椿色の季節に
季節が変わるのはあっという間でついこの間まで色づいていた葉もとっくに落ちた。自宅の前を流れる小川が凍る時もあった。
今は冬。具体的に言うなら、卒業式まであと一ヶ月の2月。節分はとっくに通りすぎた。それでもまだ寒くて寒くて凍えそう。
長く、腰ほどまである下ろした髪を弄りながら、空を見上げる。生憎と星は見えず、見えるのは飛行機の光りのみ。月も出ておらず、自然の明るさは失われている。
それでも明るいのは電柱、家々の照明。各々の家の温もりがあるから。
振り向けば、母が用意してくれている夕飯があって。私が来るのを待っている母がいる。
すぐそこに温もりがある。それでも、それに手を伸ばすことには抵抗がある。
だって、ずっと拒絶していたから。中学生に多い思春期故の反抗のようなものだったのかもしれない。誰も認めてくれない、なんて言うひねくれた嫉妬からだったかもしれない。もう切っ掛けなんてわからない。いや、関係ない。
もう、元の仲の良い家族には戻れないのかもしれない。
それでもそんな私を認めてくれる人はいた。好きだと言ってくれる人がいた。唯一の救いだった。こんな私でも生きてていいんだと思えた。大好きなんだ。彼のこと。
母には悪いとは思ってはいた。でも、勇気がなかった。たった一言伝える勇気が。
だからこそ、私は母の温もりに手を伸ばすことが出来なかった。しちゃいけないと思った。それでも、結局はご飯を食べないと死んでしまう。死んだら彼は悲しむ。だから、リビングに降りる。
ごめんなさい。お母さん。親不孝者ですいません。胸の内でそっと謝る。意味なんて無いのに。
「空。元気ないわね? どうしたの?」
「別に」
母の心配するような言葉にも踏み出すことはできなくて。素っ気ない言葉をただ返した。
翌朝。私の彼氏こと、空野大輔が家の前で待ってくれていた。
私たちは家が近く、クラスが同じ。しかし、小学校は別だった。だからこそ、互いの知らないことにモヤモヤすることもあった。だけど、それも乗り越えた。
でも、それが出来たのは大輔がいたから。私一人じゃ何も出来ない。
「おはよ」
「おはよう!」
いつも通りの挨拶に始まり、いつも通りの通学路を通り、いつも通り学校に着く。いつも通りの日常。いつも通りに授業を受けて、いつも通りに帰る。
そうなるはずだった。そうなって欲しかった。誰がこんな未来を望んだと言うのだろうか。運命はいたずらだ。
始めに先生に呼び出された。昼休みのことだ。職員室に来てみれば、やたらと真剣な顔をした先生がいた。
「高月さん」
高月は私の苗字。空が下の名前。呼んだのは岸上先生と言う女の人。老齢で7年後には定年退職らしい。一番話しやすい先生。一応担任。
「はい」
いくら、誰にでも素っ気ない態度をとる私でも、先生の前でくらいは真面目にする。俗に言う猫かぶりというやつかもしれない。
「本当に伝えにくいことなんだけど」
早速本題に入ったは良いけれど、そこで言葉を区切った先生。焦れったい。
「お母さんが交通事故で、意識不明の重態なんですって」
「え、え?」
本当に先生が何を言っているのかわからなかった。わかりたくなかった。
「お母さんがね……あなたが呼び掛ければ意識を取り戻すかもしれないの」
お母さんが事故にあった。意識不明。私が呼び掛ければ、もしかしたら……?
そんな言葉を反芻していて、先生の話しは半分も聞いてなかった。先生が病院まで送ってくれるというので、荷物も持たずに向かった。
何も考えられなかった。実感がわかないからかもしれない。
市内有数の病院の三階。そこに母はいた。眠っているようだ、とはよく言ったものだ。いや、まだ死んでないから、眠っているのが正しい表現なのかもしれない。
そんなことをただ、とりとめもなく考えた。包帯を体中に巻かれ、左目は失明しているだろうと医師は言う。
「お、か、さん? お母、さん。お母さん。お母さん!」
医師の言葉も看護婦の制止も聞かずに母のベッドにすがり付く。それでも目を開けてくれなくて。いつもは特に信じていない神様に今だけは願った。
――お母さんを助けてください。私はなんでもしますから。
もう一度笑ってほしい。我が儘だって、怒られたって構わないから。最後に怒られたのはいつだったかもう忘れた。
そんな願いも虚しく、母はその日は目を覚まさなかった。
「空」
「煩い」
いつもなら、呼んでくれるだけで嬉しい彼の声も今は聞きたくない。学校にだって、来たくなかった。でも、大輔が心配するから。
ううん。そんなんじゃない。本当はなによりも、母を思い出す家に居たくなかった。
それに、いつも通りに過ごしていたら、昨日の事は夢だったんじゃないかって思える。 只の現実逃避だとはわかっているが。
母は、買い物途中だったんだって。私の好物のカツカレーを作るために。事故にあったその時に持っていた篭の中身がその事を物語っていた。
カツ、人参、ジャガイモ、そして、カレールー。その材料でカツカレーを作らず何を作ると言うのか。
星形に切られたゆで卵が冷蔵庫に入っていた。副菜として食べる予定だったのだと思う。
私は一人で、それを食べた。そして、晩御飯はレトルトカレー。そして、おいてあったキャベツを千切りにして、サラダにした。
一人で囲む食卓は寂しかった。味がしなかった。母はいつもこんな気持ちで私を待ってくれていた。
私は知らなかった。知ろうとしなかった。目を背けていた。逃げていた、だけなのだ。
母は車を持っている。なのに、その日は歩いて商店街に向かっていた。私は商店街の揚げ物屋のカツが好きだから。
母は馬鹿だ。そのカツを守るようにして轢かれたんだそうだ。車を運転していた人は無事だった。原因はながらスマホだそう。その人は自首したんだって。興味もない。知らない。どうでもいい。
「何があったの?」
「煩い!」
それでも、諦めずに私を呼ぶ声にとうとう堪忍袋の緒が切れた。
ただの八つ当たりだってことは知っていた。それでも止められなかった。
「煩い煩い煩い! 大輔には関係ない! ほっといてよ! 馬鹿!」
私は教室を飛び出した。休み時間だったから、他の人の視線が痛かった。そんなことも気にならなかった。ただ、一人で居たかった。
いつの間にか、学校を出ていた。気がつけば、自宅の前を流れる小川の上流の方を歩いていた。
そういえば、この近くには特殊な制度で有名な私立中がある。大輔の友達がそこに通っている。私立中からは、体育でもしているのか、賑やかな声が聞こえた。
先生には、後で怒られよう。大輔にもきちんと謝ろう。歩いて落ち着いたのか、そんなことを考えられるようになった。
教室を飛び出す直前、大輔の顔が一瞬見えた。泣きそうだった。困った顔をしていた。悪いことをしてしまった。
大輔には関係ない。そんなことを言った。本当は知って欲しかった。でも、知らせてどうするのだと、もう一人の私が聞いた。私だって、知らない。
挙げ句の果てに出た言葉があれだ。自分の醜態に呆れて言葉もでない。
もはや歩く気力もなくなり、その場に座り込んだ。セーラー服が汚れることも、冬場の川辺は寒いことも気にしなかった。
自分にとって、母は一番近くにいた存在だった。父はいない。生まれて間もなくして亡くなった。母からは父と似ていると言われた。どこがなのかわからなかった。なぜなら母は父の写真を見せてくれることはなかったから。
もし、母が亡くなったら二つ隣の町に住む祖父の家に移ることになるだろう。祖母が、昨日電話をくれた。
もし、そうなったならば、学校も転校することになるだろう。祖父の家からは今通う、小春崎中は遠い。
まだそうなると決まったわけじゃないけれど。でも、あの大怪我だ。祖父の家に行くことには変わりはないと思う。母が元気になるまでは。
「お母さん……」
例えその温もりを拒絶していたって。そのテンションに若干引いていたって。それでも、あの人は私のお母さんなんだ。
無事を願うの資格はないのかもしれない。でも、私はあの人の娘だから。だから、祈らせてよ。
「早く、良くなってね。目を覚ましてね。死んだりしないでね」
そっと、目を閉じて両手を胸の前で組む。何度でも、いつまでも祈る。
――何も出来ない無力さが辛かった。でも、あのお母さんなら、きっと、良くなるって信じてたんだ。だって、私のお母さんだもの。
だけど、運命は時に残酷だ。お母さんは死んでしまったのだから。
一度、誰もいない学校に戻った後に病院で聞いた。お母さんは一度目を覚ましたんだって。だけど、すぐに力尽きて死んでしまった。元々、意識がない状態でも、生きているのが不思議だと言われていた。
例えどれだけ医療が発展しても、お母さんがもう生き返ることもない。わかっている。わかっているんだ。イヤだ。認めたくない。しかしながら、物言わぬお母さんの体は冷たくて。そして、泣きそうなほど綺麗だった。
でも、涙は零れなかった。
「お母様が最後に貴女へと伝えて欲しいと言う言葉があるのですが」
何処か懐かしい声がする。看護師さんのようだ。全く知らない人だった。
「お母さんが……?」
「はい」
一度目を覚ました時の事だろうか。わざわざ私に伝えるような言葉を残すなんて。親不孝者の私に。そんな言葉を残すより、生きていて欲しかった。
「空へ。貴女は空太郎さんと私の最初で最後の子。私の美空という名前の空と、空太郎さんの空をとって空という名前にしたのはわかると思うのだけど、もう一つ、意味があるの。空はね。どこでも、いつでも変わらずに広がっているものよ。だから、雨の日も、風の日も、嵐の日も、朝も昼も夜も、表情を変えつつもずっとそこにある確かなものなのよ。だから、空の名前を持つ私たちは、変わらない絆で結ばれている。なんて願掛けをしたのよ。ノリで決めたなんて言わないでね」
一気にまくし立てた看護師さんは優しく微笑んだ。私は自分の名前の由来を初めて聞いた。お父さんの名前も初めて聞いた。家族のことなのに知らないことばかりだった。
今の空は夕焼けに染まり、もうすぐ日が落ちる。窓から見える椿が橙色に染まる。
「ねえ。私は空にとって、いいお母さんで居られたかな? あ、そうだ。空の結婚式出たかったな。孫も見たかったかな」
勿論良いお母さんだったよ。私には勿体無いくらい。当たり前だよ。私のお母さんなんだから。結婚式に出て欲しかったし、孫ともあって欲しかった。もう少し、長く生きてくれればよかったのに。
「でも、やっぱり。時間はないみたい。だから、最後にこれを伝えるね。生まれてきてくれて、ありがとう。空。幸せになりなさい。私達の最愛の娘」
生んでくれてありがとう。お母さん。育ててくれてありがとう。最後まで愛してくれてありがとう。なんて、心の中では言えるんだ。お母さん。幸せになるよ。私の最愛のお母さん、そしてお父さん。
だから、いつまでも見ててよ。いつまでも。
「ありがとうございま……あれ?」
いつの間にか看護師さんはいなくなっていた。ドアが開いた音はしなかった。
私と母と同じ栗色の髪と黒色の瞳をした、看護師さんをそれ以降見ることはなかった。
「空」
「大輔」
病院を後にした私。家の前に来たところで、大輔が家の前に仁王立ちしていた。怒り顔である。あんな風に理不尽に怒鳴ったのは私。だから当たり前ではあるが。
「ごめんなさい」
真っ直ぐに謝る。目を合わすことは出来なくて、俯いてしまう。
「うーん。どうしようかなー」
「ごめん」
「じゃあ、僕の目を見て言えたら、許してあげる」
そう言われて、顔を上げて大輔を見つめる。大輔はいつもの眩しいくらいの笑顔だった。私の一番好きな顔。
「空」
「なに?」
「やっぱり、ツインテールより下ろしてる方が似合ってる。ショートもいいと思うけど」
「ツインテール好きは誰よ」
「僕だよ? でもね、僕はツインテールの空を好きになったわけじゃないでしょ?」
「なによ。それ」
そういえば、入学当初、付き合う前の話。大輔はロングよりツインテールの方が好きと言っていた。当時、私はロングだったから、関係ないと思ってたんだ。でも、その頃からだった、私がツインテールをするようになった。
「僕は空が好きなんだ。どんな髪型でも。今日の下ろしてるのも良いよね」
「大輔」
「ん?」
「ばーかっ!」
「ええっ! 僕罵られるようなこと言った!?」
私は好きなんだ。自覚なく人を口説きに来て、無自覚なプロポーズをしてくる。私を、他の誰でもない私として見てくれる彼が。――大輔が。
「ありがと」
「なんか言った?」
「ううん。なーんも」
私の言った言葉は風に消えた。敢えて聞こえないような小声で言ったのだ。聞こえてたら困る。恥ずかしい。
「家、寄ってく?」
「いいの?」
「うん。聞いてほしいの」
私の大きな我が儘だけれど。許してほしい。寂しいなんて、意地でも言ってやらない。
大輔と共に家に入る。いつもは大輔の家に行く事が多い。物珍しそうな顔をしながら入ってくる大輔をリビングのソファーで待たせてジュースを用意する。
リビングの窓からは、普段見ない景色が見えた。
大輔にこれまで起こった事を一通り話した。母が交通事故で亡くなったこと。大輔に怒ってしまったときは、まだ、意識不明の重態だったこと。
「そっか。僕の両親は健在だからね。なんと声をかけたらいいのか」
「いいの」
ただ、聞いて欲しかっただけ。知っておいて欲しかっただけ。私は我が儘だから。
「もしかしたら、祖父の家に移ることになるかもしれない」
「二つ隣の町だよね。会いに行けないこともないなぁ」
「学校は変わっちゃうかも……ん?」
会いに行けないこともない。そう言ったように聞こえた。気のせいかな?
「自転車でも、行けないことはないと思うんだよね。ほら、もう中学生だし。部活の練習試合とかで行くからさ。その町」
それもそうなのかもしれない。中学生になって、一年経つというのに、気分はまだ小学生だ。こんな時だけ部活に入ってなかったことを呪う。
「遠距離恋愛……と言うほど離れてないから、中距離恋愛になるねー」
「なに、それ」
大輔の言い方が可笑しくて、つい笑ってしまった。
どれだけ遠くに居ても、私はずっと好きだよ。大輔。
「ちなみに、僕は離れててもずっと恋人なんて言わないよ。だって」
「だって?」
「心の距離と実際の距離は違うもんでしょ? だから、僕はずっと愛してるから」
「ばか」
どうしてこんなにも恥ずかしいことを平気で言えるのだろう。私なんて、聞いているだけでも恥ずかしくなる。
いや、大輔も平気な顔で伝えてくれたわけじゃないらしい。耳が真っ赤だった。やっぱりばかだ。
でも、そんなところが好きだ。彼はきっと、私のような後悔はしないと思う。
「そろそろ帰らないと」
もう外は暗くなりかけている。時刻は午後5時半。
「やだ」
反射的に大輔の服の袖を掴んでいた。まだ帰って欲しくなかった。一人になりたくなかった。置いていかないでほしかった。
「空?」
「あと、十分」
「朝に言って遅刻するやつでしょ。それ」
「なんでもいい。もう少しだけ」
あと少しだけでいいから。もう少しだけ一緒にいてほしい。まだ、一人にはなりたくない。寂しいから。
「あと、十分だよ?」
「うん!」
大輔は優しい。我が儘言っても結局頷いてくれるから。
私は弱い。そんな優しさに漬け込んでしまうから。
それから十五分後。大輔は帰っていった。誰もいない静かな家は落ち着かない。だけど、慣れなきゃいけない。いつかは皆一人立ちするんだ。もう、中学生なんだ。いつまでも甘えてちゃいけない。
それに、これは罰なのかもしれない。お母さんを拒絶し続けたことに対する罰なのかもしれない。なら、それを甘んじて受けよう。
そういえば。あのお母さんの言葉を伝えてくれた看護師さん。紙を見ていたわけじゃないから、全部覚えて言ってたのかな。しかも、あれだけの分量を言えるほど、元気だったのにお母さん死んじゃったのかな。そんなことを落ちかけた椿を見ながら考えた。
「お母さん……ごめんなさい」
自然に涙が溢れてきた。涙が頬を伝い、床に落ちる。一粒、また一粒と落ちていく。拭う気もなかった。
「ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
ただ、ひたすら謝り続けた。誰に対して、何に対して謝っているのか、途中からわからなくなった。時折口の中に入る涙はしょっぱかった。
そして、いつの間にか、眠ってしまったようだった。
「空」
私の知らない低い声が私を呼ぶ。視界は心なしかぼやけていて、思考はうまく纏まらない。そんな頭でも、ただ一つわかった。これは夢なんだと。
「あれはね。椿というんだ。綺麗に咲いているだろう?」
「つびゃき? きれー!」
子供の頃の私と、顔の思い出せない、わからない人がリビングの窓際で話している。今私がいるのは窓の外側。無邪気な幼い自分を見て、こんな時代があったのかと驚いた。思考は大分クリーンになってきた。視界は相も変わらずぼやけている。
「桜がどうやって散るかは知っているかい?」
「ちう?」
「そう。枯れるって意味だよ。花ビラがヒラヒラ舞っているでしょう?」
「ひらひら! うん! つびゃきもひらひら?」
「それがね。違うんだよ」
舌ったらずな口調で必死に喋ろうとしている相手は誰なのだろうか。二歳か三歳に見える自分の話している相手は一体。
「ちがーの?」
「ちがうの。あ、あれが落ちそうだね。見ててごらん」
話し相手が指差した方には椿があり、今まさに落ちようとしている瞬間だった。
「おちうの? や! おちうといたーの」
「空は優しいね。だけど、落ちないとあの木は困るんだよ?」
「や。やだー! がんばりぇ! ちゅびゃきしゃん!」
泣きそうな顔で窓にすがり付き、おでこを窓に引っ付けて叫ぶ幼い私。隣の人は顔は見えないけれど、きっと困ったような、優しい子に育って嬉しいような顔をしていると思う。
もうなんとなく、誰かわかっていた。
「落ちたら痛いのかな……本当に」
ふと、そう思ってしまった。なぜかはわからないが。
そして、椿が落ちた。
「あ! つびゃき! おちた! おちた……」
幼い私は涙を溢した。大きな声で泣いていた。つられたのか現在の私の頬にも涙が伝った。誰にも見られたくなくて目を伏せた。見ている人なんていないのに。
椿が落ちるのは自然なこと。花全体が落ちる様子が首が取れたみたいで縁起が悪い、という理由で贈り物には避けられるような花。
「空」
私と幼い私が全く同じタイミングで顔を上げた。靄のかかったように見えなかった顔がようやっと見えた。整った顔筋。黒い瞳。白い肌。私と似ていた。そっくりだった。見たことはなかったけれど、お父さんなのだと、一目でわかってしまった。
「お父さんはね。本当は、空のこと椿って名前にしたかったんだ」
突如語られたのは、お父さんの本音。優しい声が二人の私を安心させた。もう涙は止まっていた。
いつの間にか私達を隔てていた窓ガラスは消え、ただ、私達三人と椿だけがあった。
「椿は散るとき、一枚ずつ散るんじゃなくて、一気に落ちるだろう。好きなんだ。その落ち方が」
私にはわからない。椿の落ち方は嫌いだ。うまく言葉に出来ないけど。嫌いだ。
「椿は落ちても花の形を保っているんだ。だから、椿という名前はどこへ行っても、どれだけ酷い環境でも、強く生きられると思ったから」
お父さんもお母さんも深く意味を考えてくれた名前。椿は使われることはなかったけれども。
私はお母さんが死ぬまで知らなかった。お父さんを、お父さんの思いを。
お母さんが伝えてくれるまで気づけなかった。お母さんがずっと私を待っていてくれたことに。一人寂しくても、私にそれを悟らさせずに、笑顔で振る舞ってきた。高いテンションについていけないと思ったのも、ただの空元気だったからかもしれない。
お母さんの方が私より可愛いと言われる回数が多かった。今思えば当たり前なのかもしれない。どんなに辛いことも笑顔の仮面の下に隠していたのだもの。無愛想に振る舞っていた私とは違って。
勝てるわけ、なかったんだ。
その時、風が強く吹いた。この夢の終わりを告げるように次第に強くなっていく風。私は負けじと叫んだ。
「お父さん! ありがとう! お母さんもありがとう!」
夢の中の父の顔が微笑んだ気がした。いつの間にか、もう一人の私はいなくなっていた。温かな感触が頭を撫でる。はっとして顔をあげたときにはもう、誰もいなかった。
そこにただ、残された私。何もなくなってしまったけれど。良かったと思った。だって、二人の愛に気づけたのだから。
――愛してくれてありがとう。お父さん。お母さん。今は安らかに眠ってね。
風がかなり強くなり、立っていられなくなってきた。あまりの風に目を開けてられなくなり、唐突に風がおさまった。目を開けると、いつもの見なれた天井が見えた。
布団の中にいた。あのあと、誰かが運んでくれたのか、薄れゆく意識のなかで無意識にベッドに潜り込んだのかは定かではない。一言言うとどちらも微妙に怖い。
外を見れば見なれた小川が流れている。桜はまだ蕾すらつけない。春には飛んでいた鳥達も姿を見せない。6時だと言うのに外はまだ暗く。それでも、沈んだ気分にはならない。
いつもは忘れてしまう夢も今日のだけは忘れられない。忘れてはいけない。
「おはよう。お母さん。お父さん」
いつもはしない挨拶を、誰もいない空に向かってする。遠い空にいるだろう両親に向かって。
今日からは私が朝ごはんを作って、食べて片付けないといけない。夕御飯も。だけど、お金がない。祖父に電話をしよう。今は未だ働くことは出来ないけど、いつか恩返ししよう。
今日のメニューは目玉焼きとトースト。私でもできること。今日の夕御飯から、祖父が迎えに来てくれて、祖父母の家で食べる。
そして、私達の家に帰って来て翌日学校に行く。朝ごはんだけなら、自分でもできるから。流石にね。
そんな生活を中学校一年生の終わりまで続けていた。
いよいよ、やって来てしまった中学校一年生最後の日。今日をもって私は祖父母の家に移る。
引っ越し作業はもう済んでいる。大変だった。母子家庭とは言え、結構な荷物があった。
クラスの子達が別れを惜しんでくれた。殆ど交流なんてなかったのに。私に内緒で寄せ書きなんて書いていたようで色紙をくれた。それは、大事にしまって大切な宝物にするつもり。
放課後。私達はまだ蕾すらなってない桜の木の下にやって来た。
「そういえば。ここで僕は空に告白したんだよね」
「そう、だね」
あのときは本当にビックリした。前日には違う子にも告白されて。今は彼、どうしてるのかな?
大輔に好きって言われて嬉しかった。でも、恥ずかしかった。
でも本当は怖かった。また離れていくのかもしれないって。私を見てくれないのかもしれないって思った時もあった。
それでも嬉しさが百万倍……百歩譲って九十九万九千九百九十九倍勝っちゃったんだ。これ以上は譲ってあげないんだから。
だから忘れてたんだ。怖かったことなんて。杞憂だったみたいだしね。
始めてだった。好きな人ができたのも、好きな人に告白されたのも。
だからつい、誤魔化してしまったんだ。素直にありがとうと言えなかった。私も好きだよと言えなかった。
「大輔」
「どうしたの?」
「好きよ」
大輔が驚いたように口を開けながら私を見ている。おかしくて笑ってしまう。私が声をあげながら笑っていると口を尖らせた。
「僕の方が空を好きだよ」
「それ、すぐに別れるカップルがよくするやつ」
「あー。僕も聞いたことあったような……?」
私は大輔から一歩離れた。不思議に思ったのか、大輔が首を捻っているが説明はしない。特に意味はないから。
「私はもう、後悔はしないって決めたの」
「うん?」
「伝えられなかったことを後悔はしたくないってこと」
お母さんが生きている内にごめんなさいと言いたかった。
それと同じくらい、大輔にはありがとう、大好きだと言いたい。
ただ、いざ言うとなると緊張するものだ。本当に、思ったことを言える大輔には尊敬しかない。
「あのね。大輔。最後まで何も言わないで聞いてほしいの」
「うん」
話の途中で何かを言われたら、忘れそうだから。諦めちゃうかもしれないから。
「私、私ね。大輔が好きだよ。本当に大好き」
言っている途中で涙が出てきた。でも、気にしてられない。今言わなきゃ後悔するから。
「だから。私、本当はこのまま、ここに居たかった。違う中学なんか行きたくなかった」
下校している生徒達がいる。片付けをしていた二年生の先輩達だと思う。お疲れ様です。
「大輔と一緒が良かった!」
本格的に涙が止まらなくなってきた。顔、大変な事になってるんだろうな。大輔は何も言わないでいてくれる。
「……でも、私は一人じゃ生きられないから。だから、転校するの……」
一度目を閉じる。私達の間を通る風の音がする。それが私達の距離だと言うようで辛かった。それでも、逃げちゃだめだ。目を開けて続きを話す。
「転校したら、私、勉強を頑張ろうと思うの。それで、部活も始める。友達も作って、家の手伝いもして、そこそこの高校に行くの」
風が少し強くなり、桜の木の枝がしなる音がする。それでも、負けじと言葉を紡ぐ。
「高校も大輔と一緒とは限らないけど、私は負けないから。……私はね、夢があるの」
一度言葉を切って、大輔の目を見る。その目には私が写っている筈。実際には一歩で埋まる距離と言えど、遠くてよく見えない。けれど、信じてる。
「私の夢は、大輔が、お母さんが、お父さんが、誇れる人間になること! 自慢の彼女、若しくは娘って、言ってもらえるようになること! そして、子供を産んで、子供に自慢のお母さんって思って貰えるようになること!」
そう言い切ったら、世界が広がったような気がした。明るくて楽しいものなんじゃないかとさえ思った。
大輔が驚いたように私を見ている。変だと思われてないといいな。
「良いと思う。僕には勿体無いくらい」
「そう、かな?」
「うん!」
本当はまだここで話しは終わってないのだけど。ちゃんと伝えないと、って思ってるんだけど。今は幸せだから、いいかな。なんて。
いや。ダメでしょ。伝えなきゃ!
「大輔。まだ、あるの。あのね。あの、あ、あの、あれ、あ、あり」
伝えたい思いが空回って言葉が出てこない。気持ちだけが先走ってる。だめだ。こんなんじゃダメだ!
こういうときは深呼吸。深呼吸。大きく息を吸い込んで、吐いて。何度か繰り返してる内に落ち着いてきた。もう大丈夫。
「ありがとう。私を好きになってくれて。大好きだよぉ」
最後噛んじゃったよ! 最悪だ! ど、どうしよう、テイクツーお願いします!
慌ててたのは私だけで、大輔にはきちんと伝わっていたみたい。
大輔は私を抱き締めた。私は彼の胸に顔を埋める。
「あーもー! ほんとっ! 可愛い彼女なんだから!」
「なにそれ」
「見ちゃダメ。ドキドキして、顔が真っ赤だから」
「む。私の方が酷い顔してる」
「空はいつだって可愛いんです!」
「……ばーか!」
一番真っ赤なのはどっちだろう。わかんない。でも、恥ずかしくてもいい。まだまだ堪能していたい。
大輔の腕の中でそっと目を閉じれば数々の光景が浮かんでくる。
桜の舞う季節には新たな出会いと、変わり始めた私の世界。
一人ぼっちだった私に初めて恋人が出来た。告白の答えは濁しちゃって、好きだって伝えられなかった。それでも、私を好きでいてくれた。
それでもまだお母さんにごめんと言えなかったのが春。
白粉花の季節には知らない大輔を知れた。
他の人を呼び捨てで呼ぶのに嫉妬して、自分のことも呼び捨てで呼ぶように言った。
何もかもが新鮮な感じがした。今では良い思い出。夏休みが終わってしまうことを惜しむことはしなかった。新たに始まる季節に胸踊らせた夏の終わり。
楓の染まる季節にはすれ違いに心痛めた。でも、本当はすれ違ってなんかいなかった。タイミングが悪かっただけなんだ。
一人じゃないことに慣れてしまったから。一人になるのは嫌だった。一人を強く感じさせる雨は嫌いだった。でも、嫌いな雨も彼となら楽しめると思えた秋。
そして今。お母さんとの別れ。両親の思いを知った。ごめんなさいと言えなかったこと。ありがとうと言えなかったことを後悔した。
もう、伝えないまま終わるのは嫌だった。
もう、後悔はしたくなかった。
でも、ちゃんと言えたよ。私。これまで伝えられなかった〝ありがとう〟を伝えることができたよ。
だから、胸を張って、新しい所に進む冬。
そう。冬は別れの季節なんかじゃない。進む為の季節。自分と向き合う為の季節。
まだもう少しだけこのままで。もうちょっとしたら、手を繋いで帰ろう。
まだ蕾もない桜だけが私達を見ていたんだ。
(蛇足 桜降る季節に)
あの時には蕾もなかった桜はもう散り始めている。鳥の鳴く声が心地良い。
寝間着から制服へと着替える。
新しくなった制服。一年だけで変えてしまうのは勿体無いと思った。だから今は大輔の知り合いが使ってる。
紺のセーラーからブレザーへ。最初は戸惑うこともあったけど、もう慣れた。
祖父と祖母に行ってきますと告げて通学路を歩く。
家の前を流れてた川よりもずっと大きな川を横切る。自転車で風を切る。
もう桜は散りきって、葉が青々と繁っている。一週間程前にはテストがあった。結果はかなり良かった。聞いて驚かないでね。学年二位です。
自転車を降り、駐輪場を離れる。まだこの学校に来て二ヶ月と経ってないことに驚いた。毎日が充実していた。友達と遊びに行ったりもした。大輔を紹介したり、ね。色々と変わった。
他にも変わったことがある。例えば、髪を短くした。友達付き合いを始めた。部活を始めた。卓球部。大輔と同じ。
この間は始めて大会に出た。お金を払えば、全員出れるんだって。
成績は全然良くなかった。でも、新しい友達が出来た。
人間変わるもんなんだって思ったんだ。
もう一つ園芸部。園芸部は掛け持ちができるんだ。花が好きだから。
道端に咲く花のように強く生きるなんて言うけれど、どんな花でも私達より強く生きてる。当然だよね。これまでの過酷な自然の戦いに勝ち抜いてきた花達が今咲いているんだから。
人間によって、環境が変えられても負けじと生きている。そんな花に私もなりたい。お父さんの好きな椿に負けないぐらい強くなりたい。
この学校は比較的新しい。それもその筈。少子化の影響で、二つの学校が一つになって、新しく建てられたんだから。
この学校はそれでも三クラスしかない。 前の学校より断然少ない。だからかな? あったかいんだ。心と心が近くにあるような気がするんだ。
私達二年生は二階。途中で会う先輩達や後輩に挨拶して教室を目指す。
「おはよう!」
教室のドアを開けて大きな声で挨拶する。最初はドキドキしたけど、皆受け入れてくれた。だから今日もめげずに生きてる。
自分の席に着いて窓の外を見上げる。あれ。午後から雨が降りそうだ。傘持ってないな。ま。いっか。なんとかなるなる。
ねえ、大輔。覚えてるかな? 実はね今日で私達が出会ってから一年目なんだよ。
なんてね嘘だよ。一年目の記念日はもうとっくに過ぎちゃったもんね。
本当はね。私は何年目って数えるのは好きじゃないんだ。
だって、そうでしょ。何年目でも、何ヵ月目でも、何日目でも良い。一緒に居られるなら。それだけで幸せなんだよ。
――拝啓。近くて遠い場所に生きるあなたへ。
私を好きになってくれてありがとう。
生きていてくれてありがとう。
出会ってくれてありがとう。
伝えきれないくらいの“ありがとう”と“大好き”を今、伝えたい。敬具。
サブタイトル“たった一言伝える勇気”
大切な人は失ってから気づくものだから、いつも感謝を伝えよう。
ここまでお読み頂きありがとうございました。