第二夜 ユメヒト
故人が夢に現れることを、古く人は「夢枕に立つ」と言った。
励まれたり、頼み事をされたり、何喋らず微笑んだり。或いは、酒を酌み交わしたり……。仮に言葉なんてなくても、生前と変わらない元気な姿を見て、安心する。
夢枕に立つとは、悲しみを乗り越えるための、死者からの「エール」なのだろう。僕は、そう思う。そう思って、僕はこの仕事をしている。
訪れる人の相談に乗り、夢へと誘う。そんな、少しロマンチックな仕事を、僕はある種誇りにさえ思う。
誰が呼んだか。そんな僕のことを、人は『ユメヒト』と呼んだ――
僕がその女性に出会ったのは、まだ木枯らしも吹き止まない、冬ざれの日のこと。人工物で溢れる東京の、どこか荒れて寂れた日は、冬も盛りの頃である。
ニュースは路面凍結の注意を呼び掛け、街角では人々が寒空に愚痴を溢す。つい数日前に自殺があった公園では、何も知らない子供達の笑い声が響いていた。
「子供ってすごいなぁ。自殺あったのに、平気なんだ……」
怖くないのだろうか。僕は公園に置かれたベンチの背もたれに、ズルズルと身を沈めた。見上げた空には電線が走り、重い雲が冬空に溶けている。
「すみません」
不意に、謝罪とも呼び掛けとも分からないような声が、僕を呼んだ。透き通るように美しい、冬の陽射しのように清廉な声だった。
「あの、〈ユメヒト〉さん、ですか?」
振り返った僕の目に、首を傾げた女性の姿が飛び込んでくる。
清楚な印象を受ける黒の長髪と、すらりと流れる秀でた鼻梁。控えめな桃色が線を引く、薄い唇。白のダッフルコートとベージュのスキニーが、冬の遠い太陽の下にボーっと浮かんで見えた。
「はい?」
久々に上げた視界に映った彼女は、僕にとって初めて見るような、美しい女性。
一目惚れだとか、恋煩いだとか。そんなことは一切抜きにして、ただただ純粋に、綺麗な人だと思った。
「え、あ、はい。僕が〈ユメヒト〉ですが……」
見とれて一瞬、言葉に詰まる。
あまりに華奢なその佇まいが、どこかで見たような気がしたから。
「あ、えと、お名前は?」
「倉敷千草です」
その口調にはどこかトゲがあって、声音は冷たい冬をそのまま映したみたいだった。
倉敷千草。千の草と書くのだと、彼女は丁寧に教えてくる。
淑やかな名前ですね、と言うと「どうも」と表情一つ変えずに一瞬目を逸らした。
「えっと、〈ユメヒト〉の広告を見て来ました」
「あ、はい、有り難う御座います」
「それだけです」
「えっ?」
不思議な暇人。それが最初の印象だった。
目的もなく、たまたま見つけた広告を頼りに胡散臭い男を尋ねる。きっと好奇心が強いのだろうと思ったけれど、彼女の氷みたいに冷たい顔は、僕の邪推を否定しているみたいだった。
「あ、じゃあ興味が湧いた、とかですか?」
「いえ全く。興味ないですから」
隣失礼します、と言って倉敷さんは古びたベンチの右側に座った。
「話は変わりますが、ユメヒトって何ですか?」
「それ、たぶん話変わってないです」
「変わってます、変わってますから」
倉敷さんの巻き気味な言葉。人はそれを興味が湧くと言うのだと、ぼんやりと考えながら、下らない都市伝説の一説を思い起こす。
僕の仕事〈ユメヒト〉は、巷では軽く都市伝説として囁かれている。
《生者に夢を、死者には逢瀬を。我ら夢負い人は、生死の狭間に夢を背負う》
どこにでもある張り紙の、猥雑な群れに埋もれたその広告を見つけた時。
あなたは夜に包まれる。暗い世界はあなたを一時覆い隠して、そのそばには死者と男を立たせる。
死者はあなたが最も逢いたい、大切な人。男はそれを、あの世から導いてきた天国の使者。
男は言う。『夢を見ないか』と──
「とまあ、大半が嘘のくだらない噂です」
まことしやかに囁かれている噂は、大半が噂が一人歩きしたものだ。死者の口寄せだなんて、出来っこない。
実際は、死者の悩みを聞く。そして死者が望めば、望む生者の夢枕へ立たせて差し上げる。細かい制約はあるが、大まかにはこの2ステップだけだ。
生者からの依頼では、夢は見せられない。
因みに、給料は何処からともなく銀行口座に振り込まれる。口座どころか、名前すら教えたことはないけれど。
「そうですか。それで、あなたがそのユメヒトさんなんですか? 本当に?」
「ま、まあ、そうですね」
真っすぐな倉敷さんの目に、僕は目を逸らす。興味がないと言った割に、彼女の食いつきは女子高生のそれだ。
ちょっとした噂話をこよなく愛して、小学生の頃には消しゴムカバーで好きな男子の名前を隠していた。そんな少し個性的なだけの、どこにでもいる年頃の少女なのだろう。歳の頃も僕とそう変わらない。
「ですが一つ、根本から間違っている点があります」
「なんでしょう? 教えてください」
逸らしていた目線を倉敷さんに返す。薄緑の瞳の半分を気だるげな瞼に覆われた瞳が、至近距離から僕を覗き込んでいた。
「く、倉敷さん?」
「はい、なんでしょう」
「顔が、近いですよ……」
本来であれば、息のかかる距離。薄緑に黒を散りばめた瞳。僕の鼓動は否応なく高鳴って、ドキドキと鳴る鼓動が、彼女に聞こえそうで。僕は咄嗟に、また顔を背ける。
木漏れが差し込むベンチに二人。止まったみたいに静かに流れる時間の中で、僕の鼓動だけがいつもより少しだけ大きく聞こえた。
「すみません、取り乱してましたね」
背けた顔の後ろから、倉敷さんの冷たい声が聞こえてきた。
チラリと倉敷さんの様子を探る。水族館の水中トンネルを覗いたみたいな、屈折した光の中。彼女はその視線を冬の空に溶かしていた。
冬の花火みたいにキラキラと淡く光る瞳と、控えめな桃色が線を引く、薄い唇。滑らかな曲線が描く、白く細い首筋。ふっくらとした胸の膨らみに目線を落として、ハッと顔を上げる。
倉敷さんの長い髪から覗く耳が、赤らんでいた。
「っ、じゃあ、続けますね──?」
見てはいけないものを見てしまったような気がした気がして、目を逸らして。忘れかけていた本題で、お茶を濁して。
振り返った先に、けれど彼女の姿はない。
灰色の冬の陽の中にはもう誰もいなくて、残されたロープの切れ端だけが、背後の百日紅の枝に揺れている。
「やっぱり。どこかで見た顔だと思った……」
チラリと萎びた白ユリに目を流し、僕は嘆息する。
僕の仕事は、故人が夢で生者との逢瀬を果たす、手伝いをすること。
「長年連れ添った妻に別れを言いたい」等と言った死者からの依頼を、夢枕に立つと言う形で実現する。だからこの仕事の広告は、生者には見えないのだ。
「ユメヒトの広告を見つけられるのは『既に亡くなっている方』だけです。なんて、言えないよな」
僕が座ったベンチの背後。数日前に自殺があった百日紅の根本で、供えられた白ユリの花が静かに揺れていた。
──それが、倉敷さんとの出会いだった。
変わった人だったと思う。
触れれば消える雪みたいな儚さと、真冬の星みたいな強い煌めきを、氷の表情で隠している。
一言で例えるなら、真冬の花火のような人だった。
いつか彼女の氷を溶かせたら、その花火はもっと綺麗な華を咲かせてくれるのだろうか?
最初は多分、純粋な好意だったんだと思う。
けれど、今となっては。その蛍の光みたいに淡くて、砂場で見つけた綺麗な石ころみたいに小さなその感情を、恋と呼ぶのか。僕は少し、迷ってしまっている。
ふとした瞬間の、彼女の表情。隠しきれない好奇心に弾む語気。たおやかな白い指。
思い出す度に胸が苦しくなる。何かが。苦い何かの塊が胸につっかえたみたいで、思ったように息ができない。
雪。
冷たくて儚くて、触れれば消えてしまう。
たぶんそれは、真冬に愛を求める蛍の幻影と似ていて。
ふとした瞬間に、瞼に焼き付く彼女を思い出す度、淡い何かが解け出して、胸を冷たくて濡らす。
彼女と会えない日々が続く度に、思考の端には常に彼女がいた。
それをもどかしいと思うようになったのは、きっとこの日からだったのだろう。
今さらわかっても、もう遅いというのに。