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「はぁ……」
吐きたくもないのに、ため息が出る。
何故なら、現在の時刻は深夜。
一日で終る筈の仕事が泊りがけの事案になるのはどういうことか。
不幸中の幸いなのは明日が数少ない休日という事か。
眠気に閉じそうな瞼を堪え、人っ子一人居ない並木道を歩く。
「くっそぉ、あのハゲ上司め……。会議でカツラが取れちまえばいいんだ」
人気が無いというのは良い。
呪詛をどれだけ吐いても聞かれる心配は無い。
つまり、不審者扱いされる事はない。
「無駄に仕事増やしやがって……」
不満なんて幾らでもある。
部下に経験を積ませるという口実で自身の仕事を押し付け減らすのは構わない。
いや、本当は良くないが。
だが、押し付けられた仕事を何とかこなせる様になった頃、自身のおかげで成長したと更に余計な仕事を増やすのは止めて欲しい。
一つ例を挙げるとして、仕事に関係のある事ならともかく、いつの間にか用意していた花壇の水遣りと整備は必要なのか?
環境整備だと言い張っているが、育てている花の花言葉や管理方法を覚え、次の季節に植える花を考えるのは必要なのか?
管理担当者として突然任命されたが、それは本当に必要なのか?
そんな疑問を口にしたいが、相手は会社の古株であり立場もある人物だ。
下手に機嫌を損なえば、今後の負担がかなり重くなるかもしれない。
ただ“上がやっているから”というのは大事ではあるだろうが、それを免罪符にするのは違うと思う。
「……転職か」
何時だが退職した先輩を思い出す。
上司のお気に入りであったためか、退職するその日まで上司からの絡みが多かった。
結婚を機に退職したが、在職中に何度もお世話になった縁もあり、今も交流はある。
退職してから暫くして会った先輩は、酷く眩しく見えた。
業種も何もかもが違う仕事に就いていた先輩は、苦労を語りながらも楽しそうであった。
「もうすぐ二十代も半ばだし……。思い切るには早いほうが良いよな」
疲労と眠気が溜まった体で、思考に意識を集中すればどうなるか。
「そういえばこの周辺で募集している仕事って――いっ!?」
アスファルトにできた僅かな亀裂。
普段ならよろめくだけ済む筈の躓きだが、疲労困憊の現状では危険な罠であった。
疲れに鈍った頭は働かず、結果顔面から倒れこむ事となった。
「痛った――っ」
頬と手の平に感じる熱にも似た痛み。
運の悪い事に擦り剥いてしまったようだ。
「何でこんな目に……」
理不尽にも感じる仕事を終えたと思ったらこの仕打ち。
こういうのを泣き面に蜂というのだろうか。
いい大人であるが泣きそうだ。
「ああもう最悪だ」
とりあえず立とうと腕を動かすと何かに当たった。
感触からしてザラザラした冷たいそれは重量があるのか、少し力を入れたぐらいじゃ微動だにしない。
これ幸いと支えにして立ち上がり、その正体に気付いた。
「お地蔵さん……か?」
それは幾つも並ぶ木々に隠れるように存在していた。
誰かが管理しているのか、汚れてはおらず、周囲も整っている。
この付近に引っ越したときも気付いていたが、その存在感の薄さに並木道の背景となっていた。
「……ばあちゃんが言ってたな。“お地蔵様は皆の辛い事を肩代わりして救ってくれる”って」
幼い頃はへぇー凄いなー、程度の感想であったが、今思う事は違う。
「だったら、俺を助けてくれよ……。少なくともこの怪我を肩代わりしてみろよ!」
痛みを感じる手をお地蔵さんの額に押し付ける。
後から思えば、それは不満の八つ当たりだ。
物言わぬお地蔵さんには意味が無いし恥ずべき行為という事は分かっているが、そうしないとやっていられない。
「あーくそっ、帰って寝よう」
結局、不満は解消されるどころか余計に溜まっただけだった。
その後は説明するまでも無い。
部屋を借りたとあるアパートに帰り、服も着替えぬまま布団に倒れこんで寝た。
だからだろう、異変に気付いたのは、泥の様に眠った次の日だった。
「……怪我が治ってる?」
●
太陽が天高く昇った頃、俺はあのお地蔵さんの前に居た。
今日は世間的にも休日なためか、並木道を歩く者は多い。
そんな中、お地蔵さんの前に立つ男は若干不審者であるが、許してくれ。
「血は……残っているな」
手が入り、小奇麗なお地蔵さんの額には薄くはあるが一筋の赤が塗られていた。
記憶は疲労でおぼろげだが、確実に怪我を当てたところだ。
「やっぱり怪我はしてたんだよな……」
今は身奇麗だが、昨日の服や寝起き時の肌には血が残っていた。
しかし、出血箇所であろう部分は傷など無かったかのように綺麗だった。
あの焼けるような痛みも幻か何かの様にしか思えなかった。
この証拠を見つけるまでは。
「……昨夜は済まなかったな」
近くの公園で濡らしたハンカチで血の後を拭う。
念のために用意して正解だった。
「あれ? 血ってこんな簡単に落ちたか?」
時間が経っているにも関わらず血痕は短時間で拭う事が出来た。
元々付着量が少ないとはいえ不思議だ。
昨夜の怪我といい、不思議なお地蔵さんだ。
「おや? そこのお若いの、どうかされましたかな?」
お地蔵さんの前で少年を連れた爺さんが立っていた。
少年はともかく、爺さんは和服を身に纏っていた。
手に持つビニール袋からして買い物帰りか。
突然の事に、どう答えようか返答に詰まっていると。
「ふむ、そちらの地蔵様が気になるご様子。お時間を頂けるならば由来をご説明致しますよ。こうみえて私は近くの神社に勤めさせて頂いている者ですから」
「えっ、いや」
神職の人ではあるようだが、奇妙な体験を話すのは何だか憚れた。
何とかその場を離れようと頭を回す。
が、爺さんは何かに気付いたかのようにまじまじと俺を見て言った。
「……そうですか。貴方が昨夜怪我された方なのですか。不思議な体験でしたでしょう」
「えぅ!?」
変な声が出た。
昨夜は誰も居なかった筈。
口ぶりから察するに、怪我した事も、その後の奇妙な体験についても知っている。
呆然とする俺に爺さんは、
「体験した事が気になるのであれば、どうでしょう、お茶でも飲みながらお話でも如何ですか?」
普段の俺だったら馬鹿らしい、と無視していただろう。
でも、今は経験もあり、好奇心が勝った。
「ほっほ。なら申し訳ないが少しばかりのお待ちを。日課のお供えをさせていただきたい」
●
招かれたのは並木道から歩いて数分の神社。
その敷地内の社務所兼住居だ。
着いた途端、少年は俺を睨んだかと思えば奥に引っ込んでしまった。
嫌われるような覚えは……お地蔵さんに血を着けたな。
爺さんも怪我した事は知っているみたいだし、血を着けた事もばれていると考えたほうが良いか。
「コラ! その態度は何だ! ――申し訳ない。あやつは後ほど叱っておきますので」
「あー、いえいえ。お地蔵さんを汚した俺も悪いですから」
罪悪感からか、擁護しようとしたが、爺さんは首を振って否定する。
「いえ、今のはあやつのただの嫉妬。惚れた腫れたの延長に過ぎません」
「え? えー?」
爺さんの言葉を理解できなかった。
言葉のまま受け取るとするなら、少年の意中の相手に俺が関わったという事。
うん、思い当たりは全く無い。
疑問が一つ生まれたところで、居間に通された。
数分待つと、茶と菓子を持って爺さんがやって来た。
「さて、どこから話したものですかな」
意外に美味しいお茶に舌鼓を打ちながら、爺さんが語るのを待つ。
「そうですな。ではあの地蔵様について話すとしましょう」
菓子の羊羹が冷えていて美味い。
これ確か結構お高いヤツだ。
「あの地蔵様には道祖神としての役割の他にもう一つ役割を持っています。それは“苦難の身代わり”つまりは菩薩様の行の一つ、“代受苦”を体現したものです」
「“身代わり”……」
まさか、という思いが浮かぶ。
「はい、そしてそれが貴方の怪我が治った理由。正確には治ったのではなく、地蔵様が代わりに請け負ったのです」
「そんなオカルトみたいな事が……あっ」
否定しようとして、ハッと思い出す。
自身の傷が消えた事を。
そんな俺の様子を爺さんはただ微笑んで見ていた。
「確かに、この科学真っ盛りな世において貴方が体験した事は“ありえない”と断言されるでしょう。ですが、偶には奇跡とまでは言いませんが、このような“手助け”があっても良いではないでしょうか」
意味深な爺さんの言葉にただ聞いているしかない。
「それと、傷を渡した事を気にしないでいただきたい。“それ”があの地蔵様の役割であり成すべき事なのですから」
「……そうですか」
完全に納得とはいかないが、謎の一つは解けた。
「あ、じゃあもう一つ質問が。俺が怪我した事はどうやって知ったんだ?」
どう考えてもあの夜、自分以外に誰が居たとは考え難い。
例え離れた場所に居たとしても、転んで怪我をしたかどうかなんて判別がつくものか。
そんな意図を籠めた質問だった。
爺さんは笑みを深くして言った。
「教えてもらったのですよ」
誰にだ。
「今言ってしまうと、オカルトと切り捨てかねませんし。そうですな、昨夜の件で貴方とその方との“縁”は結ばれました。縁が深くなれば自ずと知る事になるでしょう」
既に言っている事がオカルト染みているんだが。
「ふふふふ」
笑みで誤魔化すんじゃない。
結局その後は、お地蔵さんが置かれた由来や豆知識などを聞いて帰った。
●
家に帰るその途中。
日も傾いたせいか、赤く照らされたお地蔵さんの前に俺は居た。
先ほどは気付かなかったが、よくみればお地蔵さんの頬に小さな擦過痕があった。
触れればその部分だけ肌触りが違う。
その部分は、昨夜自分が怪我をと同じ。
「本当に怪我を肩代わりしてくれたんだな」
ポケットからあるものを取り出す。
取り出すのは先ほどコンビニで買った物。
「お礼というには粗末なもんで悪いが、誰かに持っていかれるのもアレなんでな」
それは子供の小遣いでも買える菓子。
お地蔵さんの前に供えて手を合わせる。
「ありがとな」
伝えるのは感謝の念。
小さい怪我ではあったが、助けてもらった事に変わりはない。
「さぁて、帰るとするか。……あー、明日から仕事かぁ。行きたくねぇな」
明日を思うと憂鬱になる。
それでも、やらなければ生きていくのは難しい。
気がつけば、自身の住まうアパートの前。
近所の誰かが料理をしているのか腹に響く香りが鼻腔を擽る。
「晩飯か……確か冷凍食品がまだあったな」
料理なんてここ暫くしたことはない。
調理器具はあれど、仕事の疲れからか近年はキッチンの下に死蔵したままだ。
今日は休日とはいえ、動く気にはなれなかった。
少々の気怠さにげんなりしながら自分の居室に辿りつく。
「えーっと鍵、鍵っと」
ポケットに入れていた鍵を玄関の鍵穴に差し込んで気付いた。
「鍵が開いてる?」
おかしい。
出かける前に鍵を掛けた覚えがある。
鍵を開ける事が可能な人物で真っ先に思い浮かべるのはこのアパートの大家だが、あの人はよっぽどの理由がない限り住人に無断で立ち入るような事はしない。
他に心当たりがあるとすれば、有事の際にと実家に合鍵を渡した事か。
しかし、入居時の顔合わせ以来、年賀状やメールでのやり取りしかしていない。
来たとしても今更何事なのか。
「親父? いや、母さんか?」
何事かと扉を僅かに開けて確認、すると部屋の中から香ばしい匂いが鼻を突く。
アパート傍で嗅いだ匂いと同じだ。
万が一の不審者なら人の家でのんびり料理をする事もない筈だ。
そして、父は料理人ではない。
そうなると母親が料理不精の息子のために夕飯でも作っているのだろう。
見れば玄関に女性物の靴が一足並んでいた。
母親が愛用するブランドの靴だ。
……ああ、母さんか。
そう思い至って警戒を解く。
玄関で靴を脱ぎながら部屋の中へ声を掛ける。
「母さん? 家で何かあったのかー?」
声が届いたのか、トトトと足音が近寄るのが聞こえる。
「何? 親父と喧嘩でもしたの?」
脱いだ靴を揃えて振り向けば、
「おかえりなさい」
料理の途中なのかその身にエプロンを纏い、その手にはお玉を持っていた。
黒の長い髪は料理の邪魔になるのか後頭部で纏めている。
「ごめんなさい、晩御飯はもう少し掛かりますので先にお風呂は如何ですか? あ、シャンプーが切れていましたので新しく補充してあります」
優しげに整った顔は申し訳無さそうにしていた。
「……誰?」
そこには見知らぬ美女が居た。




