第七夜 会えなくたって(前編)
黄昏刻。
あの世とこの世の輪郭が、朧に霞む時間。
薄暗く寂れた公園から、最後まで遊んでいた親子が帰っていく。
母親に手を引かれ、父親と楽しそうにサッカー日本代表の試合を語る子供。
ぶらぶらと揺れる、真新しいサッカーボール。
いつかの僕にも、両親に手を引かれて帰ったことがあったのだろか。
ああして父親と楽しげに、バスケットボールについて語ったのだろうか。
そう考えると、鼻の奥がツンと痛んだ。
きっとその記憶は、僕にとって「都合が悪い」記憶なのだろう。
「ユメヒトさん」
親子が帰路につき、誰もいなくなった公園に、冬の風のような声がそよぐ。
少し古びたベンチの左半分に座っていた僕は、その声に首を巡らせる。
「ああ、倉敷さん、こんにちは」
耳元で聞こえた声に対して、倉敷さんは予想より少しだけ離れたところに立っていた。
「座らないんですか?」
「いえ、お仕事を見学させていただいているので、私はここで」
そう言って、倉敷さんは僕から二、三歩ほど離れた所に立つ。
もし倉敷さんが端から見えれば、僕はただ「女性に避けられている哀れな青年」にしか見えないだろう。
遠慮はしなくてもいいし、この際してほしくもない。
「じゃあ、ちょっと場所を変えましょう」
倉敷さんとの距離感を遠慮のせいにして、僕は皮革装丁の手帳を開く。
《ユメヒト》となった朝、机の上に置かれていた手帳だ。
半分を過ぎた辺りのページに、文字が浮かび上がる。
《西本和也、三十七歳。既婚。弁護士、妻子あり》
それが、今回の依頼人だった。
《ユメヒト》の広告に反応し、夢の逢瀬を望んだ死者の情報は、こうして手帳に読み込まれる。実に便利だ。
今年で三十七歳になる彼は、二週間前から行方不明になっているそうだ。
直接の死因は、頚部損傷による出血性ショック。
それが事故か他殺か、はたまた自殺かは分からない。
「不思議な手帳ですね」
いつの間にか近くに寄って来ていた倉敷さんが、僕の手帳を覗き込む。
表面上の感情の起伏が乏しい倉敷さんにしては、珍しく内面の好奇心が面に滲み出ている。
「そうですね」と返し、僕も手帳に目線を落とす。
経年により砥粉色に変色した紙面は羊皮紙を思わせ、どこかファンタジーな世界の副産物のように見えた。
普通に暮らせている人にとっては多分、《ユメヒト》の存在もファンタスティックなのだろう。
《この度はユメヒトをご利用いただき、誠に有り難う御座います。
水先案内人の者ですが、本日の面会場所などにご希望は御座いますか?》
今更ながら感慨深く思いつつ、今回の依頼人とコンタクトを取る。
先方からの返事は、すぐに文字となって浮かび上がってきた。
《初めまして、西本和也と申します。この度は、宜しくお願い致します。
場所の件につきましては、急な依頼でしたので、そちらにお任せ致します》
弁護士らしい、神経質で丁寧な文字だった。
このようにユメヒトの手帳は、紙面上で死者と言葉を交わすことができる。
言うなれば、携帯やパソコンのメール機能のようなものだ。
「ほあ~……」
倉敷さんは、浮かび上がってきた文字に目を丸くしていた。
ずっと見ていたいような気もしたが、なんとか目を引き剥がし、再びペンを走らせる。
《畏まりました。では、末広橋脇公園の時計台の下で。時間の方は、一時間後と言うことで宜しいでしょうか?》
ユメヒトの広告は、一ヶ所にしか貼られていない。
まれに噂を勘違いした若者達が、三文字のアルファベットに「ユメヒト」と加えた暗号を掲示板に書いていくそうだが、それは関係ない。
ユメヒトである僕と接触できるのは、僅か一ヶ所に貼られた小さな広告だけなのだ。
《はい、問題ありません。この度は急な依頼を持ちかけてしまい、申し訳ありません。
それでは、宜しくお願い致します》
「急な依頼じゃないですよ」と小さく呟く。
今回の依頼は、何も急な依頼ではなかった。
第一《ユメヒト》は、職業リストに登録された正規のサービス業とは違う。
予約制でもないし、ましてや「一見さんお断り」でもない。
本音を言うと、死んでまで時間に縛られてほしくなかったんだ。
「じゃあ、行きましょうか」
手帳を閉じて、腰を上げる。
運動不足の貧弱な体は、それだけで疲労感を叫び出す。
「立ち上がり方が年寄り臭いですよ、ユメヒトさん」
「文字通り、重たい腰を上げる、ですね」と倉敷さんは笑わずに言った。
慣用句になぞらえた冗談を言うなら、せめて笑ってほしい。
冗談ですよね、倉敷さん?
「末広橋脇の時計台、でしたっけ」
「ん? ああ、はい」
倉敷さんの真意を探っていた僕の意識が、引き戻される。
度し難い冗談の是非はさておき、まずは仕事が優先だ。
見物客もいることだし、待ち合わせの時間もある。
「少し歩きますよ」
「はい、大丈夫です」
私は疲れない体質なので、と付け加えた倉敷さんを見やる。
涼しげな顔で僕の隣を歩く倉敷さん。
彼女が自分の死に気付いているのか、はたまた気付いていないのか。
それはやっぱり、今一つ分からない。
「なんですか? じろじろと私の顔なんて見て」
「……いえ、なんでも」
それでも、いつか、そう遠くない未来のある日。
それは残酷なほど唐突に、僕たちの前にのっそりと姿を表すのだろう。
――その時倉敷さんは、変わらず澄ました顔をしているのだろうか?
己が内に湧いた純粋な興味がどう転がろうと、僕だけは冷静でいよう。
抱いた密かな好奇心と静かな決意を冷たい木枯らしから守るように、胸に押し込めた。
◇◆◇
猥雑な大通りをほんの少しだけ避けた、川沿いの緑地公園。
霜夜が忘れていった名残露に濡れる木々が、雑踏の声から僕らを包むように隠してくれた。
ここは、都会の町で数少ない、穏やかな空気が流れる場所。
都会の喧騒を、一時忘れさせてくれる場所。
西本和也さんは、一足も二足も早く集合場所のベンチで待っていた。
聞けば、二十分も前に到着していたらしい。
「職業病ですね」と西本さんは困ったように笑った。
笑っているのか困っているのか分からない人だな、と思ったけれど、僕も人のことは言えない。
グッと言葉を呑み込んで、僕は意識を仕事のそれへと切り替えた。
「改めまして、今回夢枕への案内人を勤めさせて頂きます、ユメヒトとお呼びください」
「守谷法律事務所の西本和也と申します。お気軽に西本とお呼びください」
宜しくお願い致します、と僕らは頭を下げあった。
隣の倉敷さんも何故か頭を下げていたが、言及はしないでおく。
「それでは本題に移らせて頂きます」
体勢を戻して西本さんを見ると、彼も丁度頭を上げる所だった。
流石社会人だ、と素直に感嘆した。
相手よりも長く頭を下げて敬意を表する姿勢に、日本人の奥ゆかしさを見た気がする。
「申し訳ない、職業病と言うより最早性分なもので」
「続けてください」と西本さんはまたも苦笑した。
調子が狂う人だが、不思議と嫌な気はしない。
気を取り直し、僕はテンプレートに会話を始める。
「今回逢瀬を希望されるにあたって、夢枕に立つお相手の希望は御座いますか?」
死因や未練など、聞いておきたいことはままあるが、一先ず誰の枕元に立つかは聞いておかなければならない。
「そうですね……」
やや考え込むように、西本さんは目を細める。
三十路後半だと言うのに、その細い目にはどこか好好爺然とした暖かみがあった。
きっと、家族を大事にしていたのだろう。
「では、山本辰彦様で、お願いできますか?」
「はい?」
まず、家族を指すには凡そ不自然な個人名に引っ掛かかったそれは、後に付けられた「様」の敬称によっていよいよ形になった。
酷く、醜い形だった。
堪えきれず、僕は口を開く。
「あの、ご家族はいらっしゃいますよね?」
「はい」と西本さんは頷く。その面持ちは固く、暗い。
「ご家族の枕元には立たなくてもいいんですか?」
腫れ物に触れるような僕の言葉に、西本さんは落胆したように頷いた。
「山本様は、私が生前最後に遺産相続問題を担当させて頂いていた方です」
「途中で私が死んでしまったので、それだけが心残りです」と西本さんは笑って続けた。
今までの苦い笑みとは、何かが違う。酷く歪な、「普通の」笑みだった。
掛けるボタンを間違えたような違和感。
嵌めるピースを誤ったパズルのような違和感。
小さな、けれど余りにも決定的な違和感が、僕の心をグニャリと歪めた、気がした。
ヘドロでも飲んだみたいだ。気分が悪い。
「いやー、ちょっとした事件に巻き込まれてしまったみたいで……」
そこから先は、何も聞こえなかった。いや、聞かなかった。
何もかも、違った。僕が聞きたいのはそんなことじゃない。
「何か、他に、心残りは、ありませんか?」
淡白に、恐ろしいほど、無機質な声で。
僕は、西本さんに訪ねる。
それは丁度、最後通告のように。それは丁度、死に行く罪人に最期の言葉を聞く、教誨師のように。
僕は、一言一言を噛み締めた。苦い。
「……いえ、ないです」
それに返す西本さんの言葉は、重い。
その言葉が重いと感じたのは、ただ僕だけだったのだろうか。
倉敷さんは、僕の隣で涼しげな顔をしている。
どこまでも、冬の寒さが似合う女性だと思った。
「本当に、何も、ないんですね?」
「はい」
二度目の返答は、断固とした否定だった。
仕事に私情を持ち込むのは、いけない事だとは分かっている。
でも、それでも。僕は僕と、遺された西本さんの家族の境遇を重ねずにはいられない。
「世の中には、親に会いたくても会えない子供もいるんですよ?」
僕は、死んだ母さんに会ったことがない。
ユメヒトとして、夢を操れるようになっても、母さんが僕を訪ねてきたことはなかった。
まるで存在その物が無くなったように、一切の痕跡もなく。越えられない永別が、僕らの間に寝そべっている。
こんな思いは、味わうものじゃない。
大切な人の死を乗り越えるんじゃなく、「忘れる」なんて、そんなに辛いことはない。
「今会わなきゃ、絶対に後悔します。娘さんも西本さんも」
他人の事情に肩入れしすぎている、と言う自覚は確かにあった。
それでも僕が感情を吐き出し続けたのは、悔しさが半分。
残る半分は、僕の願望だった。
「……お恥ずかしい話です」
西本さんが俯く。
消え入りそうなか細い声は、末期の懺悔にも聞こえた。
「私は仕事人間で、家族に構ってやれる暇なんて有りませんでした。
家族との関係を疎かにした私は、もう家族との接し方も忘れてしまったんです」
俯いたまま、抑揚の無い声で呟く西本さんは、今にも消えてしまいそうな程弱々しい魂になっていた。
「娘と、嫁。二人とも私には勿体無い程出来た家族でした。
ですが、彼女達が与えてくれた幸せを、私は返せなかったんです……っ」
今さら、会わせる顔なんて無いじゃないですか。
悲痛な、悲痛な叫びだった。
それは誰にも届かない煩悶を胸に溜めて、静かに叫び続けた男の、未練の叫びだった。
「会わせる顔がないからって、また逃げるんですか?」
「……」
西本さんは、答えない。
僕は追撃を掛ける。
「またこのまま逃げて、娘さんに忘れられたいんですか?」
「そんな、忘れる訳ないじゃ、ないですか……」
即答した割りに、西本さんの言葉尻は終幕を迎えた演劇のようにフェードアウトしていく。
それが本当の劇と違うのは、演じるのは脚本がない「人生」であると言うこと。
主役である西本さんが諦めて終了、と言う胸糞の悪いエンディングもあり得ると言うことだ。
僕は、そんなバッドエンディングなんてみたくない。
世界は千差万別のハッピーエンドで出来ているんだと、僕は思う。
「いいえ、忘れます。家族の死は、余りにも辛すぎるから」
だから僕は、母さんの死を忘れたんだ。
忘れて、今でも時々「ああ、お見舞い行かなきゃ」と思ってしまう。
故人は忘れずとも、その人の「死」を忘れてしまうのだ。
「娘さんがあなたを忘れなくとも、いつか必ず、あなたの死は忘れます]
そうして記憶から父親の所在を辿ろうとして、ようやく父親が死んだことに気付く。
「その時あなたの死を実感した娘さんは、どう思うと思いますか?」
「それは……」
「一度だけじゃないですよ」
答えの出せない西本さん。娘さんと自分を重ねてしまった僕。
どちらの足も溝泥に浸かっていて、それでも逃げ出そうとしない。
そんな状況から逃れたくて、僕は吐き捨てるように言葉を叩き付ける。
「何度も、何度も。あなたが、夢に立って引導を渡さない限り。娘さんは、何度も苦しむことになるんです」
それでも、いいんですか?
最後の、本当の意味での最後の質問を、西本さんの目に投げ掛ける。
教誨師にも似た最後通告には、どうやら僕でさえ知り得ない続きがあったらしい。
「駄目だ。それは、それだけは駄目だ……」
今まで伏せたり泳いだりを繰り返していた西本さんの目が、座る。
「娘は、私の、最後の希望なのだから」
震える声で、けれど目だけは確りと僕を見据えて、西本さんは答える。
西本さんが本当に逢いたい人は、大切な人は――
「家族に、会わせてください」
もう、彼は誤魔化さなかった。
後悔と虚言がヘドロのよう浮かぶ溝泥から、ようやく足を引き揚げた。
「お任せください」
うだつの上がらない西本さんが、ようやく持ち上げた本心。
その願いに、僕はゆっくりと頷いた。