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第五夜 終わらない過去

 僕が目を覚ましたのは、夕方になってからだった。

 どうやら、一日中寝てたらしい。

 掛け持ちのバイトが休みとは言え、貴重な休暇を無駄にした感が否めない。


 ユメヒトの仕事を見ると言う僕の提案に、倉敷さんは何も返さなかった。

 百日紅と、白ユリの花束に目を細めるばかり。

 「明日も会えますか?」と聞いてようやく、倉敷さんは首を縦に振った。


 今になって思えば、なんてこと聞いたんだ、と頬が赤く染まる。

 倉敷さんは、僕が気があると気付いただろうか。

 いや、僕は本当に倉敷さんに気があるのだろうか。

 分からない。いや、分かりたくなかった。

 ひょっとすると僕は、怖いのかもしれない。


 幸いなことに、夜までには時間がある。

 このこっ恥ずかしい、やるせない気持ちを忘れるのに、空いた時間は一役買ってくれることだろう。

 そう思っていた、矢先のことである。


「弟ぉぉお!」


 空いた時間が一役買う暇さえない。

 諸々の感情は、ただ「驚き」と言う感情に塗り替えられていく。「姉さん」と言う、魔王によって。


「ノックぐらいしろよ弟ぉぉお!」

「そりゃこっちの台詞だよ、姉さん」

「あねちゃんと熱くなろうじぇぇぇ!!」


 本日の姉さんは、どうやら熱血系らしい。

 確かに外は寒いけど、暑苦しいのは勘弁だ。

 と言うか、会話のキャッチボールを場外ホームランで打ち返すのは止めてほしい。


「暑苦しいのは御免だよ、姉さん」

「冷めた態度の男は、イケメンじゃないと無愛想なだけだゾ!」

「それ自分の弟のこと、遠回しに「イケメンじゃない」って言ってない?」

「正解っ!」

「帰ってくんない?」


 深い、深い溜め息が溢れる。

 肺中の空気が抜けたような脱力感が、僕の体に重くのし掛かった。

 

 僕も姉さんも、互いのことを名前では呼ばない。

 僕は姉さんを「姉さん」と呼び、姉さんは僕のことを「弟くん」と呼ぶ。

 家族なんてそんなもの、と言えるのだろうか。

 僕が「姉さん」と呼ぶのは普通だろうけど、姉さんが僕の名前を呼ばないのには少し違和感を覚える。


「姉さん」

「なんだぁ! 弟ぉ!」

「僕の名前、覚えてる?」

「へ? 三条さんじょう千秋ちあきくん、でしょ?」 

「正解。自分の名前は?」

由香ゆかだよ~」


 よかった。家族の名前まで忘れたのかと思った。

 こないだは自分のこと、「三条実美やで」とか言ってたから。


「それで、何か用?」

「おお、そうじゃった!」


 普段熱血キャラなんて無縁な姉さん。

 その熱血キャラは少しズレて、どちらかと言うと偉人のように厳かになっている。


「真面目な話なんじゃよ」

「じゃあ口調戻して」

「わかった」


 真面目な話なのに、溜め息が溢れるのは何故だろう。

 姉さんと真面目な話をするのは、いつぶりだったか。

 少なくとも、姉さんのバイト先に行った時は、テンションMAXでふざけていた。

 そして店長さんのチョップを喰らってうずくまっていた。


 なら、親父が出ていった時か。母さんが死んだときか。

 いや、いずれの時も姉さんは影で泣いて、僕の前ではふざけていた。ふざけて、いつまでも泣いていた僕を、笑わそうとしてくれた。


 わからない、わからないな。

 真面目な姉さんが、何を話すのか。

 僕は姉さんのことを、あまり知らないのかもしれない。

 この全く似ていない姉が、実は死んだ母が引き取った養女で、血が繋がってないってことぐらい。そんなことは、過ぎてみれば案外どうでもよくなる。時間が解決してくれたことだ。


 けれど、「姉さん自身」のことは?

 姉さんが何を考えて、何を背負っているのか。姉さんのことを、弱さを、僕は知らない。


「弟くん、何か隠してないかな?」


 鼻の奥が、ツンと痛んだ。

 プールで溺れた時のように、鼻に水が入った時のように、ツンと。

 昔からそうだった。

 僕は何か都合の悪い時、決まって鼻の奥が痛んで、顔をしかめる。お陰で僕は、嘘が吐けなかった。


「相変わらず、嘘が下手だね。君は」


 この可笑しな体質のせいで、嘘を吐けなかった僕。

 いつしか、嘘を吐こうとすらしなくなった僕。

 それでも、今回ばかりは嘘を吐けと、脳が警鐘を打ち鳴らす。


「嘘じゃない、よ――っ?」


 ふわりと、やさしい香りが鼻孔いっぱいに広がった。

 それが淑やかな華の香りなのか、はたまた石鹸の匂いなのか。

 とにかくそれは、ひどく暖かくて、やさしくて。圧倒的な安心感が、僕を包みこむ。

 程なくして、僕の視界はビー玉を覗いたように歪んだ。


「いいんだよ~、弟クンはそれで。隠し事なんてさ、誰にでもあるものなんだよ。だから、何も心配しなくていいんだ。大丈夫、大丈夫……」


 大丈夫――

 僕を抱き締めた姉さんの柔らかな温もりは、僕が溜めた涙よりも暖かくて、どんな布団よりも僕を暖かく包み込んでくれる。

 やっぱり姉さんには敵わない。

 悟ると同時に、焦燥が燻り出す。早く自立しなきゃ、これ以上姉さんに負担は掛けられない、と。


 僕には僕の人生がある。誰が決めるわけでもない、僕の人生が。

 それと同じように、姉さんにも姉さんの人生がある。

 僕なんかが邪魔しちゃいけない、大切な人生が。


「有り難う、姉さん」


 言いつつ、姉さんの肩を押して体を引き離す。

 触れれば折れてしまいそうな華奢な肩に、大きな重荷を背負って、それでも不敵に笑っている姉さん。

 いつも僕を笑わせてくれる姉さん。

 いつも風呂場で、一人泣いている姉さん。


 ただ感謝するだけじゃ、有り難うは足りなくて。それでも、それ以外に感謝を伝える術を知らなくて。

 押し退けた姉さんの肩を、もう一度抱いた。今度は僕から。


「ありがとう、姉さん。大丈夫だから」

「弟ぉぉ……」


 自分から身を引いた姉さんの目は、おはじきみたいに煌めいていた。


「なんで姉さんが泣いてんだよ」

「うるさいぃ……」


 涙を堪えるように、姉さんは瞼を固く閉じた。

 姉さんが夜、シャワーを浴びながら泣いてるのは知っている。

 けれど実際には、姉さんの涙を見たことはない。


「姉さん」

「ん、んー? なんじゃあ、弟よ」

「泣きたい時には泣いて、楽しい時には笑ってほしい。

 シャワー浴びながら泣いてるの、隠さなくていいからさ」


 真っ直ぐに目を見つめて言うと、姉さんは白い頬を真っ赤に染めた。


「な、なんで知ってるの……?」

「風呂上がりの姉さんの目、腫れてるから」

「こ、コンタクトの練習だよ……」

「姉さん、目だけはいいだろ。一緒に住んでる僕にまで、嘘吐かないで」


 こっ恥ずかしいセリフだ。歯が浮く。

 それでも、こうまで言わなければ姉さんは、いつまでも嘘を吐き続けるだろう。

 僕はいい。ただ、姉さんは姉さん自身にも嘘を吐いて、誤魔化している。それはいけないことだと思う。月並みではあるけれど。


「それは弟クンも同じだよっ! 幸せになるのは、二人一緒だからね!」


 照れたように頬を染めながら、姉さんは笑った。

 暮れかけた陽に照された姉さんの笑顔は、太陽が乗り移ったみたいに明るく、綺麗だ。

 僕みたいなのが、俗に言う天の邪鬼と言うヤツなんだろう。

 いつか泣かせたいな、と思ったけど、それは胸の奥に仕舞っておくことにした。

 姉さんが、幸せになるまで。


「今日はあねちゃんが飯作るよ!」


 その日の夕飯は、何故か張り切った姉さんの手料理になった。

 シーフードドリアと茄子の味噌汁とフォーと言う、えげつない献立だ。

 それでも僕は、お腹も空いていたこともあり、有り難く頂いた。


 何より、あんな話をした後だ。

 今日ぐらい、甘えても罰は当たるまい。


 そう思って、姉さんの料理を平らげた僕は――お腹を壊した。




 ◇◆◇




 僕がその夢を見たのは、久しぶりに"死"を間近に感じたからなのかもしれない。

 理由は言わずもがな。姉さんの手料理である。

 壊滅的な料理を、小学生の机の引き出しみたく、ギュウギュウに胃の腑に詰め込んだ僕は――死線をさ迷った。

 そして、夢を見た。古い古い、モノクロの記憶を映した夢だ。


 夢の中の、記憶の中の父は、優しかったと思う。

 視線が低くなった僕は、多分子供に戻っていて、父に渡されたバスケットボールは異様に大きかった。


『打て、シュート!』


 両手で抱えるようにして持たなければ、落としてしまいそうな程大きなボール。

 独特のゴムの臭いを鼻一杯に吸い込みながら、子供の僕はボールを投げる。


『ナイッシュー千秋! お前は天才だ!』


 誰よりも僕を誉めてくれた父。

 誰よりも熱心に僕を教えてくれた父。ちょっと抜けた所があるけど、決して嘘は吐かない父。

 そんな父に誉められたくて、僕はバスケを続けた。


 母さんが死んだのは、中一も終わりの晩冬。

 丁度、今くらいの時期だ。母さんは肝臓の病気で入院していた。

 枕元に活けられたユウゼンギクは、その一本だけが萎びていたのを、今でも覚えている。


 ──残された時間を、ご家族で有意義に過ごしてください


 芝居がかってるとさえ思えた医者の台詞は、未だに僕の耳を蝕む。

 多分、一生忘れないことだろう。

 苦しみながらも笑う母さんも、その末期の淡い微笑も。そして何より、母さんの葬儀で、父に投げた糾弾も。

 僕は、絶対に忘れない。


 母さんの死に際して、父がどんな顔をして、どんなことを言っていたのか。それは不思議と、朧気にしか覚えていない。

 黒靄くろもやが掛かったように、父に関することだけが切り取られていた。


『死んだか……』


 ただ一言。

 そんなことを言った父の背中だけは、今も眼底にこびりついている。


 夢の中の僕は、父にありったけの罵詈雑言を叩き付けていた。

 夢の中だけなら救われたのに、この記憶は全部現実で。今さら、覆しようもなくて。

 現実の過去に、僕は「なんでお前が死なないんだ」と直情的に考えて、父をなじっていた。



 喚き散らしながら慟哭した日のことを、僕は未だに覚えている。

 張り裂けそうな胸の痛みも、弱々しく僕を睨む、父の目も。僕にはもう、誰にも許してもらう資格はない。


 そして父は、僕たちの前から姿を消した。

 後日、母さんが死ぬ寸前、父と離婚していたことを知った。

 父との関わりは一切要らない。血の交わりでさえも鬱陶しく、穢らわしい。

 おぞましい関係を断ち切りたくて、僕は中学二年でバスケを止めた。


 そうして僕と姉さんは二人っきりになった。

 優しかった母さんは死に、親父は音信不通。

 両親の駆け落ちで、親戚中からは勘当。

 遺された僕たち二人の姉弟は、一つ屋根の下。震えながら身を寄せあって、日々を薄給の日雇いアルバイトで食い繋いできた。

 それでも。高校の卒業まで毎月振り込まれていた、振込元不明の養育費に頼ることしか出来ない無力な自分を呪いながら、僕は必死に働いた。


 〈ユメヒト〉と言う仕事に就いた今も、過去は僕にとっての"今"であるらしい。

 死んでしまった母さんのことも、父を罵倒したことも。

 全部が全部、終わらない過去のように、僕の胸を締め付ける。


 そんな痛みに苛まれて、何度「死にたい」と思ったことか知らない。

 だが、母さんが死んで。〈ユメヒト〉として死者と会話して。僕の中での死の定義は、あやふやになった。


 あやふやな死生観。渦巻く、終わらない過去。

 血の繋がらない弟を、ズダボロになっても支えなければならない、姉さんへの罪悪感。

 それら全ての事象が、渦潮のように渦巻いて、僕を呑み込む。


 海中に引きずり込まれる僕。

 もがく僕に取り付く渦は、その一つ一つが映画のフィルムのように、過去の走馬灯を走らせる。


 夢と現。生と死。

 全てが渾然一体となった海底で、僕は死ぬ。

 それが本当に死んでいるのか、生きているのか。

 それが夢なのか、現実なのか。そもそも、現実とは何なのか。

 分からなくなって、僕は目を覚ました。


「また、この夢……」


 硬いベッドから跳ね起き、僕は片手で顔を覆った。

 チラと見た壁掛け時計は、深夜の1時を指している。


 彼女と――倉敷さんと会う時間だ。

父親が胸くそだって?

理由はあるんやで……文字数がないんやで……。

ちゃんとした理由を書きたいものさ。

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