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「ここは……」

 気が付けばベッドの上。

 清涼感あふれる天井が目に入った。

 見渡せばどこかのホテルの様な一室。

 ベッドに着いた器具から見て病室ではあるようだ。

 窓から入る日差しからして、まだ朝も間もない時間か。

 どうしたものかと考えていると、病室の扉が開く。

 入ってきたのは看護師、検温に来たであろう彼女と目が合った。

「――っ、気が付きましたか!? 先生! 患者さんが目を覚ましました!」

 それからは大騒ぎだった。

 何せ彼らにとってみれば、手術が必要な傷を負っていた患者が、気付けば手術痕すら残さず快癒しているのだから。

 一日がかりの入念な検査の結果、異常は見つからなかったため、観察含め数日で退院する事となった。

「……本当に居なくなったんだな」

 帰宅途中、彼女が宿っていた地蔵を見に寄った。

 何百年と誰かを救い続けていた姿は無く、石造りの台座だけが残っていた。

 確かめるように台座を撫でれば、さらさらとした粉が手に着く。

 短い入院時に見舞いに来た爺さん達から聞いたところ、地蔵は形も残らないほど粉々に砕け散っていたそうだ。

 何度も謝罪し、すすり泣く少年の話しの要点を繋ぐのには苦労した。

 ただ、改めて目にすると、彼女が居なくなった実感が強くなる。

「ここまでして貰ったんだ。しっかり決めないとな」

 口にして落ち込みそうな気持ちを引き締める。

 あと数日で面接が始まる。

「幸せになるさ、絶対に」

 それは一種の誓いだ。

 彼女の支えでここまで来たのだ。

 面接に受かる事、それが彼女の努力に報いる事でもある。

「そろそろ帰って飯の準備をしないとな」

 もう、家には誰もいない。

 かつては気楽だった一人暮らしは、既に味気ないものであった。


          ●


 何だかんだで時が流れるのは早いもので。

「はい、はい。その案件につきましては――」

 以前とは違う職場、フレッシュな人材達の中で揉まれるようにして仕事をこなす。

 目が回るという点では変わらないが、仕事に対する充足感は比べ物にならない。

 仕事を一つ片付け、一息つく。

 と、同時にチャイムが鳴る。昼休憩の合図だ。

「先輩、一緒に食べませんか?」

 声を掛けてきたのは若い男だ。

「別に構わないけど、その先輩っての止めない? 同期でしょ?」

 何しろ出来たばかりの支社だ。

 最初の平社員といえば我ら新入社員メンバーであり、その先達と言えるのは本社から来た幹部や社員の方々である。

 だが、目の前の男を始め、他の社員からも先輩と呼ばれている。

 一番年が近い者で3歳差なのだが、年長者として扱われるのは何だかムズ痒い。

「なーに言ってるんですか。入ったのは同時でも、社会人の経験は先輩の方が上じゃないっすか」

「そうは言ってもな、俺は他の年長者と違ってそこまで先輩らしい事は出来ていないぞ? むしろ、新卒メンバーより苦労している感まであるんだが……」

 自分の他にも、年長者は居るが部署が違うため関わりは少ない。

 以前、会社が近くのホテルを貸し切って懇親会を開いた時は、年長組みで固まったものだ。

 やはり、どこの部署も新卒メンバーから、社会人の先達として慕われているそうだ。

 というか、元エリートばっかりで元平社員が俺を含め両手で数え切れてしまう数しか居ない。

 それに、以前の職と職種は違うし、そこで社会人としての経験を積めた感覚もない。

「そうっすか? でもミスやトラブルがあった時のフォローや処理の仕方は先輩が一番じゃないっすか」

「あれぐらいだったら、経験を積めばそのうち皆できるようになるさ」

 その手の事に関しては前職で短期間で白髪が目立つくらいにやったからな。

「そうかもしれないっすけど。でも、今仕事を覚えるのに必死な自分達は、先輩がフォローしてくれるから安心して仕事できるんっすよ」

「俺も仕事を覚えるのに忙しいんだけど?」

 それでも基本というかやるべき事は、前職の経験が生きたおかげで何とか習熟はできた。

 仕事に対する感情的余裕という点では、新卒メンバーより長じていると思う。

 まぁ、新卒の中でも優秀な人材が何人か居るんですぐに抜かされると思うが。

「それは……社食奢るんで許してください!」

「ジュース一本で許そう。あと、弁当だけど構わないか?」

「社内規定には食堂への持ち込みは許可されてるんで問題無いっすよ。でも先輩の弁当って手作りなんすね。コンビニとかの既製品の持ち込みって見た事ないっす」

「ああ、手作りの方が家計に優しくてな」

 料理を自発的に作るようになったのは、彼女が居なくなったあの日から。

 未だ男の料理の域から出る事は無いが、料理をする事自体は慣れてきた。

 我ながら女々しい事だが、料理する事で彼女が何を思っていたのか知りたかったからだ。

 正直、簡単な物でも毎日続けるのは大変だ。

 彼女が使いやすいようにキッチンを整理したり、安く食材を手に入れるコツを聞いていなかったら続かなかっただろう。

「へぇー、先輩ってマメっすね。彼女とか作らないんすか? 身だしなみも整ってますし先輩なら合コンとかで人気でそうっすけど」

「そういう事、考えた事は無いな」

 未だに彼女への想いがあるので。

 そっけなく返したが、含むものがある事には気付いたようだ。

「そうっすか、じゃあしょうがないっすね」

 察したであろうが、肩を竦めるだけで追求は無かった。

 その気遣いが、とてもありがたかった。


          ●


 並木道を気分良く歩く。

 鼻歌でも歌いたい気分だが、周りには人が居る。

 不審者として怪しまれかねない。

「定時上がりか。何て素晴らしい事なんだろうか」

 支社が立ち上がったばかりで忙しくはあるが、まだ定時で上がれる範囲だ。

 これから先、仕事量も増えてくるだろうが、残業代は確実に支払ってくれる。

 大企業様々だ。

「……ホント、一年前はこんな事になるって思わなかったな」

 気付けば、彼女と初めて出会った季節だ。

 短くも濃い生活の始まりは、今も鮮明に思い出せた。

「そうそう、この辺りか? 転んで怪我、を……」

 視線を向ければ地蔵が立っていた。

 今まで彼女が居た場所には新たな地蔵が立っていた。

 思わず視線が地蔵の腕に引き寄せられる。

 だが、滑らかな石の肌には何も無い。

「いや、そう簡単に見つかる筈がないか……」

 一見すると同じだが、細部が違うのは現代と昔の差か。

「そうなると、アイツの後輩って事になるのか」

 ポケットを探れば飴玉が一つ。

 社員食堂の入口に置いてあった、無料配布の物だ。

 糖分補給のために幾つか貰ったが、一つ余っていたようだ。

「――――」

 飴を供えて手を合わせる。

 他にも供えられた菓子は爺さん達の物ようだ。

 決まった物を順繰りに供えているから分かる。

「……流石に姿が見えたりはしないか」

 彼女の様に話す事が出来ないかと思ったが、そうはいかないようだ。

「もしかして、作られたばかりで自我とか無いのかもしれないな」

 真新しい印象はそのまま生まれたばかりという事だ。

 まだ赤ん坊の様なものかもしれない。

「っと、モタモタしてたら晩飯が遅くなっちまう」

 彼女の後輩への挨拶もそこそこに自宅へと歩を進める。


          ●


 歩いて数分、住宅街の中にそれは在った。

 多少、煤けた印象を感じる小さなアパート。

 二階建てのそれは、何故だか安心を感じさせる。

「あら、おかえりなさい」

 アパートの入口で人と鉢合わせる。

 艶やかな髪を後頭部で結んだ女性。

 未だ、三十代どころか二十代でも通用しそうな美貌を持つ人。

 その実、三桁年以上この世界を生きてきた元神様。

 このアパートの大家だ。

「ただいまです。買い物帰りですか?」

「はい、料理のに使う調味料を切らしてしまいましたので」

 腕には小さなエコバッグが下がっていた。

「そちらは、お仕事帰りの様ですね。お疲れ様です。その表情からして上手くいっているようで安心しました」

「あれ、そんなに分かりやすいですかね?」

 確かに、前の職場と比べると充実している実感はある。

 その辺りが自然と出てしまっているのだろう。

「はい、前のお仕事の時はあの子が来るまでは、少々心配になるぐらい表情が暗かったですから。……正直に言いますと、思い詰めて何かやらかすんじゃないかってぐらいに」

「そ、そこまでですか……」

 自身では分からなかったが、そこまで酷かったのか。

「あの子が居なくなって心配しましたが、元気そうで本当に良かったです」

 大家が言っているのは旧知の中である彼女の事だ。

 そう考えれば、大家も古くからの友人を失っているという事。

 しかし、そんな雰囲気を欠片も出さずに他人を思い遣っている。

 住居といい彼女といい、大家には頭が上がらない。

「あの、アイツの事なんで――」

「あ、そうでした。帰ってくる前に間食や外食はしていませんよね?」

 突然の言葉を遮る質問。

「え、ああはい、飴玉ぐらいです」

 意図が全く見えないが、何とか答える。

 答えは大家にとっても満足いくものだったようで、

「そうですか、それは良かった。……運動の必要はありませんね」

 後半の呟きは小さく聞こえなかった。

 ただ、背中が寒くなったのは何故か。

「ところで、話は変わるのですが、人と人の繋がりって大切だと思いません?」

 意図どころか話しも見えない。

 同意はする。

「はい、繋がりは縁になって回り巡っていきます。因果応報ともいいますしね」

「はぁ……」

「善因善果、悪因悪果。私のアパートに住んで頂いている方は、言い方は悪いですが私に利益を出しているともいえますね」

「確かにそう言えるとは思いますが……」

 何が言いたいのか分からない。

「つまり善因ですね。ならば私は元とはいえ、神の名を背負った者。善果を返さねば神霊としての立場がありません」

「えっとつまりどういう事ですか?」

 話しも意図も五里霧中で分からない。

 なので単刀直入に聞く事にする。

「つまり、コネも縁の一種って事です」

 ちょっと何を言っているのか分かりませんね。

「それでは、夕飯の準備がありますのでこれで失礼しますね」

 結局言いたい事だけ言って、大家は去っていった。


          ●


「一体どういう意味だったんだ?」

 普段はあんな一方的な言い方をする人では無かった。

 大家の言葉に首を傾げながらアパートの敷地に入る。

「お? 良い匂いが……」

 時刻は既に夕も半ばだ。

 何処かの家庭から夕飯の匂いが漂っているようだ。

「何だか懐かしいな」

 彼女と初めて出会った時を思い出す。

「あの時は、家に勝手に入ってきて料理してたんだったか」

 しみじみと思い返している内に、自室の前に着く。

 ここ数年で実家よりも住み慣れた部屋だ。

 自宅の鍵を取り出して扉に差し込む。

「こうして、鍵を開けようとしたらもう開いて……い、て」

 鍵が開いていた。

 しかし、出勤時に鍵をしっかり掛けた記憶がある。

「まさか……いや、今度こそ不審者かもしれない」

 音を立てないように扉を僅かに開ける。

 古ぼけた扉は音も立てずに開き、その経年劣化を感じさせない。

「おっ?」

 扉の隙間から漂う香り。

 それは、先ほど嗅いだ匂いと同じで。

「思い出した……あの時と同じだ」

 彼女が家にやって来た時に作っていた料理の匂いだ。

 玄関に視線を向ければ、女性物の靴が一足並ぶ。

 母と彼女が愛用しているブランドだ。

 まるで、あの日の再現だ。

 これは一体何の冗談だ。

「……嘘だろ?」

 まさか、という喜びと、夢ではないかという恐怖に胸が締め付けられる。

「思い込み過ぎて見ている幻覚とかじゃないよな?」

 彼女と再会したいとは思っているが、幻覚を見るまで思い詰めていたとでもいうのか。

「まさか、さっきの大家さんが言っていた縁やコネって……」

 普段と違う態度と理解不能な話。

 そしてあの人は“元死神”である。

「――ふぅ」

 深呼吸を一つ、意を決して扉を開けて中に入る。

「ただいま!」

 中に声を投げ掛ける。

 声が届いたのか、中から物音が聞こえてきた。

 トトトと、軽い足取りが近づいてくる。

 靴を脱がずに待っていると、足音の正体が姿を現す。

「おかえりない!」

 料理の途中なのかその身にエプロンを纏っていた。

 艶やかな髪は、料理の邪魔になると後頭部で纏めていた。

 そして腕には、忘れもしない銀の色が煌めいている。

「この度は大家さんの後押しもあり、不肖の身ながら福天へと転身する事となりました」

 夢に見る程に恋焦がれた笑顔を浮かべて彼女は言う。

「ですが、私は身代わり地蔵であった時に果たしていない契約(やくそく)が一つあります。それを果たすために今ここに居ます」

 投げ掛けるように彼女は言った。

「貴方は救われましたか?」

 何かを期待する眼差しを向けてくる。

「ああ――」

 救われたよ、という言葉を言おうとして止まる。

 その言葉は彼女が求めるものではない事は涙目が証明していた。

 確かに、その言葉は不適切だ。

 彼女にも、俺にも。

「いや、もう駄目、全然駄目」

「でしたら――」

「だって足りないんだ」

 彼女が何を言おうとしているのかは解る。

 だけど、それは俺から言うべき事だ。

 ヘタレて直接言えなかった事を、真っ直ぐに。

「転職が上手く行っても、仲の良い同期が出来ても、給料が増えても足りない」

 一年前までは知らなかった事。

「どんなに良いことがあっても、その喜びを分かち合う相手が居ないんじゃ全てが片手落ちだ」

 どんな些細な事でも、分かち合える相手が居るだけで違う。

「だから――」

 今度こそ言葉にする。

「俺と一緒になってください。貴女と一緒じゃなきゃ俺の人生は救われない」

 と、まぁ告白したが、ここは玄関だ。

 ロマンスもムードもあったもんじゃない。

 それでも顔が熱い。

 少なくとも目の前の彼女と同じぐらい真っ赤だと思う。

「……でしたら、私も貴方を救うためにこうしましょう」

 言葉と行動は同時だった。

「――ぅお!?」

 彼女の甘い香りが鼻腔を擽る。

 彼女の熱が体を包む。

 彼女が今ここに存在している事を、全身が証明する。

「貴方の人生が救われたものになるよう、私は貴方と供に在りましょう。一緒の時を刻みましょう。――もう、別たれる事はありませんよ」

 彼女の答えに、言葉ではなく行動で応えた。


          ●


「――と、いうのがお父さんとの馴れ初めでね」

「へぇー、おとうさんってヘタレたんだね」

「アパートってちかくにある、あそこのアパート?」

 改めて聞くと、自分のヘタレ具合に恥ずかしくなる。

 ましてや自分の子供達に聞かれると、余計にだ。

 ただ、口は出したほうがいいだろう。

 ソファーに座ったまま声を掛ける。

「一応アレだ、そのまま書くと先生に怒られるからな。終ったら俺か母さんに見せてくれよ、修正するから」

「うん、わかったー」

「はーい」

 小学校の授業で親を題材に使う事はあったが、こんなにファンタジーな馴れ初め話はおふざけととられかねない。

 かといって、自身の子供達に出会いを誤魔化すような恥ずかしい出来事ではない。

 が、宿題に載せるのは、無理の無い出会い方に修正した方が子供たちにとっても良いだろう。

 配られた原稿用紙に、一生懸命書き込む子供達を眺めながらお茶を啜る。

「今日もお仕事お疲れ様です」

 家事を終えた彼女が横に座る。

 感じる温もりから手が伸びてくる。

「私、今とっても幸せです」

 同じく手を伸ばして指を絡ませる。

 彼女がどこかへ行かないように。

「うん、俺もだ」

 そんなやり取りを、二対の目が捕らえている事に気付かなかった。

 知ったのは、授業参観の大衆の中での朗読だった。

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