第四夜 僕です
神様なんて大嫌いだ。
いつも僕のような貧乏人を弄んでは、倉敷さんのように殺してしまう。
「自殺」と言う、最も残酷な形で。人を殺すのはいつも人であって、自分を殺すのは、あくまで自分。神様のせいなんかじゃない。
そんなことはとうの昔に知っていて、でもそんなことは、絶対に認めたくない。認めれば、倉敷さんを否定してしまうような気がした。いや、自分自身を否定してしまうような、そんな気がしたんだ。
僕は少し、倉敷さんに肩入れし過ぎている気がする。あれから三日。あの日の夜、「夢を見せてください」と言った倉敷さんに、僕がなんと答えたか。それは酷く曖昧で、ともすれば非現実的にさえ思えた。夢を見せる仕事のはずが、夢を見ているように現実味がないんだ。
そんな日々が、丸々三日。
姉さんのハイテンションに付き合いつつ、死者からの依頼をこなす。いつもと変わらない日常。それなのにどこか気はそぞろで、仕事にも熱が入らなかった。そんな日の、夜──
「……ユメ」
不意に、僕の目の前に白い顔が現れた。
「え、倉敷さん? なんでこんな所に?」
「散歩ですけど」
「散歩? いやでも、ここ……」
言いながら、辺りを見渡す。
梢に包まれ、ほとんど意味をなさない街灯。隅に置かれたベンチ。一本の百日紅の木と、その傍らに供えられた、萎れた白ユリ。僕が倉敷さんと会った、あの公園だ。ほんのちょっと歩くだけだったはずが、気付けば随分と遠くへ来ていたらしい。
「なんで僕、ここにいるんだろ」
「知らないです」
「ですよね」
知らないのも当然だ。だって僕も知らないもの。「座りましょう」と倉敷さんに勧められて、僕達は並んでベンチに腰を下ろした。
「いつになったら……」
「え?」
「いつになったら、夢を見せてくれるんですか?」
酷く冷たい口調だった。驚くほどに感情の抜け落ちた、腸を冷やす声。それが、耳元ではっきりと。
倉敷さんは自殺した。そして、幽霊になった。その事を唐突に思い出して、痘痕が爪先から頭の天辺まで駆け抜ける。
「夢、ですか」
正直、何も覚えていない。あの日の夜は、夢のように曖昧で、何かあった気がするのに、何も思い出せない。酒はあまり飲んだことがないけれど、酔えばこんな感じになるのだろう。ふわふわして、体が熱くなって。少し、頭が痛んだ。
「あれから三日。毎日あの公園にいったのに、ユメヒトさんは来ませんでしたよね」
「あ、いや、それは……」
それには理由がないでもない。忙しかったのだ。三日間、必ず一日に一件は依頼があったのだ。上の空の流れ作業だったから、あまり忙しいと言う感覚はなかったけれど。
「夢、見たいんですけど」
「すみません。あの、じゃあ誰の夢に立ちたいとかの希望はありますか?」
「え?」
「初耳です」と言わんばかりに倉敷さんは首を捻る。その説明は最初に会ったときに教えたはずなのだけれど。もしかしたら倉敷さんは、僕よりも天然なのかもしれない。
「夢を見せることは出来ません。死者からの依頼が主ですから。死者は夢に立ち、生者は夢を見る立場ではなく、「生き霊」として夢枕に立つ側に回っていただきます。どのみち僕は、手助けをするだけです」
忘れてしまったのなら、一から説明する他ない。それでも倉敷さんが納得しないようなら。「死んでいない」と言うのなら。その時こそ、勇気を振り絞って言おう。
『あなたはもう、死んでいます』
と。いつまでも自分の死を受け入れられないままでは、成仏は出来ない。
仮に彼女が、自分を「生き霊」と思い込んで誰かの枕元に立ったとしよう。果たしてそれで、彼女は成仏するのだろうか? 彼女は、自分の自殺に気付くのだろうか?答えは――否だ。
それなら、やっぱり面と向かって言ってしまった方がいいんじゃないだろうか。多少頭ごなしの押し付け問答になったとしても、はぐらかして見て見ぬふりは出来ない。倉敷さんを、騙しているような気がするんだ。
「……私、生きてるんでしょうか。死んでるんでしょうか」
倉敷さんは、どこか遠い目をしていた。ポツリと呟いた言葉は、誰かに答を聞いている訳でもないのだろう。それなのに僕は、喉元にナイフを突き付けられたような、空恐ろしい気持ちになる。
「死んでも人の心に残る人がいれば、歯牙にも掛けられない人もいます」
「あるいは」と言葉を置いて、倉敷さんの空虚な瞳が、僕を見据えた。
「生きていても何の歯牙にも掛けられず、目標も理由もなく、ただ流されている人もいます」
私は一体、どっちなのでしょうか。泣きもせず、自嘲もせず。ただ静かに諦めきった目が、僕を見つめていた。実際、ここまで諦めきっていたから自殺なんてしたのだろう。深い絶望を海のように湛えたその目からは、もう何も読み取ることはできない。
「人が生きてる理由って、何なのでしょうね」
感情を殺した倉敷さんの顔に、一瞬だけ「悲しみ」の色が挿した。おかしな話だ。本当のことを言おうとして、何も言えなくなって。でも倉敷さんの悲しんでる姿を見たら、こっちまで悲しくなってくる。それが堪えきれなくなって、僕は口を開く。
「それがわからないから、"僕達"は今を生きてるんだと思います」
きっともう、この依頼を果たすことは出来ないのだろう。
「僕達」の部分を強調して、僕は後悔した。倉敷さんは、もう死んでいる。すっかり生きていると錯覚していた。それほどまでに、倉敷さんとの会話に「生」を感じていたんだ。
そして逆に、《ユメヒト》としての僕も、生者には見えない。他の人の目に見えることだけが「生きている」と言うのなら、僕もとうに死んでいるのだろう。
「未成年なのに、月並みな事を言いますね。ナマイキです」
「なんで未成年だって知ってるんですか?」
「言動で分かりますよ。子供っぽいですから」
「心外ですね。僕は相手に合わせてるだけですよ」
口が止まらない。久しぶりに、誰かとの会話が楽しいと感じた。同時に、もう少しこのままでいたい、とも。
その時に見た倉敷さんの顔は感情も薄くて、けれど決して冷たくはない。年相応の、少し柔らかい顔。
冷水を掛けられた時みたいに心臓がキュッと締め付けられて、呼吸が苦しくなる。
(ああ、きっと……)
僕は時間を掛けすぎたのだろう。
「倉敷さん」
「なんでしょう」と倉敷さんは微笑を消した。僕の口から出た言葉が、予想外に固かったからだ。
「倉敷さんは、そこの木にどんな人がぶら下がっていたか、知ってますか?」
よりにもよって、なんと言うことを聞いたのか。それは分からない。ただ、このままじゃダメだ、と思う僕が確かに存在していた。
「知りませんよ」
倉敷さんの反応も暗い。止せばいいのに、僕の口は止まらない。油を挿したように、こんな時だけ舌が回った。
「ここには、二十歳くらいの女性がぶら下がっていました」
「やめてください」
「長い黒髪に縄が絡まってて、でもまだ、少しだけ動いてて――」
「やめてください! 不愉快です」
キッパリと、強い口調で倉敷さんは僕を睨め付ける。確かに、女性にする話じゃなかいかもしれない。ましてや、未だ自分の死に気付かない本人にする話ではない。
それでも、僕は口を閉じなかった。「話さなければいけない」と、思ったから。
「……トラウマになりましたよ」
「見たんですか? 死ぬところを」
「いえ、すぐに逃げてしまいました」
首吊りで死んだ遺体は、正視に堪え得ないほどに惨たらしい。
未成年の多感な時期に彼女を見てしまった僕は、消えない記憶を刻まれてしまった。
トラウマ、と言ってもいいのかもしれない。逃げてしまったからその最期までは見れていない。
「でも、そう、見たんですよ、先週。木曜日の明け方に」
「え?」
「その女の人は、白のダッフルコートとベージュのスキニーを着こなした、自殺するにはあまりにも派手な格好をしていました」
震える手で、僕は倉敷さんの服を指差す。
倉敷さんの服は、初めて出会ったあの夜から変わらない。いつも同じ服を着ているのに、それは汚れているわけでもなく、下ろしたばかりのような清潔感がある。
その透けるような清潔感が、恐ろしいと思った。
「また私、ですか」
面倒くさそうに、倉敷さんは唸った。
「私が自殺したって言いたいんですよね?」
「はい」
普通、面と向かって「あなたは死んでます」なんて言われれば、気分を害するだろう。けれど倉敷さんは、面倒くさそうに振る舞うだけ。本当に、倉敷さんは自分の死に気付いていないのだろうか。今までの発言だって、結構時間軸に違和感があった。
『……私は自殺なんてしませんでしたよ』
『最近色々考え事があって、眠れなくて。だから、この公園にはよく来てたんです』
そう、倉敷さんの言葉は、どれも"過去形"だった。
自殺や死に触れる度、倉敷さんの言葉は過去形になる。ひょっとして、倉敷さんは自分の死に気付いているんじゃないだろうか。小雨の中の燕のように低く低く、その考えは僕の頭を低回した。
「仮に」
不意に、倉敷さんが声を発した。
「仮に私が、死んでいたとして。私が自殺したと言う根拠はあるんですか?」
いつの間に俯いていたのか、僕の視界には自分の膝が広がっている。ジーンズの膝で握られた拳は、白くなっていた。
「あり、ます」
震えた言葉を吐き出すと、握った拳も震えた。
「自殺したあなたを発見したのは――僕です」
先週の木曜日。
ユメヒトの仕事を探して、僕はこの公園に来た。時の頃は明け方。早朝の散歩の意味も含めての散策中に、彼女は僕の目にその姿を刻んだ。
「あなたが自殺した女性だと気付いたのは、あなたが僕を訪れた日。あなたと別れた後のことです」
それ以上、倉敷さんは何も言わなかった。
相変わらずの鉄面皮で、背後の百日紅を眺めるだけ。その浮き世離れした目は、根本の白ユリが風に揺れる度、物憂げに細まった。
「ほんとは、気付いてるんじゃないですか?」
「何がですか?」
「ご自分が、もう死んでるってことです」
「もう、いいです」
倉敷さんは、それ以上何も言わなかった。
薄雲に霞んだ、逆眉の月輪。その夜の月はいつもと同じで寒々しく、そして僕を咎めるかのように、刺々しい淡光を放っていた。
こんなにも長く夜風に当たったのは、いつぶりだろうか。
東京の空は、既にしらみ始めていた。切なく点在する名残の星々は、人の命を思わせるように、淡く瞬いている。暁月はもう、遠方の高層ビル郡に沈んでしまった。
「ユメヒトさん、帰らなくていいんですか?」
あの問答の後から一度も口を利かなかった倉敷さんが、重い口を開いた。倉敷さんは、たぶん僕を見ていないだろう。僕だって、倉敷さんのことは見ていない。
固く握りすぎて白くなった拳を、僕はずっと見つめていた。
「今日はバイトがオフ日なので」
「そうですか」
僕が言葉を紡ぐ度、白い息は空に消えていき、倉敷さんが口を開く度、僕は切なくなる。倉敷さんは、もう呼吸をしていないのだ。白く延びる息は、もう彼女の中には残っていなかった。
何も考えていなかった訳ではない。倉敷さんのことばかりを考えて、僕はずっと固まっていた。倉敷さんが見たいと言う、夢のこと。倉敷が、自分の死に気付いているのか、否か。これから僕は、倉敷さんは、どうすればいいのか。
考える度に頭はこんがらがって、その度に僕は拳を握り締めた。眠たかったけど、切り忘れていた爪が掌に食い込んで眠れなかった。
僕には、ひどくものを考え込む性がある。気になったことをそのままにすることは嫌いだったし、問題解決のためには一日ぐらいの睡眠は不要だった。
「あの、倉敷さん……」
「死んだの死んでないだのの話はナシです」
「違いますよ」
一晩寝ずに考えた。そして、思い付いたことが一つ。それが彼女の癖なのだろうか、小さく首を傾げた倉敷さんに、僕は問い掛けた。
「――〈ユメヒト〉の仕事、見てみませんか?」
東京は、猥雑なのにどこか静かな、冬の夜明け。僕達の顔を、憎々しげに煌めく朝陽が照らした。




