4 手織りのストール
それから私は二三日に一度は覚妙寺に寄った。
鞠子がいないときもあったが、いるときは必ず神棚をあけてくれて、そこにはいつも別の人物からの手紙が置いてあった。
ある日は薄い桃色の封筒に入った横書きの便箋。
『私は今年就職したばかりの小娘です。仕事し始めて三ヶ月。私は疲れ果ててしまいました。もうこんな職場はいやです。希望の職についたはずなのにこんなはずではなかった。私はこれからどうすればよいのでしょう……』
ある日は一筆箋の束。
『毎日上司からパワハラを受けていてつらいです。辞めたいけれどもう三社目なので経歴に傷がつくと思うと……』
茶封筒の中の紙には、
『人間関係を上手に築くことができません。また会社を辞めたが、再就職ができません。私のような人間は評価されないし、必要とされないのです……』
生きるのに疲れている人々のその言葉は、いちいち私の心に響いた。彼らは私の悩みに共感し、そして私も彼らの気持ちに共感する。何の答えも見つからないし、先の希望が見えるわけでもないが、この神棚に供えられた手紙を通しての交流は、私につかの間の安らぎを与えてくれた。
そこはまさにたまり場だった。夢やぶれ、社会から落ちこぼれて、雫のように人生の深い闇の底に滴り落ちてゆく人々の、たまり場だった。
そして、水溜りに落ちる水滴の音のように人々の哀しみがこだまする、この谷底の寺の境内で、鞠子はいつも静かに、何かに耐えるように微笑んでいるのだった。
鞠子は不思議な女だった。彼女はいつも仲介役だった。彼女自身が何かを言うことはない。ただ黙って私の手紙を受け取り、神棚の手紙を私に渡すだけだ。だが彼女がいなければ神棚は開かないし、手紙も届かない。彼女の手を通してのみ、この交流は生まれるのだ。
今の時代インターネットの掲示板か、SNSを使えばいいだろうとも思うが、やはりこれはこれがいいのだと思う。少なくとも鞠子に言われなければ私は文を書かなかったし、この不思議なやり取りをどこか楽しんでいるところが自分にはあった。
それにしても、そもそも鞠子は何者なのであろう。彼女は自分のことについては何も語らない。寺の人間ではないようだ。はじめボランティア団体の関係者か、市の職員かと思っていたが、名刺ももらったことはない。
ただ、この不思議なやり取りに彼女が欠かせない存在であることだけは確かだった。
一ヶ月があっという間に過ぎ、ビーチから水着の若者と出店が消えた。だがまだ暑さは厳しく、蝉の鳴き声も絶えることなく、一方で草の影から湧く虫たちのささやきも勢いを増していた。
通勤時に通る小路にも相変わらず容赦のない陽光が降り注いでいる。朝からひどい暑さだ。私は塀や電柱のつくりだすわずかな日陰をたどりながら、時々恨めしそうに正面に照る太陽を見上げ、鈴を溶かしたように白くぎらつく瓦屋根たちに眉をひそめた。
その日職場へと向かう足どりが重かったのは、暑さのためばかりではない。職場のイベントがあるからだ。
手織り体験。
なんでも、集中力と根気を養うために店舗の人たちで毎年やっている行事なのだそうだ。いかにも古都らしいと言えばそうなのだが、私にはあまりありがたくないイベントだ。私の不器用さがいかんなく発揮され、恥をかくのが目に見えている。鎌倉ならおとなしく座禅でいいだろうに。もっともすぐに足がしびれるので座禅も自信はないのだが……。
「ああ、憂鬱だなあ」
私は思わずため息をついて、店舗の斜め向かいにそびえるイチョウの木を見上げた。
その日の仕事は午前だけだったので、昼食後、午後から我々は手織り体験のできる店に集い、先生の指示に従って作業を始めた。
しんと静まり返った書院造の和室。思わず寝ころびたくなるような懐かしい香りを放つ畳の上には、機織り機のような道具がいくつも置かれ、それに向かい合った人々が真剣な表情で手だけを動かす。張り詰めた空気の中で、衣連れの音と木の器具同士の触れ合う音が、軽快に響いている。
これは確かに集中力がいる。そして夢中に、無心になる。
半分嫌々作業を始めた私は、しかし開始数分にしてこの手織りのストールづくりに没頭した。根気よく同じ動作を繰り返すうち、いつしか目に入るものは色鮮やかな糸だけになっていき、それがまるで糸以上の何者かであるような気持ちさえ抱いてゆく。
半分夢見心地の私の脳裏にふと、鞠子の姿が浮かんだ。そしてあの覚妙寺で彼女が渡してくれた、手紙の数々。顔も知らない人々の。文を通してしか知らない、あの手紙の主たちはいったいどんな顔をしているのだろう。くたびれたサラリーマン。泣きつかれて壁にもたれる女の子……。私が想像できるのはどれも苦しそうでつらそうな姿ばかりだ。しかしそれだけなのだろうか。私は彼らの哀しみを知っている。でも、喜びは? 彼らにも楽しいことはあるのだろうか。つらくても生きたいと思えるほどの。鞠子は……。鞠子は、どうなんだろう。
「大丈夫ですか先輩。そこ、間違えているみたいですけど」
隣から聞こえる女の声で、自分が通す糸の色をいつの間にか間違えていることにようやく気がついた。
「へあっ?」
間の抜けた声を出して振り向くと、隣に女の顔があった。一瞬鞠子かと思ったがそうではない。ああそうだ。この子は私がここにきてから一週間後に入社してきた……、和歌子さんという人だ。今日は彼女の歓迎会もかねているのだ。
それはそうと、私は自分の手元を見て内心頭を抱えた。失敗した。これでは考えた通りの模様にならない。これが私の恐れていたこと。不器用な私はいつも失敗をしてしまう。試行錯誤しながらようやく完成させたころには、みんなはもうとっくに素敵な模様のストールを仕上げていて、それを見せ合いながら談笑していた。私は部屋の隅でちぐはぐな模様の失敗作をおずおずと鞄にしまい、皆に頭を下げた。
失敗ばかりだ。
私は解散後、帰る方向が同じだという和歌子さんの隣を歩きながら、自分の過去をまた振り返る。自分の過去は失敗ばかりだった。受験では志望校に受からず、大学での試験もうまくいかないことが多かった。卒業してからの資格試験も、何度も落ちた。失敗ばかりの人生。何も楽しいことはなかった。
「ストールづくり。楽しかったですね」
和歌子さんが声をかけてくれる。どこかいたわるような声。優しい子だなと思う。
「そのお菓子。誰かにあげるんですか」
彼女は私が持つ小さな紙袋を指して問う。これはあの店のカウンターで販売されていたお菓子。梅の模様の刺繍された巾着袋がお洒落で、その中においしそうなクッキーが少量だけ詰められている。
私は少し頬がほてるのを感じながらうなずく。このお菓子を一目見た時、ふと、これを鞠子にあげたら彼女はどんな表情をするだろうと思ったのだ。柄ではないことだけど、でも、それがとてもいい考えのような気がして、私は気がつくとこのお菓子を購入していた。
顔をあげると夕陽さす鎌倉の街の建物や木立には橙色の光が瞬いていて、その眩しさに思わず私は目を細める。この光にあふれた鎌倉の片隅で、これからも私は決して光のあたらぬ心のうちを、同じく光の届かぬあの谷底の寺に思いをはせながら書くことであろう。
しかし明日は……。
明日は彼女に問うてみようと思う。文章を通してではなく、直接。挫折ばかりの人生を、それでも生きることを、どうしたら肯定できるのか、彼女が考えていることを。
翌日も穏やかな晴天だった。休日でももはや夏のような騒がしさはない。鎌倉を散策するのはこのくらいの時期がいいのかもしれない。夏はいろんなものがごちゃ混ぜになっていて、お祭り騒ぎで、賑やかで、楽しくて、落ち着きがない。紅葉の季節になってしまえば、谷という谷があでやかに色づき幻想的で美しいが、やはり人が入り乱れ、お祭りのような雰囲気があちらこちらに漂い、どこか落ち着かないそわそわした気分になる。
夏の海も晩秋の紅葉もどちらもとてもよいけれど、その間のこの時期も、静かで好きだ。
そしてこの日も相変わらず人気のない丘沿いの小路を渡り、私はまだ蝉が弱々しい声を降らせる覚妙寺の境内へと入っていった。
「わあ。おいしそう!」
私が渡した巾着袋の中を見た鞠子は目を輝かせ、私の予想していなかった高さで声を弾ませた。
「おいしい。とてもおいしいですね。こんなの初めて!」
クッキーをほおばりながら何度も、何度もおいしいと言って、幸せそうなため息をつく。細かなかけらをぽろぽろこぼすので指摘すると、彼女は恥ずかしそうに舌を出した。
「ごめんなさい。つい夢中になっちゃって」
「いや。喜んでもらえてよかったです」
「この巾着も可愛い。……梅かあ。ずいぶん観てないなあ」
梅の刺繍を眺める彼女の目がしんみりと細くなる。
「観にいきましょうよ。春になったら」
思わず言ってしまってから私はハッと口をつぐんだ。彼女の表情から、突然笑みが消えてしまったから。
口を引き結んだ鞠子の、蒼白いその表情に木漏れ日が散っている。私の視線に耐え切れなくなったのか、鼻をすすり静かにささやくこずえを見上げる。その髪紐についている翡翠色の鈴がチリンと鳴る。彼女の目じりにはその鈴のような丸い涙の粒が光っていた。
「……ごめん。恋人でもないのに、馴れ馴れしいこと言ってしまって。不快だったら忘れてください」
私が謝ると彼女はその口元にまた笑みをつくって首を振った。
「ううん。違うの。ありがとう。でも、わたし、どうせ今年も梅は観れないのです」
鞠子のその声音がとても寂しそうで、私の胸はなんだか苦しくなる。うつむいた私はその苦しさを振り払うように問いを発する。
「君は。この世界が、好き?」
彼女から返事は返ってこなかった。しかし私は抑えることができなくて言葉を続ける。
「教えてほしいんだ。どうしたら、好きになれるのか」
この失敗ばかりの面白くもない、傷つき苦しむだけの人生を、私はどうしたら愛することができるのだろう……。
私は鞠子に視線を向ける。鞠子もまたじっと私を見つめている。降り注ぐ静かな午後の陽の下で、その瞳は何か多くのものを秘めながら静かにおだやかに揺らめいていた。
「あなたの周囲にも必ずいるはず」
しばらくたってから、ようやく彼女は口を開いた。
「この人と一緒なら苦労を乗り越えられる。その人のことを思えば、つらいことも我慢することができる。 ……そういう人が」
静かな谷を覆う木々の枝から優しいさざめきが降ってくる。そんな人がいるのか、私にはまだわからない。でも、彼女と隣り合って暮れゆく空を見上げていると、少しだけ心が軽くなるような気がした。
「今日はごちそうさまでした。これは、お返ししますね」
そう言って鞠子は巾着袋を返してくれた。その顔には、いつもの微笑が戻っている。遠くにある何かを見つめて愛でるような、しかしどこか寂しそうなその微笑だった。