夜明け さよならの消失点。
柔らかな風が、頬を撫でた。
採光用の天窓から染み入る優しい光が、病院内の時間をゆっくりと進めている。
「経過は順調だね。今のところ、薬で抑えきれてます」
丸眼鏡に痩せた頬の医師は、診察を終えたなり嘆息した。
今日は肝炎の診察日。僕の肝炎は早期に近い発見だったから、薬で抑えきれている。
僕の母を助けられなかった今井先生は、せめて僕だけは、とずっと僕を気にかけてくれている。
何としてでも、僕を助けたいらしい。
「次はまた一週間後、今度は奥さんも連れてきなさい」
「由香を?」
「そう、予防接種だ。肝炎は接触感染するからね」
何となく、今井先生の言おうとしていることがわかる。
けれど、あんまり考えたくはなかった。
きっと考えるだけでも、僕の頬は茹で上がりそうだから。
「これくらいかな、お大事にね」
手短に日頃の注意を並べた後、僕は退室を許された。
ここ二ヶ月間、来る度に言われるものだから、僕も暗記してしまった。
「有り難う御座いました」と言って診察室を出る。
院内を流れる時間は、病院と言う場所柄もあってか、朗らかな静寂に包まれている。
倉敷さんと別れて、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。
相も変わらず猥雑な世界はごちゃごちゃと回り続けて、けれど代わり映えのない日常が、僕達の中を流れていく。
倉敷さんは、如何お過ごしでしょうか?
僕はまだ、ユメヒトを続けていますよ。
あの世の許可が下りたら、また逢いに来てください。また白ユリの花束を供えて待ってます。
とは言っても、少しツンデレの気質がある倉敷さんは、恥ずかしがって来ないのでしょうけど(笑)
え? 僕が記号を使ってるって?
ああ、倉敷さんとはメールもしていなかったから、知りませんでしたよね。
じゃあ今だから言います。
実は僕、文面だと結構ユルいんです(笑)
唯一メールする人が、由香しかいませんから。あのテンション、何気に伝染るんですよ……。
ああ、そうそう。僕、結婚しました。
相手はその、姉だった由香です。
倉敷さんのお陰ですよ。こんなこと言ったら、あなたは拗ねてしまうのでしょうけどね。
そう言えばこの前、知人の警官から聞きましたよ。
倉敷さんは、本当に自殺じゃなかったんですね。他殺だ、って。ニュースにもなってましたよ。
改めて、勘違いしてすみませんでした。
僕、本当に倉敷さんのこと好きだったんですよ?
でも一目で、死者だとわかってしまったから。あなたの遺体は、僕が見つけてしまったのだから。
だから僕は、諦めるしかなかったんです。
もう少し、早く出会えていたら、どうだったんでしょうか?
僕は倉敷さんと交際していたのでしょうか?
いや、それは無いでしょうね。僕も倉敷さんも根暗だから、会話すらしなかったでしょう(笑)
それと、最後に一つ。
本当は僕、とっくに倉敷さんの依頼を受けてたんです。
ユメヒト手帳、あの革装丁の手帳には、あなたと出会う前から『倉敷千草』の名前がありました。
けれど僕は、怖かった。僕が見つけて、そして見捨ててしまった倉敷さんに、もう一度死の現実を突き付けるのが。
怖かった。あなたと、別れてしまうのが。
けれどもう、僕は怖くない。さよならはやっぱり悲しいけれど、何も悲しいことばかりじゃない。
さよならが、前に進めてくれる事もあるのだから。
次に「根暗な女の人」から依頼が入ったら、僕は真っ先に依頼を受けます。
予約を入れておきましょうか、倉敷さんが逃げられないように。
だからまた、いつかの明日……さよならの消失点で──》
手紙を書き終えて、僕は家を出た。
錆びたキーを回し、自転車に飛び乗る。
夜露に泣いたサドルから腰を浮かせて、ペダルを踏み込む。
随分と油を差していないギアが、ギィギィと哭いた。
重いペダルを漕いで漕いで、自転車は走る。
彼女が消えてから一度も訪れていなかった、あの白ユリが揺れる木の下へ──
◇◆◇
このお話は、これで終わりです。
けれど今でも時おり、ふと思うんだ。
「倉敷さんが、あの公園で待ってるんじゃないか」と。
そうして、いるはずもない彼女を思っては、「倉敷さんはもういない」と頭を振る。
倉敷さんが消えた明日。
僕は人生で初めての失恋を経験し、そして、人生で初めて訳もわからず涙を流した。
緋色と群青の境目。
生も死も、夢も現も、思い出も倉敷さんも。
全てが吸い込まれるように消えていく消失点に、僕だけが取り残されてしまった。
けれど僕はもう、寂しくも怖くもない。
夢枕に立つ――
故人が生者の夢に立つことを、古く人はそう呼んだ。
切なくも暖かな故人との再開は、ちょっと不思議な話のタネだ。
けれどその不思議は、案外誰にでも訪れて、等しく暖かい時間を与えてくれる。
僕が体験した出会いは、そんなちょっとした、けれども誰にでもある、少し不思議な話。
だけど僕は、決して忘れない。
ユメヒトとして関わった、全ての人を。
僕に生きる希望をくれた、ちょっとおかしな、一人の女の人を。
倉敷千草の存在を、僕は終生、胸に抱いて生きていく。
「アキくん、幸せになろうね」
「そうだね。由香と僕の二人で、とびきり幸せに」
隣で太陽のような笑みを振り撒く、由香に寄り添って。
僕達生者は、歩いていく──
これにて「君が消えた明日は、さよならの消失点。」、完結で御座います。
皆様のご愛読、時に鋭く、また時に暖かくお掛けいただいたお言葉のお陰で、完結まで漕ぎ着けることが出来ました。
応援、本当に有り難う御座いました。




