3
それは面接を近くに控えたある日。
「あれ? 罅が……」
気分転換に参考書を買いに出かけた途中の並木道。
置かれていた地蔵の事がふと気になった。
何せ本体? 本霊? が家に居るのだ。
ある意味、毎日顔を合わせているのですっかり忘れていた。
何となく足を向けて気付いた。
宮司の爺さんが手入れをしている筈の地蔵に罅が目立っていた。
その全身に大小無数に刻まれる罅、それらは半年程前は無かったものだ。
「それはあの方の限界が近いという表れですよ」
「――ああ、おはようございます」
振り向けば、服装は違えど何時だかの様に爺さんと少年の2人が居た。
今までも何度か出会っているが、出会う度に少年の目付きが徐々に鋭くなっている気がする。
ある種、俺が恋敵ではあるだろうが、おじさんその目つきは友達怖がると思うよ?
「先にお供えをしても宜しいかの?」
場所を開け、後ろで眺める。
菓子を供え、手を合わせるまでそこまで時間は掛からない。
終った頃を見計らって声を掛ける。
「それで? それは一体どういう意味なんで?」
「ほほ、そう怖い声を出すでない。あの方の終わりが近い事はお主も知っておった事じゃろう?」
確かに知ってはいた。
だが、実際に目にすると違う。
「この罅の一つ一つが、これまで受け取った傷病の証。あの方が救った人の数とも言えましょう」
浅深の差はあれど、傷が無い部分が無い。
どれだけの人を助けたのか、その偉業に言葉も出ない。
「ただ、納めていた傷がこうして表れた程に、あの方も限界なのでしょう」
触れれば、あの滑らかな石の感触は無く、ささくれ立った感触しかない。
「一つ聞きたいんですが良いでしょうか?」
「ほっほ、構いませんぞ」
「アイツは“天に帰る”って言ってましたけど、具体的にどうなるんですか?」
気になり、本人に何度か聞いたが何だかんだとはぐらかされた事だ。
神職の爺さんならば何か知っているだろう、という考えからの問いだった。
「ふむ、それは私共の教えが知りたいという訳ではなさそうですな」
その答えは半分は予想したものだった。
「何時だか聞いた事によりますと、天に帰った後はまた救いのために生まれ変わると仰っておりましたのぅ」
「生まれ変わる……輪廻転生?」
「厳密には違いますが、それが近いかと。記憶も何もかもを捨て、また一から人々を救う。そうして弥勒様が現れるまで衆生救済を続ける、それがあの方の存在意義なのでしょう」
「それじゃあまるで――っ」
咄嗟に開きかけた口を紡ぐ。
今、自分は何を言おうとした。
確かに、彼女の意思を消し去ってまで人々を救い続ける。
そんな機械じみた処遇に思うところはある。
しかし、そう非難するのはこれまで救われた人々や彼女の意思を無視しているのではないか。
それに現在進行形で助けられている自分に言う資格は無い。
爺さんも言いたい事に気付いたようだが、目を細めて笑うのみだ。
「ほっほ、確かにあの方が積み重ねてきた救いは軽いものではありません。が、貴方の想いもまたあの方にとっては大事ではあるでしょう」
その言葉は何かを願うかのように。
「貴方との生活が充実している事は分霊を通して聞いています。ですが私はあれ程、楽しそうに話す姿を見た事はそうそうありませんでしてな。……あの方をどうか、よろしく頼みますぞ」
頭を下げられても困る。
彼女が家に来たのは、俺を救うためだからだ。
ただでさえ、色々助けてもらっているのにこれ以上何を望むというのだ。
「……おっさん」
俺はまだ二十台半ばなんだが……、子供から見れば十分おっさんか。
少年は俺を睨みながらそう言った。
「姉ちゃんの事、好きなのか?」
少年が指すのは、今家で掃除しているであろう彼女の事か。
「それは……」
その問いへの答えは喉元で止まる。
はいといいえ、どちらか答えるだけの事が出来なかった。
「なにも言わないんだったら、俺はやるから!」
答えない俺に業を煮やしたのか、少年は何かを決めた。
「ジャマすんなよ!」
そう言い残して少年は走り去った。
「孫が済みませんの。ですが、今回ばかりは見逃してもらえんでしょうか? 年を重ね、自然と吹っ切れるのが通例ではあれ、今回ばかりは時間も無い。今後の為にも今ケジメを着けさせてやりたいのです」
「いや、俺は別に構わないですが……」
爺さんの話からして、少年は彼女に告白にでもするのだろう。
少年の恋路を邪魔する理由は無い。
ただ、不快とも何とも言えないモヤが胸中に浮かぶ。
「ありがとうございます。では、振られる孫を慰めるために好物を用意せねばならなくなったので、これにて失礼させていただきますぞ」
「あ、はい。教えていただきありがとうございました」
近くのスーパーへ買い物に向かう爺さんを見送る。
「アイツの事が好き、か……」
少年の言った事は間違いではない。
というか、あんな美人で気立ての良い女性と同棲しておいて好意の一つも抱かない人間はいないだろう。
だけど、少年に問われるまで、その気持ちが恋であると気付くには自身の経験値が不足していた。
「この年になって初めての色恋とか……遅咲きの春にしては相手が悪すぎるだろ」
少なくとも今生の別れが確定している相手だ。
しかも、相手は終わりを望んでいる。
自身の思いを伝えるのは彼女の意思に反する事ではないのか。
「はぁ、人生上手く行かないもんだな」
呟きは、青空に溶けた。
●
時は夕暮れ。
彼女が用意した夕食に舌鼓を打ちながら会話に花を咲かせる。
「――ということがありまして……」
話の内容は、一人の少年の恋愛話。
あの後、彼女を呼び出して告白したらしい。
結果は、少年が玉砕したとだけ。
「あの子は他人を思いやれる良い子なので、きっと素敵な相手に巡り合えると――って、聞いています?」
「ん、ああ。料理が美味くてな」
少し考え事に集中してしまったようだ。
自身が少年と同じように告白するシュミレーションをするが、結果は芳しくない。
「むぅ、それなら嬉しいのですが。――それでですね、あの、その……」
視線を彷徨わせながら、何かを言い淀む。
何かを求めるような視線を時折向けてくるが、何を示唆しているのか分からない。
何も言えず、暫く沈黙が続く。
「……いえ、やっぱり何でもありません。――こういうのは狡いですよね」
後半の呟きは小さく、聞き取れなかった。
ただ、落ち込んだのだけは分かる。
「あ、ちょっと待ってろ」
「え? はい」
夕食後に渡そうと思ったが、予定変更だ。
「これ、いままでのお礼も兼ねてのプレゼント」
取り出すのは包装に包まれた小箱。
この生活の終わりが近いと知って、今日急いで買った物だ。
それなりに高価な品ではあったが、惜しくは無かった。
「……これ、開けても?」
真剣な瞳で問いかけてくる。
その有無をも言わせぬ迫力に頷く事しか出来ない。
壊れ物を扱うように、包装を解いてゆく。
遂に、姿を見せた小箱をおそるおそる開く。
「これは」
中に納まるのは銀の腕時計。
シンプルな装飾のみのそれは、女性向けとして宣伝されていたものだ。
他にもお洒落なのは有ったが、彼女に合う物として考えた結果、この時計を選んだ。
驚きで目を見開いたまま固まる彼女に、デザインを外したかと戦々恐々する。
「……っ!!」
が、そんな心配は、満面の笑みを浮かべる彼女の姿からして杞憂であったと安堵する。
「ほ、本当に頂いても良いんですか!?」
「お、おう。その為に買ってきたんだからな」
彼女のあまりの喜び様にこちらが逆に恥ずかしくなってきた。
腕に着けては外し、時計を眺める彼女。
「こんな良いものを送ってくれて嬉しいです。ありがとうございます!」
これだけ喜んでくれるなら買った甲斐があったというものだ。
「あの、時計を選んだ意味って――っと、電話ですね」
そんな彼女の言葉を遮るように電話が鳴る。
両親から念のためと設置された固定電話だ。
掛かってくる電話は両親と友人、あと彼女の関係で爺さんぐらいのものだが。
「はい、もしもし……あ、宮司さんですか、いつもお世話になっています」
自然に電話に出る彼女。
相手は爺さんからのようだ。
ただ、受話器から漏れ聞こえる声からしてただ事では無さそうだ。
「――っ、あの子が!? はい、はい分かりました。いえ、私の所為でもありますから」
そう答えて電話を切る。
その顔は蒼白だった。
「何かあったのか?」
「あの子が――」
事態を理解したと同時に、体は動き出していた。
●
「はぁ、はぁ」
木々の間を駆け抜ける。
ただの林ならともかく、ちょっとした山であるため斜面がキツイ。
運動は得意ではないが、やるしかない。
「くっ、見つからないな」
ただでさえ日も落ちて真っ暗な木々の中。
小さなライトを頼りに掛ける。
「無事だと良いが……」
探すのは少年。
待てど暮らせど帰ってこない少年に爺さんが探しに出かけた。
その結果、彼女に振られたショックからか、この山に入っていったと目撃情報があった。
山と言ってもある程度は整地され、子供達がよく遊びに入るし地主の道場兼住居が在る。
ただ、時間が悪い。
闇夜で足場も視界も悪い中、足を滑らせて動けなくなってもおかしくは無い。
そして、何度も遊びに来ているはずの少年が姿を現さない時点で、嫌な予感がする。
「入口と違ってこの辺は荒れ放題だな」
今、居るのは山の奥。
整備も碌に行き届いておらず、その地形は人が歩くものではない。
本来はロープで遮られ、立ち入り禁止とされている場所だが、整備された場所は既に探索済みだ。
残る可能性は此処だけだった。
「――っ」
ふと、聞こえた音。
すわ幻聴かと思いかねない音は、確かにあった。
「っ、そこか!」
ライトを向ければ少年は居た。
崖の様な斜面の中腹、突き出るように存在する地面。
地面は未だ遠いそこに少年は居た。
「大丈夫か!?」
途中に生える草や木の根を足場に少年の下へ近づく。
「……おっさん」
「足をやったのか……骨折じゃなくて捻挫か」
患部は一目で分かるほど腫れ上がっていた。
急斜面を滑り落ちた時にやったのだろう。
携帯を取り出して電話を掛ける。
「もしもし――ああ、見つけたよ。足を捻挫しているみたいで一人じゃ動けないみたいだ。うん、今から戻るわ」
心配する彼女達に連絡を入れた。
後は帰るだけだ。
「立てるか? 無理だったら背負うぞ」
声を掛けるが少年は俯いたまま返事をしない。
「ん? どうした?」
頭でも打っていたのかと心配になった時、彼は口を開く。
「おっさんはそれでいいのか?」
いきなりの端的な問い、だがそれが何を指すのかは分かった。
「……良くはないな。けど、結末は変えられないからな」
何か言いたげな少年の目を見据えて言葉を続ける。
「だから、俺は最期までこの気持ちを言わない。言える筈もない」
それが俺の選んだ答え。
「だけど、言葉にしないだけで気持ちは送ったよ。――アイツが気付いてくれたかどうかは知らないけどな」
そんな選択を選べたのは目の前の少年のおかげ。
「ありがとうな。あの時ああ言ってくれたから、俺は決める事ができた。アイツが天に帰るその時まで、受けた恩を返すぐらいはできそうだ」
「……わかんねぇ、わかんねぇよ!」
叫ぶ少年の頭を撫でる。
「まぁ、ヘタレた選択だってのは自分でも分かるさ。ただ、アイツとの約束を成し遂げてもいないのに言う事はできないからな」
それは彼女が俺の元に来た切っ掛け。
俺が願って、彼女が応えた契約。
「約束?」
笑って少年に答える。
「幸せになるって事かな」
ぼやかしたが、概ね変わらないだろう。
「さて、帰ろうか。腹も減ったろ? 爺さんが好物を用意して待ってるって言ってたぞ」
黙って頷く少年を担ごうとしゃがむ。
だからか。
何かが崩れる音に気付いたのは。
「……っ」
咄嗟に少年を抱きしめたのは無意識だった。
だが、それで正解だった。
「足場がっ!?」
それはどちらの叫びだったか。
突き出た足場は子供はともかく、大人を含めて支えるのは厳しかったようだ。
「――――」
視界が回る。
高さにして背丈の倍は下らない距離を転がり落ちる。
途中の木々に体を打ち据えられる。
時間にして数秒。
気がつけば地面に横たわっていた。
「おっさん! 大丈夫かおっさん!!」
慌てる少年の声が聞こえる。
どうやら大きな怪我は無さそうだ。
「頭から血が出てるぞ!」
ああ、おかげで目が開けられんわ。
「で、電、話を……だれ、かに」
ポケットに入れた携帯電話を取り出そうとするが手が動かん。
というか、変な方向に折れてるわ。
「携帯っ! これかおっさん!」
ポケットから携帯電話が引き抜かれる。
少なくともこの付近は電波が届いている。
誰かに電話を掛ければ、GPS機能でこの位置もわかるだろう。
「…………」
助けは来る。
そう確信した瞬間、意識は暗転した。
「――っ!? おっさん! しっかりしろ! おっさん!!」
少年の声が遠くに消えた。
●
けたたましいサイレンの音がする。
「患――の――態は!?」
「頭部――、内――裂――!」
「しっか――い――を持って!!」
ぼんやりとする意識の中、どこかに運ばれている事だけは分かった。
ただ、異常に眠い。
体の痛みなんてどうでもいい。
ただただ眠かった。
「…………」
眠気に任せて瞼を閉じれば闇が広がる。
音も感触も何も無い闇だ。
「――――」
何かに呼ばれた気がして意識を向ける。
見れば何も無い闇の中、淡い光が在った。
「――――」
また、聞こえる。
懐かしいような、恐ろしいような、無視する事のできない何かが。
「――――」
言語にすらなっていないそれは、俺を呼んでいた。
気が付けば光が近くなっていた。
いや、俺が近づいているのか。
「いけません」
今度はハッキリと聞こえた。
それは目の前の光からではない。
「良かった、間に合って」
振り返れば、安堵を浮かべる彼女が居た。
「貴方はまだ逝くべき人ではありません」
彼女が伸ばす手に引き寄せられる。
「というより、私はまだ貴方を救ってはいません」
流れるような動作で彼女の胸に抱かれる。
「救うまでは付き添います――といきたいところですが、ここが限界のようです」
淡い笑顔を浮かべる彼女。
だが、その顔に罅が入る。
「ごめんなさい。ここで消える事になっても貴方の怪我は全て私が請け負います。面接も近いですしね」
反射的に叫ぶ、待ってくれ、と。
受けた恩をまだ少しも返せていないのだ。
ただ、その声は形にならず、彼女には届かない。
彼女はただ笑みを浮かべるのみだ。
「中途半端な結果になってしまい申し訳ありません。ですが、貴方が苦しむ姿は見たくないんです」
罅は徐々に彼女を侵す。
見れば脚の半ばまでが砕け散っていた。
「あれだけ練習したんです、面接はきっと上手くいきます。私のお墨付きですよ」
何とか言葉を伝えようと叫ぶ。
しかし、この体はいう事を聞かない。
「それと、この腕時計を贈っていただいてありがとうございます。凄い嬉しかったです」
左腕を持ち上げる。
罅に侵され、ボロボロになった腕に銀の色が光っていた。
「時計を送る意味。知っていたんですか?」
知っていた。
それは言葉にする事の出来ない俺が、遠回しに送る言葉だった。
「ふふ、気になりますが答えは謎のままにしましょう。――さて、私という存在はここで消えます。ですが、少し経てば此処ではない何処かで、新しい私が生まれるのでしょう。ですが、この時計だけは、私であるという証明は意地でも残します。ですから――」
彼女の体が徐々に砕けていく。
破砕し、飛散する欠片は光へと吸い込まれている。
「――新しい私と出会う事があるのなら、その時はまたよろしくお願いします」
砕け散る体を抑える事ができない。
飛び散る欠片をとどめる事すらできない。
彼女への別れの言葉が届かない。
「まさか、最後の最後に個人に肩入れしてしまうとは思いませんでした。……苦しむ人々を救う六道能化としては失格でしょうが、貴方を慕う一人の存在として貴方を必ず助けます」
彼女の体は既に半分も残ってはいない。
対して自身の体に活力が戻るのを感じる。
もう、あの光からの呼び声は聞こえない。
「もし叶うのならば貴方と同じ時を刻みたかった」
それはぼそりと呟くような言葉。
ともすれば聞き逃しかねないそれは、しっかりのこの耳に届いた。
だからこそ、伝えなくては。
「――ぜっ」
自分の気持ちを。
「絶対! 見つけるから!」
二度と会えなくなる前に。
「生まれ変わっても! 必ず!」
搾り出した言葉は形となった。
「――っ!! はいっ!」
罅に割れながらも浮かべた満面の笑み。
それが、最後に見た彼女の姿だった。




