2 不思議な女
仕事については多くは語るまい。
集中力が必要で、忙しくて、自分で何も決められず、そのくせ責任だけ重い。狭い職場で人間関係が難しく、上にも下にもお客にもひたすら頭を下げ続けなければいけない。やることは単調で、自己肯定感もなく、将来性もない。そんな職だ。
自分の職業自体が悪いと言っているのでは決してない。この仕事に誇りを持って、活き活きと働いている人も、何人もいる。ダメなのは、私なのだ。
もう、触れないでおこう。触れれば愚痴ばかりになってしまうから。それにもう、どうでもよいのだ。
要は私はもう仕事に嫌気を感じていて、その仕事をすることでしかこの命をつないでいけない人生に絶望しているということだ。それだけなのである。
それはさておき、鎌倉である。
鎌倉はつくづく独特な、不思議な街だと思う。
谷が多く、複雑に入り組み、切り立った岩肌がところどころに見える。その谷という谷にはそれぞれ人が住み、そして寺がある。
鎌倉は寺の多い街だ。私のアパートから職場まで歩いて二十分くらいだが、その間でも片手では数え切れないほどの寺や神社を通り過ぎる。
私は休日になると、むさぼるようにあちらこちらの神社仏閣を見物してまわった。鶴が丘八幡宮や高徳院のような有名どころから、あまり有名ではない静かな寺、小さな祠やもはや草むらしか残っていないようなところまで、心の赴くまま足を運んだ。
寺や神社にいると、妙に心が落ち着く。鎌倉にある寺はだいたい禅宗とか日蓮宗のものだろうか。それらの教義についてほとんど知識はないし、そもそも宗教のことなどよくわからないのだが、そういう場所にある、俗世と隔絶した雰囲気は大いに私の心をひきつけた。
俗世と隔絶した、そう、浄土というものがあるならば、寺社仏閣はその入り口に通じているのではないかとさえ思えるのだ。
その日、私は鎌倉東部のある一角を訪れた。
そこは自分の通勤路にもなっているので、休日はあまり足を向けない。いつも観光客でにぎわっている鎌倉とは思えない静かな地域だ。鎌倉についた初日に迷い込んだ、あの古めかしい住宅街の一角である。
もう夕暮れ時で、燈色の光が古びた家々の屋根の間から、狭い路地へと差し込んでいる。残照を散らした木立や林では蝉たちが休日の終わりを嘆くように鳴き騒ぎ、その一方で鈴虫が草むらの影から遠慮がちに夕闇の涼しさを喜んでいる。
細路の途中の木立ちの中に小さな山門があり、そこから裏の丘の森へと路が続いている。私は立ち止まり、少しだけ躊躇した後その古びた山門をくぐって、太い木々にはさまれた暗い参道を進んでいった。
石の階段を上り、小さな仁王門を過ぎると、本堂のある区画に入る。三方切り立ったがけに囲まれていて、昼でもなんとなく薄暗い庭地の奥に、重厚な瓦屋根を被った本堂が鎮座していた。
人っ子一人いない谷底の境内で私は目を閉じ、深呼吸する。
湿った木の葉や土のにおい。木々のにおい。蝉時雨。虫のささやき。風の音……。
私はこの世で感じる最後になるであろうこれらの感覚を、しばらく全身で受け止めていた。
私はここで、自分の無意味な人生に自ら終止符をうとうとしていた。この、人の訪れない荒れ寺の本堂の裏から、静寂の気に抱かれつつ、独りあの世へと旅立つのだ。
これは鎌倉行きの電車の中で、いや、出張を命じられたときからずっと自分の中で繰り返されてきたイメージだった。どうしようもない自分の人生にはもはや死以外に解決策を見出すことができなかった。そしてこの数日で、私はここに死に場所を見つけた。
(さて、そろそろゆくか)
心は思った以上に穏やかだ。呼吸を整え、目を開ける。
数歩前に進んで、しかし私は驚きに足を止めた。
はからずも足が硬直し、鼓動が速くなる。
誰もいないと思っていた本堂の脇に、人の姿を発見したからだ。
それは小柄な、黒髪の女の人だった。はじめ少女のようにも見えたが、落ち着いた雰囲気から、二十代後半から三十くらいの年齢なのではと思われた。
その人は、本堂脇の斜面の下にいくつか並んでいる苔むした小さな石碑に向かって、手を合わせていた。
私はしばらく境内をうろうろして、その人がいなくなるのを待っていたが、彼女は石碑の前からなかなか動こうとはしなかった。
(こうなったらこんくらべだ)
私は彼女がいなくなるまで意地でも待ってやろうと、本堂の階に腰をおろし、腕を組んで目を閉じた。ここまで覚悟を決めておいていまさら後へはひけない気持ちだった。
蝉時雨が降り注いでいる。足元には夕闇から漂う冷気がまとわりついてくる。ほぼ正面から差し込んでくるこの日最後の弱々しい陽光が、境内の林の梢にこされて木漏れ日となって、私の頬の上で暖かくゆれている。
かなり時間がたったと思う。何もしていないと時間のたち方は遅くなるものだが、私はこらえきれずに目を開いてしまった。
空はまだ明るい。まだ紺色に染まる気配も見せぬ淡い色のそこに、輪郭だけ橙色に焼けた雲が浮かんでいる。木々には残照が散り、そして目の前には女の人の姿……。
「うわあっ!」
私は思わず叫び声をあげて、階からずり落ちた。
女の人はそんな私を見て切れ長の目を細める。なんだか古風な雰囲気の人だ。やはり二十代後半くらいの若さのようだが、髪はいまどきの人には珍しく全然染めていないような黒さで、それを頭の後ろで束ねている。眉は太めで額は秀で、輪郭はいわゆる卵型。およそ飾ったところのない、神社で巫女服でも着ていたら似合いそうなタイプだ。
私が彼女から目を離さずに口をあけたまま座りなおすと、女の人はフフとそよ風のように笑った。
「あなたは、死のうとしていましたでしょう」
ぶしつけだが、まさに自分のしようとしていたことを言い当てられて、私は動揺した。目を彼女からそらし、動揺を落ち着けようとやたらに己が膝をさすりながら答える。
「そんなことはないが……」
目をそらしていても彼女が見ていることがわかる。この人はそれを知ってどうするつもりだろう。説教なんかごめんだ。安っぽい励ましもいらない。だが、なんだか嘘をつくのも億劫で、どうせいきずりの人なのだろうから、話してもいいのではないかという気持ちにもなってきた。
「そうだね……。死のうと、しているよ」
私はそして、彼女を見た。
「どうする。とめますか」
彼女はいつの間にか真剣な表情になっていて、こくりとうなずく。
「わたしの目の前でやろうとするのなら」
「わたしの名は鞠子。蹴鞠の『鞠』に子供の『子』よ」
もし彼女が説教でもしはじめようものなら、私はたちどころに逃げ出していただろう。しかし彼女は自分の名を名乗っただけで、後はついてくるようにと背を向け、すたすたと歩きだした。
私は彼女の後ろについて歩く間、鞠子と名乗ったその女の人に、少しだけ質問をした。
なぜ私が死のうとしていることがわかったか。
私の言っていることを冗談だとは思わないのか。
本堂の裏まできて、彼女は立ち止まった。
「わかるのです。わたしの父も自殺したから。あなたの表情はあのときの父にそっくり」
そして道をあけるようにして振り返る。
目の前の岩の斜面には人が二,三人入れるほどの穴がうがたれており、その奥に、小さな屋根つきの木箱が置かれてあった。
木箱というよりは神棚である。鞠子が屋根の下の扉の鍵を開け、観音開きにすると、中は真っ暗な空っぽの空間で、そこから流れ出てくる空気には涼気が感じられた。
ここは寺だが、ここだけなんとなくそういう区別を超えた神々しく怪しげな雰囲気があったので、私はそれを神棚と呼ぶことにする。
鞠子はその神棚の中を指し示して言った。
「あなたの気持ちを書いて。紙に書き記して、そしてこの中に入れておくのです」
私は彼女と神棚を交互に見つめる。彼女の真意を探るように。自殺を止めてやると言った、それをどう実行してみせるのか、わずかな興味をこめて。
「何で、僕がそんな面倒なことを」
「別にやりたくなければやらなくていいです」
「それをしたら、どうなるのでしょう」
鞠子は言いよどんで、目を伏せる。返答を待っていたが、特に彼女がそれ以上何か言葉を発することはなかった。
鞠子のその様子を見ていて、私は失望というか、ああやはりなというあきらめの気持ちを持った。一瞬だけでもこの不可思議な女に何か期待した自分が、ひどく愚かな者に思える。鞠子を責める気持ちはない。これが当然なのだ。死をも決心するまで追い詰められた人間の、その気持ちを翻させるなんて、そんなことは容易ではないのだ。ほとんど奇跡のようなことでもなければ。そして、私は奇跡など信じない。
私はため息をついてきびすを返した。なんだか彼女には迷惑をかけたな。来週出直そう。また別の場所を探さなければならないが。
うなだれて歩く私の背中に、鞠子の声がかけられた。
「あなたの想いは、神様が読んでくれます。もし書いたら、また来てください。わたしに渡してくれればこの戸棚の中に入れるので」
私は返事を返さずに、仁王門をくぐり階段を下りた。
山門をくぐるとき、ようやく立ち止まりふりかえる。門の額にある文字を見て、はじめて私はその寺が覚妙寺という名であることを知った。