10 海風の吹く寺跡
翌月曜日、私はいつものように疲れた足を引きづって仕事場へと向かった。
今日からまた、変わらぬ日常が続いてゆく。苦しく、救いのない、つらい毎日が。
道中、何度もため息をついては周囲の風景を見渡した。何事もないかのように晴れ渡った秋空からはさんさんと陽が注ぎ、白く暖かな光を散らす木々の枝から、小鳥の楽し気な鳴き声が流れてくる。
覚妙寺の山門の前で私は思わず立ち止まった。古ぼけた額と苔むした屋根。その山門と向き合って目を閉じると、鞠子の見せたいろんな表情が脳裏に浮かんでは消えていった。彼女と過ごした日々がなんだかとても遠い出来事のように思われる。いや、結局あれは幻だったのかもしれない。
私は顔を山門からそむけ、目ににじんできたものをふくためにハンカチを出そうとした。ジャケットのポケットの中で私の手にふれたのは、しかし布ではなかった。何だろうと思いながら取り出してみる。それは一枚の和紙だった。
陽だまりのようなあたたかな光が、私の胸の底に浮かぶ。これは、いつか鞠子が私にくれた手紙……。
そこに書かれている文字をしばらく見つめていた私は、やがてスマホを取り出し、職場に電話をかけた。
「すみません。今日。仕事休みます」
そうとだけ言って電話を切ると、私は踵を返して駆け出した。
自分のアパートにいったん戻った私は、急いで鞄に大事なものを入れてから、また住宅街の細い道へととびだす。
梅の刺繍の巾着袋。不格好な模様のストール。昨日の晩、夜更かしして書いた便せん数枚の手紙……。
それらのつまった鞄を抱えて、私は息を切らしながら、必死になって走った。
私は知っている。どんなに走ったって鞠子との間にある時間の溝を埋めることはできないことを。私と鞠子の間には八百年もの隔たりがある。だが、それがどうしたというのだ。相手が過去の人でも、幽霊でも、私はもう一度逢いたい。一瞬だけでも彼女と触れ合いたい。彼女に伝えたい言葉が、彼女に渡したいものがあるから。だから、私はどうしても行きたい。
幸明寺へ。鞠子の眠る地へ。
そこへ行っても鞠子には逢えないかもしれない。でも自分の心が、心の最も奥底にある何かがどうしようもない力で自分をそこへと導くのだ。
幸明寺は鎌倉東部の海沿いの端、隣の逗子市との境に近い辺りにあるらしい。詳しいことは調べてもわからなかった。ただ私は駆けた。鞠子を求めて。逗子との境を形成する丘陵沿いの道を。生垣や、こぶだらけの大木、黒ずんだ古めかしい木の塀にはさまれた細い道を。ただただ己を突き動かすこの感情に身を任せて。
岩肌の白い崖にうがたれた短いトンネルをぬけ、階段をのぼって出た草地で、私はようやく足を止めた。陽の降り注ぐ丘の公園に海からの風が吹き渡り、草木をそよがせている。猫の額のようなその狭い公園の、ところどころに柱の基部であったものと思しき石が転がっていた。草原の中心地あたりに石のくいが埋め込まれてある。そこには文字らしきものが彫られてあった。風雨にさらされ磨り減った文字。
私はその文字が「幸明寺」であることを確信していた。鞠子の額の触れたこの背が、彼女の姿をかつて映したこの目が、彼女の声を聴いたこの耳が……。すべてがここがそうであることを伝えていたから。鞠子がその人生の最後にみていた風景は、このように美しく穏やかなものでなければならないと思うから。
幸明寺跡の裏側は今抜けてきた崖であったが、三方は開けていて、海まで見渡すことができる。眼下にはさびれた街が細く広がっており、その屋根屋根の上で海は、無数の白い光の粒を瞬かせながらうねっていた。
公園には光混じりのゆるやかな風が吹き渡ってゆく。しかし、彼女らしき人の姿はどこにもない。
私は柱の基部の一つの上に立って海を眺めた。
鞠子の名を呼ぶも、私の声だけがむなしくこだましてゆく。そしてそれはすぐに視線の先の海に飲み込まれ、分裂し、吹き渡る風に流されていってしまう。
(ああ、やはり)
やはり、だめなのか。しかし私はあきらめきれなくて、鞄から一枚のストールを取り出すと、それを海に向かってかざした。
かつて私が織った、失敗作のストール。しかし手紙の主たちや鞠子のことを想いながら一生懸命に織った、赤い糸と青い糸の交差する、世界に一枚だけのストール。
とどけ、この想い。つながれ、鞠子と。
そして私はストールから手を放す。海風に乗ってそれは後方の丘へと流れてゆく。
その時、耳の奥で鈴の音が響いた。背後に人の気配。そしてためらいがちに私を呼ぶ、女の人の声。
振り向いた私は、何度も目をこすった。彼女の姿があふれる涙で流されてしまいそうだったから。私のストールを右手につかんでそこに立つ、彼女の姿をもっとよく見たかったから。
彼女はそこに立ちすくみ、あんぐりと口をあけて目をしばたたかせている。しかし彼女の……鞠子の、その瞳には、懐かしいものを愛でるような暖かい光がきらめいていた。あの谷の底の覚妙寺にいたときと同じように鞠子は、そよ風のような微笑を浮かべると、もう一度私の名を呼んだ。
緑の風がそよぐ丘の草原に二人並んで座り、私たちは海を眺めていた。
「君は、比奈一族の人間だったのだね」
私の言葉に鞠子は静かにうなずく。
「あの戦がはじまってすぐ、父はわたしを館から逃してくれました。あとで必ず迎えにゆくからと言って……」
彼女の声は、そこでもう詰まってしまった。
「言わなくてもいいんだ。わかっているから。調べたんだから」
私はそう語りかけながら、うつむいてしまった彼女の背をさすった。そう。私は知っている。彼女はこの寺に逃れてきて、一族の滅亡を知り、そして絶望して自殺したのだ。
「……わたしは、ここで自害したのです」
しばらくの沈黙の後、顔を上げた彼女は、はるか水平線のむこうを見つめるその目を細めた。
「そしてある日、気がついたらあの寺にいました」
「生き返ったの?」
「いいえ。生き返ってはおりません。わたしはただ、成仏できていないだけなのです」
そして鞠子は、自分が死んだ後の話をしてくれた。
* * *
わたしは、自決した後も成仏することができませんでした。
ある年ふと、眠りから覚めるように、夏の中ごろ、虫の鳴き始めるころにあの寺によみがえり、虫の音の絶えるころ、己の命日に幻と消えてしまうのです。
次によみがえるのは数年後のこともあれば数十年後のこともあります。百年以上眠っていたこともありました。ここ十年は、毎年のように……。
わたしは死んだことを後悔しました。
野辺に咲く花が、木漏れ日を散らして揺れる竹林が、夕日を浴びて染まる雲が、あまりに美しかったから。
生きていれば、もっといろんな美しいものに、もっとたくさん出会えたかもしれなかったのに。
だからわたしは、あの寺で死のうとした人々をほおっておくことができませんでした。わたしと同じように人生に絶望した人々を。でも、どうしたらいいかわからなかった。なすすべなく何人もの人をわたしは見送らねばなりませんでした。彼らに訴えたかったのに。人生にはまだ、ささやかだけど価値のあることがあるのではないだろうかと、伝えたかったのに。
今年目覚めたわたしは願いました。今回こそは、と。今回こそ、何かできたらいい。そんなわたしに力を貸してくれる人がいました。それが彼らでした。この地で亡くなっていった、彼らでした。あなたにみせた手紙は皆、実はあの寺で亡くなった人たちのそれなのです。彼らがわたしに託してくれた、彼らの血を吐くような想いだったのです。
わたしも、彼らも、あなたに生きろだの死ぬなだのと確信をもって指図することはできません。生きるつらさを皆知っているから。でも、あなたにはまだ、この先素敵な何かとの出会いがきっとあるはず。そう、信じてもいるのです。だから、どうか……
* * *
「どうか、死なないでいてほしいの」
海を見つめながら詩を口ずさむように話していた鞠子は、そう言いきると、私のほうを向いて、ようやくいつもの微笑をその寂しそうな顔に浮かべた。
「今日はわたしの命日。この日に、鎌倉のはずれのこの寺跡まできたのは、あなたが初めてです」
彼女の後方に広がる海が、小春日和の柔らかな陽を反射して、無数の白い光を瞬かせている。人のいない静かな砂浜に寄せてはひく波の動きに合わせて流動し、明滅する。その海を臨む街の色とりどりの屋根たちも、うろこのようにきらきらと、白い光を放っている。丘や公園にそよぐ木々の無数の葉も……。
背景にあるそれらいくつもの光が皆、一緒になって鞠子を包んでいる。彼女の体を、彼女の寂しそうな笑顔を、包み込んでいる。
私はしばらく、そんな鞠子を見つめていた。今目を離してはいけないような気がした。何を言うこともできず、ただひたすら引き止めるように、食い入るように眺めていた。
鞠子の周囲の光がふと、強まった気がした。いや、周囲だけではなく、鞠子の体からも光が放たれているようである。それが波のように揺れていることに気づいた私は、とっさに彼女の手をとった。
鞠子は目を伏せ、小さなため息をついた。
「そろそろ、お別れのようですね」
「ちょっと待って。あと、少しだけ」
私はあわてて自分の鞄の中をまさぐった。彼女にどうしても渡したかったものが、そこには入っている。昨日の晩、彼女に宛てて書いた、感謝の手紙。短いけれど、心からの、彼女への想い。
「これを……」
折りたたまれた数枚の便箋を、梅の刺繍のされた巾着袋に入れてさしだす。それを受け取った鞠子の手はすでに透き通っていて、わずかに輪郭が白く浮かんでいるだけだった。
「これは……」
「手紙だよ。僕の愚痴じゃない。恋文だ。君への……」
巾着袋に一粒、涙が落ちた。
「ありがとう……」
鞠子は目じりをふいて顔をあげ、穏やかなまなざしで私を見つめてくれた。その半透明の顔に浮かぶ寂しそうな微笑が、違う笑みに変わってゆく。花がほころぶように。今までで一番優しく柔和で、楽しそうな笑みに。
「そうだ。これを」
膝の上に置いていたストールを首に巻いた彼女は、頭の後ろに手をまわした。髪紐についていた翡翠色の鈴をとり、それを顔の横で振ってみせながら、
「ねえ。今度一緒に梅を……」
彼女が消えた後の地面に、鈴が、かわいた音を響かせて落ちた。
風がそよぎ、草木がやさしくさざめいてゆく。
鞠子の姿を溶かしていった光が、彼女のいなくなった空間で残り香のようにきらめいている。
私は彼女の涙の名残のような鈴をを拾い、力なく立ち上がった。その翡翠色の鈴は思っていたよりも軽く、強く握ればつぶれてしまうのではないかと思えるほど、はかなげだった。
鞠子が隣にいた時と変わることなく、ひばりがさえずり、空は晴れ渡り、穏やかな潮騒とともに海は輝いている。私はまだ、この空間のどこかに彼女がいるような気がしてならなかった。
私は鞠子の姿を求め辺りを見渡した。
彼女はもちろんどこにもいない。
しかし光は、鞠子のいないこの世界の、いたるところに宿っていた。
海にも、街にも、草原にも……。
あふれるほどに、しかし哀しい美しさで……。




