第二十六夜 おはようございます
あれから、幾つもの夜が明けた。
世界は変わらず回り続けて、夜は変わらず訪れる。
僕も変わらない。
僕は《ユメヒト》。
死者を最期の夢へと導く、生と死の狭間に佇む者。
生と死の一切を惜しまず、触れず。そして寄り添っていく。
僕はこの仕事に、誇りを持っている。持っている、はずだ。
数夜の前。僕達が見た夢は、霧中の小さな花のように曖昧で──
(あれ?)
起き抜けの体を起こして、僕は目を擦る。
春前のあの夜の夢から、数日経った世界。
春はもう、彼岸の縁に立っている。
ふとした拍子に、胸を揺らす言葉に、僕の鼻はツンと痛む。
──僕達って、誰だ?
久方振りに夢を見たことまでは覚えている。
けれどその夢は雲のように取り留めもなくて、誰が出てきたかも、もう覚えてはいない。
《ユメヒトさん──》
冷たく、淡白な声。
感情を忘れてしまったかのように白い声が、鼓膜を揺らす。
それはきっと、単なる幻聴に過ぎないのだろう。
けれどその幻聴の声を、僕は知っている。
「え? 最近アキ君と喋った人?」
朝食の席で由香に聞いてみた。
何故だろう。「知らなくちゃ」と焦る心が、僕を突き動かす。
「そう、知らない?」
「ん~、私以外は知らないなぁ~」
答えは出ない。幻聴ばかりが生き急いで、記憶を置き去りにするばかりだ。
「ありがとう由香。ちょっと出掛けてくるよ」
「あいあいヨ~、夕飯までには帰ってネ」
「うん、由香はこの後バイト?」
「いやぁ、就活さー。……いい加減、私も前に進まなきゃね」
「アキくんが、私に進んできてくれたみたいに」と照れ臭そうに由香は笑った。
その頬を掻く左手の薬指には、質素なプラチナの指輪が光っている。
春の涼しげな陽射しがそうさせるのか、僕達の世界は新生活モード一色に染まり出した。
──けれど、なぜだろう?
僕だけが、前に進めていないような気がした。
僕だけが、後ろに忘れてきた物を、未だに探しているような気がした。
僕だけが、まだ冬の中に取り残されているんだ。
「行ってきます」
「気を付けるんじゃヨ~!」
今日もキャラがブレブレな由香と別れて、僕は外へ足を投げる。
冬が去った春は、まだ少し寒い。
けれど静かに息づく桜の蕾は、もう僅かに開きかけていた。
行く宛はない。
ファミレスのバイトも休みだし、今のところ、死者からの依頼もない。
手持ち無沙汰な時間を、僕は町を歩いて潰す。
安いスニーカーは、歩く度にコンクリートの固さを伝えてきた。
僕はその足で、過去の夢枕を辿っていく。
そうすれば、この喉に詰まった「彼女」の存在も、思い出せる気がしたから。
《ユメヒトさん──》
また、あの声を思い出す。
冷たく、淡白な声。幻のように儚くて、けれどどうしてか、忘れることの出来ない声を。
僕は、知っている。
《私に、夢を見せてください》
《……私、生きてるんでしょうか。死んでるんでしょうか》
そう言った「彼女」の声を、僕はまだ忘れていない。
彼女の名前も、顔も忘れてしまったけれど。
──人が生きてる理由って、何なんでしょうね
その哀しげな声を、二度と聞きたくなかったから。
だから僕は、彼女に言ったんだ。
《――〈ユメヒト〉の仕事、見てみませんか?》
ユメヒトの仕事を通して、彼女に「人生」や「別れ」を知ってほしかったから。
例えその先が、さよならの消失点だったとしても。
「……ッ」
いつしか僕は走っていた。
みっともなく足をバタつかせて、溺れるように大きく口を開けて。
薄い靴底から伝わるアスファルトの固さが、僕の足首を痛め付ける。
それでも走った、走った、走った。
大事なのは「彼女」じゃない、会瀬を求める「死者」の願いなんだ。
僕はまた、間違っていた。
それを「彼女」に気付かせてもらった。
きっとこれは、初めてなんかじゃないのだろう。
「──♪」
走る僕。その耳を、あどけない旋律が揺らす。
遥か遠く、親子で歌いあった、望郷の唄。
「あら? 雪ちゃんその歌は?」
「パパと歌ったの!」
「あらあら、いつ歌ったの~?」
「夢の中だよ! でもパパったら、またお仕事行っちゃった~」
「……パパは、なんて?」
二人の会話で、僕は思い出す。
弁護士の父と娘が綴った、ネオン装飾の夢を。彼が最期に遺した言葉を。
「《笑っているんだよ》だって!」
「そっか……。なら、笑わないとね!」
「うん!」
二人の会話を置き去りに、僕はまた走った。
初めてだ、《ユメヒト》が生きている人間の訳に立ったのは。
初めだ、道標になれたことは。
僕の足は、また早くなっていく。
「ああ、第一志望に受かったよ。岡崎が聞いたら、どんな顔で悔しがるだろうな……」
雑踏を抜け、住宅街を走る。
向かってくる男性。その夢は、最期まで「今まで通り」に歪み合った男女の、白雨の夢。
──有り難う、大好き
静かに響く嗚咽と白雨の夢を、僕はまた思い出す。
「あんたは──」
男性とすれ違う一瞬、目があったような気がした。
振り替える男性の気配。止まらず走り去る僕の足。
僕達は生者。それぞれがそれぞれに歩むべき道がある。
夢の中での出来事は、現実に持ち出すべきじゃない。
だから僕は、振り返らない。前だけを見て、走っていく。
花冷えの空には一筋の光芒が舞い降りて、その周囲を光暈が躍り舞う。
その光が桜流しの空になるまで、あと、少し──。
◇◆◇
それからも僕は走り続けて、色んな生者とすれ違った。
バイク事故で喪った息子と再開した女性。年老いた祖母に慰められた、孤独な少年。
生き霊として、娘夫婦に生命の誕生を知らせた看護師の女性……。
どの生者の顔も生き生きとして、今を生きていた。
「さよならの消失点」の先に、明日を見出だしていた。
(僕は、どうなんだろうか?)
果たして僕は、消失点の先に何を見るのだろうか?
今はまだわからない。けれど、走った。
走らなければいけないと、心が騒ぐから。
……けれどその足は、すぐに止まってしまった。
「『ユメヒトさん』」
「──!?」
僕に呼び掛ける、誰かの声。
声音もなにも似ていないその声が、僕の中の「彼女」と重なったから。
僕の体は、名残雪を固めたように脆く固まってしまった。
「あなた、あの《ユメヒト》だったんでしょう? 四条三栗さん」
振り返ってすぐに、見知った顔が僕に笑いかける。
「若松さん……」
病で恋人を失った男性が立っていた。
その姿は少し窶れているけれど、あの夢の夜ほどじゃない。彼もまた、死者との決別を乗り越えて、明日を歩んでいた。
「その節は、お世話になりました」
「あ、いえ、僕は……」
「隠せてませんよ、《ユメヒトさん》?」
いじらしく笑う若松さんと、河岸さんの幻影が重なる。
きっとその笑顔は、彼が元来から持っていた笑顔。けれど、大切な女性の死で忘れてしまっていた笑顔。
そして、きっと──
《私が取り戻した笑顔なんだよ、ユメヒトさんっ!》
春の彼岸。桜が咲く前の、花冷えの空。
若松さんが最も好む蕾桜が枝を伸ばす空に、得意気な河岸さんの声が聞こえたような気がした。
その声は、きっと若松さんには聞こえない。
けれど、聞こえない方がいいんだろう、と笑ってしまう。
だって若松さんに聞こえていたら、頑固な彼はきっと「元からだ」と否定するだろうから。
「そうだ、今日はお一人なんですか?」
「え? はい、一人ですけど」
「あれ、前に会った時は女の人がいたような……?」
声もなく、悲鳴もなく。
僕の内蔵が、噴石みたいに持ち上がる。
持ち上がった内蔵に、心臓が圧迫される。
苦しい。息が、できない。
「女の、人……?」
「はい、途中からいなくなってましたけど」
若松さんと河岸さんの会瀬は、夢の中では行われなかった。
僕が直接会って、話して、そしてそこに河岸さんの声が響く。
そうして彼等は別れた。現実世界の河川敷で。
だから若松さんには、死者である倉敷さんの姿は見れなかったはずだ。
(あれ……?)
その違和感は、放っておけば消えてしまいそうな程ちっぽけなものだった。
けれど、放ってはおけなかった。
忘れられない、忘れてはいけない、ともう一人の僕が騒いだような気がしたから。
──なんで僕は、「彼女」が死んでいるって知ってるんだ?
声は覚えている。
でもその声が、死者のものか生者のものであるかは覚えていなかった。
覚えていることと言ったら、たったそれだけ。
ポケットサイズのメモ帳ですら埋められないほど、取り留めもない記憶だ。
けれど若松さんの言葉を聞いて、僕は思い出したんだ。
彼女はもう、死んでいる。
あの日の夢に出てきたのは、彼女だったんだ。
『倉敷──』
ドクンと、体全てが脈打った。
視界全てが明度を上げて、呼吸は荒く心臓が暴れまわる。
知っている、知っている、知っている。
僕はその名前を、知っていた。
「そう、《倉敷さん》だ。たしかユメヒトさん、桜の声が聞こえる直前にそう言ってた」
抑圧されていた記憶の奔流が、堰を切ったように溢れ出す。
清楚な印象を受ける黒の長髪。
白のダッフルコートとベージュのスキニー。
透き通るように美しい、麗らかな陽射しのような、けれどどこか憂いのある声。
『ユメヒトさん』
『私、死にたかったんです』
『私に、夢を見せてください』
『人が生きてる理由って、何なんでしょうね』
『遅いですよ、ユメヒトさん』
『私はもう、死んでいます』
思い出す。全てを、思い出す。
彼女はもう死んでいて、夢を見るためにユメヒトを訪れて。
そうして僕たちは、何度も会話を重ねた。
あの白ユリが揺れる、「公園」。少し古びて軋むベンチの左右にに座って。
『もうじきこの夢も覚める頃。
あなたは、また素晴らしい日々を過ごすでしょう』
次に、会えたら──
『そうですね、「おはようございます」と笑ってみせましょうか』
僕達が出会うのは、いつも夜だったから。
だから今度は、「おはよう」と笑い合うんだ。
夜はもう、とっくに明けているのだから。
「あ、あれ、ユメヒトさん?」
訝しげな若松さんの声が、僕の意識を引き戻した。
すみません、と置いて若松さんに背を向ける。
「用事を思い出しました」
「あ、あの、《ユメヒト》さん!」
走り出した背に掛けられた言葉。
制止した僕は、振り返る。《ユメヒト》としてじゃない、一人の「僕」として、誰かの記憶に残りたかった。
「三条千秋、と申します」
「覚えておきます、またどこかで」
「はい、またいずれ」
笑い合って、僕たちは背を向けた。
僕は倉敷さんが待つ公園へ、若松さんは人を助ける道へ。
それぞれの明日を目指して、先の見えない道を歩いて行く。
時々後ろは気になるけれど、それでも前を向いて、僕らは歩く。たまに、走る。
傾きかけた春の陽が、逢魔刻の影を踊らせた。
彼岸と此岸の境界が、虚ろになって溶け出す頃。
入り方の月の向こうに、消失点は現れる。
幾つもの別れが線になって集まる、さよならの消失店が、ぽっかり浮かぶ。
僕は、それに吸い込まれるように走る。
ふいに彼女の、倉敷さんの言葉が蘇った。
『私は、ユメヒトさんのことが好きです』
蘇ったばかりの記憶が、頭の中で暴れまわる。
『過去形でも未来形でもなく、今、ユメヒトさんのことが、好きです』
倉敷さんはいつだって僕の傍にいた。
僕が由香と結ばれた後だって、僕にありのままの気持ちを打ち明けてくれた。
きっと苦しかったはずだ。悔しかったはずだ。
想いを伝えられないまま「夢」として立ち続け、けれど打ち明けてもその想いが実ることはない。
それは同じ舞台を踊るだけの、ブリキの踊り子みたいなもの。
けれど彼女が僕の傍に寄り添ってくれたのは、夢を見ていたかったからなのかもしれない。
「あ……」
公園に辿り着く。
そこは僕らの夢が始まった場所。
そして、僕らの夢の終着点になる場所だった。
「倉敷さん!」
相変わらず鬱屈とした公園に駆け込む。
倉敷さんがまだ待ってくれているかは分からない。
ここに来るまで随分と遠回りしてしまった。
深海のように冷たかった空も、もう春の蕾が綻び始めている。
──きっとその空を、彼女も眺めていたのだろう。
「遅かったですね」
透き通るように美しい、麗らかな陽射しのような、けれどどこか憂いのある声。
吹雪のように流れる、美しい黒髪。仄かに薫る、花の甘い香り。
秀でた鼻梁の、冷たい面持ち。
一輪挿しの白ユリが、風に揺れた。
「ユメヒトさんがあんまり遅いから、手向けられた白ユリが枯れるところでした」
倉敷さんが、そこにいた。
「……すみません、お腹壊してました」
「フフッ、またですか?」
あの時と一緒ですね、と倉敷さんが笑う。
僕も、笑う。もう、素直に笑うことができた。
「あの約束、覚えてますか?」
「ええ、覚えてますとも」
これを言うには、少し遅くなってしまったかも知れない。
けれど、それでも構わない。
僕達の関係で空気を読んだことなんて、ただの一度もないのだから。
「そうですか、では」
「改めまして──」
呼吸を合わせる。
もう無くなってしまったはずの倉敷さんの呼吸が、僕とシンクロする。
堪えきれなくなって、二人で笑い合う。
笑って笑って、零れた滴を拭って、僕達は声を揃えた。
『──おはようございます』
一際輝く斜陽、さよならの消失点が、僕達を呑み込む。
消失点を過ぎた空は、どんな色をしてるのだろう?
きっとそれは、どんな絵画よりも鮮やかで、どんな宝石よりも綺麗だろう。
僕はもう、何も怖くはなかった──
次回、本日の6時に更新!




