第二十三夜 それはいつかの旧き夢(後編)
春の冷たさの中に、ほんのりと春の陽気さを混ぜた、水彩絵の具みたいな空。
古い年と新しい年の交わり目に降りた新鮮な空気は、いつだって僕達の前に「さよなら」を連れてくる。
そんな「さよなら」が嫌で、僕は全てに向き合うと決めた。
なのに僕は、また嘘を吐こうとしていた。
由香に心配を掛けたくないから。由香にはいつも、心の底から笑っていて欲しいから。
だから僕は「沈黙」と言う嘘で、由香を騙そうとしていた。
(馬鹿か僕は?)
由香の事を本当に想っているなら、何故隠そうとする?
隠され騙され、愛する人が手遅れになってようやく真実を叩きつけられる気持ちを、何故考えない?
何故また、由香に家族を失う苦しみを味あわせる?
(何が『遺せるものが多い』だ)
偉そうに大義名分を掲げておいて、その実単に自分が怖いだけじゃないか。
いつだって僕は逃げてばかりだ。
初めから戦おうとすらせず、命すら諦めていた。
《ユメヒト》として触れ合った人の数だけ、「生きよう」と心に刻んだ筈なのに。
(馬鹿、馬鹿、馬鹿!)
記憶の糸を探れば探るほど、胸が火を点す。
心臓の鼓動が、早鐘を打ち鳴らす。
それは焦燥もなく疲労でもない。純粋な、怒り。
僕からの、僕へ宛てた「憤怒」だった。
「由香!」
脇目も振らず走り、家に飛び込んだ時には、陽はもう西に傾きかけていた。
「なんじゃあ、カチ込みかぁ!?」
飛び込んだ部屋で、由香は奇天烈な格好で目を見開いていた。
どうやら、今日のキャラはヤンキー。
そして奇天烈な格好は、最近のマイブーム「ヨガ」らしい。
「話が、あるんだ」
詰まる言葉を、無理矢理に叩き出す。
張り裂けそうな胸は、緊張を叫んでいた。
「なんじゃあ?」
真剣な面差し。向き直った体。
止めないヨガポーズ、変わる体勢。
顔面だけを真面目なものへと変えて、由香は僕の言葉を待つ。
「ぷっ――ハハハハハ」
言葉を紡ぐよりも前に、僕の口からは笑い声が転げ落ちていた。
「あーっ! 笑うなよォ、これでも由香ちゃん必死なんだぞー!」
必死な顔で由香は訴えかける。
「最近太ったんだゾ」やら「ほら肉摘まめ肉。てか食え!」やら。それこそ、病的に。
僕にカニバリズムの思想はないから、丁重にお断りしておく。
よかった。
由香がいつも通りなら、僕もいつも通りだ。
帰るべき所があって、そこでは好きな人が待っていてくれる。
話しかけてくれる。怒ってくれる。笑ってくれる。
病気なんて気にも止めないほど、僕は満ち足りていたんだ。
「ああ、もう、いいや」
「何がいいんだヨォ、由香ちゃんの腹はよくないぞー!」
「いや、そこまでじゃないよ」
実際、掴むほどはなかった。
十分平均、むしろ痩せ形と言えるだろう。
「私は腹筋が締まって欲しいのサ!」
「ええー、それは別によくない?」
「目指せ15パック!」
「板チョコかよ」
繰り広げられる下らない会話。
姉さんが素でボケて、僕がツッコむ。
いつも通りの、僕達の日常だ。
やっぱり僕達には、こんな緩い関係が一番似合う。
(この流れなら、大丈夫だ)
もう、怖くない。
僕は出来るだけ何でもない体を装って、口を開いた。
「今日、病院行ったんだ」
「ん? どっか悪いのかい?」
由香の表情が僅かに曇る。
訝しげに潜められた眉の下に填まる瞳は、不安の色を湛えていた。
「大丈夫だよ」と返しておく。特に体調は悪くないし、必要以上の心配は掛けたくない。
「いや、悪くはないんだ。けど……」
「うん? これは「『けど?』とヒロインが返して、その後の衝撃展開に繋がる」お涙頂戴タイプの奴だね。分かるとも、バッチコイだよっ!」
なんだろう。
もう物凄く、色んなことがどうでもよくなった。
強いて言えば、さんざっぱら悩んでいた僕自身だ。
「ビックリする当たってるね。うん、そうだよ。僕、母さんと同じ病気になったんだ」
「……肝炎?」
一瞬曇った表情が、僕を覗き込む。
確かめるように噛み締めた言葉は、言葉尻が揺れていた。
「うん、B型」
僕もまた、確かめるように頷く。
紛うことはない。母さんと同じ、B型だ。
初期段階だから、末期だった母さんとは少し違うけれど。
「…………」
由香は何も言わなかった。僕も、何も言わなかった。
言うべき言葉を探したり、動揺しているのでもない。
ただ、喋らなくてもいいような気がしていた。
「そっか」
重く、重く、文鎮のように重く。長い沈黙を乗せた後、由香は一言だけ独白した。
いつもテンションの高い由香が時折見せる、白く淡白な表情。
それは酷く無機質で、けれど酷く艶やかに見えた。
「言いたかった事は、まあそれくらいかな。後は接触感染が怖いから、しばらくは──?」
二の句を告げなくなった僕は、そのまま後頭部から床に倒れ込んだ。
鈍い衝撃が脳を揺らして、視界が波打ち揺らぐ。
上下の感覚が無くなったのは、きっと頭を打ったからだけではないだろう。
「ふ、フフッ。あの時と、逆だね」
悪戯っぽい笑顔を浮かべた由香に、焦点が合う。同時に、状況も理解する。
僕は、由香に押し倒されていた。
「……で、どうするつもり?」
理解できたのは状況だけ。
由香の思考までは、理解できない。
それはきっと、このまま僕が死んでも変わらないだろう。
「ねぇ、このまま、しよっか……」
熱っぽい吐息が、僕の頬を濡らす。
耳に掛かった髪が吐息に浚われて、耳をくすぐる。
悪魔の囁きは、震えていた。
「しないよ。そんな泣きそうな女の子とは」
由香の瞳は、潤んで濡れていた。
それはまるで、遊園地で迷子になってしまった、小さな子供のように。
何かに置いていかれ、取り残されるのを恐れるように。
表面で素面を装う由香は、どうしようもない不安と恐怖に怯えていた。
「だって、だって……!」
「はは、『お涙頂戴タイプの奴』って分かってたんでしょ? なんでそんな焦ってんのさ」
もう泣かないでほしい。
幸いにもまだ初期症状だ。ワクチンやら何やらで治療だってできる。
由香に、あの気丈な「姉さん」に、涙なんて似合わないんだよ。
「焦るに決まってるでしょ!」
不安な声に、怒気が混じる。
「私にとって、アキくんがたった一人だけの家族なんだよ?
それが、お母さんと同じ病気で、しかも死んじゃうかもしれないなんて……!」
不安、恐怖、怒り、悲しみ。
コロコロとピエロのように、由香は一つの顔に幾つもの色を乗せる。
──人生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから見れば喜劇である
ふと脳裏を過った言葉があった。
それは、名高い道化師が遺した、名高い一つの言葉。
なるほど確かに、それは一つの事実なのだろう。
ユメヒトとして沢山の悲劇を見てきたけれど、それはどれも心に響いた。
もう少し距離を取って、ユメヒトが映画の物語だったら。
僕は少ししんみりしつつも、どこかでその物語を楽しんでいただろう。
──なぜ今、こんな言葉を思い出したのだろうか?
それを説明するには、難しい言葉なんて必要ない。
彼女には笑っていてほしいから。
「由香」が、好きだから。
ただ、それだけだった。
「もう、私を置いてかないでよ……ッ。もう、独りはやだよォッ!!」
ピエロの顔が、涙を注ぐ。
ああ、僕はまた、由香を泣かせてしまった。
よりによって、過去に一度負った傷を、抉るような形で。
これはまた、迅助さんに怒られるな。
「大丈夫だよ」
優しく。できるだけ優しく。僕を押し倒す由香の頭を撫でる。
艶のある栗色の髪が、僕の掌から溢れていく。
「アキくん……」
「大丈夫、まだ初期症状なんだ。薬で良くなるよ」
「本当?」と由香の手が僕の頬を這う。
「本当だよ。僕は死なないさ」
家族を失って、死者の声を聞き続けて。
由香ともう一度家族になっだ。
こんな所で、死んで堪るか。僕はまだ生きていたいし、由香とずっと生きていたい。
死は抗いようもない生命の指定席だけれど、僕がその席に着くのはまだ早い。
「本当に……、本当に本当かい?」
「うん。本当に、本当に本当だよ」
夜道を父と並び歩く子供のように、由香は何度も僕の言葉を振り返る。
結婚もしていないのに親の気分になった僕は、何度も頷いてやった。
「だから、さ。もう──」
泣かないでよ、と繋ごうとした言葉は、喉に詰まってしまった。
「どうしたの?」
「……ううん、何でもない」
泣かないで。
そのたった一つの言葉が、人を縛る鎖になることを、僕は知っている。
その一言が、返って由香を泣かせてしまった事を、僕は知っていた。
『お母、さん……ッ!』
夜。
シャワーの音に紛れて泣いていた由香を、僕は忘れない。
あの幼い姉に全ての責任を負わせたのは、他でもない僕なのだ。
「今度、母さんの墓参り行こうか」
思えば、随分と母さんの墓にも行っていなかった。
僕は不規則な時間に仕事が入るし、姉さんは僕と一緒の時以外はずっと寝ている。
掛け持ちの仕事は、由香の体には厳しいのだ。
いや、もしかしたらそれすらも詭弁で、僕達はただ、母さんの「死」を受け入れられていないのかもしれない。
「母さんの好きだった、白ユリも持っていこう」
「うん……」
「それでお願いするんだ、「まだ僕を連れてかないで下さい」って」
「そう、だね」
応える由香の顔も暗い。
きっと僕も、自分から冗談を言った割には不似合いな、陰鬱な顔をしているのだろう。
「元気ないね、やっぱり僕が心配?」
「そりゃあ心配だよ。さっきも言ったけど。その、私は、アキくんのことが……好き、だからね」
胸が詰まる。
たった一言の言葉が、僕の胸を詰まらせ、高鳴らせる。
反則だ、それはズルい。
いつも明るい由香、ふざけている由香。
その彼女が頬を真っ赤に染めて、恥じらいつつ「好き」と言う。
そんな顔をされてしまったら、僕はもう生きるしかない。
生きて、何回でもその顔を見たいと、願わずにはいられないじゃないか。
「僕も、大好きだよ」
なんとか、言葉を返した。
喜び、愛情、照れ臭さ、色んな感情が入り交じって沸き起こり、けれどやっぱり最後には「嬉しい」と心が連呼する。
少し稚拙な「好き」と言う言葉は、たった一言だけでも、人を幸せにする力を持っているのだ。
(それが好きな人なら、なおさら、ね……)
病気になった。また嘘を吐こうとした。
何度目かもしれない自己嫌悪の海に浸った。
「思い出の人」が、僕を引きずり上げてくれた。
順風満帆とは行かないけれど、僕は満ち足りていた。
──人生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから見れば喜劇である
ああ、貴方の言う通りだよチャップリン。
他人の人生は往々にして喜劇だ。ユメヒトとして沢山の悲劇を見てきたけれど、それが映画だったらどんなに面白かったか。
有名な俳優を起用したら、地上波の放送後はSNS中が感想を呟いただろう。
でも、現実は少し違う。
見方を変えれば、或いは「記憶」として眺めれば、悲しみも立派な「宝石」になる。
喜怒哀楽全てが揃って、けれどそのどれもが愛おしい。
全てが観客向けに脚本された「劇」とは違う、本物の「宝」になるんだ。
「ねえ」
「なに?」
気付けば、僕は由香の下敷きになっていた。
柔らかい感触と、その内から溢れだす胸の拍動。
華奢な体は、少し震えている。
「最後だからさ、もう一度「大丈夫」って言ってくれないかな」
「大丈夫だよ。由香の……こ、恋人は、死なないさ」
「恋人」と言う言葉には抵抗があった。
恥ずかしいような、こそばゆいそうな、そんな青い感覚。
それでも、抵抗を振り切って絞り出すと、由香はニッコリと笑った。
(ああ、やっぱり由香には、笑顔がよく似合う)
その笑顔を見ただけで、僕はまた生きていけそうな気がした。
全く人間とはスゴい。
たった一つの笑顔だけで、人を幸せにできるのだから。
「由香」
「んー、何かな?」
「これからも、ずっと二人で生きていこう」
「へへー。じゃー、まずは病気を治してくださーい」
上体を起こして、由香は僕の鼻先をチョンと突く。
予想だにしなかった切り返しに、僕は少し面食らう。
「そうきましたか……」
「えっへん。由香ちゃんだって、いつまでも年下に惑わされるだけじゃないんだよっ」
悪戯に笑ったその顔は、今度はスッキリと晴れ渡っていて、春の訪れを間近に控えた空の色と似ていた。
「そっ、そうだねぇ……」
ドキリ。また面食らい、そして押し黙る。
きっと僕の顔は、リンゴのように熟れて紅い。
20憶回脈打つと言われている心臓は、ともすれば今日で燃え尽きると思えてしまう程、強く高く脈打っていた。
「暑い、ね……」
「う、うん……」
見れば、由香の顔も茹で上がっていた。
どうしても鏡合わせにならない僕らの、鏡合わせのような朱染めの顔。
──もう、ストーブは要らないな
本格的な春の陽気さを滲ませつつある空に、僕はぼんやりと考える。
窓に写った僕の顔。
それは薄く透けて、けれども確かに紅を挿していた。




