第六夜 喜びの錯覚
倉敷さんの"死"は曖昧だ。実際にはもう自殺していて、けれど本人はそのことを否定する。
きっと思うところがあるのだろう。実際には、自分がもう死んでいると、気付いてるのかもしれない。彼女は一度だって、"死"そのものを否定しなかったのだから。
『私は自殺なんてしませんでしたよ』
彼女が否定するのは、いつだって"自殺だけ"だ。そんな倉敷さんを一言で片付けてしまえば、「地縛霊」なのだろう。他人には見えないし、零体なのに「自殺はしていない」と言う。
自分はまだ死んでいないと、この世への未練が言わせているのかもしれない。
「――あ、ユメヒトさん」
緩やかに暮れていく冬の夜。すっかり待ち合わせ場所として定着した、公園のベンチ。左半分を空けたベンチに、倉敷さんは座っていた。
「遅いですよ」
「すみません、お腹壊してました」
意図して微笑む。前回の邂逅では、倉敷さんに不快な思いをさせてしまったから。僕はまだ、彼女との距離を縮められないでいる。
「大丈夫なんですか?」
少し顔色を変えて、小首を傾げる倉敷さん。僕は「ええ、大丈夫です」と返して、空けられたベンチの左側に腰を降ろす。ちらと盗み見た横顔は、やっぱり小動物に似た愛らしさと、凛とした美しさを兼ね備えている。
月の夜が、よく似合うと思った。綺麗だとか、惚れたとか。そんなものは一切抜きにして、ただ純粋に、綺麗な人だと思った。
「それで、なんでまた、私なんかと会おうと?」
「前に言ったじゃないですか」
「はい?」
間の抜けた声で首を傾げる倉敷さんに、僕は訥々と言葉をかける。
「『私なんか』なんて言わないでくださいよ。その言葉は、気分が悪いです」
初めて会ったときから、倉敷さんはこうだった。いつも自分を卑下して、追い詰める。それは聞いていて、気持ちのいいものじゃない。ましてや幽霊にされると、切なさまでが滲み出てくる。聞いているほうが、悲しくなるんだ。
「自分を卑下する人、僕は嫌いですよ」
「……そうですね。今後、気を付けます」
いつになく素直だった。不愛想な顔をして、いつも冷たい声を奏でる倉敷さんが。
まだ倉敷さんとの間に、大きな溝はあるのだろう。それは当たり前のことで、一人の客であるはずの彼女とは、埋めようもないものはずなのに。なのに僕は、この距離感が、少し憎い。
「……昨日聞いたことの答えを、聞かせてもらえませんか?」
「答え?」
「はい」と頷いて、僕は話を続ける。
「ユメヒトの仕事、見てみませんか?倉敷さんは夢を見たいと言いましたが、それがどんなものなのか、知っておいてほしいんです」
半分詭弁で、もう半分は僕なりの親切心だ。倉敷さんはもう死んでいて、夢を見ることはできない。死者の魂が出来ること。それは生者の夢枕に立つことだけなのだから。
「夢は百あれば百通りあります。再開を喜ぶ夢もあれば、悲しみを遺すものもある。夢は、決して"イイモノ"だけじゃないんです」
どれだけ言葉を取り繕おうと、夢は夢。人の脳が見せる、一種の「バグ」に過ぎない。
《ユメヒト》と呼ばれる僕としては、あまり夢に「夢」を抱いてもらう訳にはいかなかった。過剰な期待は、時として残酷な神様が摘んでしまうのだから。
「分かりました。……お金はありませんよ」
出会った夜と同じように、倉敷さんの目は「胡散臭い」と語っている。それに関しては、全面的に同意だ。
「お金は一切頂きませんよ。こんな胡散臭いことに」
「それ、自分で言っちゃうんですね」
「そりゃそうですよ」と僕も頷く。
生者に夢を見せ、死者を夢の中に送る能力。この辺鄙な力には、何の信憑性も根拠もない。ある日突然、死者の声を聞けるようになって、夢を操る方法が自然と頭の中に浮かんだ。こんなの、僕の頭がおかしくなったとしか思えない。考えても仕方のない事だし、もう考えなくなった。
「それに、お金はどこからか振り込まれてるんですよ」
「なにそれ怖い」
「ええ、ガクブルです」
けれど実際、先日受けた三件の依頼全てに、報酬金が振り込まれていた。決して多くはないけれど、僕と姉さんの生活を支える、貴重な収入だ。それがこんなブラックでいいのか、と一抹の不安を感じているのは内緒にしておこう。
「給与明細すら出ないんですよね、この仕事」
「ブラック通り越して、むしろ清々しいですね」
「そんな倉敷さんにリクルートが」
「いりません」
どこまでも「つれない人」と言う言葉を地で行く倉敷さん。森羅万象を否定する、ぶれない軸みたいなものが、体を貫いてるんじゃないかと思う。
「まあ、誰に雇われてるかも分からないし、誰をどう雇うのかも分かりませんがね」
そしてこの仕事に、同業者はいない。神様か何かから与えられたのか、はたまた誰かから力を継いだのか。ひょっとしたら、どこかに同業者はいるのかもしれない。もしいるのなら、母さんに会ってみたい。会って、父親の事を聞いてみたい。
そんなことを考えていたら、僕と倉敷さんの間には沈黙が寝そべるようになった。
倉敷さんが落ち着かない様子で視線をさ迷わせる。膝の上の手を、ニギニギと蠢かす。小さく、可愛らしい咳払いをする。
端から見てもそうと分かるほど、倉敷さんは会話を求めていた。珍しい。鉄面皮の倉敷さんが、たかが沈黙に堪えられないなんて。
「……何見てるんですか?」
「いえ、珍しいもの見たさです」
気付けば僕は、ずっと倉敷さんを見詰めていたらしい。ジトッとした目が、僕を睨み据える。
「見ないでください」
「え、えー」
「えー、じゃないです」
「まったくもう」と倉敷さんは溜め息を溢す。その横顔を、僕は複雑な感情で見つめていた。昨日のことはなかったことにはならない。けれど今は、昨日のことなんてなかったみたいに振舞っている。
「倉敷さん、昨日のことは――」
「久し振りなんですよ」
「え?」
罪悪感から謝ろうとした言葉を、倉敷さんの澄んだ声が静かに乗っ取った。次の言葉を紡ぐか悩む口許は、僅かに開いていて、その口角は少しつり上がっている。
(笑っ、た?)
倉敷さんが笑ったのかどうか。それを確認する暇もなく、倉敷さんは言葉を紡ぐ。
「誰かと喋ったの、すごく久し振りなんです。元々人と喋るのは苦手で、何かあったらすぐに筆談に逃げていました」
倉敷さんが振り仰いだ空には星が散っていて、月は幾分か西に沈み始めている。
傾いた月光に照らされる倉敷さん。だけど筆談に逃げると言うのは、何か違う気がする。
「でも、筆談用のノートも無くしちゃって……」
倉敷さんは、案外ドジっ子なのだろうか。いや彼女の場合は、ただ幽霊だからノートが持てないだけだ。無くしたと言う記憶も、都合のいいように改竄されただけなのだろう。
「そこからの記憶は、あまりありません。気付いた時には、誰も私の言葉に耳を貸さなくなっていました。意を決して話しかけても、素通りされるだけの日々だったんです。だから、あなたが話を聞いてくれたのが、その……」
倉敷さんは言葉を濁す。恐らく、その少し前に倉敷さんは死んでしまっていたのかもしれない。
「こんなに、話を聞いてくれたのが、その……」
倉敷さんの目が僕の姿を手放す。それから一時の沈黙が流れ、虫も鳴かない冬の夜が、僕達を包み込んだ。
「うれし、かったです……」
チラチラとこちらを見る倉敷さんの頬。それはLEDの街灯に照らされて白く、けれど仄かに紅い。
それから僕は、しばらく固まっていた。ほとんど金縛りにでもあったように、脳みそすらも動かない。ただひたすらに、倉敷さんの言葉が僕の頭を巡っていた。
嬉しかった。そう、僕も嬉しかった。何故かは分からない。ただ、倉敷さんが喜んでくれることが、誰かに必要とされていることが。脳のバグを疑うほど、純粋に。理由もなく、単純に。
「だから、謝罪なんていりません。今まで通り、私に──構ってください」
「あ、いや、こちら、こそ。構ってもらえれば、幸い、です……」
お互いの顔が見れないほどに僕たちは赤面し、俯く。思えば僕は、倉敷さんに気があったのかもしれない。初めて会った時からと言えばそうで、自覚した今になってからと言っても、僕はまた「そうだ」と納得するだろう。
「フフッ。これじゃお互い、「かまってちゃん」ですね」
気恥ずかしさを隠すように、倉敷さんがいじらしく笑った。僕は笑い返すことも頷くことも出来なくて、暑くなった顔を伏せた。
僕は錯覚しているのかもしれない。
初めて気を惹かれた人は幽霊で、でも彼女はその死に疑問を持っている。存在も、その死さえも錯覚しているような倉敷さん。そんな倉敷さんにどうしようもなく惹かれてしまう僕も、錯覚してしまっているのだろう。
(そんな顔も、できるんじゃん……)
ただその錯覚でさえも、今はもう少し、味わっていたい。
そう思う自分は、不思議なほど強く確かに、僕の中に存在していた。