第二十五夜 萎びた百合に告白を
春。
それは、さよならの季節。
冬の寒さを忘れた空はまだ高く、見上げた空に色々な「さよなら」が線になっては、一つの点に集まり消えていく。
ユメヒトはその「さよなら」を手助けする。そんな仕事だった。
傍観者として、生と死の間に線を引く。
生と死の、最期の別れに花を添える。
少なくとも僕は、この仕事にある種の誇りを持っていた。
傍観者になれていた。
けれど、今は──
「お久し振り、ですかね。ユメヒトさん」
「あ、はい……、お久し振りです、倉敷さん」
傍観者に、なりきれなかった。
◇◆◇
春の黄昏。
いつもの公園、いつものベンチに、僕達は腰を下ろす。
左側に僕、右側に倉敷さん。いつも通りの座り方が、やけに懐かしい。
「お姉さんとは仲良くいっている様ですね」
「ええ、まあ、お陰さまで」
「さーて、私は何もしてませんねー」
「はは、何言ってるんですか……」
言葉が続かない。
声が、出ない。
元々会話が得意でなかった僕は、想い描いた状況に喉を凍てつかせる。
「ユメヒトさん?」
倉敷さんの端正な顔が、僕を覗き込む。
一目惚れだとか、恋煩いだとか。そんなことは一切抜きにして、ただただ純粋に、綺麗な人だと思った。
死んでいてほしくない、と思った。
「倉敷さん、最近は中々会えませんでしたね」
「ユメヒトさんが忙しそうでしたからね」
「すみません……」
「謝らないで下さい。別に怒ってませんから」
事も無げに言い放つ倉敷さんはいつも通りで、僕だけが「いつも通り」じゃなかった。
嫌なものだ。弱い僕は、数分前の決意でさえ曇らせてしまう。
「いつからそこにいたんですか?」
「はい、ずっとです」
「でも僕がここに来た時、いなかったじゃないですか」
僕が祖父に連れられ公園に来たとき、倉敷さんはいなかった。
いの一番に確認したんだ、間違いはない。
「隠れてたんですよ」
「隠れてた?」
「はい、幽霊ですから」
「また何でそんなこと……」
「さあ? 幽霊ですから」
ひどい幽霊の使い方もあったものだ。
彼女にとって幽霊とは、「何をするにも自由」な存在らしい。
僕はポケットに諸手を突っ込んで考える。
僕と倉敷さんが過ごした、この不思議な時間は何だったのだろう?
倉敷さんはひたすらに自殺だけを否定し、それを僕は「死を認知しない地縛霊」と捉えた。
僕達の距離はこんなにも近いのに、僕達はこんなにもすれ違う。
左手に触れた夢魔の懐中時計の冷たさが、僕達の出会いの日を思い起こさせる。
自殺があった公園。
たまたま寄った僕に、話し掛けてきた女性。
倉敷千草と名乗るその女性はもう死んでいて、これどそんな彼女に興味を抱く僕もいて。
僕達はズルズルと時間を過ごして、そして同じ《夢》を見た。
いつか訪れる、訪れなくてはいけない「さよなら」から、目を背けるようになった。
「でも、ユメヒトさんが私に逢いたいなんて、一体どういう風の吹き回しですか?」
「随分な言い様ですね」
「ひねくれ者同士、そこは目を瞑りましょうよ」
「あれ、僕そんなこと言いましたっけ?」
「言いましたね」
「うそん」
さよならは怖い。
けれどもやっぱり、倉敷さんと過ごす公園の暮れ刻は、少し特別な気がした。
飾らず言ってしまえば、楽しい。
「で、正直なところはどうなんです?」
「え、何がですか?」
「話聞いてました?」
疑問符に疑問符が重なる会話。
また僕達はすれ違っているらしい。僕は夢魔の時計を弄ぶ。
「なんで私に逢おうと思ったか、ですよ」
さらさらとした声が、少しいじける。
倉敷さんの頬は少しだけ膨れていた。
「親友だからですよ」
「嘘だぁ」
「ホントだぁ」
おどけあって、笑い合う。
僕達は道化。言葉遊びで核心に触れようとしなかった死者と、自分の心を誤魔化す馬鹿な生者。
でも、それでもよかった。
それでも今は、心から笑えているのだから。
(この会話、もう出来ないんだ……)
そう考えると、笑顔が歪みそうになった。
不穏な想像を殺して、僕は笑い続ける。
「……じゃあ、真面目に答えましょうか」
一段落ついて、僕は微笑みかける。
せっかく笑えるんだ、湿っぽいのは似合わない。
「僕は」
言葉を絞り出す。
想い出を絞り出す。
出会った日の胸の高鳴り。死者と知ってしまった哀しみ。さよならを恐れる気持ち。
ずっと一緒に夢を見ていたかったこと。
もう、嘘は吐かないと決めた。
嘘を吐いても、この傷は生乾きのまま、腐っていくだろうから。
だから僕は、自分が吐いた「嘘」を自白した。
「僕は、倉敷さんのことが好きだったんです」
それは、僕が生きた十九年の中で、初めての青い告白だった。
「恋愛感情があったのかと言われれば、分かりません。未練だって、あるんだと思います。
けれど今日、僕はこの未練を断ち切るつもりです」
「…………」
倉敷さんは押し黙る。
その目は大きく僕を捉えて、けれどその顔色は変えず。
ただ、深海のように真っ暗な目が、僕を見つめている。
「本当は、僕はまだ貴女の近くにいたかった。また、あの淡白な会話をしていたかった」
倉敷さんの、深海を映す瞳。
その目に、空を目指す水泡を見る。
ゴポリと、海に沈んでいく音。
僕はまた、記憶の海に沈んでいく。
この公園、このベンチに沈み込む僕を、彼女が訪れる。
清楚な印象を受ける黒の長髪。
白のダッフルコートとベージュのスキニーが、実に大人っぽい女の人。
僕は、そんな彼女に恋をした。
そして、僕を《ユメヒト》と呼んだ彼女に、叶わない恋を悟った。
だから僕は、彼女を《ユメヒト》の仕事に誘った。
諦めたくなかったから。
でも、諦めなくちゃいけなかったから。
「今日まで、有り難う御座いました。僕はようやく、最後の諦めが付きそうです」
なるべく自然に笑いかけた。
そうでもして自分を誤魔化さないと、僕はまた未練を抱えてしまう。
この未練は、僕にとっても倉敷さんにとっても邪魔になるから。
「……私が」
長い沈黙を、倉敷さんの声が打ち破る。
その声が少し震えているような気がして、僕は目線を上げる。
倉敷さんと目が合う。
彼女が、目を逸らす。
「私がユメヒトさんとお姉さんの恋仲を知ってるからって、「ごめんなさい」と断ってくれる。
空気を読んでくれる、と。そう思っていませんか?」
目を逸らしたまま、倉敷さんは言葉を流す。
対して僕は、その言葉を流せないでいた。
「それは……」
言い淀む。
言葉が出ない。倉敷さんの言った言葉が、あまりにも正論だったから。
「私、は」
言い淀む僕を正面に捉えて、倉敷さんは口を数度動かす。
氷のような普段の顔は、まるで生きているかのように紅潮していた。
「私は、ユメヒトさんのことが好きです。
過去形でも未来形でもなく、今、ユメヒトさんのことが、好きです。
こんなにも、他人の事で一生懸命になれる貴方が、私は好きです。こんなにも面倒な私を、ずっとそばに置いてくれた貴方が、好きなんです」
ゴポリ、ゴポリ。
その言葉は春空に溶けず、僕の耳に膜を被せた。
呼吸がつまる。
胃が持ち上がったような、ふわりとした感覚。
心臓が内側から叩かれたような拍動。
浮遊感にも似た感覚が、身を浮かす熱を手土産に押し寄せる。
「僕、たちは、生きる世界が違うんですよ?」
「ええ、そうですね」
「じゃあ、もう正直になっても遅いじゃないですか」
「はい、この告白は何の進歩もありません」
「そんな……ッ、ひどいですよ、倉敷さん。なんで、今……ッ」
喉が痙攣する。胃が熱い。
汗の代わりに、涙が溢れる。前が、見えない。
「年下の癖に、いっつも生意気だった仕返しです」
「ほんと、極悪な仕返しもあったもんですね……」
「フフッ、やってやりました」
小さな花そっくりの笑顔で、倉敷さんは笑う。
晴れた春の空。明るく笑う倉敷さんの顔は、少し透けているような気がした。
僕の心は、またゴポリと沈んでいく。
感動とか、猜疑心とかは不思議と湧いてこなかった。
ただただ、無心に喜ぶ感情がある。
胸が、詰まる。
「でも、ここで告白しても意味なんて無いんですけどね」
「倉敷さん……」
「どうせ私、死んでますし。ユメヒトさん、恋人さんいますし」
「……」
「死んでから失恋するとは思いませんでした」
傾いた陽が、寂しげな倉敷さんの横顔を照らし出した。
その頬に、一条の涙が伝った気がしたのは、きっと瞳が落陽に焼かれたからだろう。
体を無くした倉敷さんが、泣けるはずなんてないのだから。
「……意味ならありますよ、きっと」
「あ、また月並みな台詞ですか?」
悪戯に笑う倉敷さんに、「どうでしょう」と涙の止まらない顔で笑い返す。
僕はどこまでいっても凡庸な人間だ。
けれど、こんな僕でも自分を嫌わないでいられたのは、倉敷さんを含む死者達との出会いがあってこそ。
出会いの記憶が、さよならの記憶が、僕を大人へ育ててくれる。
「命って、記憶だと思うんです。記憶の点と点が繋がって線になって、やがて一つの所に集まっていく。
その線が消えていく消失点こそが、命だと思うんです」
命とは記憶なのだと、僕は思う。
誰かと一緒にいたこと。楽しかったこと。
一人ぼっちになって、寂しかったこと。
色んな些細なことが集まって、重なって、命は形になっていく。
その命を形作る記憶こそ、僕は命なのだと思う。
「だから、僕はあなたと一緒で損に思ったことは一度もない。
僕の人生に、倉敷さんは確かに記憶として存在して、僕を導いてくれる灯火になるんです」
僕の答に、倉敷さんは「そうですか」とぶっきらぼうに言い捨てる。
けれどそっぽを向いた眼は潤み、頬は先程から朱が引かない。
「……やっぱり、生意気です」
「ハハッ、やってやりました」
「むぅ」
伏せた顔を赤らめる倉敷さんは、やっぱり生きているようにしか見えない。
けれど彼女の死は揺るぎ様のない事実で、僕が見た彼女の最期も覆しようがない。
ああ僕はきっと、どんなに前向きなっても、この感情を抱き続けるだろう。
苦しくて、悲しくて、けれど何故そこまで思い煩うかもわからない。
雑多で稚拙な、脆い感情を。
「もう、夢は見れそうですか?」
けれどもう、夜は来てしまった。
僕達の長い長い黄昏刻も、もう終わらなければいけない。
僕は内ポケットに仕舞った手帳を取り出した。
いつもの様にページを捲る指は、震えている。
「なに言ってるんですか?」
「え?」
皮装丁の手帳を捲る手を止める。
倉敷さんの氷のような目が、僕を見つめていた。
視界の端では、瑞々しい白ユリの花束が揺れている。
「夢ならもう、見てるじゃないですか」
「どういう意味ですか?」
そのままの意味です、と倉敷さんは僕を見据える。
「死者はこの世から溢れた存在。この世に留まっていても、本来生者であるあなたには接触できない」
だから、これは夢なんです。
「生者は死者の為に煩わさるべからず、です。
生きている人間は、死者に縛られていてはいけません」
倉敷さんの一言一言が、切々と僕の胸に溜まっていく。
溜まって溜まって、溢れては涙となって溢れ出す。
いつしか僕は、滂沱と流す涙に言葉を奪われてしまっていた。
「私、このユメヒトの仕事を見て思ったんです」
倉敷さんが見上げた空に、僕は目を映せない。
倉敷さんがどんなに綺麗な空を見上げても、僕の両眼は泣いてしまっていたから。
僕と倉敷さんは、もう同じ光景を共有できないと、知ってしまっていたから。
「死後の世界。天国も地獄も、まやかしなんです。
死ぬことを恐れる人が、「死んだ後も生きたい」と願う念が作るものなんだな、って」
死を認め、受け入れた倉敷さん。
その言はどこまでも淡白で、けれど優しくて。僕はまた、溢れる涙に目を閉じる。
「でも、倉敷さんはここに居るじゃないですか……」
跳ねる喉を振り絞って言葉にする。
長い間倉敷さんに伝えようとした死を、僕は今さらになって否定したくなる。
けれどそれは、倉敷さん自身を否定してしまう。
僕にはもう、縋ることしかできなかった。
「ええ、確かにそれはそうなのでしょう。
ですがそれも、遺された人の念が産み出した偶像の産物なのかもしれません」
納得できない。いや、したくなかった。
今までの記憶が、全部夢だったなんて。
そんなB級映画みたいな最後が、あって堪るものか。
「そんな言い方、ないですよ。僕にとって倉敷さんは、もう大事な人なのに……」
「有り難う御座います」と倉敷さん笑う。
僕は堪えきれなくなって、顔を伏せる。
「でもねユメヒトさん、よーく考えてみてください。
死者を創る程『逢いたい』と言う気持ちを持ってくれるのは、死者にとってスゴく嬉しいことなんです」
耳許で、倉敷さんの微笑む吐息が跳ねた。
仄かにたゆたう甘い香りが、僕を慰める。
僕の意識を、浚っていく。
「それだけで、私達は嬉しいんです。『生きててよかった』って、思えるんす」
「もうちょっと生きたかった、って思うのが珠に傷ですけど」と倉敷さんは笑った。
「だから、死んでしまった人には冥福を祈るんじゃない。「ありがとう」って、まっ更な気持ちが、一番大切なんです」
ヒンヤリとした感触が、頬を撫でた。
視界の端で、白い手が愛おしげに揺れる。
倉敷さんの冷たく柔らかな手が、僕の頬を撫でていた。
「長い夢は、忘れてしまうものです。
「見た」と言うことは覚えていても、内容までは覚えていない。私の記憶もまた、消えてしまうのでしょう」
微笑む倉敷さんが、目を瞑った。
春先の冷たく、胸を締め付けるような風が一陣。
綻び始めた蕾を揺らしていく。
笑顔の蕾を綻ばせた倉敷さんの面影を、揺らしてしまう。
「次に、会えたら……ッ!」
目を擦りながら、必死に縋りつく。
みっともなくてもいい。
後々になって後悔するくらいなら、素直になるべきだ。
僕を訪ねた死者達が、それを教えてくれたのだから。
「そうですね、「おはよう御座います」と笑って見せましょうか」
「いつも、「こんばんは」でしたからね……」
『そうですね』と倉敷さんは笑う。
耳許で聞こえていた雪のような声が、遠退いていく。
「倉敷さん、僕──っ」
呼び止めようと思って、出来なくて。
何度も訥々と口を蠢かして、ジーンズの染みに目を落として。
最後にようやく、倉敷さんの顔を見つめ返した。
最期に贈る言葉は、もう決まっている。
『もうじきこの夢も覚める頃。あなたは、また素晴らしい日々を過ごすでしょう』
視界が崩れる。
塗装が剥げたベンチも、手向けられた白百合の花束も──倉敷さんも。
崩れて、春の白む空に溶けていく。
「倉敷さん!」
『なんでしょうか。三条千秋さん?』
倉敷さんに消えてほしくはない。
彼女は僕の大切な人だったから。
けれどそれは、全ての死者と同じだ。
事故で亡くなった息子を送り出した母親も。
「いってらっしゃい」と弁護士の父親を送り出した女の子も。
歪み合っていた幼馴染みを、生前と同じ態度で送り出した高校生も。
大病で亡くなった恋人を送り出した、医大生も。
皆同じ、本当は自分の大切な人との別れが辛くて、留めていたくて。
けれど最期は笑って、彼等を送り出した。
皆は大人で、僕だけがまだ子供だった。
だから今日は、この夢は。僕が、大人になる番だ。
「今までありがとう、御座いました」
『こちらこそ、有り難う御座いました』
そして、さようなら。
さよならの消失点。
最後に遺された白ユリの花束が、手向ける人を失って、悲しげに萎びていった──
明日の二話連続更新をもって、一年間続いたこの小説も完結となります。
残りの二話ともに、宜しくお願い致しますm(__)m




