに嫌味がない。実はしっかりしているのにおっとりしていて人と接するのに角を立てない。けして完璧なわけではないが、それもかえって彼女の美点になっていた。彼女の持つ欠点は害がなく、それが彼女の性格を可愛げのあるものにするのに一役かっていた。


 彼女が職場にやってきてからというもの、彼女に感心しない日はなかった。彼女は職場をがらりと変えてしまった。彼女がいる職場が、私にとってまったく別世界になってしまったというほうが正しいか。


 ふと、先日鞠子が私に語ってくれた言葉が思い出された。

 この人と一緒なら苦労も乗り越えられる。つらいことも我慢できる……。

 もし私にとってそういう人がいるのであれば、それは和歌子さんなのではないだろうか。もしそうなら、どんなによいであろう。

 ふとあのときの鞠子の横顔と彼女の目じりに浮かんだ涙が脳裏をよぎったが、私はすぐにそれを振り払った。



 

 週末の桜木町駅はひどく混んでいる。この界隈は横浜での行楽の玄関口のようなものだ。ショッピングモールがあり、遊園地があり、横浜の象徴的な観光施設がある。観光客やショッピングに来た人々が入り混じり、洪水のように人が行き来する。


 私は改札前に居続ける事ができずに、人ごみから離れて外に出、街路樹の根元に非難した。駅前の広場では吹奏楽の団体がリズミカルな曲を楽しそうに演奏している。海のほうに大きな観覧車が回っているのが見える。目の前を幸せそうな顔をした男女や母娘、家族連れが通り過ぎてゆく。以前なら私の心をいたたまれなくしたそれらの光景が、今の私にはほほえましいものに映った。私も今日は独りではない。待ち合わせている人がいるから。


 一緒ならば苦労も乗り越えられる人。つらいことも我慢できるようにしてくれる人……。


 ふと振り向くと、駅の出口からこちらへ向かってくる黒いスーツの女の人の姿が目に入った。和歌子さんだ。私が笑顔になって手を振ると、彼女も手を振り返してくれた。

「待ちましたか」

「いいや。私も今来たところです」

 そんなやりとりを自分がする日がこようとは思ってもみなかった。私たちは軽く挨拶を交わし、二人並んで休日の浮ついた人ごみの中へと分け入っていった。


 研修会まではまだだいぶ時間があったので、私たちは近くの喫茶店により、ミナトミライの風景を眺めながら他愛もない会話をして時間をすごした。


 昔から、デートというものは男に対し非常に注文がうるさい。いろんな雑誌やテレビ番組やあるいはネットやらで、ああしろこうしろ、これは駄目だのと、面倒なことこの上ない。しかし彼女の前では、私もいつのまにかそのような面倒をいとわぬ人間になっていた。もちろんこれはデートでもなんでもない。しかしこんな風に二人だけで向かい合っていると、自然と彼女のために頑張らねばならないような気持ちになってくる。もっと何か話さなければ。彼女を楽しい気分にさせなければ。しかしそう思えば思うほど、その気持ちは空回りする。生来口下手な私は、それに加えて水をこぼしたり砂糖を落としたりと不器用さを発揮し、下手な会話をさらに悲惨なものにした。


 喫茶店を出た後はわざと遠回りして運河沿いの道を海に向かって歩いた。街路樹の少し色づいた葉が頭上で優しくささやいている。和歌子さんが時々、やわらかい笑顔を向けて話しかけてくれる。会話をうまくできない私を慰めるように。降り注ぐ小春日和の陽光と同じ明るさと温かさで。そして自分でも戸惑うほどに、そのお日様のような明るさ温かさが、かえって私の心を沈みこませた。


 一緒ならば苦労も乗り越えられる人。それが彼女ならどんなにいいだろう。でも、私は彼女と一緒にいてもよい男なのだろうか。彼女にふさわしい男だろうか。

 そう思ったとき、強い風が吹いて街路樹がさっきまでとは違う音色でさざめいた。

 おもわず隣の和歌子さんのほうを向く。ゆれる木漏れ日に照らされた彼女の横顔を見て、私ははっとした。それが一瞬、和歌子さんではなく、鞠子のそれに見えたからだ。


 覚妙寺の境内に差し込む午後の陽の中で、目じりを光らせて枯れ色のこずえを見上げていた、鞠子の横顔……。めをしばたたいて頭を振っても、あの鞠子の顔のイメージが消えることはなかった。

(ああ、そうだ。今日は覚妙寺にいかなければ)

 急にあの寺が気にかかって、私の心は落ち着かなくなった。

 今日は土曜日。今まで土曜日は欠かすことなく覚妙寺を訪れていたのだ。日暮れまでに戻ることはできるだろうか。日暮れ後も鞠子はあそこで待っていてくれるだろうか。



 

 研修会が終わった後も私は結局すぐに帰ることができず、全店舗の社員を交えた懇親会に参加させられた。

 桜木町駅の北側の一角の、お洒落げな居酒屋には大勢の社員が集まっていて、その中には和歌子さんの姿もある。しかし和歌子さんは私には気がつかぬ様子で、席も、離れたテーブルにつかされてしまった。


 ビールのジョッキで乾杯をし、なぜか盛り上がる社員たちの中で、私はひとり冷めていた。楽しそうに騒ぐ人々にかこまれながら、自分だけ話し相手もなくただ箸を動かし酒をなめるだけの時間は、苦痛でしかない。私はこういう集まりでよく知らない人々と無理やり交流させられるのが嫌いだった。私の着かされたテーブルには、あまり親しくない同期の男と、初めて顔を見る、一こか二こ年上の女が二人座っていた。


 まったく最悪な時間だった。

 同期の男はしきりに女二人に媚を売り、そのために私をやたらとからかったり馬鹿にしてみせたりする。女たちはそれに対し、さも嬉しそうに下品な笑い声をあげる。それが不快で憮然としていると、面白い顔もせずに一向に話に乗ってこない私が気に食わないのか、女たちは寄ってたかって私に説教をしはじめた。

「社会人として……」だとか「男として……」だとか「そもそも人として……」だとかいった言葉が、私の頬を打ち、額を打つ。


 友好的でない私の態度にも問題はあるだろう。しかし、知りもしない相手からいきなりこきおろされ笑いものにされたら、誰だって気持ちよくないだろうに。それを年下の男だという理由だけで一方的に私に受け入れさせようとするのは、あまりに横暴ではないだろうか。


 何か言い返してやりたい気持ちだったが、私は口下手なので下手なことは言わずに黙っていることしかできなかった。世に怖いものなく生きてきて人を批判するのになれた者たちの口撃に耐えながら、私はぼんやりと鞠子の言葉を思い出していた。きっと彼女の言葉は半分正しくて半分間違っている。たしかに人の心を救うのは人かもしれないが、人の心を傷つけるのもまた人なのだ。と。


 私は救いを求めるように和歌子さんのテーブルに目を向ける。私の居る地獄とはまるで無縁の朗らかさで、彼女たちは楽しそうに会話し、笑い、杯を傾けていた。


 散々な懇親会が終わって外に出ると、もう空はすっかり暗くなっていた。私はいち早くスーツの集団から抜け出し、疲れ果てた心と体を引きずりながら駅へと急いだ。


「先輩。お疲れ様です」

 電車を待つホームで声をかけてくれたのは、和歌子さんだった。なんだか彼女と言葉を交わすのがとても久しぶりのような気がする。彼女の頬は上気してほんのり赤く染まっていて、その吐く息は弾むようだ。

「楽しかったですか」

 私が問いかけると、彼女は朗らかに笑って答える。

「ええ。とても」

 その表情は本当にうれしそうで、一転の曇りもなく、疑いようもなく輝いていた。


 その彼女の姿を見たとき、私はつくづく思った。ああ、この人は本当に世の中から愛されているのだ。人生から、生きることから愛されているのだ、と。彼女はまるで別世界の住人だった。私が地獄の底を這いずる亡者ならば、彼女は雲上に虹をかける菩薩であった。そこには、私の居場所はなかった。


 その時、私の心の底で水滴の音が響いた。あそこへ帰ろう。私は思った。人々の哀しみがこだまするあの谷底の寺へ。私の居るべき場所、私の居たい所はあそこなのだ。


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