第八夜 会えなくたって(後編)
部屋の窓外に見える降霜の町は、いつしか日付変更線を跨いでいた。
時計は持っていないから、ポケットに突っ込んだ携帯で時間を確認する。
午前、零時十七分。
倉敷さんや依頼人の西本さんと会話をしていたのは、いつしか実体のない時間によって昨日のことになっていた。
『家族に、会いたいです……』
ようやく西本さんが絞り出した本心を、反芻する。
依頼の内容だけで言えば、今回もいつもと変わらない。
ただ依頼人の生前の後悔が、本心の願いを殺していただけ。
その本心に向き合った今なら、彼が未練を断ち切ることも容易だ。
全ては、僕の腕に掛かっている。
僕は、ユメヒト。
死者が遺した最期の想いを生者に伝え、双方に進む道を与える。
僕はこの仕事を、少なからず誇りに思う。
「フッ、我が弟クンよ……」
ぼんやりと外を眺めていると、背後から姉さんの声が飛んできた。
その妙にキザったらしい口調と言葉遣いから、今日のキャラは中二病患者だと当たりを付ける。
「何? 姉さん。ノックぐらいしてよ」
「クックック、こーきなる我が輩にノックなどふよーだ」
「僕には必要だよ」
血の繋がりがないとは言え、家族として共に過ごした十余年。
姉さんの性格も、そのキャラが変わる周期も、最早慣れてしまった。
やはり今日のキャラは、中二病で間違いない。
「遂に君も、夜の町の美しさに目覚めたか」
「目覚めてないよ、今何時だと思ってんのさ」
くどいようだが、今は午前零時二十分。
目が覚めるには、余りにも早すぎる。こんな時間に目覚めるのはドラキュラ位のものだろう。
「さ、僕はもう寝るから、出てってね」
「しょぼーん」
「それは口に出さない」
インターネットなどでよく見る落ち込んだ顔を見事にコピーした姉さんが、僕に背を押されて退室していく。
その恨めしいような物言いたげな顔は、扉が閉じられるまで僕を見詰めていた。
捨てられた子猫みたいだ。
「さて……」
姉さんを追い出し、がらんどうになった部屋を見渡す。
喧しい姉さんがいなくなった部屋は少し物悲しくて、冬の寒さや寂寥感が身を穿つように押し寄せる。
身じろぐ度に染み入る寒さを泳ぎ、僕は机上に置かれた手帳を取り出した。
鞣し革で装丁されたそれは擦りきれて、表紙は読めない。
当然、僅か一年にして経年劣化を迎えた訳ではなく、僕の手元に届いた時からこの手帳はビンテージ物の様相をなしていた。
その点も含めて、この《ユメヒト》と言う職業は受け継がれてきのだろう。
つまり、前任者がいる、と言うことだ。
「仕事しよ」
ポツリと溢す言葉は、誰にも拾われることなく薄く冷たい壁に消えていく。
その虚しさを掻き消すように、僕は毛布を被り、証明を落とす。
豆電球の灯りが、緋色の影を部屋に貼り付けた。
程なくして、眠気はやってくる。
日々の激務による疲労か、はたまた《ユメヒト》としての摩可不思議な何かが関係しているのか。
僕の意識は一瞬にして、住み慣れた部屋を離れた――
『ああ、お待ちしていました、ユメヒトさん。本日は宜しくお願い致します』
夢の中。見慣れないピンクのレースカーテンから漏れる柔らかな光に包まれて、依頼人の男性は立っていた。
西本和也さんと、その娘、雪ちゃんの部屋だ。
予定の時間よりは十分ほど早い。
今回は倉敷さんも呼ぶことになっていたたから、時間より早く始めるのにも気が引ける。
そう伝えると、西本さんは『大丈夫ですよ』と傍らに据えられたベッドに微笑みかけた。
「娘さん、ですね」
『はい、雪です。この子には苦労をかけてしまって……』
手軽く僕に雪ちゃんを紹介してくれた西本さんは、またぞろ苦笑を浮かべる。
けれど次の瞬間には、柔和な笑顔を湛えた。
雪ちゃんが、目覚めたからだ。
雪ちゃんと亡き父の《夢》が、始まる。どうやら倉敷さんは、出遅れたらしい。
『……あれ、パパ?』
寝ぼけ眼を擦りながら、雪ちゃんは上体を起こす。
僕は慌てて、ユメヒト手帳から倉敷さんへと連絡を繋げる。
一度ユメヒトと接した魂は、ユメヒト手帳を通して連絡が取れるのだ。
そして、僕を介して任意の夢へと侵入することも出来るらしい。
『おはよう、雪』
優しく微笑みかける西本さんの顔は柔和で、けれど拭いきれない罪悪感の影がさしていた。
きっと、仕事ばかりで家族の時間を疎かにした罪悪感を感じているのだろう。
『パパ、帰ってきたの?』
少女が嬉しそうに発した一言。そのありふれた一言が、心を抉る。
『あ、ああ、そうだよ雪。パパ、還って来たんだよ』
西本さんは悲しく微笑みかける。
彼はもう、この世と言う器から溢れ落ちてしまった。
彼が体を持って「帰る」ことは、もうない。
『でも、またお仕事があってね。今度は、すごく遠い所へ行かなきゃダメなんだ』
西本さんの声はその胸に刺さった刃物とは対照的に、明るい。
まるで予め台詞を決めていたかのように淀みない、真っ直ぐな声をしていた。
『そう、なんだ……』
『大丈夫だよ、雪。パパは、いつも雪の側にいるからね』
『だから今日は、ちょっとお散歩行こっか』と西本さんは手を差し出す。
細く、神経質な指先を本能的に労るように、雪ちゃんは西本さんの手を取る。
『そのお兄ちゃんも?』
「んん?」
突如会話を振られ、僕は戸惑う。
普段の夢では、その状況ゆえに認知されなかったからだ。
『そうだよー。このお兄ちゃんはね、パパのお友だちの子なんだ』
『そうなんだー!』
「う、うん、よろしくねー」
「歳がちげーよ」と言う突っ込みをグッと堪えて、僕は雪ちゃんに笑いかける。
普段使わない表情筋を使ったからか、頬が少し痙攣しているのがわかる。
『台詞が棒ですよ、ユメヒトさん』
「精々笑顔を磨きますよ、倉敷さん」
演技力を鍛える決心をした僕の背に、聞きなれた冷たい声がかかる。
振り向けばそこには、倉敷さんがいつもの無表情を引っ提げて立っていた。
『このお姉ちゃんはー?』
『ん? んー……』
突然現れた倉敷さんの説明に、西本さんは戸惑う。
確か倉敷さんと西本さんは直接言葉を交わさなかったはずだから、無理はない。
無難な設定をでっち上げてくれることを祈るばかりだ。
『このお姉ちゃん……は、このお兄ちゃんの彼女だよ、うん』
その瞬間、喉から「諦めんなよ」の言葉が飛び出そうになった。
慌てて舌の上で言葉を転がす。
僕と西本さんとの関係性はまだ理解できた。だが、彼女は適当が過ぎると思う。
『そうです、彼女です』
「倉敷さん!?」
子供相手にも丁寧な口調を貫く倉敷さんに面食らう。
違う、そう言う問題じゃないだろう。
『私たちが合わせないでどうするんですか?』
ぼそりと、倉敷さんは僕に耳打つ。
確かにその通りではある。倉敷さんは状況を冷静に判断して、最善の行動を取っただけだ。
だけど、どうしてだろうか。
脈なしと分かっている対応ほど、傷付くのである。
「恨みますよ、西本さん」
『アハハ……』
西本さんに耳打ち、恨みがましい視線を送る。
そんな僕らのやり取りを、雪ちゃんは年相応に呆けた顔で見つめていた。
『じゃあ、ちょっと散歩に付き合って下さい』
『はい』
「わかりました」
『やった!』
若干西本さんが楽しんでいるように見えて癪だったけど、それが僕の仕事だ。
懐から西本さんの携帯を抜くだけで勘弁しておいた。
偶然にも僕と同じタイプのそれを、左のポケットに仕舞う。
じゃらりと鎖の擦れあう音がたったが、西本さんには気付かれていないようだ。
『パパとお散歩するの、久しぶりだねー』
『そうだねえ』
和気藹々と笑み合いながら、父と娘は歩いていく。
僕らは二人の後を着いていった。まるで尾行だ。
不意に、夢の中の光景が一変した。
夢の世界特有の、情報の急変だ。
場所は変わって、冬枯れの桜並木。葉の落ちた枝に掛けられた、色とりどりのネオン。
空には、鮮やかに煌めく魚達。
それは、年端もいかない少女が抱いた、メルヘンチックな夢だった。
『わー! きれー!』
『そうだね、綺麗だねぇ』
当然、それに驚き慌てる者はいない。
『すごいですね、ほんとに夢の中なんだ』
「はい」
淡白に頷きつつも、僕は内心胸を撫で下ろす。
誰も異変に気付かないのだから、自分の頭がおかしくなったのかと怖くなっていたのだ。
夢を夢と認識できる人が一人でもいると、心強い。
『目を瞑ったら部屋にいたので、驚きました』
「僕も最初の頃はそんな感じでした」
珍しく饒舌な倉敷さんに相槌を打ちつつ、僕は歩調を緩める。
依頼人が生者へ害を成そうとしない限り、僕ら部外者は彼らに近付くべきではない。
楽しそうな二人の姿を見ていると、二人きりにしたい気持ちも湧いてくる。
『パパ! 昨日ママがね――』
楽しげな、父子の談笑の声。
風の音さえも笑うような優しい空間。
けれど頬を撫でる風は冷たく、どこか物悲しい。
『そっかー、ママがねえー』
『おかしいでしょー?』
『やっぱり、恵美はかわいいな……』
それでも二人は、いつまでも笑っていた。
何でも叶う夢の中でも、時間は残酷なほど僕らを追い掛けてくる。
延々と続くネオンの木々。空を泳ぐ魚。
それはどれも変わらないように見えて、けれど確りと、夢の終わりを告げている。
『ユメヒトさん、木が……』
「はい。もう直、この夢は終わります」
倉敷さんの懸念通り、軒並みの木々は徐々に歪みつつある。
夢の世界が、歪み始めていた。
「西本さん」
西本さんに呼び掛ける。
『…………』
西本さんは、何も言わなかった。
ただ一度、こくりと頷く。
それきり、僕らの間には沈黙が寝転がった。
僕も、倉敷さんも、西本さんも。雪ちゃんでさえも、口を開こうとはしなかった。
『雪』
『なぁに、パパ?』
足を止めた西本さんに合わせて、雪ちゃんも足を止める。
『パパ、また遠くへ行かなくちゃ行けないんだ』
『お仕事? そっか、パパすごい「べんごし」だもんね!』
無邪気にはしゃぐ、雪ちゃん。
その顔に貼り付いた花のような笑みを崩さないように、西本さんもそっと微笑みかける。
『次はいつ帰ってくるの? あんまり遅いと、ママが心配しちゃうよ』
『雪は偉いな。ちゃんとママの事を大事に出来て』
くしゃりと雪ちゃんの頭を撫でる西本さんは、笑っていた。
家族との間に、作り損ねた苦笑なんて必要ない。
本当に暖かな、優しい笑みを浮かべていた。
『パパね、何があってもお盆にはまた会えるよ。
だからその時まで、ママのお側にいてくれるかな?』
『うんっ! でも出来るだけ早く帰ってきてね!』
『約束するよ』と言って、西本さんは雪ちゃんを抱き締めた。
その体が、消えていく。
木々のネオンは消え去り、空の魚は雲へと返る。
雪ちゃんの夢は、もう終わろうとしていた。
『雪、最後にパパと、いつも歌ってるお歌を歌わないか?』
『お歌? いーよー!』
最期の抱擁を解き、二人は手を取って並び歩く。
少女の夢は現実のそれへと近付き、物悲しげな歌の旋律が春前の空に消えていく。
──どんな挫けそうな時だって
どこまでも悲しげで、けれど陽気な二人の歌声。
──けして涙は見せないで
その旋律に乗って、西本さんは消えて行った。
繋いだ雪ちゃんの小さな手だけが、寂しげに宙をかく。
『笑っているんだよ、雪──』
『いってらっしゃい、パパ──』
霞み行く夢路に、少女の寂しげな声が溶けていった。
◇◆◇
弱々しいスーツ姿の弁護士は、家族との永別に一滴の涙も注がなかった。
「ちょっと格好よかったですね、西本さん」
「そうですね」
早朝。まだ道行く人も稀な時間。
僕と倉敷さんは、いつもの公園に隣り合って座っていた。
「ユメヒトさん」
「はい」
早朝の寒空を眺める目線を、倉敷さんへと運ぶ。
「西本さんの遺体が発見されて、死亡時刻が昨日より前だと知ったら。
雪ちゃんは、昨日の出来事を『有り得ない夢だ』と思ってしまわないでしょうか?」
俯いた倉敷さんの顔は、心配げだった。
ユメヒトとして、夢は夢であるべきだと思う。
だが僕個人として、今回の夢は単なる夢で終わらせたくないと思うのも、また事実だ。
「大丈夫ですよ」
「え?」
倉敷さんの顔が、こちらを向く。
「証拠を置いてきたんです」
「証拠?」
僕は布石を打っていた。西本さんから拝借した携帯だ。
彼が消える寸前に一度使用し、消え行く夢路に立つ雪ちゃんにそっと掴ませた携帯の、待受画面。
夢だけれど、夢じゃない。
死んでしまった父親は、やっぱり自分に逢いに来てくれたんだ、と示す証拠──
「心霊写真、て奴ですよ」
少女が胸に抱いた、向き合って笑い合う二つの横顔。
それは一夜の不思議な、けれど確かに消えない思い出として、少女の中に息づいていく。
世界一怖くなくて、世界一暖かい心霊写真。
一葉の心霊写真を胸に抱いて、少女の朝はやってきた。