第二十四夜 1バイトの想い
──君が消えた明日
それは余りにも唐突で、残酷で、そして悲しい別れの色をしていた。
今になって思えば、予兆はあったのだろう。
スペイン人に征服された天空都市が、長く忘れ去られていたように。
傷を覆う瘡蓋が、やがては消えていくように。
その予兆は、よく目を凝らさないと見えなくて、視界にすら入っても来なかった。
そうして、失った後になって気付く。
──全てはもう遅い
悟ってみても、嘆いてみても。後に遺るのは、覆し様のない「結果」と、止めどない「後悔」だけ。
あの時、あの場所で、あの状況で。
「こうしていたら、或いは」と言う過去への反逆心ばかりが沸いてくる。
それは、今でも変わらない。
もしあの時、僕がもう少し素直だったとしたら。
僕は、恋心とは少し違う、淡い関心を打ち明ける。
いつもの公園、ベンチの左半分に座る、倉敷さんに。
『由香と結ばれました』
『そうですか』
『倉敷さんは、成仏できそうですか?』
『どうでしょうね』
『何か心残りが?』
『わかりません。が、それはきっとユメヒトさんの事です』
『僕の事、ですか?』
『はい、私、ユメヒトさんが気になります』
『僕も、倉敷さんが気掛かりです』
ああ、駄目だ。
どんなに想像力をはたらかせても、想像の行き着く先は一つだけ。
膨らみもしない妄想に、僕は心臓を貫かれる。
第一これじゃ、全部僕の「願望」だ。
現実には起こり得ないことばかりを、ひたぶるに無想する夢遊病患者。
詰まる所僕は、倉敷さんの大切な何かになりたいんだ。
自己顕示欲、とも言うのだろうか。
「ゲーム、オーバー……」
けれどもう、誰も僕を許してはくれなかった。
『隠しとってごめんな。』
『あの人な、ホンマは自殺ちゃ……』
不意に鳴った携帯の着信音。
買った時から一度も変えていないシンプルな待受画面に表示された、二通のメッセージ。
途中で途切れてしまったその言葉の先を無視して、携帯をポケットに突っ込む。
今更言われなくても、分かっていたことだった。
その後も何度か鳴った携帯の着信音を全て無視して、僕は歩き続けた。
玄冬の厳しい寒さも何処かへ退き、春を隣に控えた空。
まだ空は高いのに、暦上の季節では、もう春が胡座をかいている。
その麗らかとは少し遠い春への違和感が、彼女の少し空気を読まない性格と重なって、僕は一人見上げた空に目を細めた。
千切った綿を散りばめたような雲の群れが、出会いと別れを運ぶように気忙しく流れていく。
僕もその雲を追って、歩を進めた。
彼女と出会い、そして別れた、あの公園に──
◇◆◇
「よォ。どうだったい、惚れた女に現実突きつけた感想は?」
公園に足を踏み入れると、耳元で声が聞こえた。死者の声だ。
ベンチに目を向ければ、小柄な老人が座っている。
「意地悪ですね、迅助さん。ご心配には及ばず、話は付きましたよ」
「けっ、誰が餓鬼共の「ままごと」なんざ心配すっかよォ、《ユメヒト》」
迅助さんが吐き出した紫煙は、細く春空に延びていく。
この頃の空は心持ち暖かかな色合いを滲ませ、日差しは完全に春のそれになっている。
「で、ユメヒト──いやさ、千秋よ」
「はい」
この老人は、時折僕を名前で呼ぶ。
名乗りもしなかった僕の名を知っている理由には、粗方の想像がつく。
けれど今は、追求はしない。
僕にはまだ、「やるべき事」があるからだ。
「お前さん、満足か?」
悪戯な光を潜めた目が、僕を睨み付ける。
指先で弄ぶ煙管だけが、僕から離れて空を目指した。
満足か?
僕は自分に問いかける。答えは簡単で単純。
そして、もう何があっても変わらない。
「いえ、全く。だって僕、強欲ですから」
「あぁ、そうだったなぁ。俺の──ああいや、何でもねぇ」
不意を突いてまろび出た言葉は二の句を告げず、決まり悪さに銜えられた煙管に、塞がれてしまった。
惜しい。けれどもう、僕はその答えも知っている。
まだ答え合わせには、少し早いけれど。
「兎に角よ、お前さんが強欲だってぇ事ぁよぉく知ってる。良い男の証ってもんよ」
「買い被りすぎですよ」
「いいやぁ、お前さんは良い男さ。そいつをもう一遍、ジジィに見せておくれや」
迅助さんは優しい顔をしていた。
それは孫を見つめる老人のようで、温もりが伝わってくる。
ずいぶんと長い間、忘れていた温もりだ。
「でもその人、もうあんまり会っていない人なんです」
その温もりに、僕は甘えてしまっているのかもしれない。
今までの僕では考えられないほど、悩みを、煩悶を打ち明けていた。
「なんでぇ、想い人か。由香とは別の」
「いえ、そう言うんじゃ──」
そう言うのではない。
キッパリと断言しようとして、けれどそれは出来なかった。
倉敷さんに対する恋愛感情は、もう無いのだろう。
僕らを隔てる距離はあまりにも近くて、けれど遠い。
それに僕には、由香がいる。由香以外の誰かに靡くことはない。
けれど、どこか。
1バイトにも満たない小さな小さな想いが、心のどこかに存在している。
「……彼女は、僕の未練です」
倉敷さんは、僕が初めて「救えない」と悟ったヒトだった。
何より、初めて「本気で」救いたいと思ったヒトだった。
僕の心に巣食った1バイトの想い。
そんなものよりも、僕は彼女を救いたかったんだ。
ここで諦めることは、彼女への裏切りになってしまう。
そう思う心が、僕の中で叫んでいた。
「ほう? 「未練」のぉ」
吐き出した紫煙を、皺の寄った迅助さんの指が弄ぶ。
「なら、ちょいと聞こうかい。お前さん、本当に──」
──その未練に、恋なんぞしてはいめぇな?
目の前が白く霞んだ。
思考が軽くショートする。
《恋》
その文字をなぞって、眺めて、また書いてみる。
ダメだ。
その言葉はたった二文字なのに、どれだけの言葉を絞り出しても説明がつかない。
ゲシュタルト崩壊する。
「恋って、なんですか……」
「誰かを想い、求めることよ。形なんざ、俺ァ知らねぇ」
冷たく突き放された言の葉が、極寒の水底へ沈んでいく。
嘲笑うかのような紫煙が、空へと還っていく。
想うこと。求めること。
その二つが恋だと言うのならば、僕は倉敷さんに恋をしているのだろう。
けど、とも思う。
僕が倉敷さんに対して抱いている感情は、由香に対して抱いている愛情ではない。
ああ、でも、わからない。僕は自分の中に潜む、一バイトの想いすら理解できない。
「千秋」
悩んで、もがいて、苦しんで。
唐突に呼ばれた名前に、顔を跳ねさせる。
「こう考えりゃいい。『もし、目の前からその女がいなくなったら』ってな」
迅助さんは柔和に微笑み、手にした煙管の灰を散らす。
実体のない灰が、落ちる間もなく霧になって消える。
「倉敷さんが、いなくなったら……」
それは、必然の未来。
遠からず訪れる、さよならの消失点。
もし、目の前から倉敷さんがいなくなったら。
僕は何を思って、その後どうなるのか。
きっと世界は変わらず、動き続ける。
僕と由香の関係も、また続くだろう。
奥様方の井戸端会議にも彼女の名前は上がらず、空だって泣かない。
けれど、僕自身は。誰にも見えない『隣人』がいなくなったら。
間違いなく、ポッカリと開いた大穴に苦しむだろう。
(皆は、どうやって乗り切ったんだろう?)
いつか訪れる、さよならの空。
今までに何度も経験したさよならが繋がる、消失点へ向かう最後の点。
さよならを迎えるために歩んだ足跡を振り返って、僕は戦慄する。
「……ッ」
僕はそれを、初めて怖いと思った。
こんな喪失感に満たされた胸を、夢枕で愛する人を見送った人たちは、どうやって乗り越えたのだろうか。
わからない。
僕はいつだって死者達の守り人。
常に死者の立場に立って、生者の事は考えなかった。
だから僕は、自分が誰かと別れた時のことを知らない。
母さんとの別れでさえも、僕は無いものにしてしまったのだから。
けれど、何となくわかる。
辛さも苦しみも、乗り越えるものではないのだろう。
一生付き合っていくものだ。
恐れていても、何も始まらないし、終わりもしない。永遠に宙ぶらりんだ。
公園の錆びたブランコみたいに、ブラブラと。
「迅助さん」
「おう、答えは出たかい」
「……はい」
嘘だ。
答えはまだ出ていない。
けれど、この先にも答えが出るとは思えなかった。
「答え、聞こうかい」
煙管の灰が、全て霧と消えた。
迅助さんの抜き身の刃のような目が、僕を睨め付ける。
答えも覚悟も出ていない。
でも、僕は逃げたくなかった。僕たちを捨てた、父のように。
「フー……ッ」
覚えず暴れていた心臓の鼓動を抑える。
肺から息を絞り出す。
空、白い息が、消えていく。
煙管の紫煙は、もう見えない。
「彼女は──倉敷さんは、大切な親友です。僕は彼女に、一切の恋愛感情を抱いてはいません」
白い息と共に、心無い嘘を吐き出した。
心臓が一際激しく拍動する。
口に出した言葉とは裏腹に、僕の心は焦っていた。
(鼻が、痛くならない……?)
僕は何か都合の悪い時、決まって鼻の奥がツンと痛んで、顔をしかめる。
お陰で僕は、嘘が吐けなかった。けれど今は、痛くない。
「そいつは、嘘か?」
「はい、心無い嘘です。ですが、自分を守るための嘘じゃありません」
迅助さんの声が、重く垂れ籠める。
僕の声は、まっすぐ迅助さんを目指す。
言葉は所詮、心を伝える飾りに過ぎない。
けれど僕は思う。
本心がそうと思わずとも、一度口を飛び出した言葉は、次第に「心」そのものを言葉通りに変えてしまう魔力を持っていると。
「よォし、よく言った」
低い声で、迅助さんが呟くように言った。
「聞いたかい姐さん。アンタ、恋人にァ見れねえってよォ!」
「え──?」
風が吹く。
雲が流れる。拍動が、音を呑む。
──振り返った先の白ユリが、揺れている
「ええ、言葉にされると、傷付きますね」
倉敷さんが、そこにいた。
彼女が死んだ木の下。未だ萎えない白ユリの花束を、細腕に抱いて。
「倉敷、さん。なんで……?」
「ユメヒトさんが「逢いたいー!」と言っていると、三条さんから聞いたので」
「言ってませんけど……?」
ふざけているのだろうか?
倉敷さんは真顔で、ふざけるタイプの人だ。反応に困る。
けど──
「ははっ……」
今日は、笑うことが出来た。
ああ、これだ、と心から落ち着いた。
僕は一言でも「倉敷さんに逢いたい」とは言っていない。
けど、ああ、もう誤魔化す必要はない。
「確かに僕は、倉敷さんに逢いたかったですよ」
「おや、珍しく素直ですね」
「僕そんなひねくれてました?」
「はい、かなり」
「うそぉ」
こうして話していると、また出会った当初に戻った気がする。
懐かしい。そう昔のことではないけれど、もう何年も会っていなかったような気分になる。
「おうおう、仲良くやってるようで、安心したぜ」
火の消えた煙管を弄びながら、迅助さんは立ち上がる。
「もう、行くんですか?」
「おう、俺の仕事は終わった。時代遅れのジジィは、ここいらでおさらばよ」
迅助さんが薄く笑った。
その顔に、僕はもう一度確信する。
「ありがとう、おじいちゃん」
「! ……ケッ、何の事やら、分からねぇなァ」
白髪が覆う後頭部を掻きながら、顔を背ける。
迅助さんの声が、ほんの少しだけ震えているように聞こえたのは、風の悪戯だったのかもしれない。
けれど僕は、よしんばそれが幻聴でも構わなかった。
大好きな「おじいちゃん」に、もう一度だけ、逢えたのだから。
「のう、千秋」
梢を揺らした春風が、おじいちゃんの姿をぼかす。
「俺ァ、お前達に何も遺してやれなかった大馬鹿野郎だ。こんな俺を、それでもお前は「おじいちゃん」って呼んでくれた」
消え入りそうで、けれど愛おしげな声。
心の底から絞り出した「本心」は、風の悪戯にも揺るがない。
最期の言葉を、紡ぐまでは──
『──ありがとうよ。残る人生、由香と仲良く、な』
言葉尻が、春空に消えていく。
薄い光暈を巻いて消えていく、老夫の背を眺める。
木々の梢がさんざめく。
ザアザア、ザアザアと。
それはまるで、僕たちの前に立つ「さよなら」を囁くように。
寒さを手放した春の空は、まだ、少し高い。




